学位論文要旨



No 215096
著者(漢字) 真板,昭夫
著者(英字)
著者(カナ) マイタ,アキオ
標題(和) 里地に生息するミヤコタナゴの生息環境維持管理のための社会運営システムの研究
標題(洋)
報告番号 215096
報告番号 乙15096
学位授与日 2001.07.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15096号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 熊谷,洋一
 東京大学 教授 梶,幹男
 東京大学 教授 大沢,雅彦
 東京大学 教授 下村,彰男
 東京大学 助教授 斎藤,馨
内容要旨 要旨を表示する

 本研究のねらいは、里地の代表的な生物の生息環境を今後維持していくためにどのような社会運営システムを構築していく必要があるか、を考えることにある。そのために里地の生き物で最も環境変化の影響を受けやすい小水系に生息する淡水魚類であるミヤコタナゴをとりあげ、今日まで生息してきた社会的な要因を明らかにし、そのモデル化の考察を行ったものである。

 本論文は、序章、終章を含む6章で構成されている。

 「序章」では、本研究の視点として、伝統的に人間が関与してきた里地に生息する種については、生態学的分析と同時に、その生息環境を維持してきた地域社会の運営システムがどのようなものであったのか、今後種の生息環境を維持していくためにどのような代替的な社会運営システムを構築していく必要があるか、という点が重要であるという問題意識を論じている。

 「第1章」では研究対象種として、まず里地の定義を行った上で、絶滅に瀕しかつ極めて生息環境の限定されている我が国の固有種から選定を行なった。

 ここで言う「里地自然地域」とは、環境庁が「環境基本計画」の中で行った類型区分の一つである里地自然地域の概念を基本に置いているが、必ずしも対象を上記定義に従った区域内に限定していない。むしろ、里地自然地域における代表的なハビタットを念頭に置き、それとそれを取り囲む一定の地域のまとまりを対象とした。

 その上で谷津林から溜池、谷津地域の水田・水路に至るまとまった里地空間を必要とする種であり、その生息環境の維持には多くの人の関わりが必要であることから、ミヤコタナゴを本研究テーマの対象として選定した。

 さらにミヤコタナゴの保護のために必要な生息環境要素として、ミヤコタナゴおよびマツカサガイの生息できる自然水域、それら一連の系が安定して存在できる環境が重要であるとし、マツカサガイの生息維持を図るためには、澄んだ水の安定供給や長時間にわたる水の濁りの原因防止等、小水路の管理がきわめて重要であり、また、淡水産二枚貝の効率的な再生産には、貝の幼生が取り付いて育つ小型淡水魚類の生息も欠かせず、ミヤコタナゴの保護には、他の魚類も含めた生物相全体と、水が安定供給される水源である谷津林の維持・管理が必要であり、これらが環境条件として体系的に確保される必要があることを明らかにしている。

 以上の考察をふまえ、本研究の目的を以下の3点とした。

 (1)ミヤコタナゴの生息条件を維持してきた対象地域の里地環境要素の利用形態とその一体的な維持管理作業体系とその変遷を明らかにすること

 (2)それら里地環境要素の維持管理作業を支えてきた社会運営システムの変遷を明らかにすること

 (3)(1)(2)の結果から、ミヤコタナゴの生息に必要な環境要素とその維持管理作業の持続化に関わる地域社会運営システムのモデル化を考察すること

 「第2章」においては、まず研究対象地域の選定を行い環境要素が比較的良好に保たれていた千葉県夷隅郡夷隅町の谷津A地域を分析対象地域とすることとした。また対象地域での環境要素の賦存状況を詳細に分析するため、谷津A地域を含む周辺の現地調査を行った。その結果、ミヤコタナゴの生息に必要な生息環境要素の現在の賦存状況として、以下のことが明らかとなった。

(1)降雨が集まりやすく、しみ出し水を得やすい(2)生物の生息に適した小川や湿地が存在する(3)山林による降雨の水質浄化作用を受ける(4)水が利用しやすく水田を作りやすい地形である(5)溜池等の水源を作りやすい地形である(6)日常的管理によって保たれている水路

