学位論文要旨



No 215112
著者(漢字) 前川,督雄
著者(英字)
著者(カナ) マエカワ,タダオ
標題(和) 高精細フラクタル視覚情報の生理的評価に関する研究
標題(洋)
報告番号 215112
報告番号 乙15112
学位授与日 2001.07.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第15112号
研究科 工学系研究科
専攻 電子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 原島,博
 東京大学 教授 岡部,洋一
 東京大学 教授 上野,照剛
 東京大学 教授 廣瀬,通孝
 東京大学 教授 河口,洋一郎
 東京大学 助教授 相澤,清晴
内容要旨 要旨を表示する

 1997年に発生したいわゆる「ポケモン」事件は、視覚情報のもつある種の空間的・時間的構造が、生理的なダメージを人間に与えうることを示している。確かに映像信号は、視聴覚刺激となって認知的な影響を脳に与えるだけでなく、快・不快の情動・感性反応をはじめ、認知・知覚の境界領域に及ぶこれまで未知のものを含む様々な刺激を人間に与える可能性が考えられる。また生活空間の中で、自然の視聴覚情報が電子的なメディアから供給される視聴覚情報(映像情報)に急速に置き換えられつつあり、映像情報による時間空間の占有度合とともに、その影響に留意する必要性が増大している。今後、映像情報メディアについて、機能や経済性といったなじみ深い評価に加えて、より快く美しいもの、心身の状態を向上させるものなどを選択する新しい感性的・生理的なプラス面への評価が求められるだろう。そして同時に、メディア利用のうち副作用や危険をともなうものを回避するマイナス面の評価が、薬品や食品工業などと同様に、無視できない要件として重みを加えてきている。そこで本研究では次のように目的を設定して検討を進めた。第一に、視覚情報入力に対する生体反応について非侵襲脳機能計測を活用した生理的評価手法を開発することを目的とした。そのために、脳波α波を指標とした視覚刺激に対する生理的評価法を開発した。第二に、この評価法を用いて視覚情報の空間的構造の特徴がヒトの脳に与える影響を評価することを目的とした。そのために、様々な静止画像を材料にして、まず視覚情報の空間密度に焦点を当て、その細密度の違いが脳活性に与える影響を調べるとともに、その評価を通して、開発した評価法の有効性を検証した。次に、フラクタル構造などの視覚情報の空間的構造に焦点を当て、その違いによる脳活性への影響を調べた。以上の実験は心理的評価をあわせて試み、内観的な検証を行った。さらに、静止画像に対して有効性を示した生理的評価法をビデオ動画像に適用して検討を行った。以下にその結果を整理して述べる。

 まず、視覚情報入力の空間的構造のもつ特徴に対応する生理的反応を脳波α波を指標として評価する方法を構築することに成功し、その有効性を確認した。脳波α波は開眼状態下では強く抑制される性質があり、視覚刺激に対応した指標としては不適合であるという見解が最近まで支配的だった。これに対して、古典的な脳波計測環境自体が被験者の脳波α波の発現に対して抑制的に作用する何らかのストレスを与えているとの作業仮説を設定し、そうした外乱を取り除くための様々な工夫を行った。その結果、開眼時においても、評価実験データとして十分な大きさをもつ脳波α波が観察され、また様々な視覚刺激のもつ空間構造の特徴の差異に対応して、脳波α波ポテンシャルが変化して観察された。これらの結果は、視覚刺激のもつ固有の空間的構造が導く脳の活動には生理的に計測可能なものがあることを示すと同時に、ここに開発した生理的評価法が、視覚情報のある種の空間的構造に対するヒトの感受性の計測に有効に働くことを示している。

