学位論文要旨



No 215119
著者(漢字) 渡辺,裕
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,ヒロシ
標題(和) 西洋音楽演奏論序説 : ベートーヴェンのピアノ・ソナタの演奏史研究
標題(洋)
報告番号 215119
報告番号 乙15119
学位授与日 2001.07.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15119号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,健一
 東京大学 教授 木村,靖二
 東京大学 教授 佐藤,康邦
 東京大学 教授 藤田,一美
 東京大学 助教授 小田部,胤久
内容要旨 要旨を表示する

 西洋の芸術音楽を考える際に、「演奏」というテーマはきわめて重要なものであるにもかかわらず、従来の西洋音楽研究においてはほとんど取り扱われてこなかった。本論文は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタを題材として、その演奏法の歴史的な変化の過程を解明することを通じて、西洋の音楽文化の中で「演奏」という要素がどのような役割を担い、そのあり方がどのような論理とメカニズムによって動かされてきたかということを問おうとするものである。

 その際、このテーマが取り上げられてこなかったことの最大の原因が、従来の研究が、西洋音楽において「演奏」とは何か、「作品」や「楽譜」に対してどのような関係にあるのかといった、演奏というものの捉え方の根本にかかわる表象の部分において大きな誤りを含んでいたのではないかという認識をふまえて、このテーマを研究するための方法や前提自体をあらためて検討し直すことから出発する必要があると考えた。本論の第1部「作品と演奏」ではそのような検討によって、西洋の音楽文化の、従来の表象の中では見落とされていた重要な側面を浮き彫りにし、その成果の上に立って、第2部「テンポ観の変化とメトロノーム記号の伝承」、第3部「十九世紀の演奏法と修辞学的音楽観」ではベートーヴェンのピアノ・ソナタの演奏法に関わる個別的なトピックについて検討している。そのことによって本論は、今後大規模かつ本格的に行われてゆくであろう西洋音楽の演奏研究のための道筋をつけるという意味で序説的な意味合いをもつと同時に、西洋音楽研究全体のこれまでのあり方や前提そのものの見直しを提案するものともなっている。

 第1部第1章では、「音楽作品」概念をめぐる従来の音楽美学での議論を批判的に取り上げ、それが演奏の問題を考える上で有効性をもちえないものとなってしまった理由を検証する。そこから浮かび上がってくるのは、「作品」と「演奏」の関係を、不動のものとしてある「作品そのもの」と、その作品「本体」の上に、いわばピザのトッピングのように乗っている演奏家個人の演奏解釈という二項関係で捉えようとする従来の一般的な考え方には無理があるという事実である。

 第2章では、そのことをよりはっきりさせるために、「作品そのもの」をこうした不動の対象として措定する際にしばしば切り札的に機能してきた「作曲家の最終的な意図」という概念が実は虚構の産物であることを明らかにするとともに、その背景に楽譜という「書かれた」メディアに特権的な位置を与え、自文化をもっぱらそのようなものとして表象することによってその優位性を強調しようとする西洋中心主義的なイデオロギーがひそんでいることを明らかにする。

 第3章では、西洋音楽における「書かれたもの」と「書かれないもの」との関係に焦点を当てた最近の研究を紹介しつつ、音楽の「現場」では機能していたにもかかわらず、楽譜という「書かれた」ものばかりに注目するあまり、西洋音楽をめぐる従来の言説の中ではほとんど無視されてきた、楽譜に書かれない「口頭伝承性」の役割をあらためて評価し直す可能性を考える。

 そして第4章ではそれをふまえた上で、本論の中心的な対象であるベートーヴェンのピアノ・ソナタのケースに関して、こうした考え方を適用することによって何が見えてくるかを具体的に検討し、演奏のあり方やその歴史を動かしてきたのは、このような「書かれない」ものの論理やメカニズムであり、それを視野に入れることによって、「書かれた」楽譜に対してもこれまでにはなかった見方が可能になることを示している。

