学位論文要旨



No 215094
著者(漢字) 松永,俊男
著者(英字)
著者(カナ) マツナガ,トシオ
標題(和) ダーウィン進化論の自然神学的背景
標題(洋)
報告番号 215094
報告番号 乙15094
学位授与日 2001.06.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第15094号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,力
 東京大学 教授 長谷川,寿一
 東京大学 助教授 廣野,喜幸
 東京大学 助教授 信原,幸弘
 東京大学 助教授 前田,京剛
内容要旨 要旨を表示する

 自然神学とは、人間の理性による神についての教説のことで、神の啓示に基づく啓示神学と対比される。「自然神学」といっても、アプリオリな原理に基づく議論(合理神学)を意味することもあり、また、自然界の探求から引き出される神についての議論(物理神学)を意味することもあるが、17世紀以降のイギリスの科学者たちは、ほとんど物理神学の意味で「自然神学」を用いてきた。イギリス自然神学の主流となったのは、デザイン論、すなわち、自然界に見られる巧妙なデザインに神の英知を認めようとするものであった。19世紀に自然神学の標準的な教科書となったのは、ペイリー(William Paley)の『自然神学』(1802)であった。同書は、宗派の違いを越えて科学者たちの共通の土台となった。

 近年の経済史研究によれば、18世紀末から19世紀初めにかけても、産業革命といわれるような社会変動はなく、政治経済の中枢は依然として地主層とそれを基盤とする金融資本家に握られていたという。イギリスの科学を担っていたのも、こうしたジェントルマンたちであった。科学は彼らの趣味、あるいは生き甲斐であって、職業ではなかった。自然神学がこのような科学研究の存在理由となっていた。

 19世紀のイングランド教会には、聖書を重視する低教会派(福音派)、伝統を重視する高教会派、それと寛容の精神を説く広教会派の三つの流れがあり、広教会派の科学者が自然神学に基づく科学研究の主たる担い手であった。広教会派の中核となったのがケンブリッジ大学のフェローたちであった。1827年にケンブリッジに入学したダーウィン(Charles Darwin)は、広教会派が活発に活動している時期に大学生活を過ごし、ペイリーの自然神学を熱心に学んだ。科学者ダーウィンは、ケンブリッジ広教会派の産物であった。

 1831年に科学者の自主的組織「イギリス科学振興協会」が設立され、王立協会に代わって科学を代表する組織となった。この協会でも中心的役割を担ったのは、ケンブリッジ広教会派の科学者たちであり、自然神学が協会の理念となっていた。

 19世紀前半のイギリスの科学を代表するのは地質学であり、その基礎を築いたのがバックランド(William Buckland)であった。バックランドは聖職者でもあり、その地質学は自然神学に深く結びついていたが、現在の水準から見ても緻密な実証的研究であって、実質的にはキリスト教の教義から独立していた。彼らの研究により、地球には方向性をもった歴史があるという認識が地質学の通念となった。

 ところが、一般に流布している地質学史では、バックランドの地質学は聖書に束縛された非科学的なもので、科学的地質学はライエル(Charles Lyell)によって確立されたとしている。こうした歴史観はライエル自身がでっちあげた「ライエル神話」と呼ぶべきものである。ライエルの目的は、地球の変化に方向性があるとする前進論を打破し、地球が基本的に同じ状態に保たれているという定常論を説くことにあった。ライエルはバックランドの生徒の一人であり、もともとは前進論の立場だったが、1827年にラマルク(Jean Lamarck)の『動物哲学』(1809)を読んだことがきっかけになって、前進論を放棄し、定常論を主張するようになった。進化論が人間の尊厳を傷つけることを恐れ、進化論の前提となる前進論を否定するようになったのである。自然神学を奉じる地質学者たちは一様にラマルク進化論を強く否定していたが、そのために前進論まで否定するようになったのはライエルだけであった。

