No | 215064 | |
著者(漢字) | 藤原,克巳 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | フジワラ,カツミ | |
標題(和) | 菅原道真と平安朝漢文学 | |
標題(洋) | ||
報告番号 | 215064 | |
報告番号 | 乙15064 | |
学位授与日 | 2001.05.21 | |
学位種別 | 論文博士 | |
学位種類 | 博士(文学) | |
学位記番号 | 第15064号 | |
研究科 | ||
専攻 | ||
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 本論文は、平安時代前期の詩人・学儒にして政治家であった菅原道真(845〜903)の文学と事績を通して、政治社会史と漢文学史との内在的な連関を解明した上で、そこから平安朝漢文学全体を展望し、その日本的特質や、日本文学史・日本文化史における意義を考察したものである。 本論文は、I「嵯峨朝の漢文学」、II「転換期としての承和期」、III「菅原道真の詩と思想」、IV「平安朝漢文学の展望」の四部からなるが、権門の出ではない菅原道真が、詩人・学儒としての才能を買われて異数の登用にあずかり、右大臣にまで昇進しながら突如大宰権帥に左降されるという、そのきわやかな栄光と没落の軌跡が、日本の歴史・文化史のなかで真に意味するところのものは、それが日本のいかなる国家形成の途上での出来事であったのかというパースペクティヴを視野におさめた上で考察するのでなければ、じゅうぶんに明らかにすることはできない。それゆえ本論文は、上記四部構成の本論に先立って「序前近代の日本と中国」を置き、本論文全体の基本的視点と、主要な論点を提示している。 菅原道真が生きた9世紀という時代は、中国的な文化国家の建設を企図してきた古代日本が、わが国固有の歴史社会的諸条件のもとで、わが国なりに最も中国的な政治と文化のありかた(家産官僚制的天子専制と士大夫の文化)を実現した時代であったと同時に、やがてそこを極限として、中国とはまったく異なる国家形成の道へと、すなわち封建制へと大きく歩を転じてゆく分岐点だったのであり、菅原道真の栄光と没落は、まさにそのような9世紀日本の歴史的動向と不可分な出来事だったのである。中国唐代において、皇帝専制の対立物と化していた既存の官僚機構(外廷)に対し、科挙を通して有能な官僚を門地に捉われずに登用し、これを翰林学士など天子直属の内廷の私臣として近侍せしめて重要な政策の立案遂行に参与せしめるかたちで、官僚機構の皇帝権力への再集中化がなされたのと、パラレルに考えられるような動きが、わが国においても、9世紀前半の嵯峨朝から後半の宇多朝にかけて見られた(蔵人所の設置や昇殿制の整備、陣定の成立など)。まさにその9世紀の後半、文章道出身の詩人・学儒として文章博士を勤め、宇多天皇に抜擢されて蔵人頭・式部大輔などの要職を歴任した菅原道真の事績は、天子の顧問に侍して献策と諌言を呈しつつ、政務の暇には天子の宴に侍して詩を献ずるという、中国の翰林学士に髣髴たるものであった(道真の当時すでに文章博士の唐名は翰林学士であった)。 しかしながら、わが国の9世紀における官僚機構の王権を軸にした再編は、中国的な天子専制体制を樹立するにはいたらなかった。それは平安官僚制が、中国のように非貴族的階層に開かれてはおらず、したがって中国のように有力農民層(富豪層)出身で科挙を通して体制側の官僚に転身した者たちが、旧来の門閥貴族勢力に対抗する新興官僚層を形成して天子専制を輔翼するということが起こらなかったためなのであって、摂関体制の成立と、農民層の成長とともに封建制が形成されてゆく歴史的動向とは根が一つにつながっていたのであり、かつこのような平安朝の歴史社会的条件が、王朝漢文学の内質をも根底的に規定していたのである。以上が、本論文全体を貫通する最も基本的な視点であるが、本論文ではさらに、中国儒教の根幹をなす郷村共同体的秩序理念と、文化至上主義という二つの視点から平安朝漢文学を分析して、その日本的特質を浮き彫りにしている。