学位論文要旨



No 215104
著者(漢字) 砂本,文彦
著者(英字)
著者(カナ) スナモト,フミヒコ
標題(和) 近代日本における国際リゾート地開発の史的研究 : 1930年代国際観光政策に伴うリゾート空間の形成について
標題(洋)
報告番号 215104
報告番号 乙15104
学位授与日 2001.07.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第15104号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 長澤,泰
 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 助教授 伊藤,毅
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、近代日本の外国人旅行客(以下、外客)誘致事業に伴うリゾート空間の形成について明らかにしたものである。とりわけ、外客誘致事業の中で政策的、かつ、最も活発に事業化がなされた1930年代の国際観光政策による国際観光ホテル整備事業とその国際リゾート地開発について詳細に言及し、外客誘致に呼応した政策的な施設整備、建築空間的創意を考察した。

 この国際観光政策は1930年4月に鉄道省に外局として国際観光局が設けられたことに始まる。国際観光政策は、海外宣伝、観光地・観光経路整備、宿泊施設整備、接遇の四つの課題を設定して展開しており、第二項と第三項が建築的内容を含んだものとなっている。その具体的施策として「国際観光ホテル」建設による国際リゾート地開発がなされ、12のリゾート系「国際観光ホテル」が建設された。各々の開発は特定のリゾートのテーマ性のもと付帯施設の整備も行っている。この際、採られた整備手法は地方公共団体の申請によって政府機関がホテル建設資金を融通する制度で、融通にあたっては鉄道大臣の諮問機関である国際観光委員会、資金を拠出した大蔵省預金部資金運用委員会などが審議にあたりホテルの建設を決定していた。そして本制度で整備されたホテルは総称的に「国際観光ホテル」と呼ばれた。よって、1930年代の国際観光政策による国際リゾート地開発とはこの国際観光ホテル整備資金の融通を受けて整備されたものを言い、事業計画には政府関連機関、地元公共団体、さらに竣工したホテルの経営を行うホテル経営者の意向が反映されることとなった。

 こうした政策的なリゾート空間の形成は、日本の近代史上、唯一の事例であり注目に値する。また、国際観光ホテルの建築意匠は日本趣味、スイス風、和洋折衷などの特有なもので設計されており、建築プログラムもスキーホテル、登山ホテルといった新たな試みがなされるなど、建築史学上の関心がもたれるところである。さらに、当時の開発により形成された、上高地、唐津、阿蘇、赤倉などのリゾート地は、現在でも、かつての国際観光ホテルを中心としたリゾート地を形成していることから、日本のリゾート空間に与えた影響は大きい。本論文は、このような1930年代の国際リゾート地の形成について建築史学の分野に於いて初めて実証的な研究を行ったものである。

 本論文の構成は、序、本編6章、結からなる。なお、第1章は近代日本における外客誘致事業の政策化への展開について、第2章は総論としての各国際リゾート地開発の概要について、第3章から第5章は各論としての個別のリゾート地開発事例について言及する。第6章では以上の総論、各論を踏まえて1930年代の国際観光政策に伴うリゾート空間の形成を包括的に考察し、結にてまとめを行っている。以下に本論文の概要を記す。

