学位論文要旨



No 215082
著者(漢字) 池上,弘樹
著者(英字)
著者(カナ) イケガミ,ヒロキ
標題(和) 超低温における単原子層固体ヘリウム3の核磁性
標題(洋) Nuclear Magnetism of Sub-monolayer Solid3 He at Ultra Low Temperatures
報告番号 215082
報告番号 乙15082
学位授与日 2001.06.14
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第15082号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石本,英彦
 東京大学 教授 内野倉,國光
 東京大学 教授 宮下,精二
 東京大学 教授 吉澤,英樹
 東京大学 助教授 福山,寛
内容要旨 要旨を表示する

§1 研究背景

 原子レベルで平坦な吸着表面をもつグラファイトに物理吸着した固体3Heは、理想的な三角格子上のスピン1/2の2次元核磁性を示す。核スピン間には3He原子の直接位置交換に起因する1mK程度の大きさの交換相互作用がはたらく。3He原子間にはたらくハードコア斥力のため、2体交換だけでなく3体,4体などの多体交換が重要である。偶数体交換は反強磁性的(AFM)であり、奇数体交換は強磁性的(FM)である。このAFM相互作用とFM相互作用の競合および三角格子構造により、この系は強くフラストレートする。

 これまでに最も多くの研究がなされている吸着第2層目の固体3Heでは、交換相互作用は低密度領域では約−0.7mKでAFM的であり、吸着密度の増加と共に約2mKのFM的なものになり、その後小さくなることが明らかになっている。しかし、この交換相互作用のAFMからFMへの移行のメカニズムや、フラストレーションが強いAFM領域での基底状態などまだ解明されていない問題は多い。

 本研究では、これらの問題を解明すべく、これまでにあまり研究が行われていない次の2つの系に対して、100μKまでNMRの測定を行った。

 1. グラファイトに吸着した第1層固体3He

 2. HD(水素−重水素分子)を2層コートした上の単原子層固体3He

§2 実験方法

 グラファイト吸着基板には厚さ76μmのGrafoilを用いた。Grafoilシートに銀フォイルを裏打ちすることにより100μKまで冷却するのに十分な熱伝導を取っている。Grafoilはエポキシ製の密封容器の中に入れられている。この密封容器のまわりにNMR用のrfcoilが巻かれている。このNMR実験セルを大型の核断熱消磁冷凍機に注意深くセットし100μKまで冷却して実験を行った。吸着密度はグラファイト吸着基板の表面積(11.4m2)と導入した3Heのガス量から決定し、導入ガス量を調節することにより吸着密度を変えることが出来る。NMRの測定は623kHzで磁場スイープによるcontinuous wave法で行った。磁化はNMRの吸収曲線で囲まれている面積より求めた。

§3 グラファイト上の第1層固体3He

 第2層目固体3Heでは、密度の増加とともに交換相互作用がAFMからFMへ移り変わるという事が見出されている。そのメカニズムとして、第2層目の面内の多体交換相互作用の競合や、overlayerである第3層目の液相を介したRKKY的間接交換相互作用が考えられている。しかし3層目液相の存在は実験結果の解釈を複雑にし、完全な理解には至っていない。それに対し、グラファイト上の第1層目固体3Heは、固体の密度が40%変化すること、overlayerである2層目液体がないためRKKY的な間接交換相互作用を考えなくてよいことという特徴がある。そのため、面内の多体交換相互作用の密度依存を調べるのに最適な系である。

 NMR測定より得られた磁化の温度依存より求めた交換相互作用(Jx)の密度依存を図1に示す。グラファイト構造に整合な〓×〓整合相では相互作用が約40μKの強磁性を示し、さらに密度を大きくしていくと相互作用は−10μKの反強磁性、80μKの強磁性と発展することがわかる。高密度極限の計算であるWKB近似計算[1]より求められた相互作用は、絶対値の大きさを除いて7.3nm-2以上の領域をよく再現している(図1点線)。これは、高密度では周りのHe原子のハードコア斥力が交換の際の障壁であるため、高密度では3体交換が支配的でFMとなり、密度の減少にしたがい2体交換が急激に大きくなりAFMに移行すると理解される。一方、低密度である〓×〓整合相ではグラファイトからの周期ポテンシャル(約10K)が交換の際の障壁となる。周期ポテンシャルの幾何学的な形と交換経路を考えると、2体交換が強く抑えられ、3体交換が支配的になりFMになっていると考えられる(図2)。

§4 HDを2層コートした上の単原子層固体3He

 吸着2層目固体3Heの低密度領域では、約−0.7mKのAFM的な交換相互作用が働き、FM的な3体交換とAFM的な4体交換が強く競合していると考えられている。最近の厳密対角化法による計算[2]では、競合が強い場合、基底状態は量子的に乱れたspin liquid状態であると予想されており、さらに基底状態の上にspin gapが開いていると考えられている。それに対しHDを2層コートした上では、3Heは非常に低密度(5.2nm-2)で固体になることが知られている。低密度であるために核スピン間には約−4mKと非常に大きな反強磁性相互作用がはたらく。そのため、100μKまでの測定により交換相互作用に比べ十分低温まで磁化の測定が可能になり、強くフラストレートしたこの系の基底状態を調べるのに適している。

