学位論文要旨



No 215118
著者(漢字) 河東,仁
著者(英字)
著者(カナ) カワトウ,マサシ
標題(和) 日本の夢信仰 : 宗教学から見た日本精神史
標題(洋)
報告番号 215118
報告番号 乙15118
学位授与日 2001.07.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15118号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 島薗,進
 東京大学 教授 末木,文美士
 東京大学 助教授 菅野,覚明
 大阪大学 教授 中村,生雄
 学習院大学 教授 兵藤,裕己
内容要旨 要旨を表示する

 本申請論文の第一の目的は、これまで日本人が、多義的な意味内容をもつ夢とどのように接してきたかを、さまざまな古典を通して探ることにある。そのため主として国文学の領域においてなされてきた、古典文学等に登場する夢譚の諸研究を、宗教学の視角から交通整理することにより、日本における夢観の変遷過程を通史的に展望してゆくことになる。

 ここでいう宗教学の視角とは、端的には宗教現象をめぐる学際的なアプローチを意味する。そもそも宗教学なる学問領域の特性として、特定の宗教現象を理解するために、人類学・歴史学・社会学・地理学・言語学・民俗学・神話学、そして諸宗教における教学や神学、さらには精神医学や心理学などの知見や技法を必要に応じて援用するということがある。その意味において、宗教学とは宗教現象をめぐる学際的な研究と言うこともできる。そして本論文の題名に「夢信仰」なる語を用いたのも、夢との関わりをそうした宗教現象の一つとして捉えようとの意図からきている。

 すなわちさまざまな分野に登場する夢譚を対象とする先行研究を通史的に交通整理するなかで、夢が古代から果たしてきた宗教的文化的な機能、および夢に担わされてきた意味内容を時代ごとに浮かび上がらせる。と同時に、夢信仰が変容してゆく過程を、その背景をなす仏教思想や神祗信仰の変遷過程と関連づける。さらにはこうした作業を通して、日本の精神史と呼びうるものをいささかなりとも描ければ、というのが最終的な目標である。

 そうした本論文の特色をもっともよく示すと思われるのが、第一部結語において登場する、「原(げん)=夢信仰」なる造語である。すなわち従来の研究において、古代の日本には二つの特徴的な夢観の存することが指摘されてきた。夢を聖なる次元から神意を得るための回路とみなす夢観、そして夢を、覚醒時の現実に匹敵しうる比重をもつ、今一つの現実(リアリティ)の場とみなす夢観である。前者をめぐっては、たとえば『古事記』『日本書紀』において、神意を天皇が夢(いめ)の告げのかたちで受け取る場面がしばしば語られ、そのために「神牀(かむどこ)」ないし「祈(うけ)ひ寝」と呼ばれる夢見の技法があったことが記されている。また『万葉集』では、恋する相手と夢のなかで逢うことを「魂逢(たまあ)ひ」と呼び、現実の世界での出逢いと同じように期待する歌が詠まれている。身体から抜け出た魂が、夢路を介して相手の魂と触れ合うという考え方である。そして魂逢ひを実現させるために、「袖返し」という技法もあった。

 しかし視角を広げると、これらの夢観はいずれにせよ古代の日本に特有のものとは言えず、むしろ全人類的に見られるものである。宗教学の用語で言えば、憑依型の夢観と脱魂型の夢観と言い換えることもできる。そこでこれら二つのタイプを併せた夢観を、「人類普遍的」というニュアンスを込めた「原=」という接頭語をつけて、「原=夢信仰」と名づける。そうしてさまざまな古典の分析を通して、この原=夢信仰が日本的な独自性を獲得してゆく過程を跡づけてゆこうというのが本論文の基本的立場である。

 そのため第一部の「夢信仰の開花」では、まず『古事記』『日本書紀』『風土記』や『万葉集』を題材にして、日本における原=夢信仰の実際を探る。すなわち古代においては、二人の皇子のどちらに皇位を継承させるべきかを夢見によって決定したという、『日本書紀』崇神即位四八年の記事のごとく、国家の方向を左右するまでの機能が夢に託されることもあった。ただしこうした国家的・公的なレベルでの夢の予兆機能は、陰陽道や易占といった中国系の高度な占いの伝来・定着とともに、影を潜めるようになった。

 だがその後も、夢に対する神秘視は個人的ないし民間レベルで存続し、聖徳太子や菅原道真が神格化される上で、夢譚が大きな役割を果たした。また『万葉集』には、上述のごとく、個人的なレベルの感情を詠んだ夢の歌が数多く収められている。

 そしていよいよ王朝期になると、特定個人が実際に見た夢が具体的に記されるようになる。たとえば、女流日記文学の『蜻蛉日記』や『更級日記』であり、歴史物語の『大鏡』と『栄花物語』などである。そこで次に、これらの作品に見える「参籠(さんろう)」と「夢解き」をキーワードとして、王朝期に花開いた夢信仰の実際を概観する。