 序では、研究の目的と意義を記し、そして既往研究をレビューをしてホテルを中核施設とした国際リゾート地開発の研究が少ないことを指摘している。

 第1章では、近代日本に於ける外客誘致事業の展開について考察している。まず、近代日本に於いて形成されたリゾート地を通史的に捉えるために外客誘致事業に影響を与えたであろう幾つかの指標(政策・機関、対外貿易額、外客入国動向、ホテル新設傾向)から大別的な時代区分を行い、明治期から第二次世界大戦終戦までを四つの時期に区分した。そして、時代区分に沿って外客誘致事業とリゾート地開発の展開を詳述し、四期に位置付けた1930年代の国際観光政策への社会的な要請と政策的展開を把握した。さらに、本政策が具体的にどのような状況でどのような人物により想起され、そして如何なる組織を設置して具現化されたかを明らかにした。関連する人物は、鉄道省運輸局国際課長で後にJTB幹事となった高久甚之助、彼の後継として国際課長となり1930年には初代国際観光局長となった新井堯爾、鉄道次官兼JTB会長で後に貴族院議員となった八田嘉明の三人の鉄道官僚であった。彼らが国際観光政策の理解を深める契機となったのは、高久と新井の国際課長としての欧米出張(国際連絡運輸会議出席)であり、八田は議会で国際観光政策のコンセンサスを得ていくことに貢献している。そして、1930年に国際観光局、国際観光委員会、翌年に国際観光協会が設置されることとなった。こうした組織を中心に国際観光政策に於けるリゾート関連施設の整備構想は検討されるが、リゾート地開発計画のマスタープランは明示されることはなかった。専ら外客関連施設のおおまかな整備改善ビジョンの提示と特定施設への助成制度適用という、誘導的整備手法を通じて個別施設の包括的な改善を目指していたことを指摘した。国際観光ホテル整備資金融通制度は、その最も具現化した制度の一つであった。

 第2章では、1930年代の国際リゾート地形成で牽引的役割を果たした「国際観光ホテル」に関する総論的な考察を行っている。最初に、当時、国際観光ホテル整備資金融通制度創設にあたって問題化した「ホテル」の定義について考察し、融通制度の先行例となった新大阪ホテルの事業概要、そして、融通制度の仕組みについて詳述した。次いで、このようにして開発された1930年代の国際リゾート地が、近代日本を通じて形成されたリゾート地全体の中でどのような空間的特性を持っているかを把握するために、これらの各々の立地条件と施設条件の観点から総体的な分類を行い、1930年代に開発された国際リゾート地の位置づけを明らかにした。1930年代国際観光政策に於いて最も指向されたリゾートタイプとは、「山岳地においてスポーツ施設を利用した国際リゾート地開発」と「臨海地において景勝を利用した国際リゾート地開発」であった。

 第3章では、第2章で1930年代の国際リゾート地開発の雛形の一つと位置づけた、山岳地においてスポーツ施設を利用した国際リゾート地開発について開発の経緯、その意義、リゾート空間計画の詳細を事例毎に明らかにしている。その事例としては上高地、雲仙、志賀高原、赤倉、阿蘇があった。全般的な特性として、山岳地においてスポーツ施設を利用した国際リゾート地開発が、東アジア在住欧米人の避暑客、スキー客(季節旅行客)を顧客と想定して具体的開発がなされたこと、僻地に立地するためにアクセス道路開発などの大規模な開発を伴い、これらにも積極的にリゾートの演出がなされたこと、また、ホテルの建築意匠が山岳地帯であることからスイスを意識して設計されたものが多いことを指摘した。

 第4章では、第2章で1930年代の国際リゾート地開発の雛形の一つと位置づけた、臨海地において景勝を利用した国際リゾート地開発について開発の経緯、その意義、リゾート空間計画の詳細を事例毎に明らかにしている。その事例としては蒲郡、唐津、松島があった。臨海地において景勝を利用した国際リゾート地開発は、物見遊山的な国際観光客(世界旅行客)を顧客と想定して具体的開発がなされており、国際観光ルート形成への指向性が高いようであった。また、蒲郡、松島の日本趣味意匠のホテル建築が外客の趣向におもねるかたちで形成されたことを実証的に指摘した。

 第5章では、第3章、第4章の分類に挙げられなかった、その他の国際リゾート地開発について開発の経緯、その意義、リゾート空間計画の詳細を事例毎に明らかにしている。その事例としては琵琶湖、河口湖、川奈、中禅寺湖があった。これらは本論文の構成上、分類されなかっただけで、決してリゾートの質が劣っているというものではない。先にも言及したように開発のマスタープランが描かれなかった国際観光政策による多様な開発実態をまさに見せてくれるのが、本章で扱う事例に多くあった。

