学位論文要旨



No 215086
著者(漢字) 市田,知子
著者(英字)
著者(カナ) イチダ,トモコ
標題(和) EU条件不利地域政策の展開 : ドイツを中心に
標題(洋)
報告番号 215086
報告番号 乙15086
学位授与日 2001.06.25
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15086号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 生源寺,眞一
 東京大学 教授 谷口,信和
 東京大学 教授 岩本,純明
 東京大学 助教授 小田切,徳美
 東京大学 助教授 中嶋,康博
内容要旨 要旨を表示する

 ヨーロッパ諸国では,農業条件が不利な地域の経営に対する所得補償(条件不利地域政策)が25年にもわたって行われてきた。この条件不利地域政策(以下,適宜LFA政策と略記。同様に条件不利地域をLFAと略記)は,EUの共通農業政策(以下,適宜CAPと略記)の一部であり,その目的は,農業のかたちづくる景観を守り,地域の人口減少を防ぐというものである。本論文は,EUの一加盟国であるドイツにおいてLFA政策がどう展開してきたかを追い,その意味を問うことを課題としている。

 特にドイツを対象とするのは,戦後のドイツを特徴づけていた高福祉,社会的市場経済が1990年の東西統一により揺らいでいること,さらに,小農保護を旨とする農業政策にも変化の兆しが見られることによる。本論文は,小農保護の手段の一つである条件不利地域政策の連邦レベル,州レベルでの実施内容,展開過程を詳細に分析することにより,東西統一以降の社会,経済の変化の中で,農業政策の枠組がどのように変わりつつあるのか,また変わらない点は何なのかを描くことを意図している。

 まず,「第1章 課題と接近方法」では,上述の課題の提示と先行研究の整理を行い,接近方法について述べた。

 「第2章 EU条件不利地域政策とその展開」では,1970年代初めから最近の「アジェンダ2000」に至る期間に,価格・市場政策を柱とするCAPの中で農業構造政策がどのように位置づけられ,さらにその中でLFA政策がどう変化してきたかを追った。EUの農業構造政策は,選別政策の色彩が強かった70年代,地域政策に力点が移行し,環境に対する配慮が加わった80年代半ば,農政改革が行われる90年代を経て,地域政策,所得政策,環境政策に分化している。1975年のLFA政策登場の背景には,イギリスのEU加盟があったが,80年代半ば以降は,環境に対する配慮,南北間の地域格差への配慮が加わり,さらに「アジェンダ2000」による2000年からの農政改革以降は,環境保全のための最低限のマナーである「適切な農業活動」が補償金受給申請に際しての前提となる。総じて,LFA政策は,1972年の農業近代化指令同様,北部諸国に有利なものとなり,南北間の所得格差の解消には結びついていない。

 第3章以下では,ドイツを事例に,LFA政策とその影響を詳細に分析した。

 まず「第3章 ドイツにおける農業構造の変化と農業構造政策の展開」では,農業構造変化の動向,特に経営規模の拡大と兼業化を統計数値に基づき,示した。旧西ドイツでは,戦後一貫して,競争力のある経営が競争力のない経営の兼業化や離農によって手放された農地を借り上げて規模を拡大するという構造変化が続いており,このような構造変化は世代交代によって加速する傾向にある。一方,ドイツの農業構造政策は,1980年代半ば以降,特に92年CAP改革を経て,EUの財政支援のもとに環境保全や景観維持などにより配慮したものになった。「選別政策」的色彩は弱くなり,自家農業とツーリズム,相互扶助などを組み合わせた多就業化が「農民的家族経営」に対して期待されている。その背景には,CAP改革による価格支持削減の中で,農業だけに頼ることがますます難しくなっていること,また,特にドイツの場合,90年10月の東西統一により,農外就業が難しくなっていることがある。だが,戦後の冷戦体制の中で支援されてきた「農民的家族経営」がイデオロギー的な根拠をもちえなくなった現在,「多面的機能」や「ヨーロッパ農業モデル」が「農民的家族経営」に代わって農政の理念になろうとしている。