 「第3章」においては維持管理作業が里地の生き物の生息条件を生み出していると言えるため、谷津林、溜池、用水路、水田、という里地環境要素がどのように維持管理されてきたのかという歴史的分析を行い、その変遷はミヤコタナゴの生息にどのような影響を与えて来たのかを論じている。

 まず谷津林所有の変遷を分析すると谷津林は共有林、部落林、寺社林、私有林の所有形態で分布していることが明らかとなった。また谷津林の維持管理作業内容の変遷を江戸時代から今日まで分析した。またミヤコタナゴの生息環境への影響と言う観点から整理すると、(1)木の枝打ちや下草刈りが薪炭業、茅刈りが行なわれ、ミヤコタナゴにとって良好な生息環境が維持された江戸〜昭和40年代後半、(2)薪炭業、茅刈りがなくなり、木の枝打ちや下草刈りが減少し、更に谷津林が開発事業に売却されたり、谷津林維持管理作業が減少し、ミヤコタナゴの生息環境が悪化していく昭和50年〜現在までの2期に区分されることが明らかとなった。

 また溜池の利用およびその維持管理作業内容を同様に分析し、整理してみると、

 (1)溜池での生息が可能であったと思われる江戸時代〜昭和28年、(2)溜池での用水利用が減り、維持管理作業の低下により土砂の堆積などが始まり、生息環境として悪化していった昭和29年〜昭和47年、(3)畜産団地からの汚水の流入で溜池でのミヤコタナゴの生息が不可能となった昭和48年〜現在、の3期に区分できることが明らかとなった。

 さらに用水路の維持管理作業内容を同様に分析し、その変遷からミヤコタナゴの生息環境への影響から整理すると、

 (1)谷津のすべての里地環境要素にほぼ全域に生息していたと思われる江戸時代〜昭和28年、(2)年1〜2回の草取りや泥さらいが行われていた自然水路、およびこの自然水路の近くに位置する枝谷津、および圃場整備が行われなかった上流域の水田にミヤコタナゴが生息していたと思われる昭和29年〜昭和47年、(3)溜池のオーバーフローと谷津林のしみ出し水によって一年中水がなくならない自然水路のみにしか生息できなくなった昭和48年〜現在に区分できることが明らかとなった。

 また水田の土地所有形態および維持管理作業の変遷がミヤコタナゴの生息にどのような影響を与えて来たのかを分析すると

 (1)田越し灌漑を利用し、おっぽりなどが存在し良好な生息環境が維持された結果、水田にも生息していたと思われる江戸時代〜昭和28年、(2)圃場整備に伴う用排水分離方式の導入の際に、改変を行わなかった田越し灌漑方式を残した上流部の水田、および一部の枝谷津田と自然水路にしかミヤコタナゴがいなくなったと推定される昭和29年〜47年、(3)溜池からの用水使用量が激変したため、季節によって乾田がおこる4町歩の水田からも姿を消した昭和48年〜現在、の3期に区分できることが明らかとなった。

 以上の結果からミヤコタナゴと里地環境要素の変遷を3段階4期に整理した。

 (1)江戸時代の第1期および明治〜昭和28年までの第2期は、稲作、薪炭業といった生産活動が里地環境要素の維持管理と深く関係してきた。この時代は里地環境要素の維持管理が集落内部で一体的かつ体系的に行われていた時で、ミヤコタナゴの生息場所は溜池、水路、水田(本谷津田、枝谷津田)の分布するすべての場所に生息していた。

 (2)昭和29年〜昭和47年の第3期では、中部土地改良区により圃場整備や新しい用水路、排水路の建設、さらに広域灌漑給排水システム実施に向けての工事も始められた時期である。ミヤコタナゴは溜池との周辺の上流部の水田、溜池の水が流れる自然水路、この自然水路近くの枝谷津田にしか生息しなくなったと考えられる。

 (3)昭和48〜現在までの第4期は、広域灌漑給排水システムが本格的に稼動を始め、田越し灌漑を利用した水田は上流部の4町歩だけとなった。従って、溜池から流れる自然水路のみに、ミヤコタナゴが生息するだけである。