 この生理的計測法によって、従来は未知であったいくつかの知見が導かれた。すなわち、まず、視覚刺激のもつ空間的構造の密度(視覚刺激精細度)がより高いほど、後頭部脳波α波がより増強される傾向があった(結果のひとつを図1に示す)。この傾向は、ITU-R勧告標準観視条件などを参照した結果、現代日本で想定できる標準的な映像情報メディア観視状況において一般的に成立すると考えられる。すなわち、少なくとも精細度の側面については、NTSC方式テレビ映像よりもHDTV方式テレビ映像のほうが脳波α波を増強すると考えられるが、これはつづく実験によって支持された。さらに、本研究で検討を加えたうちで最高の視覚刺激精細度である1.18ピクセル/分は、HDTV方式の視覚刺激精細度0.97ピクセル/分よりもさらに2割ほど高精細であることから、HDTV方式よりも2割以上高精細な規格の映像呈示機器が実現した場合、それはさらに脳波α波を増強することが予測できる。

 次に、弁別視力の限界を超える精細度に対する視覚感受性が存在する可能性を示唆する結果が得られた。すなわち、上記実験群において、被験者1.18ピクセル/分の精細度をもつ視覚刺激によって導かれた脳波α波ポテンシャル値が0.59ピクセル/分の精細度をもつ視覚刺激によって導かれた値よりも高い傾向があった。また、この生理的評価実験に並行して実施した心理的評価実験において、両精細度に対する印象が区別されていることが統計処理の結果示された。この両精細度の視覚刺激の差異を知覚するためには、1.18ピクセル/分の視覚刺激における隣りあうピクセル間の差異の有無を知覚することにほぼ等しい弁別力、すなわち1.18以上の視力が必要とされる。ところが、この実験の被験者たちのランドルト環で計測した視力は0.7〜1.0だった。以上から、この実験結果は、いわゆる弁別限界を超える細かさで視覚刺激間に存在している差異を人間が知覚しうる可能性を示唆しているといえる。

 いわゆる視力は、(1)自覚的な性格をもつ中心視(注視し、文字を読むときなどに用いられる視角約1度の視野における視覚)における(2)高いコントラストをもつ(3)単一の記号的パタンあるいはその単純な配列に対する、最小可読閾の指標と整理できる。ところが上記実験群においては、まず(1)に対して、被験者に漠然と呈示画像を見るように指示したので、画像全体(呈示視角29度)からの視覚刺激は周辺視を含めた自覚・非自覚を問わない総合的な視覚反応を引きだしていると考えられる。また(2)に対して、呈示試料は自然なコントラストをもっていた。同時に(3)に対して、呈示試料のつくる視覚情報はフラクタル構造の特徴をもっていた。すなわち、上記実験における精細度に対する視覚感受性は、いわゆる視力と異なる、いわばフラクタル構造に対する視覚感受性なのかもしれない。いわゆる弁別限界を超える細かさに対する感受性をもつ視力概念として、副尺視力の存在が知られており、そのメカニズムが明らかにされればフラクタル構造に対する視覚感受性も同時に説明される可能性がある。しかし副尺視力は従来の視力と同様に、(1)中心視による、(2)高いコントラストをもつ(3)単純な幾何学的構造に対する感受性であり、フラクタル構造に対する感受性を副尺視力のみで完全に説明するのは困難かもしれない。著者は、フラクタル構造に対する視覚感受性の評価を実現するためには、中心視だけでなく、周辺視が貢献している可能性を考慮に入れることが有効だろうと予測している。以上に関連して、本研究の実験で、フラクタル構造の特徴を有する視覚刺激が、幾何学的模様のつくる視覚刺激に比べて有意に高い後頭部脳波α波をみちびき、ビデオ動画像のつくる視覚刺激においても同様の傾向が観察された。この結果はフラクタル構造に対する視覚感受性の検討において何らかの情報を提供するかもしれない。

 さて、脳波α波は、リラックスしつつも清明な精神状態にあるときによく観察され、逆に精神的負荷が生じたり眠りかけたときに抑制される傾向が知られている。一方で、より高い後頭部脳波α波ポテンシャルを導く視覚刺激は、認知レベルにおいて人の心と親和性の高い印象をより強く与えるという対応関係が心理的評価実験において示された。これらを総合すると、「より高い後頭部脳波α波が観察されているときには、人をとりまく情報環境が、脳にとって適合性のより高い状態にあると脳自体によって判断されている」と解釈することが可能になる。だとすると、フラクタル構造をもち、より高い精細度をもつ視覚刺激となりうる視覚情報が支配的な情報環境であることが、脳にとって適合性がより高いのではなかろうか。