 「第4章 80年代半ば以降の条件不利地域政策」では,ドイツでLFA政策が拡充された80年代半ば以降の状況と,「拡充」についての批判的見解をとりあげ,第5章,第6章での分析枠組を提示した。75年に開始したLFA政策は当初,山間地域,中心地域においてのみ,補償金受給が可能であったが,80年代半ばの農業所得下落を背景に,拡充される。ドイツでは,75年のLFA政策の開始直後から,農耕利用と自然資源保護あるいは景観保全のトレードオフ関係を指摘し,所得政策としての機能を疑問視する声があったが,これらはある程度80年代後半の制度変更に反映されている。「拡充」以降,LFA政策については,90年の東西統一に伴う財政難,92年CAP改革に伴う直接支払いの導入,EU構造基金「目標5b」による農村地域政策との兼ね合いにより,政策としての有効性が疑われている。だが,ドイツの場合,地域指定基準や補償金についての詳細は州政府にまかされているため,これらの批判の当否については各州の実態に即して判断する必要がある。そこで,第5章,第6章ではそれぞれ,LFA政策を所得政策と地域政策という二つの側面から検討した。

 つまり,「第5章 所得政策としての条件不利地域政策」では,ドイツの中では比較的裕福であり,かつLFA政策に重点が置かれているバイエルン州とバーデン・ヴュルテンベルク州をとりあげ,LFA政策の所得格差の是正策(所得政策)としての意味を検討した。さらに「第6章 農村地域政策と条件不利地域政策」では,同じ二州を対象に,EU構造基金による農村地域政策を吟味し,この政策との関連で,人口維持政策としてのLFA政策の意義と限界を指摘した。

 第5章の分析結果は以下の通りである。まず,CAP改革により非LFAあるいは畑作経営の所得が上昇したのに対し,LFAあるいは草地作経営の所得は低迷し,結果として両者の所得格差が拡大した。また,LFA政策補償金が所得に占める割合,すなわち所得格差是正に貢献する度合いは低下している。ただし,バイエルン州の「山間地域」のように,個々の地域での実態はLFAや「山間地域」に対する政策の熟度や農業者団体の政治力によって異なり,一概に「所得政策としての意味がない」と結論づけることはできない。CAP改革を機に非LFAの所得が増大し,ますます競争力をつける一方で,LFAでは経営所得が低迷し,離農が進むというシナリオは,確かにCAP改革の本来の主旨である市場原理の適用に合致してはいるが,第2章,第3章で述べたように,EUやドイツが農業の多面的機能を看板に掲げる限り,LFAでの離農にはある程度の歯止めがかからなければならない。

 そこで,「第6章 農村地域政策と条件不利地域政策」では,90年代初めから実施されている,EU構造基金による農村地域政策に着目し,ドイツでの実施状況,特に州政府の政策や予算の中での位置づけ,LFAの中でも特に遅れをとっている「目標5b」地域での事業の内容,それに対する評価や見通しについて詳述した。

 ドイツにおいて,EU構造基金は,特に遅れをとっている「目標1」地域である旧東独の復興のために不可欠な手段であり,インフラ整備のための地域政策予算に上乗せして用いられている。一方,旧西独の「目標5b」地域では,EU構造基金が雇用機会創出のために用いられ,その実務は,既存の州の農村開発プログラム,農業構造政策を動かしてきた仕組み,人材によって担われている。西ドイツの特徴とされてきた多極分散型,地方分権型の行政システムが市町村などの末端まで浸透しており,EU構造基金もそのような行政システムに基づいて執行されている。

 しかしながら,EUの掲げる「パートナーシップの原則」や「補完性の原則」への準拠が課されているという事実が一方にはある。EUの原則通りに事業を進めるには,住民にも実務担当者にも地域の将来についての明確な構想がなければならないが,仮に住民と実務担当者との間では合意が成立して,明確な構想が描かれたとしても,それがEUの基準に沿うとは限らない。このような中で,地域住民のアイデアの新規性に着目するLEADER IIプログラムは,EU統合の原理と地域の自律性が併存しうるための手段として期待される。また,EU構造基金の導入によって,省庁間の協力が以前より容易になっていることが指摘できる。