 第5章ではその象徴的な例として、「実用版」と呼ばれる楽譜の再評価を試みる。最近の「原典版」への志向の強まりの中で、あたかも楽譜の本来のあり方を歪めた「悪者」であるかのような扱いを受けてきたこの種の楽譜であるが、実はそこに校訂者自身の弾き方や解釈が書き込まれているというわれわれの固定観念自体に誤りがあるということを明らかにし、そこに示されているのがそれぞれの時代や文化の共同主観的な作品像であるということ、その歴史的変化を追うことによって浮き彫りになってくる「作品そのもの」のうつろいゆく姿こそが、「作品」のアクチュアルなあり方なのであって、それに対して「原典版」の思想が前提としているような「原典」のあり方は、「書かれたもの」の言説の世界で生み出された一種のフィクションにすぎず、音楽の「現場」における「作品」のあり方とは著しく乖離していることを示す。

 第2部はベートーヴェンの作品の演奏テンポ、それを指示するためにつけられたメトロノーム記号というトピックを取り上げた考察である。第6章ではベートーヴェンの時代のテンポのあり方とメトロノーム記号の意味を検討し、ベートーヴェンのテンポ感覚が、その後の時代のメトロノーム的なテンポ感覚とは全く異なる「前近代」的なテンポ感覚をベースにしていたことを示す。そして第7章では、それがその後のテンポ感覚のパラダイム・チェンジの中でどのように受容されたかを検証するが、同じ曲の標準的な演奏テンポが時代によってほとんど2倍くらいの伸縮を示しており、そのような変化がどのようなプロセスを経て展開し、そこにどのような要因が作用していたのかを具体的に明らかにする。

 この二つの章を通じてみえてくるのは、演奏の歴史の中では、伝承された演奏法に、それぞれの時代の音楽観や感覚が接合され、その再編成の過程の中でそれぞれの時点に応じた形で「作品そのもの」や「ベートーヴェンらしさ」の表象が生み出されるということが繰り返されてきたという事実であり、「作品」のアクチュアリティは「書かれた」虚構としての「原典」にではなく、このうつろいゆく表象の方にこそあるという事実である。

 第3部では、しばしば、「主観的」な解釈を過剰に加えることによって「原典」を歪める元凶となったかのように語られる十九世紀から二十世紀初頭にかけての演奏家たちの演奏を取り上げ、一見放縦で勝手放題に見える彼らの演奏テンポの揺らぎが、実はベートーヴェンの同時代、さらにもっとさかのぼればバロック時代の修辞学的な音楽観やそこでの演奏の考え方に由来しているという一面をもっていることを明らかにすることを通して、こうした勝手な要素の付加による歪みを排することによって「原典」の本来のあり方が回復されたかのような、よくありがちな歴史観の問題点を明らかにする。

 第8章では、ベートーヴェンとほぼ同時代から後世にかけての3つのピアノ奏法理論書を手がかりに、演奏観自体の問題を扱う。音楽を弁論とみて修辞学の枠組みの延長上に音楽理論を展開したバロック時代の考え方が十八世紀末の演奏理論には根強く残っており、演奏行為は弁論術の枠組みで議論されていた。テンポの揺らしの問題がそういう中でどのように位置づけられていたか、その後の奏法理論書の中でこの捉え方がどのように推移していったのかを論じることによって、次章以下での議論のための前提を整える。

 第9章では、テンポの揺らしの典型的な例として「テンポ・ルバート」をとりあげ、その発想がこうした弁論術的な枠組みとどのように関わるかたちで位置づけられていたかを考える。そして、SPレコードに残されている二十世紀前半の録音を実際に検証しながら、そこでしばしば「勝手放題」と認識されるテンポの揺れが、十八世紀以来のこの「テンポ・ルバート」の発想の残滓という一面をもっていることを指摘する。

 第10章では、このようなテンポの揺らしがしばしば生じる箇所であるベートーヴェンの《月光》の第三楽章の一節を例に取り、可能な限り多くの演奏について、この箇所のテンポの「揺れ」のパターンを測定して統計学的な手法を用いて分析し、二十世紀前半のSPレコードに残されている古い演奏家のここでの揺らぎのパターンの中に、この時代のテンポ感覚にそった一つの「秩序」があったことを明らかにするとともに、その「秩序」が後の時代に失われ、「余計」なものと認識されて排除されるようになってゆくプロセスが具体的にどのように進行したのかを検証する。