 これに関連する重要な知見として、音に対する脳の反応を調べる実験において、後頭部脳波α波ポテンシャルは、視床や上部脳幹を含む脳深部の血流量と正の相関をもつことが報告されている。視床や上部脳幹を含む脳深部は、覚醒中枢であると同時に、自律神経系を介して生体内環境をコントロールするための重要な神経組織を含んでいる。さらに上部脳幹に含まれる内側前脳束は、快不快を制御するモノアミン作動性神経回路の代表格であり、そこから前頭葉に投射する神経回路の異常がうつ病や精神分裂病といった精神疾患の直接の原因となる。さらにストレス反応とも密接な関係をもち、免疫系および内分泌系反応を介することにより心身症をはじめとする様々な疾患の発症に直接または間接の影響を及ぼす疑いがある。こうした脳機能についての知見をふまえ、高精細フラクタル視覚情報の与える効果のメカニズムを検討し、生体に対する影響の質と度合とをより詳しく検討することは、今後の重要な課題となるだろう。

 なお、視覚情報の空間的構造のもつ特徴への反応を調べる評価法の一環として、フラクタル細密化テクスチャ生成手法FINEを開発し、擬似自然景観テクスチャの作成に成功したことも重要な成果である。

 本研究の成果から様々な社会的応用を想定できる。たとえば、開発した生理的・心理的計測を結合した評価法を活用して、視覚情報のもつ様々な特性が導く人間の反応を評価し、今後のメディア規格の検討やコンテンツ作成、そしてその利用などに資することが期待される。このことは、映像情報メディア領域において、機能や経済性という従来の視点に加えて、生理的・感性的なプラスの貢献と安全性の保証を確認するという今後重要性を増していくと思われる姿勢を推進していくために役立つだろう。

図1 視覚刺激精細度の違いによる後頭部脳波α波ポテンシャルの変化

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、「高精細フラクタル視覚情報の生理的評価に関する研究」と題し、視覚情報環境の大部分を占めるにいたったメディア情報が人間に与える生理的影響を検討することを目的として、脳波に基づく脳機能計測法を活用した生理的評価方法を開発して、高精細フラクタル視覚情報に対する感受性を体系的に論じたものであって、全体で9章からなる。

 第1章は「序論」であり、視覚情報のもつ時間的空間的構造がヒトに生理的な影響を及ぼし得ることを指摘するとともに、その悪影響を排して生理的な適合性がより高い視覚情報環境を構築する必要性を述べ、その中での本研究の対象領域を明確化することにより、本論文の背景と目的を明らかにしている。

 第2章は「視覚情報の評価に関する関連研究」と題し、本研究の基礎として、まず、視覚のメカニズムならびに視力、空間周波数特性についての既存の知見を概観している。そして、これまで行われた画質評価や脳活性計測の手法を検討し、視覚情報について、信頼性の高い生理的評価手法を開発するための課題を整理している。

 第3章は「脳波α波を指標とする視覚刺激の評価方法の開発」と題し、非侵襲脳機能計測に基づいて、視覚情報入力(視覚刺激)に対する生理的反応を計測評価する手法を開発した結果について述べている。具体的には、本研究に対して現実的に最も適合性が高いと考えられる脳機能計測手法として、脳波α波を指標とする評価法に注目している。しかし、これを視覚情報に適用するためには、開眼時に脳波α波が抑制される傾向にあるという大きな問題がある。本章では、計測環境や計測システム、計測・分析手法を刷新することにより、この課題を解決し、有効な方法を確立できたことについて述べている。

