学位論文要旨



No 215081
著者(漢字) 三上,昌義
著者(英字)
著者(カナ) ミカミ,マサヨシ
標題(和) 希土類酸硫化物の第一原理電子構造計算
標題(洋)
報告番号 215081
報告番号 乙15081
学位授与日 2001.06.14
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第15081号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤原,毅夫
 東京大学 教授 尾鍋,研太郎
 東京大学 教授 塚田,捷
 東京大学 助教授 初貝,安弘
 東京大学 助教授 近藤,高志
内容要旨 要旨を表示する

 希土類系酸硫化物(M2O2S、M:希土類元素、図1 : M=Y)は、希土類発光中心(Eu+3やTb+3等)のドープにより高効率発光体になることが知られている.実際、この系の発見から現在に至るまでの約30年の間、ブラウン管を始めとする様々な工業製品に利用されており、20世紀後半の情報化社会を支えてきた重要な工業材料である.またこの物質の複アニオン組成・異方的結晶構造という特徴を考えると、この系には原子間結合におけるイオン性〜共有性の多様性及び各種異方的物性が予見されるために、学問的にも興味深い研究対象となり得る物質群である.

 このようにこの物質系は工業的・学問的に重要な系なのだが、良質かつ大粒径の単結晶の育成が困難であったため、その電子構造に関する基本的物性測定の報告例は乏しく、このため母体及び固有欠陥の電子構造の解明は殆んど進んでいない.しかし、RobbinとDean、StruckとFonger、YamamotoとKanoらによって発光機構及び発光に影響を与え得る諸物理現象の起源について、ある程度推測されてきた.そこで、図2に基づいて、彼らの論じた諸物理現象を順を追って説明し、不明な点について言及する.

 まず、この系が電子線等により励起されると、電子・正孔対が発生し、それが再結合する時に生じるエネルギーが希土類発光中心(図2ではEu+3)に移動する(母体増感).この際、電子・正孔対の再結合を論じるにはそのバンド構造に関する情報が必須である.しかしながら、バンドギャップ値は拡散反射スペクトル測定等から4.6〜4.8eV程度と大雑把に推測されているのみであり、そのバンド構造(特にギャップ構造)に関する実験的知見は皆無である.また同時に、希土類ドーパントの等電子トラップとしての役割に関しては、バンド構造の観点からの議論は欠如していた.また、発光材料であるにもかかわらず、屈折率などの光学的性質に関する測定報告が殆んどない.また光伝導ホール効果の実験から正孔がキャリヤであると想定されたが、その起源も明らかになっていない.その異方的結晶構造の観点から、光キャリヤ伝導の異方性の可能性も論じられたが、未だ推測の域を出ていない.また分光学的実験に関しては、1970年代の粉体のRaman・赤外吸収分光の報告が数例あるだけで、その信憑性にも議論の余地が残されている.

 一方、固有欠陥の関与が論じられている現象がいくつか知られている(図2).まず(a)光キャリアが正孔であること、(b)Euドープ試料において寿命の長い燐光現象が起きること、(c)エネルギー蓄積現象が起きることなどから、浅い正孔トラップの存在が論じられている.一方、(d)未ドープY2O2S試料における電子励起により青色領域(〜3.5eV、〜2.8ev)にピークを持つ幅広い発光スペクトルが観測されていることから、何らかの深い準位の存在も同時に推定されている.Tb共付活により電子線励起発光効率の電子線電流依存性(γ特性)が改善することがYamamotoらにより最初に見出され、このTbの誘起する正孔トラップが未知の正孔トラップと競合するというモデルが提案されている(図2).このように以上の諸現象は固有欠陥が関与すると推測されているため、固有欠陥はこの系の電気的特性を決定する上で非常に重要な役割を果たしている.しかしながら以上の諸現象を統一的に説明を与えるような固有欠陥の具体的な微視的モデルは未だかつて提案されるには至っていない.

 よって、これまで物質開発の現場では、この物質群の物理的・化学的性質及び固有欠陥の電子構造に関する基本的理解が十分に得られないままに、様々な品質向上の努力が払われ、実用に供するに至っている.しかし、そのような経験的物質開発の方法には既に限界が見えており、今後の物質設計の新機軸を与えることが困難になっている.従って、上に挙げたような様々な実験的事実を統一的に説明出来るような、理論的考察に基づく微視的モデルを構築することは、今後この系の物質開発において重要である.

