学位論文要旨



No 215088
著者(漢字) 冨田,兵衛
著者(英字)
著者(カナ) トミタ,ヒョウエ
標題(和) 霊長類前頭前野由来のトップダウン信号の長期記憶検索における機能
標題(洋) Role of the top-down signal from the prefrontal cortex to the inferior temporal cortex in retrieval of long-term memory.
報告番号 215088
報告番号 乙15088
学位授与日 2001.06.27
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第15088号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,憲作
 東京大学 教授 金沢,一郎
 東京大学 教授 大江,和彦
 東京大学 教授 辻本,哲宏
 東京大学 講師 森,寿
内容要旨 要旨を表示する

 われわれは、様々な知識や経験を頭の中でありありと思い浮かべることができる。これは大脳皮質の連合野に保存されていた長期記憶が、何らかの形で脳内表現としてよみがえらせられた事に他ならない。霊長類の下部側頭葉は視覚記憶の貯蔵庫であるとされている。ヒトの癲癇患者の治療の過程における研究で、側頭葉を電気刺激することによってその患者はまるで実際にものを見ているようにありありと記憶をよみがえらせることが報告されている。また、ニホンザルを用いた実験で、サルに長期的に絵柄を記憶させ、それを頭の中で思い出させるときに下部側頭葉の神経細胞が図形にきわめて選択的に活動することが示されている。下部側頭葉が記憶の貯蔵庫であるならば、その記憶を思い出すということは一体どのような神経機構で可能となっているのであろうか。霊長類において発達している前頭前野は記憶の想起に関連して活動することも知られており、分離脳の患者を用いた研究で前頭前野は側頭葉などの連合野に対し統合的にコントロールを行うのではないかといわれている。最近では分離脳サルを用いた実験でそれが行動学的に証明されている。そして、前頭葉から後方の側頭葉などへ向かうコントロール信号の存在が予測されていた。今回の論文では、前頭前野から下部側頭葉に向かう信号を直接に計測し、その存在を証明することを目的とした。そして視覚記憶の想起過程において、前頭葉が側頭葉に信号を送ってコントロールしていることを初めて直接的に示した。

 この実験では、左右の大脳半球をつなぐ神経繊維である脳梁の後半部と前交連を切断した半離断脳のサル2匹を用いた。この状態では、視野の左半分に物体を提示したとき、右下部側頭葉は視覚1次野から視覚腹側部経路を伝わってきた入力を受けるが(ボトムアップ入力)、左下部側頭葉ではボトムアップの入力は受けない。この条件で神経細胞が反応するならば、その神経細胞を発火させた入力は脳梁の前半部を通じて前頭葉から下部側頭葉へと至るトップダウンの経路で伝わったと考えられる。サルには、視覚性長期記憶課題である対連合課題を行わせた。この課題では、人工的に作られたフーリェ図形20枚が手がかり図形として用いられ、5つのカテゴリーに分けられた。同一のカテゴリーに属する図形は同じ対図形(手がかり図形とは別のフーリェ図形)と連想付けられた。最初に手がかり図形を1枚見せてやるとサルはその図形に連想付けられた対図形をいくつかの図形の中から選ばなくてはならない。このとき、選択する図形は単一神経細胞記録を行っている側からみて対側に呈示した。それに対し、手がかり図形は選択図形と同じ側に呈示する場合(ボトムアップ条件:2つの図形は同一の大脳半球視覚野で処理される)と、選択図形とは反対側に呈示する場合(トップダウン条件:2つの図形は別々の大脳半球視覚野で処理される)との2種類の実験条件を設定した。脳梁後半部を離断しているサルにおいて前者の条件では手がかり図形と選択図形に関する視覚情報は同じ大脳半球内で処理されるが、後者の条件ではそれらの情報は左右半球の視覚野において独立に処理される。そのためサルがこの課題を解くには図形についての情報が両側前頭葉を結ぶ脳梁前半部を通って反対側の大脳半球に伝えられなければならない。このようなトップダウン条件で、反対側の視覚野で処理された情報は伝わってくるであろうか。