すなわち、わが国の古代社会には郷村共同体の自律的な秩序形成が未熟であったために、儒教倫理の受容も一種精神主義的な、観念的なものにとどまらざるをえなかったのであるが、しかしながら、儒教的な文化至上主義の受容は漢文学のみならず、日本文化の形成に根源的な影響を与えていたということである。 以下、章を追って本論文の要旨をのべる。I-1「嵯峨朝の政治文化と勅撰三集」は、藤原冬嗣・良岑安世・小野岑守といった嵯峨朝文壇の主要な詩人たちが、重要な国策の立案遂行に携わった政治家でもあったことに注目し、彼らが中国的な士大夫のありかたを具現していたことを確認した上で、さらに嵯峨天皇と彼らとの君臣唱和の文芸世界の内質を具体的な作品分析を通して考察し、そこに顕著に見られる老荘道家的思想への傾斜と唯美主義的な傾向とは、ともに彼らの文芸を政治的世俗的現実を超えた自立的な詩的言語空間へと昇華させている点で不可分なものであったこと、またたとえば淀川河畔の山崎の地を中国の黄河北岸の河陽県に見立て、さらには老荘的観念の世界に見立ててゆくような嵯峨朝漢文芸の観念性と見立て表現が、やがて古今集歌風形成の基盤ともなっていたことを解明している。 I-2「吏隠兼得の思想」は、前半では主として賀陽豊年の「小山賦」を取り上げ、この「小山賦」は勅撰三集のなかでも、「吏隠」という生き方をめぐるその真摯な思索の深さにおいて注目すべき作品であるが、にもかかわらず、わが国の古代社会には儒教倫理を支える郷村の支盤がなかったために、この作品にみられる儒教的ピューリタニズムも一種の精神主義にとどまるものにすぎないことを論じている。また後半では、小野岑守の詩に歌われた朝隠思想のなかに、詩人としても官僚としても活躍することのできた、嵯峨朝の文人官僚の典型としての岑守の精神的位境を見定めている。 II-1「小野篁の文学」は、岑守のように文人が政治の中枢に参画して活躍しえた幸福な時代が過ぎ去った承和以後の政治状況のなかで、岑守の子篁の詩には世路難の嗟嘆が色濃くみられ、しかもその表現に、折しも渡来した白居易・元〓等の詩の影響が顕著にみられることを論じ、さらに善〓訴訟事件の詳細な分析を通して、篁が世路難を嗟嘆しなければならなかったような承和以後の官界の様相を具体的に浮き彫りにした。 II-2「文章経国思想から詩言志へ」は、嵯峨朝の漢文学隆盛のなかで高らかに標榜された、魏・文帝の「文章は経国の大業、不朽の盛事」という言葉について、この言葉は本来、「一家言」を為すような篇籍を著述することは不朽の功業であるという意味だったのであるが、嵯峨朝においてはその唯美的な漢詩文芸の存在理由を公的に意義づけるためにこの言葉が援用されたので、いきおい空疎な観念性をまぬかれなかったことをまず論じ、ついで勅撰三集最後の『経国集』の内部徴証および、『経国集』が編まれた淳和朝の政治状況の分析を通して、当時すでに嵯峨朝文壇は解体しさっていたことを明らかにし、詩人無用論さえ唱えられるようになった9世紀後半の時代状況のなかで、菅原道真には、詩の存在理由についての真摯な反省的思惟が認められること、そしてその際に彼が拠り所としたのはもはや「文章経国」ではなく、「詩は志を言ふ」(尚書)という詩の原点であり、また詩の美刺諷諌の使命を謳う『毛詩』大序であったことを明らかにした。 II-3「承和以前と以後の王朝漢詩」は、白詩(白居易の詩)の洗礼を受けて、承和以後の詩風がそれ以前といかに一変したかを、嵯峨天皇と菅原道真の作品を中心にして分析したものであるが、さらに道真の諷諭詩的作品として注目される「寒早十首」と白居易の「観刈麦」を比較し、後者の方が農民の生活苦に対する関心がはるかに切実であるのは、白居易と農民との階層的連続性によるものであることを論じて、白居易の儒教倫理の根底に郷村共同体の理念が深く息づいていたことを指摘する。 III-1「詩人鴻儒菅原道真」は、詩人無用論が横行する時代にあって、あくまでも詩人と鴻儒を兼ね備えた詩儒たらんとした道真の文学と事績が、中国の翰林学士を髣髴とさせるものであったことを詳細に論じ、III-2「詩人の倫理」では、むしろ経国には無縁な詩魂を深々を抱えていたことが、その倫理性の力源であったことを論ずる。III-3「道真・長谷雄・清行」は、道真と同時代の文人紀長谷雄・三善清行を取り上げて、道真の詩人としての独自性を明らかにするとともに、長谷雄・清行には、初期物語作家の精神に連なるものがあることを指摘した。