 そこで本論文の著者は、この物質のバルクとしての電子構造を明らかにし、その結果に基づいた上で固有欠陥に関する微視的構造・電子構造に関する知見を得ることを目的として、酸硫化物のうちでも代表的なY2O2Sについて第一原理に基づく電子構造計算を行った.ここでは、主に密度汎関数法の局所密度近似を用い、第一原理擬ポテンシャル法によるバンド計算を実施した.この方法により、母体及び欠陥の安定構造を決定し、その構造における電子構造を決定している.また擬ポテンシャル法の精度を確認するために、一部、全電子計算手法であるFu11-potential linear augmented plane wave(FLAPW)法も併用し、バンド構造を求め、その電子状態の解析を行っている.また、密度汎関数摂動法を適用することにより、フォノン振動解析・有効電荷・誘電特性の計算にも試みている.このような計算手法を用いることにより、この系の結晶構造の対称性・異方性及び複アニオン組成が物性にどのような影響を与えているかを具体的に調べている.このような、希土類酸硫化物系に関する電子構造計算としては、著者らの計算結果が世界的に初めての報告例である.

 本研究から得た知見は次の通りである.

 まず母体の電子構造計算から求められた結晶構造は過去の実験結果と良い一致傾向を示した.(図1)計算による格子定数(a=3.750A、c=6.525A)は過去の実験結果(a=3.791A、c=6.596A)より約1%小さめになった.また内部座標(Y : ±(0.333, 0.667, 0.282) O : ±(0.333, 0.667, 0.631)、S : (0, 0, 0))となり、他の希土類酸硫化物系と類似した結果を予測した.また体積弾性率(142GPa)が計算により初めて見積もられ、Y2O3の体積弾性率(168GPa)とYSの体積弾性率(100GPa)の間の値になることが予測された.

 また、Y2O2Sは間接ギャップ構造を有することが初めて明らかにされた(図3).価電子帯の頂上はA点であり、伝導帯の底はK点である.またここでA→Γ方向に平坦なバンドが存在することから、異方的な正孔伝導機構が示唆されている.この平坦な価電子帯バンド及び間接ギャップの起源について、波動関数及び状態密度に関する解析結果から解釈出来ることが著者により示された.Y2O2Sが間接ギャップを有する事実から、希土類発光中心の等電子トラップとしての役割がより強調されることになることが推測される.またバンド構造における各原子の状態密度や波動関数の解析結果及び各原子間距離とPaulingのイオン半径の和の比較から、この化合物はイオン性と共有性の両方の側面が窺えた.特に共有性についてはY-S結合よりY-O結合の方が高いことが示唆された.

 更に、密度汎関数摂動法を用いてフォノン振動・Born有効電荷・誘電特性に関する解析を行った.フォノン振動に関しては、過去のRaman実験結果と50cm-1以内で一致する計算結果を得ると同時に、過去の赤外分光実験から得られている振動モード同定に関して再考を促すような計算結果が得られた.またBorn有効電荷の計算結果からは、Y・Oの有効電荷が形式電荷からの差異が有意であることから、Y-O間の共有性が再び示唆された.また異方的結晶構造がフォノン分散、有効電荷、誘電テンソルに影響していることを定量的に確かめた.また誘電テンソルを定量的に解析したところ、他の酸硫化物(La2O2S)と同程度の誘電率を予測すると同時に、Y酸化物(Y2O3)よりも誘電率が大きくなることが予測された.また局所密度近似範囲内では誘電率の見積もり誤差が他の物理量に見られた誤差よりも大きいことを確認し、この誘電率の誤差と密度分極汎関数法との関係について言及した.