 旧西独の多くの農村では,バイエルンの「山間地域」は別として,旧東欧圏や都市からの移住者,離農世帯が増え,農業者世帯がごく一握りの存在になってしまっており,そのような地域では農業者だけを対象にしているLFA政策は人口維持のための政策として充分機能しているとは言えない。つまり,地域政策としてのLFA政策もまた,農業者世帯の減少率が比較的低く,それゆえ農業者世帯の増減が地域の人口増減に大きな影響を与えるバイエルン州「山間地域」に限って意味をもっていると結論づけることができる。

審査要旨 要旨を表示する

 1999年に施行された食料・農業・農村基本法には、農業の有する多面的機能の充分な発揮がうたわれ、これを受けるかたちで2000年度からは、中山間地域の農業に対する直接支払制度がスタートした。こうした中山間地域政策の理念と手法の検討にさいしては、すでに四半世紀の歴史を持つEUの条件不利地域政策が多くの点で参考にされた。本研究は、このEU条件不利地域政策の方法と意義について、主としてドイツにおける制度の変遷と運用の実態を分析することを通じて明らかにしたものである。旧西ドイツは、イギリスと並んで条件不利地域政策発祥の地として知られている。

 論文は全体の要約である最終章を含めて、7章から構成されている。第1章では、先行研究について整理を行い、本研究が連邦レベルにとどまらず州レベルの制度分析にまで及ぶ点、他の農村地域政策との補完・代替関係に分析が及ぶ点において、既往の調査研究の空白領域を埋める意義を持つことが述べられる。第2章においては、ドイツに関する詳細な制度研究に先立って、EUの条件不利地域政策の背景にある共通農業政策の軸足の変化をトレースしている。すなわち、80年代半ばに生じた選別的構造政策の後退や、90年代初頭に断行された価格支持政策の改革の余波を受けつつも、条件不利地域政策は総じて安定的に推移し、全体として北部の加盟国に大きく裨益する政策であったことを明らかにしている。

 第3章では、ドイツの農業構造政策の展開を跡づけるとともに、政策の意図とは異なり、多就業化によって農民的な家族経営が維持される関係の強まったことが、統計データの分析を通じて明らかにされる。また、こうした農家の経済構造の変化を背景に、90年の東西統一を契機として、冷戦下に形成された「農民的家族経営」像のイデオロギー的色彩が希薄化し、多面的機能や農業の多角化が農政の理念として浮上したことが指摘されている。第4章では、ドイツの条件不利地域政策の展開過程が整理されている。すなわち、75年のスタート時の基本制度、80年代半ばに行われた指定地域の拡大、92年共通農業政策改革による環境条件の追加的導入、EU構造基金による農村政策の反射効果に着目しつつ、制度の変更について詳細な分析がおこなわれている。

 第5章と第6章は、州レベルの制度の構造とその効果に関する分析に当てられている。研究の対象として取り上げたのは、バイエルン州とバーデン・ヴェルテンベルク州のふたつである。まず第5章においては、条件不利地域の直接支払の持つ所得形成上の意義について、経営のタイプによる比較を交えながら明らかにしている。すなわち、とくに92年改革以降、条件良好地域ないしは畑作経営の農業所得と草地型畜産経営からなる条件不利地域の農業所得の格差は拡大している。また、地域の農業者団体の圧力の強弱によってその度合いは異なるものの、条件不利地域直接支払の格差是正効果が次第に低下していることも明らかにされた。続く第6章では、第5章と同様にふたつの州について、EU構造基金による農村地域政策(目標1と目標5b)の機能を運用レベルの情報によって明らかにし、条件不利地域政策との関係を吟味している。すなわち、構造基金による農村政策は主としてインフラストラクチュアに対する投資である点で、フローの所得政策である条件不利地域政策を補完する性格を持つこと、しかし同時に、多極分散型の国土形成がはかられ、農村の混住化が広範囲に進むことで、次第に農村地域政策のウェイトが高まり、条件不利地域政策はバイエルン州の山間地域などのごく限られた地域にのみ有効な施策となる可能性が高いことを指摘している。

 以上を要するに、本論文はドイツを中心にEUの条件不利地域政策の特質について、州レベルの詳細なデータ分析によって明らかにしたものである。本論文は、政策の持つ所得格差是正の効果や農村地域政策との補完・代替関係の分析結果をはじめとして、いくつかの新知見を明らかにするとともに、わが国の中山間地域政策の今後の展開にとっても有用な情報を含むものであり、学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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