 第6章では、第2章から第5章までを踏まえて、改めて1930年代の国際観光政策に伴うリゾート空間の形成を捉え直している。国際観光政策による国際リゾート地開発はマスタープランなき計画であったが凡そ二つの施策をなしていた。一つは国際観光ルート形成のために交通機関との連絡を配慮したホテル施設整備であり、もう一つが季節特性を踏まえた避暑地、スキー地開発のためのホテル施設整備であった。前者は世界を周遊する世界旅行客のために、後者は東アジア居留の欧米人のためになされた政策だった。そしてその意匠は世界旅行客が訪れる臨海部や湖畔のホテルは日本趣味意匠が多く、東アジア居留の欧米人が避暑やスキーで訪れる山岳に立地したホテルはスイスシャレー風等の洋風が多かった。こうした一連の国際観光ホテルは質的には帝国ホテルや富士屋ホテル、金谷ホテル等の老舗ホテルに次ぐものであり、ホテル収容力としてもその増加に大きく貢献していた。

 結では、マスタープランなき1930年代の国際リゾート地開発とは、国際的な観点から、既成リゾート地の「見立て」によってそのテーマ性を構想し、ホテル意匠を選択的に決定していたものであったことを指摘した。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、近代日本の外国人旅行客(以下、外客)誘致事業に伴うリゾート空間の形成について明らかにしたものである。とりわけ政策的、かつ、最も活発に事業化がなされた1930年代の国際観光政策による国際観光ホテル整備事業とその国際リゾート地開発について詳細に言及し、外客誘致に呼応した政策的な施設整備、建築空間的創意を考察している。

 この国際観光政策は、1930年4月に鉄道省に外局として国際観光局が設けられたことに始まり、外客のための施設整備策を含んだものとなっている。その具体策として「国際観光ホテル」建設による国際リゾート地開発がなされ、12のリゾート系ホテルが建設された。各々の開発は特定のリゾートのテーマ性のもと付帯施設の整備も行っている。この際、採られた整備手法は地方公共団体の申請によって、鉄道大臣の諮問機関である国際観光委員会、資金を拠出した大蔵省預金部資金運用委員会などが審議にあたりホテルの建設を決定する制度であった。

 こうした政策的なリゾート空間の形成は、日本の近代史上、唯一の事例であり注目に値する。また、国際観光ホテルの建築意匠は日本趣味、スイス風、和洋折衷などの特有のもので、建築プログラムもスキーホテル、登山ホテルといった新たな試みがなされ、建築史学上の関心がもたれるところである。さらに、当時の開発による上高地、唐津、阿蘇、赤倉などのリゾート地は、現在でも、かつての国際観光ホテルを中心としたリゾート地を形成していることから、日本のリゾート空間に与えた影響は大きい。本論文は、このような1930年代の国際リゾート地の形成について初めて実証的な研究を行ったものである。