 「第4章」においては各時代区分ごとの維持管理作業は、集落におけるどのような社会運営システムによって今日まで運営されてきたのか、についてその構造と変遷について論じている。ミヤコタナゴの生息環境の維持にどのような影響を及ぼしてきたのかについても論じている。

 第1期江戸時代は集落運営の社会システムの中に里地環境要素の維持管理作業運営システムが、(1)運営の指導、(2)意見収集と調整、(3)実働業務の実施者、(4)監視、の役割分担として組み込まれていたことが明らかとなった。第2期明治時代〜昭和20年(戦前)、この時期は名称の変更はあったものの、集落の社会運営システムは変わらず、本家、分家、小作の3階層の役割分担によって実行された。第3期は、昭和21年から47年までの機関を指す。前半の昭和21年から昭和28年(維持管理作業区分では第2期)は住民全員の協議によって集落の社会運営が行われるように変わった時期である。また昭和29年の町村合併による夷隅町の誕生で、用水路、溜池等の整備、維持管理作業は70戸の集落中心から中部土地改良区が肩代わりし、維持管理作業は広域の運営の中で行われる組織へと変わっていった。すなわち集落の運営社会システムと里地環境要素の維持管理作業運営システムとが分離した時期でもある。第4期昭和48年〜現在は広域灌漑給排水システムによる給水開始により、自然水路および溜池利用は、上流部に水田を所有する10戸のみとなった。集落の社会運営システムと維持管理作業運営システムとの分離から、相互関係が薄れ、これが日常的な自然水路や溜池の土手の草刈りや泥さらいを中心とする維持管理作業を低下させる要因になってきていることが明らかとなった。

 「第5章」においては分析結果を踏まえ、まずミヤコタナゴの生息を可能とした社会条件の整理を行い、以下のことが明らかとなった

 (1)上流部の水田は、里地環境要素の一体的かつ年間を通じた体系的な田越し灌漑の継続をしており、このことが集落運営と里地環境要素の管理を一体化する意識を今日まで持続化している。この一体化がわずかな環境改変に弱いミヤコタナゴの生息条件に即応した生息環境の日常的な維持管理作業の継続につながっている。(2)集落として担保性を持った谷津林が今日まで存在し、溜池や自然水路に安定的な水供給を可能としている。(3)休耕田の増加により、溜池の水を利用する水田規模が減少してきているものの、10戸の所有する水田は農業用水として溜池や枝谷津などからの水利用が継続しており、この農業用水としての水の継続的な供給がミヤコタナゴ生息環境を維持している。(4)自然水路については、溜池のオーバーフローの水が自然水路に流入し、10戸の水田所有者を中心に以前ほどではないが今日まで自然水路の維持管理が継続され、このことがマツカサガイ等の生息をも可能としている水質や底質が維持されている。(5)さらに今日県、町、地元などによるミヤコタナゴの保護活動や密漁の監視が行われるようになってきており、外部の密漁などの捕獲圧から防ぐ結果を生みだしている。

 以上からこれから環境要素を維持していくために必要とされる社会運営システムモデルについての考察を行った結果、

(1) 田越し灌漑による水田利用と自然水路の維持管理存続

(2) 溜池のオーバーフローの水を絶やさないことによる自然水路への水量の安定供給

(3) 谷津林から自然水路へのしみ出し水の水量水質確保のための谷津林の持続的担保

(4) 維持管理作業を実施し、生息環境を維持していく労働力の確保

(5) これらの作業が年間を通じて一体的かつ体系的に管理運営される組織の存在

 の5点が重要であることが明らかとなった。なお、必要とされる組織の機能は以下の通りである

 運営の指導 (溜池、用水利用、に関する時期、利用方法等の決定と管理運営の指導)

 意見収集と調整 (一般住民から作業の役割分担についての意見要望などの意見収集と調整)

 実働業務 (溜池周辺の草刈りや用水路の日常的な補修や保全など実働業務の遂行)

 監視 (実際の溜池、用水路の利用に当たっての日常的な監視)