 参籠とは、一昼夜から三日間、あるいは七日間ないしその倍数の期日のあいだ長谷寺や石山寺などの観音霊験寺に忌み籠り、霊夢の感得を期待するというものである。そして本論文では、西郷信綱氏の名著『古代人と夢』に依拠しつつ、地母神崇拝を介して観音信仰と夢信仰とが習合してゆく過程を跡づけてゆく。これに対して夢解きとは、参籠によって感得した霊夢、あるいは日常のなかで感得した意味ありげな夢を解読する宗教者を指す。本論文では、そうした解読法やその習得法の有無について論ずることになる。

 そして次に『源氏物語』と『浜松中納言物語』を題材にして、王朝期に花開いた夢信仰の諸要素が、創作物語のなかにどのように取り込まれているかを考察する。あるいはストーリーを展開する上で、夢譚にいかなる役割が担わされているかを探る。

 ところで原=夢信仰が王朝期に日本独自のものへと変容してゆく上で、中国文化と仏教の影響に触れないわけにはいかない。そこで第五章にて陰陽道や易占、第七章にて「胡蝶の夢」や「邯鄲の夢」といった夢をめぐる中国故事、および『周礼』や『詩経』などに窺われる古代中国の夢信仰について紹介する。そうして第一部の最後に仏教的夢信仰を取り上げ、経典に記されたさまざまな夢観を探ることになる。

 具体的には吉凶を知らせる「予兆夢」、「入胎夢(にったいむ)」と呼ばれる高僧や偉人の出生をめぐる瑞夢、極楽へ往生する(した)ことの確証としての「往生夢」、あるいは主として密教系の経典に見られる、修行の深まり具合を夢見の内容にて判断する「修行夢」などを扱う。またここでは、こうした神秘主義的な夢観が、夢をそのはかなさと実体のなさから「無常」の譬喩として用いる立場と、どのような関係にあるのかという問題も取り上げる。

 ただし仏教的夢信仰については、第二部「夢信仰の変容」の前半において、より詳しく論ずることになる。まず、『日本霊異記』と『今昔物語集』の夢譚を比較することにより、末法の世の到来を前に、易行化すなわち極楽往生の簡便化を希求する風潮が高まるなか、夢信仰がどのように変容していったかを探ることになる。ついで鎌倉時代初期の高僧、法然・親鸞・明恵を取り上げ、彼らが夢とどのように関わっていたかも考察してゆく。

 こうして次に、従来の研究において夢信仰に終止符を打ったとみなされてきた、武士の存在に焦点を当てる。考察の対象とするのは、『平家物語』と『太平記』である。そして武士と夢とのさまざまな関わり方を析出するなかで、武士の登場が必ずしも夢信仰の終焉を意味するものではなかったことを明らかにする。

 より正確には、一瞬の出来事が生死を分かつだけに、武士にとって夢見の内容は実はきわめて大きな意味を有していた。しかし周囲には、武士がそうした事柄に臆するのを揶揄する風潮も存在した。そのため、『平家物語』の数ある異本のなかでも、とくに一般に馴染みの深い覚一本では、夢を信ずるのは貴族、少なくとも貴族化した平氏のみで、源氏の武士は夢見になど左右されない、という色調が濃厚になっている。だが幕府の正史である『吾妻鏡』を見ると、頼朝を初めとする鎌倉武士たちの夢が数多く記されているように、武士の間にも、夢の神秘性を重視する傾向が依然として存在していたのである。

 この傾向は、『太平記』にも受け継がれることになる。記すまでもなく『太平記』とは、南北朝時代の錯綜する動乱の世を、一定の視座から整理しようとした軍記物である。そして最初は、当時最新流行の思想である朱子の「名分論」の視座から複雑な歴史の流れを整理しようするが、次第に名分論では説明しきれなくなる。そこで次に仏教の「因果論」が持ちだされる。だが現実の動きはさらに混迷をきわめ、こうした当時としては合理的な歴史観では捉えきれなくなる。そしてそのとき、怨霊と化した後醍醐天皇が背後世界から現世を操ろうとしている、という「怨霊史観」が登場することになる。

 この合理主義と神秘主義がせめぎ合う様相は、当時の夢観にも指摘されうる。夢をまったく意味のないものとして無視する合理的な態度から、夢見に一喜一憂する古来からの態度まで、さまざまな夢観の混在しているのが、『太平記』の世界なのである。