 科学界の主流がペイリー流の自然神学を奉じていた当時、これに対抗して、自然の斉一性に神の力を見ようとする一群の科学者がいた。この形の自然神学は主としてドイツとフランスの先験的生物学の影響で形成され、生物については適応よりも「プランの一致」を重視していた。ラマルクの進化論は彼らによって受容されていった。ダーウィンが生物進化の可能性を考えるようになったのは、ビーグル号航海から帰った後の、1837年3月頃のことであった。航海から持ち帰った化石標本と鳥類標本の分析結果がそのきっかけの一つだった。しかし、新たなデータだけでは新たな理論は生まれにくい。理論の転換をもたらすには、なんらかの理論的刺激が必要であった。帰国直後のダーウィンに先験的生物学の思想を伝えたのは、オーエン(Richard Owen)だった。オーエンは1836年4月に王立外科医師会の教授職に就き、1837年5月から6月にかけて、外科医師会所属のハンター博物館で連続講演を行った。それは、比較解剖学の歴史と現状を展望し、先験的生物学と適応主義との統合を目指すものであった。ダーウィンは1836年10月にオーエンと出会い、親しい友人となっていたが、それは、まさに、オーエンがこの講演の準備に取り組んでいる時期であった。ダーウィンはこうしたオーエンとの交際のなかで、生物界の統一性に注目する先験的生物学の思想に触れ、生物進化の可能性を検討するようになったと考えられる。

 1844年にまとめられたダーウィンの理論によれば、環境が変化した場合、神の直接の手による自然選択により、生物は新たな環境に完全に適応したものになる、という。1859年の『種の起源』では、生物の適応は不完全であり、第二原因である自然選択により適応性が少しずつ向上していくとされている。この段階になってもダーウィンは、彼の進化論が自然神学の枠内にあると考えていた。『種の起源』の前付けの引用句によって、同書が自然神学書であることを示している。1861年末までにダーウィンは、自然選択を神とは無関係な自然現象とみなすようになるが、『種の起源』は最後の版にいたるまで、自然神学書としての体裁を残していた。

 ダーウィンの進化論は、自然神学としての生物学から、近代生物学への曲がり角に位置していた。ダーウィン学説を歴史的に正確に把握するには、宗教的要因についての考察が不可欠なのである。

 『種の起源』刊行の10年後には、少なくともイギリスの科学界では生物の進化が常識となっていた。進化論を確立したダーウィンは科学界の英雄と目されるようになった。1882年に亡くなったダーウィンの葬儀はウエストミンスター寺院で行われたが、これはイングランド教会の聖職者たちがダーウィン学説を許容したことを示すできごとであった。

 1884年にエクセター主教テンプル(Frederick Temple)が、『宗教と科学の関係』と題する講演の中で、進化論とキリスト教が衝突することはないと主張し、神が原初の生物に植え付けた内在力によって生物は進化してきたと説いた。これは神のプランによる進化、すなわち神意進化論がイングランド教会の正統的な解釈になったことを象徴するものであった。すべての種を神が個別に創造したと考えるよりも、神のプランによる進化の説の方が神の存在は遠いものにはなるが、生物学と宗教との分離を決定的にはしなかったのである。

 19世紀後半のイギリスにおける科学と宗教の分離は、イギリスの社会と文化の全域で進行していた世俗化、すなわち宗教の支配からの離脱の一環であった。この科学と宗教の分離において、『種の起源』は一定の役割を演じたが、その決定的な要因でもなく、最も重要な要素でもなかった。

 世俗化を推進したことでは、『種の起源』の4ヶ月後に出版された共著論文集『論文と評論』(1860年3月)をめぐる騒動の影響が大きかった。『論文と評論』は7人の執筆者による神学論文集で、前述のテンプルも執筆者の一人であった。全体を通して、科学研究の成果を尊重すべきであると説かれている。この騒動は、広教会派の見解が説得力を増してくることに対する保守派の最後の総力戦と位置づけることができるだろう。