 「第6章」の終章本論文の結論として、本研究によって得られた知見を整理するとともに今後の展開の方向について示した。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、里地の代表的な生物の生息環境を将来にわたって維持していくために、どのような社会運営システムを構築していく必要があるかについて考察したものである。人間が関与することによって維持されてきた里地に生息する生物種については、生態学的な調査、分析と同時に、その生息環境を維持してきた地域社会の運営システムを明らかにし、今後、種の生息環境を維持していくためにどのような代替的な地域運営の仕組みを構築すべきかの検討が重要である。そこで里地の生き物で最も環境変化の影響を受けやすい小水系に生息するミヤコタナゴをとりあげ、今日まで生息環境を支えてきた里地環境の維持管理作業と、それを支えてきた社会的な仕組みについて詳細に調査し考察を行っている。

 第1章では、まず里地の定義を行った上で、研究対象種として絶滅に瀕しかつ極めて生息環境の限定されているミヤコタナゴを選定し、本研究の目的として以下の3点を設定している。(1)ミヤコタナゴの生息条件を維持してきた対象地域の里地環境要素の利用形態とその一体的な維持管理作業体系とその変遷を明らかにすること、(2)それら里地環境要素の維持管理作業を支えてきた社会運営システムの変遷を明らかにすること、(3)これらの結果から、ミヤコタナゴの生息に必要な環境要素とその維持管理作業の持続化に関わる地域社会運営システムのモデル化について考察すること。

 第2章においては、調査対象地域として千葉県夷隅郡夷隅町内の谷津を取り上げ、その環境条件とミヤコタナゴの生息との関係について論じている。対象地における環境要素の賦存状況について、周辺を含む現地調査を行うとともに、ミヤコタナゴの生息条件に関する先行研究を整理し、その知見にもとづきミヤコタナゴの生息を支えてきた対象地の環境要因として以下を明らかにしている。(1)降雨が集まりやすく、しみ出し水を得やすい。(2)生物の生息に適した小川や湿地が存在する。(3)山林による降雨の水質浄化作用を受ける。(4)水が利用しやすく水田を作りやすい地形である。(5)溜池等の水源を作りやすい地形である。(6)日常的管理によって保たれている水路が存在する。

 第3章では、ミヤコタナゴの生息条件を支えてきた里地環境の維持管理作業とその変遷について検討している。江戸期以降、里地環境要素である谷津林、溜池、用水路、水田がどのような作業により維持管理されてきたのかについて調査し、その変遷がミヤコタナゴの生息に与えてきた影響を分析している。そして、ミヤコタナゴの生息状況との関係から、現代までの里地環境要素の変遷を3期に分類、整理している。

 第4章においては、各時期における里地環境の維持管理作業が、集落におけるどのような社会運営システムによって支えられてきたのかについて調査しその変遷について論じている。その結果、かつて一体化していた住民による集落運営のシステムと里地環境の維持管理作業とが、戦後において分離してしまったことが、ミヤコタナゴの生息環境の維持に大きな影響を及ぼしたことを指摘している。

 第5章においては、ミヤコタナゴの生息を可能とした里地環境の維持管理作業と、その実施を支えてきた社会運営システムについての分析、考察を踏まえ、ミヤコタナゴの生息の維持保全には以下の5点が重要であることを明らかにしている。(1)田越し灌漑による水田利用と自然水路の維持管理存続。(2)溜池のオーバーフローの水を絶やさないことによる自然水路への水量の安定供給。(3)谷津林から自然水路へのしみ出し水の水量水質確保のための谷津林の持続的担保。(4)維持管理作業を実施し、生息環境を維持していく労働力の確保。(5)これらの作業が年間を通じて一体的かつ体系的に管理運営される組織の存在。

 終章の第6章では、本研究によって得られた知見を整理するとともに、今後の展開について述べている。

 以上、本研究は、生態学的な調査、分析を行うとともに、地域の社会運営システムに関する詳細な調査を実施し、その両者から里地の代表的な生物であるミヤコタナゴの生息環境を支えてきた地域の社会運営システムを明らかにし、ミヤコタナゴの生息を維持保全するうえで必要な環境管理作業とそれを支える仕組みについて考察を加えたものである。本研究で得られた知見およびその研究方法論は、今後の里地に生息する生物種の保全に関する研究および実践に多大な影響を与えるものと考えられ、学問上、応用上寄与するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/42859