 また、固有欠陥(点空孔及び格子間原子)の電子構造の解析を行うために、Y2O2S母体の計算結果に基づいて(2a×2a×2c)Supercel1モデルを作成し、電子構造計算を実施した.点空孔は対応する原子を抜き去ることでモデル化し、格子間原子はc軸方向に隣接するS原子の中点に配置することでモデル化した.欠陥形成エネルギーの計算結果からは、アニオン由来の欠陥が多数派であることを見い出した(図4).よって先に例に挙げた固有欠陥が誘起すると想定されている諸物理現象は、アニオン由来の欠陥がその起源として有力であることが推測された.更に一電子準位の結果(図5、6)からは、硫黄空孔(Vs)、酸素空孔(Vo)、格子間硫黄(Sint)が深い準位を誘起するのに対し、格子間酸素(Oint)が比較的浅い正孔トラップ的準位を誘起することが推測された.また各欠陥準位の波動関数を解析することにより、欠陥準位の起源は明らかにされている.この結果、先の固有欠陥に関係すると予想されている現象に対し微視的欠陥モデルを具体的に提案することが可能になった.まず、浅い正孔トラップが引き起こすと考えられた諸現象(a)・(b)・(c)については、格子間酸素がその起源として有力である.またYamamotoらにより予測された「Tbの正孔トラップと競合する未知の正孔トラップ」として、この格子間酸素がその起源である可能性が示唆された.また、深い準位との関連が議論された現象(d)については、酸素空孔、硫黄空孔、格子間硫黄の関与が考えられる.またこれらの固有欠陥が他の物理現象(例:Caドープにおける黄色発光、ボールミルにおける体色変化)との関連についても本論文において具体的に論じられている.更に、欠陥の対称性やその電子状態から各欠陥の分類について議論を与えた.

 また、酸素空孔及び格子間硫黄がいわゆる"negative-U"(負の電子相関)の傾向(図4)があり、実際にこれらの欠陥では荷電状態の変動により原子間距離が大きく変化すること(大きな格子緩和)が計算により確認された.これらの結果は、硫黄空孔や格子間酸素の場合とは性質を異にしていた.このような酸素空孔(または格子間硫黄)では、欠陥が出来ることにより新たに生じたY-Y結合(またはY-S結合)が"共有性"を帯びることから説明され、それは原子間距離に関する簡単なアイディア(Paulingのイオン半径、YバルクにおけるY-Y原子間距離など)の概念からも解釈可能であることを具体的に示した.この解析により、酸素空孔と格子間硫黄では欠陥の周りの強い電子・格子相互作用が期待され、硫黄空孔や格子間酸素の電子構造の差異が明らかになった.

 要約すると、本論文では、Y2O2Sの母体及び固有欠陥の電子構造に関して第一原理に基づくバンド計算により初めて具体的に論じられた.この系の異方的結晶構造が、バンド構造・有効電荷・誘電テンソル・フォノン分散に影響を与えることを計算から具体的に示すことが出来た.またこの系における複アニオン組成が、各原子間結合においてイオン性〜共有性の多様性を与えることを具体的に確認した.また固有欠陥の電子構造についてもイオン性〜共有性の観点で論じることが出来ることを見出し、酸素空孔や格子間硫黄における負の電子相関の由来を議論した.また、既知の実験結果と計算結果が直接比較出来る場合はこれを行い、赤外吸収分光の結果を除いて特に大きな矛盾点はないことを確認した.また欠陥由来と想定されている現象に対し具体的な欠陥の微視的モデルを提案し、具体的な議論を与えた.

図1:計算で求められたY2O2S単位胞の安定構造.

単位はA.

図2:Y2O2Sにおける諸物理現象のまとめ.

図3:Y2O2Sのバンド構造.

価電子帯の頂上がエネルギーの原点.

図4:欠陥形成エネルギー.

EV、ECはそれぞれ価電子帯の頂上及び伝導帯の底.符号付数字は欠陥の電荷状態を示す.

図5:原子空孔のギャップ内準位.

下の数値は欠陥の荷電状態。

図6:格子間原子のギャップ内準位.

下の数値は欠陥の荷電状態。

審査要旨 要旨を表示する

 希土類系酸硫化物M2O2S(M=希土類元素Y)は、希土類発光中心Eu+3やTb+3等のドープにより高効率発光体になることが知られている。この系は、発見から現在に至るまでの約30年の間、ブラウン管を始めとする様々な工業製品に利用されている。その複アニオン組成・異方的結晶構造という特徴を考えると、原子間結合におけるイオン性〜共有性の多様性及び各種異方的物性が予見されるなど、大変興味深い物質群である。一方、良質かつ大粒径の単結晶の育成が困難であったため、その電子構造に関する基本的物性測定の報告例は乏しく、このため母体及び固有欠陥の電子構造については十分理解されているとはいい難い。本論文では、第1原理電子構造理論の立場から、Y2O2Sおよびその固有欠陥の物性を論じ、本系の結晶構造の対称性・異方性及び複アニオン組成が物性にどのような影響を与えているかを具体的に調べた。