 さらに終章では、このようなプロセスに関わった演奏家たちが「原典」というものをどのように認識していたかということを明らかにするが、そこからみえてくるのは、ここに見られる動きが、よく言われるような、楽譜に書かれていない「主観的」で放縦な揺らぎを伴う弾き方が正されて、「原典」に即した本来の弾き方が回復されたというような事態などではなく、演奏法の伝承過程の中に「原典主義」が一種のイデオロギーとして外から関与し、それらが接合されることによって新たな弾き方が創出されているような事態であると解すべきであるということである。演奏の伝統は、こうした「異文化」の接合による新しい作品像の創出という事態が繰り返されることによってたえず作られてゆくものなのであって、「原典主義」もまたこうした演奏の伝承過程にあらわれた一こまにすぎず、それを特権的なものと考えてしまうことが演奏に対する見方をゆがめ、学問的な議論から排除してしまう結果になっていた。西洋音楽が「書かれた」楽譜の論理にもとづく特殊な音楽であるという発想を捨て、さまざまな民族音楽やポピュラー音楽に共通する口頭伝承的な伝承過程に着目したとき、われわれの前には演奏の豊かな世界がひらけてくるとともに、その中で「作品」もまた新たな光を放ちはじめるのである。

審査要旨 要旨を表示する

 音楽が小説や絵画などと根本的に異なるのは、作品が鑑賞されるには演奏を必要とするという点にある。この演奏は、一回ごとに消えてゆくものであるがゆえに、論ずることの困難な主題である。渡辺氏の論文は、この問題に対する果敢な挑戦である。一般的通説によれば、「作品」は楽譜によって示されており、演奏は楽譜に忠実でなければならない。従って、所謂十九世紀的なヴィルテュオーゾらの演奏は、恣意的な解釈によって作品のあり方を歪めたものと見なされる。渡辺氏はこの通説への懐疑から出発し、十九世紀の音楽家たちが全く異なる演奏観を持っていたことを立証し、かれらの楽譜と演奏との関係に関する「共同主観的」な理解を解明し、この「演奏観」が歴史的に変化してゆくそのダイナミズムの根源に肉薄している。すなわち、楽譜に書かれるものと、書かれずに「口頭伝承」として作曲家から演奏家へ、そして師匠から弟子へと伝えられたものがあり、この両者が相まって個々の作品の実像をなしていること、そしてこの書かれるものと書かれざるものとの境界線そのものが時代的に変化してゆくこと、その変化は、古くからの伝承が新しい音楽観とぶつかり合い、新しいあり方が徐々に優勢を占めるような、絶えざる変貌の過程としてある、というのが渡辺氏の主張である。その研究は、過去の研究成果を踏まえつつ、次の三点において独自の方法と成果とを示している。

(1)演奏を論じた古い文献(ズルツァーやクヴァンツ、ツェルニーら)を自ら読み解釈を加えて、そこに反映している演奏観を明らかにしたこと、

(2)ベートーヴェンのピアノ・ソナタの楽譜のなかでも、「原典版」と対比され、学問的には注目されてこなかった多くの「実用版」に注目し、それを上記の「口頭伝承」され「共同主観的」に受け入れられていた演奏法の証言として捉え活用したこと、

(3)同じく演奏史の史料として一九〇三年から一九九九年にわたる録音を積極的に取り上げ、客観的な処理法を用いて活用したこと。すなわち、特定の部分を取り上げて、一拍ごと、一小節ごとの時間を計測し、多くの演奏において共有されている特徴を実証的に示した(ここには労作という性格が際立っている)。

 渡辺氏の研究は演奏法のなかでも、特にテンポとリズムの問題に集中しているが、演奏法の変化を捉える切り口として論じられているのは、アラ・ブレーヴェ、テンポ・ルバート、メヌエット、アルペジオ、そしてメトロノームなどである。これらの具体的な検討を通して、渡辺氏は、十九世紀における楽譜と演奏との関係を弁論になぞらえる(音楽を弁論になぞらえるのは、十八世紀から十九世紀へと継承された考え方であった)。楽譜は弁論におけるメモのようなものであり、演奏(弁論におけるactioに相当するVortrag)において臨機応変に改変することを妨げるようなものではなかった、ということである。

 論文の冒頭にある、旧来の作品概念の批判には、やや一面的な理解が見られ、批判の標的とした学説はいささかレトリカルに呈示されているなどの問題点がないわけではない。しかし、上記の主要部分の議論は堅固な実証性に支えられた説得力をもち、特に(2)と(3)は極めて独創的な研究であり、演奏論に関する重要な寄与である。よって、これを博士(文学)の学位に値する研究と判定する。

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