 本論文の構成は、序、本編6章、結からなる。以下に本論文の概要を記す。

 序では、研究の目的と意義を記し、そして既往研究をレビューをしてホテルを中核施設とした国際リゾート地開発の研究が少ないことを指摘している。

 第1章では、近代日本に於ける外客誘致事業の展開について考察している。まず、近代日本に於いて形成されたリゾート地を通史的に捉えるために外客誘致事業に影響を与えたであろう幾つかの指標から大別的な時代区分を行い、明治期から第二次世界大戦終戦までを四つの時期に区分している。そして、時代区分に沿って外客誘致事業とリゾート地開発の通史を踏まえつつ、1930年代の国際観光政策への政策的展開を明らかにしている。こうした国際観光政策を実効化した人物は、鉄道省運輸局国際課長で後にJTB幹事となった高久甚之助、彼の後継として国際課長となり後に国際観光局長となった新井堯爾、鉄道次官兼JTB会長で後に貴族院議員となった八田嘉明の三人の鉄道官僚であった。高久と新井という国際課長達は、その国際課の業務的な欧米出張から政策の認識を深め、八田は彼らから説得されることで後に議会対策で貢献していた。そして、1930年に国際観光局、国際観光委員会が設置され、国際観光政策に於けるリゾート関連施設の整備構想は検討されるが、リゾー下地開発計画のマスタープランは明示されることはなく、専ら外客関連施設のおおまかな整備改善ビジョンの提示とホテルに代表されるような特定施設への助成制度適用が検討された。そして、誘導的整備手法を通じて個別施設の包括的な改善を目指していた。

 第2章では、1930年代の国際リゾート地形成で牽引的役割を果たした「国際観光ホテル」に関する総論的な考察を行っている。最初に、当時、国際観光ホテル整備資金融通制度創設にあたって問題化した「ホテル」の定義について考察し、融通制度の先行例となった新大阪ホテルの事業概要、そして、融通制度の仕組みについて詳述した。次いで、このようにして開発された1930年代の国際リゾート地が、近代日本を通じて形成されたリゾート地全体の中でどのような立地と施設の特性のものが指向されたかを考察している。ここでは、最も指向されたリゾートタイプに、山岳地においてスポーツ施設を利用したものと、臨海地において景勝を利用したものがあったことを指摘している。

 第3章では、山岳地においてスポーツ施設を利用した国際リゾート地開発について空間計画の詳細を事例毎に明らかにしている。その事例としては上高地、雲仙、志賀高原、赤倉、阿蘇があった。全般的な特性として、山岳地においてスポーツ施設を利用した国際リゾート地開発が、東アジア在住欧米人の避暑客、スキー客を顧客と想定して具体的開発がなされたこと、僻地に立地するためにアクセス道路開発などの大規模な開発を伴い、これらにも積極的にリゾートの演出がなされたこと、また、ホテルの建築意匠が山岳地帯であることからスイスを意識して設計されたものが多いことを指摘している。

 第4章では、臨海地において景勝を利用した国際リゾート地開発について空間計画の詳細を事例毎に明らかにしている。その事例としては蒲郡、唐津、松島があったことを揚げ、臨海地において景勝を利用した国際リゾート地開発は、物見遊山的な国際観光客を顧客と想定して具体的開発がなされており、国際観光ルート形成への指向性が高かったことを指摘している。

 第5章では、第3章、第4章の分類に挙げられなかった、その他の国際リゾート地開発について空間計画の詳細を事例毎に明らかにしている。その事例としては琵琶湖、河口湖、川奈、中禅寺湖があった。これらは開発のマスタープランが描かれなかった国際観光政策による多様な開発実態をまさに見せてくれるものであったと指摘している。

 第6章では、改めて1930年代の国際観光政策に伴うリゾート空間の形成を捉え直している。国際観光政策による国際リゾート地開発はマスタープランなき計画であったが凡そ二つの施策をなしていた。一つは国際観光ルート形成のためのホテル施設整備であり、もう一つが季節特性を踏まえた避暑地、スキー地のホテル施設整備であった。前者は世界旅行客のために、後者は東アジア居留の欧米人のためになされた政策だった。そしてその意匠は世界旅行客が訪れる臨海部や湖畔のホテルは日本趣味意匠が多く、東アジア居留の欧米人が避暑やスキーで訪れる山岳に立地したホテルはスイスシャレー風等の洋風が多かった。

 結では、マスタープランなき1930年代の国際リゾート地開発とは、国際的な観点から、既成リゾート地の「見立て」によってそのテーマ性を構想し、ホテル意匠を選択的に決定していたものであったことを指摘している。以上の内容からなる本論文は、これまで謎の多かった昭和初期国策ホテルの全容を明らかにするものであり、観光政策とホテル建築を知る上での基礎的研究となる。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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