 1864年11月にハクスリー(Thomas Henry Huxley)やティンダル(John Tyndall)など9人の革新的な科学者が「Xクラブ」という私的な会を設立するが、これも『論文と評論』騒動に刺激され、保守的な宗教人による科学攻撃に反撃することを目的にしたものだった。クラブの主体はハクスリーやティンダルのように科学の専門職に従事している人々で、彼らが実質的にイギリス科学界の中核となっていた。

 ティンダルは1874年のイギリス科学振興協会の会合で会長としての講演を行い、古代ギリシア以来の科学の歴史を科学と宗教の闘いの歴史として描いた。この講演は、イギリス協会会長の発言ということで注目され、キリスト教を科学に敵対するものとみなす科学と宗教の闘争史観を広める一つのきっかけになった。こうした闘争史観を実証するものとして、ダーウィンが科学の勝利の象徴として祭り上げられるようになった。

 科学と宗教の闘争史観は現在でも広く流布しており、闘争史観を裏付けるものとして、しばしばダーウィニズムが引き合いに出される。本研究は、こうした誤った科学史観を修正し、科学と宗教の関係が単なる闘争という単純なものではないことを、具体的事例で解明したものである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、近代進化論史上、画期的な著書とされるダーウィンの『種の起源』(初版,1859年)が、いかなる自然神学的背景のもとで形成され、さらに受容されたのかを詳細に論じ、日本の生物学史の学界で高く評価ている『ダーウィンの時代--科学と宗教』(名古屋大学出版会,1996年)を大幅に改訂して成ったものである。

 まず、松永氏は、19世紀初頭の英国のキリスト教が英国国教会内の保守的な高教会派、リベラルな広教会派、聖書の教義を重視する低教会派に分かれていたことに注意した上で、ダーウィンが広教会派の影響で科学研究に踏み出したことを確認する。松永氏によれば、有名なビーグル号の航海による調査もそういった宗教的背景をもとにしていた。ダーウィンが航海から持ち帰った化石標本と鳥類標本を分析し比較研究する動機は、リチャード・オーエンによって与えられた。その最初の結果は1844年にまとめられるが、それによると、環境が変化した場合、神の直接の手による自然選択によって生物は新たな環境に適応したものになる。『種の起源』にもその痕跡は残り続けた。ダーウィンは、1861年末になってやっと自然選択が神とは無関係な自然現象となるという認識を得た。しかし、『種の起源』自体は、最後の版にいたるまで、自然神学書としての趣を残したままであった。また、1882年にウェストミンスターで行われた葬儀は、英国国教会の権威がダーウィンの進化論学説を認めたことを公に示すセレモニーとして理解することができる。ダーウィンが無神論者であったことが外部に知られるようになったのは、日記などの公刊を待ってのことに過ぎない。

 他方、19世紀後半の英国社会総体の世俗化とともに、科学者の中に宗教と科学の闘争という、その当時の社会総体の世俗化の観念を過去に投影するような歴史観が形成され始まった。1874年に行われたジョン・ティンダルの英国科学振興協会での会長講演は、その一例である。さらに、ダーウィン進化論の普及に不可避の役割を果たしたトーマス・ヘンリー・ハクスリーの啓蒙的進化論も科学の世俗化を促進した。このような詳細な進化学説の跡づけによって、科学と宗教の闘争史観と言われるべき考えが、ダーウィン自身の進化論とは独立に、科学的言説それ自身とは一応独立に形成されたことが分かる。

 進化論そのものの発展については主論文ではそれほど詳細に論じられていないが、参考論文の『近代進化論の成り立ち−ダーウィンから現代まで』(創元社、1988年)で簡明にまとめられて紹介されている。

 松永氏は、現在、日本でのダーウィン進化論成立史研究の第一人者と見なされているが、本論文で、ダーウィンの書いた著作を詳細に調査するだけではなく、周辺部の広範な自然神学的論争をも研究し、ダーウィン進化論の形成過程と受容過程を緻密に再構成しえた学術的意義はまとこに大きい。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

UTokyo Repositoryリンク