III-4「比喩と理知」は、菅原道真の詩の表現の特質を精細に分析したものである。 さてIV-1「平安朝漢文学の歴史社会的基盤」は、中国の文人たちと、道真も含めた平安朝の文人たちとの間では、儒教倫理の受けとめ方に決定的な深浅の差があることを中心に据えて論じ、その違いのよって来たる所を、日本と中国の歴史社会的基盤の違いに求めて考察したものである。IV-2「世路難と風月」は、世路難を嗟嘆し、精神の安定のよすがを求めようとする王朝の文人貴族たちに、いかに白詩が共感深く受けとめられていたかを、菅原道真の詩を中心とした王朝漢詩文の分析を通して明らかにする。IV-3「公卿日記と漢文学」は、藤原行成の『権記』、藤原実資の『小右記』、藤原道長の『御堂関白記』における漢文学受容のありかたを分析したもの。IV-4「天神信仰を支えたもの」は、菅原道真を天神として祀る天神信仰の成立を通して、10世紀の政治社会史的変化を浮き彫りにしたもの。そして最終章のIV-5「日本文学史における白氏文集と源氏物語」は、王朝漢文学の遺産が鎌倉以後に継承されてゆく様相を、『源氏物語』における『白氏文集』の引用の在り方からうかがったものである。 | |
審査要旨 | 本論文は、菅原道真の文学と事績を、彼が生きた9世紀の政治社会史と漢文学史との連関のなかに位置づけて徹底的に解明し、さらにそこから、平安朝漢文学全体を展望したものである。論文の構成は、9世紀という時代を、前近代の日本と中国の国家体制の展開を見通したパースペクティヴのなかに定位して、論文全体の最も基本的な視座を提示した序論「前近代の日本と中国」をはじめとして、「I嵯峨朝の漢文学」、「II転換期としての承和期」、「III菅原道真の詩と思想」、「IV平安朝漢文学の展望」の5部からなる。 「I嵯峨朝の漢文学」では、空前の漢詩文隆盛を誇った嵯峨朝の漢文学について、詩人が政治の中枢に参画する政治家でもありえた幸福な時代状況を明らかにした上で、嵯峨朝を中心とする漢詩作品を具体的に分析し、その唯美主義と観念性が古今集歌風の基底をなしてゆくものであったことなど、嵯峨朝漢文学の特質と平安朝の文学史・文化史上の意義について論じている。「II転換期としての承和期」では、前期摂関体制の形成に連なる承和以後の政治社会的環境の変化と、承和期の『白氏文集』の伝来が、王朝漢文学をいかに変容させたかを明らかにし、また白居易の諷諭詩と菅原道真の諷諭詩的作品について、両者の出身階層や社会的基盤の違いをも視野に入れて比較考察している。 「III菅原道真の詩と思想」では、詩人無用論が横行する時代にあって、あくまでも詩人と鴻儒とを兼ね備えた詩儒たらんとした道真の文学と事績を詳細に検討した上で、しかし彼の多感な風月の詩魂こそが、その独自な倫理性の源泉であったと論じている。またさらにその詩の表現を、白居易の詩とも比較しながら精細に分析し、繊細な直叙的表現と理知的な比喩表現との複雑な織り柄に道真の詩風の独自性があること、そしてその理知的比喩表現は古今集歌風にも通ずるものであることを明らかにしている。 「IV平安朝漢文学の展望」は、上記の考察のなかで明らかになってきた問題、とりわけ平安朝漢文学における儒教の日本的特質や、王朝漢詩における「風月」の意義といった問題を軸にして道真以後の平安朝漢文学を展望し、最後に『源氏物語』における『白氏文集』の引用の分析を通して、王朝漢文学の遺産が中世に継承されてゆく様相を考察して本論文全体を締め括っている。 本論文は、日本史・中国史・中国文学・中国思想といった隣接領域にも果敢に踏み込んで、きわめてスケールの大きい立体的な文学史を構築するとともに、具体的な漢詩作品の細やかな味読と分析を通して、古今集歌風の形成をも視野に入れた王朝漢文学の表現史・精神史を織り成している。日本史学・中国史学等の隣接領域の最新の研究成果の摂取という点ではやや不安がなくもないが、本論の価値を損なうものではない。このように政治社会史をも織り込んだ巨視的な視点と、文人たちの内面に迫る細やかな表現分析を統合した平安朝漢文学史の構築はかつてなかったものであり、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。 | |
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