 測定した磁化の温度依存を図4に示す。高温部はCurie-Weiss則によく従う。低温では磁化はゆっくりと増大し、100μKまでスピンギャップなどによる異常な振る舞いは見られない。高温部分の磁化の温度依存を、多体交換モデルHamiltonianの高温展開式によるフィッテング行い多体交換相互作用(Jn)を求めた。フィッティングの際に、J5=0.35J4、J6=J4と仮定した。求まった多体交換相互作用の密度依存を図4に示す。3体交換と4体交換の大きさが同程度で強く競合しており、それらは密度増加とともに急激に減少する。しかしその割合は密度にあまり依存しない。求まった相互作用は、最近の厳密対角化法により得られている相図上の強磁性とspin liquid状態の境界近くのspin liquid状態側に対応する(図5)。しかし、厳密対角化法により予想されているスピンギャップは観測されていない。これは、強磁性とspin liquid stateの境界に近づくにつれてギャップが急激に小さくなるためと考えられる。

図1 第1層目固体3Heの交換相互作用の密度依存。

点線:WKB近似計算による交換相互作用

図2 2体交換、3体交換の様子実線:グラファイトの構造

図3 HDを2層コートした上の単原子層固体3Heの磁化の温度依存実線:Curie-Weissフィッティング

図4 多体交換モデルの高温展開式でのフィッティングにより求められた交換相互作用の密度依存。

(J2eff=J2-2J3)

図5 高温展開式でのフィッティングにる交換相互作用(×)と厳密対角化法での計算による相図の比較

審査要旨 要旨を表示する

本論文は"超低温における単原子層固体ヘリウム3の核磁性"と題し、0.1mKに至る超低温領域において2種類の単原子層固体ヘリウム3の磁化をNMRにより初めて測定したものであり、全7章から構成されている。

第1章は序論であり、本研究で取り扱う単原子層固体ヘリウム3の低次元系としての特徴,位置づけ、論文全体の構成が述べられている。

第2章では、吸着基盤として用いられるグラファイトの構造と、吸着原子が感じる皺状吸着ポテンシャルについて述べられている。単層固体ヘリウム3は、グラファイト表面あるいは2層HDを吸着した表面上にヘリウム3原子を物理吸着することにより実現されるが、いずれも2次元3角格子を形成している。この吸着第1層,第2層および2層のHD上の単原子層ヘリウム3について、面密度と温度をパラメーターとする相図が示されている。

第3章では、これまでの理論的・実験的背景と本研究の目的がのべられている。固体ヘリウム3の磁性は、大きなゼロ点振動による原子自身の直接の位置交換から生ずる交換相互作用で記述される。ヘリウム3原子はハードコアを持っており、その位置交換のためには、周りの原子を押し退けねばならない。その結果、2体のみならず3体,4体などの多体交換相互作用が重要となる。さらに2体,4体,6体は反強磁性的,3体,5体は強磁性的であり異なる2種類の相互作用が競台している。これらの多体交換相互作用のWKB近似による大きさとその面密度依存性の理論的計算の結果が紹介されている。さらにこの多体交換相互作用ハミルトニアンから予想される基底状態の理論的予想が4体交換の強さをパラメーターとして示されている。実験的には、吸着第1層,第2層および2層のHD上の単原子層ヘリウム3について、これまでの比熱、帯磁率の結果を示した上で、本研究の目的が簡潔に述べられている。

第4章では、実験装置が詳しく述べられている。まず試料を0.1mKの温度領域に冷却するための効率的な核磁気冷凍機やNMRセルの詳細か紹介されている。次に具体的NMR装置と得られた信号から磁化を求める手順に触れた後、基盤の吸着表面積を決める方法や所定の面密度を得るための試料ガスの導入システムが示されている。特にHDガスについては、含まれる微量のオルソ水素をパラ転換する方法が述べられている。

第5章は、吸着第1層の固体ヘリウム3についての実験結果とその考察である。0.1mKまでの低磁場磁化のワイス温度から交換相互作用(J)の大きさと符号の面密度変化が初めて実験的に求めらている。その結果、有名な〓×〓整合相が強磁性的であり、面密度の増加とともに狭い反強磁性領域を経て、大きな強磁性ピークを示した後第1層完結時には常磁性になることが明らかにされた。高密度側の非整合相のJの符号の変化は、第3章で述べられたWKB近似により、競合する面内の2体と3体の多体交換の密度変化で説明できることが判った。一方低密度の〓×〓整合相での原子交換では、ヘリウム3原子間ポテンシャルの他にグラファイト基盤からの皺状吸着ポテンシャルがトンネル障壁となるため、構造的に3体交換が有利となり強磁性的になることを指摘した。さらに吸着第1層と2層の高密度でのJの面密度依存性の類似から、吸着第2層の固体ヘリウム3の磁性について、第3層に存在する液体を介在したRKKY相互作用の寄与が小さいことを指摘している。

第6章は、2層のHD上の単原子層ヘリウム3についての実験結果と考察である。

まず低密度液相での磁化測定から、グラファイト基盤の欠陥にトラップされたアモルファス固体ヘリウム3の大きさを評価し、この寄与を除いた反強磁性固相の磁化が求められた。その振る舞いは、交換相互作用の約1/20の温度まで冷却してもゆるやかに増加し、スピンギャップの存在を示す大きな減少は観測されなかった。さらに高温領域の磁化を多体交換相互作用ハミルトニアンの高温展開式にフィツトして、多体交換の大きさを評価すると、4体交換と有効2体交換の比の面密度依存性が小さいことが判った。また求められた交換相互作用の大きさから、これまての理論では基底状態としてスピン液体相が予想されるが、強磁性相の境界に近くスピンギャップが小さく観測されなかった可能性を指摘している。

第7章は本論文の総括であり、本研究で明らかにされた2種類の単原子層固体ヘリウム3に関する新しい知見が要約とともに将来の展望が述べられている。

以上をまとめると、本論文では2種類の単原子層固体ヘリウム3の磁化をNMRにより初めて0.1mKの温度領域まで測定したものであり、低次元磁性の物理を理解する上に貴重な情報を提供しており、物理学・物理工学への寄与は大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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