 第1章は序章で、本研究が対象としている系Y2O2Sの重要性、結晶構造、固有欠陥について、これまで得られている知見をまとめ、研究の目的を述べている。

 第2章は理論的準備に当てられている。今日の第1原理電子構造理論の基礎となる密度汎関数理論、第1原理擬ポテンシャル法、に対する一般的な説明のあと、著者も開発に加わり、本研究でも用いられている密度汎関数摂動法について詳しく述べている。これにより、格子振動や、誘電関数、有効電荷、が精度よく求められる。さらに欠陥モデルに対する欠陥生成エネルギーを計算する方法が説明され、以降の実際の計算の準備に当てられている。

 第3章では母体Y2O2Sの計算とその考察が行われている。計算では格子定数および原子位置も、エネルギー最小の条件の下に最適化され、凝集エネルギーを含めて、実験結果と大変よい一致を示している。また体積弾性率(142GPa)が計算により初めて見積もられた。本系が間接ギャップ型であることが、初めて計算により示された。価電子帯の頂上はA点であり、伝導帯の底はK点である。A点からGamma点の方向に平坦なバンドが存在するので、異方的な正孔伝導機構が示唆されている。このことに加えて、Y2O2Sが間接ギャップを有することを考えると、希土類発光中心の等電子トラップとしての役割がより強調されることになることが推測される。さらに価電子帯の波導関数の広がりや各原子軌道の寄与の大きさを詳細に調べている。計算結果ではY-S、O-S間距離はそれらのイオン半径の和とほとんど等しいが、Y-O原子間距離がイオン半径の和より短くなり、したがってY-O間の共有結合性が強いことを示している。また密度汎関数摂動法により、格子振動の動力学行列をパラメターなしで計算し、フォノン振動解析・有効電荷・誘電特性の計算も試みている.このような計算手法を用いることにより、この系の結晶構造の対称性・異方性及び複アニオン組成が物性にどのような影響を与えているかを具体的に調べている.格子振動計算の結果と実験(赤外吸収、ラマン散乱)結果とは大変よい一致を示している。

 第4章は固有欠陥の議論に当てられている。固有欠陥(点空孔及び格子間原子)の電子構造の解析には聴講しモデルを用いその電子構造計算を行った。点空孔は対応する原子を抜き去ることでモデル化し、格子間原子はc軸方向に隣接するS原子の中点に配置することでモデル化し、欠陥を含む系の原子位置最適化も行っている。まず欠陥形成エネルギーの計算結果からは、アニオン由来の欠陥が多数派であることを見い出し、したがって固有欠陥が誘起する思われる諸物理現象は、アニオン由来の欠陥がその起源として有力であることを指摘した。更に一電子準位の結果からは、硫黄空孔、酸素空孔、格子間硫黄が深い準位を誘起するのに対し、格子間酸素が比較的浅い正孔トラップ的準位を誘起することが指摘された。

 第5章では、以上の結果をもとに、固有欠陥に関係すると予想されている現象に対し微視的欠陥モデルを以下のように具体的に提案している。まず、浅い正孔トラップが引き起こすと考えられた光学的現象は、格子間酸素がその起源と考えられることが述べられた。「Tbの正孔トラップと競合する未知の正孔トラップ」としては、格子間酸素がその起源である可能性を指摘している。深い準位との関連が議論された発光スペクトルについては、酸素空孔、硫黄空孔、格子間硫黄の関与を指摘している。また、酸素空孔及び格子間硫黄がいわゆる"negative-U"(負の電子相関)の傾向があり、実際にこれらの欠陥では荷電状態の変動により原子間距離が大きく変化すること(大きな格子緩和)が計算により示された。これらの結果は、硫黄空孔や格子間酸素の場合とは性質を異にしており、このような酸素空孔(または格子間硫黄)が出来ることにより新たに生じたY-Y結合(またはY-S結合)が"共有性"を帯びることから説明されている。

 第6章は全体のまとめに当てられている。

 以上を要するに、Y2O2Sの母体及び固有欠陥の電子構造に関して、第一原理に基づくバンド計算により初めて具体的に論じ、既知の実験結果と計算結果が直接比較出来る場合はこれを行い、特に大きな矛盾点はないことを確認したこと、また欠陥由来と想定されている現象に対し具体的な欠陥の微視的モデルを提案し、具体的な議論を与えたことなど、様々な実験的事実を統一的に説明出来るような理論的考察に基づく微視的モデルを構築した。これは、今後のこの系の物質開発に対する基礎を確立し、重要な寄与であると認められる。これらにより、本研究は材料物理学および物理工学に寄与するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認める。

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