 2匹のサルの3大脳半球から単一神経細胞記録したもののうち、そのようなトップダウン応答を見せるような神経細胞が見つかった。ボトムアップ応答とトップダウン応答の図形選択性は類似しており、それぞれの図形選択性の相関係数の分布は有意に正であることが示された。応答潜時はトップダウン応答のほうが数10ms遅かった。解剖学的にも下部側頭葉に神経投射していることの知られる前頭前野からここで観測されたトップダウン信号が送られているものと考えられた。視床などの皮質下構造物を通じて間接的な入力が側頭葉に伝わったという可能性を否定するために、続いて、残された脳梁前半部を切断し、左右の大脳半球を完全に離断する手術を行った。脳梁完全離断術後、サルはボトムアップ条件では課題は解けたが、トップダウン条件での成績は偶然での正答率と同程度まで低下した。また、トップダウン応答をもつ神経細胞も全く認められず、手術前後で有意な差が認められた。このような対照実験により、脳梁後半部離断時に観測されたトップダウン応答は、対側半球の視覚関連領野から脳梁前半部を介して大脳半球間を伝わり、さらに前頭前野から下部側頭葉に伝達されたトップダウン的なコントロール信号に由来するものと思われた。

 このトップダウン信号の性質を解析するために、手がかり刺激図形を見せた後の遅延期間の応答について検討した。以下の結果は脳梁前半部離断時のものである。今回の実験に用いられた行動課題では、視覚刺激図形は5つのカテゴリーに分けられており、カテゴリー選択性をもつトップダウン応答が認められた。また、遅延期間中に、これから思い出すべき図形に応じた選択性を持った反応を見せる細胞が存在した。遅延期間中の神経細胞の活動を、手がかり図形と選択図形の応答とを相関係数により比較すると、遅延期間の時間が過ぎるにつれ徐々にこれから選択すべき図形との相関が増加し、手がかり図形応答との相関は低下していくことが分かった。有意な遅延期間の活動を有する神経細胞においては遅延期間中の神経細胞応答と選択図形応答との相関の分布は有意に正であることも示された。この記憶課題では、サルは正しい選択図形が呈示されるまでは間違った図形が示されてもレバーを引き続けて待ちつづけなければならない。このような遅延期間の間、別の図形が呈示された後も最初の手がかり図形の属するカテゴリーに選択的に、持続的に神経細胞活動が保たれている例も見つかっている。以上より、サルがこれから選ぶべき図形をあらかじめ想起してそれを保持している時の下部側頭葉の神経活動の発生にトップダウン信号が関与していることが示された。

 実験の最後に、側頭葉神経細胞と前頭前野との神経結合を調べるために解剖学的な検索を行なった。下部側頭葉の中でトップダウン応答をもつ神経細胞が記録された領域2箇所に蛍光色素を注入し、逆行性に標識される前頭前野の部位を調べた。これにより、下部側頭葉の神経細胞は前頭前野のどの部位から入力を受けていたかを知ることができる。下部側頭葉のSTSvとTE1にそれぞれ注入した2種類の蛍光色素で標識された細胞が前頭前野のprincipal sulcusより外側から腹側にかけて認められた。STSvに投射する細胞は、より背側にTE1に投射する細胞は、より腹側にそれぞれトポグラフィカルに分布した。側頭葉の神経細胞が受け取っていたトップダウンシグナルの前頭前野における発信元の領域が推定された。

 以上より、今回の論文では前頭葉から後方の連合野へ送られるトップダウン的なコントロール信号を直接的に検出したと結論付けられた。そして、霊長類において前頭前野が長期記憶の想起過程を制御することができるという仮説の生理学的な根拠を与えるものである。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、霊長類における視覚性の記憶の想起過程の神経生理学的機構を明らかにするため、視覚性の連想記憶を獲得したニホンザルの下部側頭葉と前頭葉の相互の神経ネットワークを解析したものであり、電気生理学的、行動心理学的および解剖学的な手法を用いて下記の結果を得ている。