 こうして本論文は、興福寺の子院の一つ多聞院の院主にして、戦国時代の末期に膨大な量の夢日記を書き残した長実房英俊を取り上げた後に、いよいよ江戸時代へと論を進める。ここでは、まず初夢習俗の生成過程や夢占い書の盛行を通して、庶民レベルにおける夢信仰の世俗化と娯楽化という問題を論ずる。ついで江戸文芸を考察の対象として、夢の神秘性よりも虚構性に注目する作品が増えてゆく経緯を跡づける。扱うのは「御伽草子」と「仮名草子」、井原西鶴や風来山人などである。そして最後に、上田秋成と曲亭馬琴を取り上げ、彼らの作品世界のなかで夢の神秘性に再び光が当てられ、夢信仰が一個の芸術として昇華されてゆく経緯を取り上げる。具体的には、秋成の『夢応の鯉魚』や『目ひとつの神』、馬琴の『椿説弓張月』などが分析の対象となる。

 以上が、本申請論文の概要である。

審査要旨 要旨を表示する

 河東に氏の「日本の夢信仰--宗教学から見た日本精神史」は、記紀から江戸時代の文芸作品に至るまでの資料を読み込み、夢の神秘的な機能に対する信仰がどのように変遷してきたかを展望しようとしたものである。河東氏は古代の日本には、夢から神意を得るという信仰と、夢において魂の往来ができるという信仰があったとする。氏はこれをシャーマニズムにおける憑依と脱魂の宗教体験に対応するもので、諸原始=古代文化に共通に見られるものととらえ、「原=夢信仰」と名づける。もっとも高い位置を与えられる場合、「原=夢信仰」は国家の運命を決する公的機能を果たすものとして記録された。

 王朝期の物語や日記文学になると、参籠して霊夢を授かったり、夢の宗教的な解読に意を凝らす「夢解き」など日本独自の夢信仰がふんだんに見られるようになる。それは素朴に夢のリアリティが信じられていた時代から、中国思想、陰陽道、仏教の世界観などの影響の下で夢の機能が相対化される一方、その後の日本文化に大きな影響を及ぼす新たな夢信仰のパターンが形成されていくプロセスである。王朝期を通して「夢の世」のはかなさを詠嘆する「王朝人の夢信仰」と「予兆夢」「入胎夢」「往生夢」「修行夢」などの「仏教的夢信仰」がからまりあいつつ、次第に後者へと重点が移動していくという。

 『源氏物語』『更級日記』においてと同様、聖徳太子信仰や明恵・法然・親鸞の信仰世界においても、夢が人生の決定的な転換に関わるものとして重視されており、この時期に至るまで「夢見文化」といった共通の基盤が継続してきたと論じられる。また、それらが中国の夢信仰や仏教教理の中の夢の位置づけとどのような関わりがあるかも示され、本覚思想に代表される日本的な仏教のあり方や無常観と区別される無常感と、日本の夢信仰との間に密接な連関があることも示されている。

 従来の研究では、王朝期以降、武士の時代に入ると夢信仰は衰えていったとされるが、河東氏はこの通説に疑問を呈する。『平家物語』や『太平記』においても、生死の境を生き抜こうとする武士が実は夢信仰に多くを託そうとしていたことが示される。夢信仰の衰退を確かに指摘できるのは、むしろ戦国時代以降であり、長実房英俊の夢日記はそれを如実に示している。西鶴に代表される江戸時代の娯楽文学の中の夢はその流れの延長上に位置づけられるが、上田秋成と曲亭馬琴において新たに夢の神秘性が再興される。しかし、それは生きた夢信仰の中で創作した世阿弥の「夢幻能」の世界の「幽玄」とは異なるもので、西洋のロマン主義に対応するような新たな「神秘」の幕開けであることが示唆される。

 西郷信綱の古典的な業績、『古代人と夢』(1972年)を初めとして、日本の文学作品や宗教・歴史資料の中に現れた夢についての研究の蓄積は膨大だが、河東氏はそれらの多くを踏まえ、それらに学びつつ、新たに宗教学的な観点から「夢信仰」の変容の過程として理論的見通しを立てるという力業をなしとげている。古代から近世までの文学作品や宗教・歴史資料に広く目を配り、諸資料の歴史的(宗教史的・文学史的・思想史的)文脈を踏まえた上で、同氏なりの日本「夢信仰」史の構想の上に的確に位置づけることに成功している。

 もっともその「夢信仰」史の構想がどれほど的確なものであるか、なお検討の余地は残るし、もっと重視されてよいのに十分に取り上げられていない資料もある。さらに個別の資料の読み込みや相互の関連づけという点でも、なお諸処に再検討の余地はある。とはいえ、エリアーデらの宗教現象学の伝統に通じる壮大なパノラマ的研究であり、夢信仰の宗教学的研究として多くの新しい貢献をなし得ているし、日本精神史研究の掘り下げの試みとしても十分に水準に達している。

 よって審査委員会は本論文が文学博士の学位を授与するにふさわしいものと判断する。

UTokyo Repositoryリンク