 第4章は「景観写真のつくる視覚刺激の精細度に対する評価」と題し、第3章で開発した脳波α波を指標とする視覚情報の生理的評価法の有効性を確認するとともに、本研究の目的のひとつである視覚情報のもつ空間密度が視覚刺激となって脳活性に及ぼす影響を、生理的・心理的に評価することを試みている。すなわち、自然景観写真を素材として三段階の画像密度をもつ呈示試料を光学フィルム上に作成し、スライドプロジェクタで呈示して脳波計測実験および一対比較法を用いた心理実験を行うことにより、より精細度の高い視覚刺激の方が脳波α波を統計的有意に増強するとともに、心理的に人の心により親和性の高い印象を与えることを示唆する結果が得られたことを示している。

 第5章は「フラクタル細密化による擬似自然景観画像の合成」と題し、実験目的に適合性の高い擬似自然景観画像を合成する手法について論じている。まず、自然にありふれた不規則で断片的な構造を表すフラクタル構造に着目し、変位規模変動型フラクタルブラウン面生成によるテクスチャ細密化手法を提案している。そしてこのテクスチャ細密化手法を応用して、森と雲とからなる自然景観に見えるフラクタルテクスチャを合成する手法の開発を行った結果について述べている。

 第6章は「合成画像のつくる視覚刺激の精細度に対する評価」と題し、視覚情報のもつ空間密度が視覚刺激となって脳活性に及ぼす影響を、合成画像を呈示試料として評価した結果について述べている。まず、第5章で開発したテクスチャ生成手法を用いて、擬似自然景観画像を合成し、互いに異なる密度をもつ呈示試料群をスライドプロジェクタで呈示して、脳波を指標とした生理実験と、一対比較法を用いた心理実験とを行っている。これにより、第4章と同様に、より高精細な視覚刺激が後頭部脳波α波を統計的有意に増強する傾向が観察され、心理実験結果がこの傾向を支持したことについて論じている。また、第4章と第6章とにおいて、ヒトはその弁別視力以上の視覚刺激精細度の差を知覚している可能性があることを示唆する興味深い結果が得られたことを述べている。

 第7章は「視覚刺激のもつ構造的特徴に対する評価」と題し、視覚情報のもつ構造的特徴の違いが脳活性に及ぼす影響の評価について述べている。まず、呈示試料として[フラクタル模様][中間的模様][幾何学的模様]の3テクスチャを作成して、これらをスライドプロジェクタならびにリアプロジェクション方式ディスプレイを用いて呈示し、脳波を指標とした生理的評価と、一対比較法を用いた心理的評価とを行っている。これにより、フラクタル構造を有する視覚刺激が、幾何学的模様のつくる視覚刺激に比べて脳波α波を統計的有意に増強する傾向が観察され、心理実験がこの傾向を支持したことについて論じている。

 第8章は「ビデオ動画像のつくる視覚刺激の評価」と題し、第4章ならびに第6章、第7章で観察された、精細度ならびにフラクタル性の高い視覚刺激が脳波α波を増強する傾向が、ビデオ動画像においても観察されるかどうかについて検討している。そのために呈示試料ならびに呈示機器の条件等を改めて設定して評価実験を行った結果、ビデオ動画像においても、高精細フラクタル視覚刺激が脳波α波を統計的有意に増強することが示唆されたことについて論じている。

 第9章は「結論」であり、本研究の成果を整理し、一連の実験結果と、関連する様々な知見とに基づいて、視覚情報のもつ空間的構造の特徴に対するヒトの感受性について考察し、総括するとともに、今後の課題と展望について述べている。

 以上を要するに、本論文は、ヒトの脳機能に対する適合性がより高い映像情報メディアの実現にむけて、脳波に基づく脳機能計測法を活用して視覚刺激を生理的に評価する手法を提案し、静止画・動画などの視覚情報のもつ空間的構造の密度ならびにフラクタル性に対する感受性について体系的に論じたものであって、今後の電子情報通信工学の進展に寄与するところが少なくない.

 よって本論文は,博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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