1.左右の大脳半球をつなぐ神経繊維である脳梁の後半部と前交連を切断した半離断脳のサル2匹を用い、視野の左半分に物体を提示したときの右下部側頭葉は視覚1次野から視覚腹側部経路を伝わってきた入力(ボトムアップ入力)と、左下部側頭葉での入力(トップダウン入力)をそれぞれ記録し比較検討した。2匹のサルの3大脳半球からトップダウン応答を見せるような神経細胞を見つけた。ボトムアップ応答とトップダウン応答の図形選択性は類似しており、それぞれの図形選択性の相関係数の分布は有意に正であることが示された。応答潜時はトップダウン応答のほうが数10ms遅かった。

2.続いて、残された脳梁前半部を切断し、左右の大脳半球を完全に離断する手術を行った。脳梁完全離断術後、サルはボトムアップ条件では課題は解けたが、トップダウン条件での成績は偶然での正答率と同程度まで低下した。また、トップダウン応答をもつ神経細胞も全く認められず、手術前後で有意な差が認められた。このような行動学的および電気生理学的な対照実験により、視床などの皮質下構造物を通じて間接的な入力が側頭葉に伝わったという可能性が否定され、脳梁後半部離断時に観測されたトップダウン応答は、対側半球の視覚関連領野から脳梁前半部を介して大脳半球間を伝わり、さらに前頭前野から下部側頭葉に伝達されたトップダウン的なコントロール信号に由来するものと思われた。

3.脳梁前半部離断時に、手がかり刺激図形を見せた後の遅延期間の応答について検討した。この実験に用いられた行動課題では、視覚刺激図形は5つのカテゴリーに分けられており、カテゴリー選択性をもつトップダウン応答が認められた。また、遅延期間中に、これから思い出すべき図形に応じた選択性を持った反応を見せる細胞が存在した。遅延期間中の神経細胞の活動を、手がかり図形と選択図形の応答とを相関係数により比較すると、遅延期間の時間が過ぎるにつれ徐々にこれから選択すべき図形との相関が増加し、手がかり図形応答との相関は低下していくことが分かった。有意な遅延期間の活動を有する神経細胞においては遅延期間中の神経細胞応答と選択図形応答との相関の分布は有意に正であることも示された。遅延期間の間、別の図形が呈示された後も最初の手がかり図形の属するカテゴリーに選択的に、持続的に神経細胞活動が保たれている例も見つかっている。以上より、サルがこれから選ぶべき図形をあらかじめ想起してそれを保持している時の下部側頭葉の神経活動の発生にトップダウン信号が関与していることが示された。

4.側頭葉神経細胞と前頭前野との神経結合を調べるために解剖学的な検索を行なった。下部側頭葉の中でトップダウン応答をもつ神経細胞が記録された領域2箇所に蛍光色素を注入し、逆行性に標識される前頭前野のどの部位から入力を受けていたかを検索した。下部側頭葉のSTSvとTE1にそれぞれ注入した2種類の蛍光色素で標識された細胞が前頭前野のprincipal sulcusより外側から腹側にかけて認められた。STSvに投射する細胞はより背側に、TE1に投射する細胞は、より腹側にそれぞれトポグラフィカルに分布した。

 以上、本論文は電気生理学的記録法、心理行動学的解析、および解剖学的手法により、前頭葉から後方の連合野へ送られるトップダウン的なコントロール信号を直接に検出したと結論付けられた。本研究は霊長類の前頭前野が長期記憶の想起過程を制御することができるという仮説の生理学的な根拠を与え、前頭葉機能の理解に大きく貢献することが期待され、学位の授与に値する。

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