学位論文要旨



No 215120
著者(漢字) 兵藤,裕己
著者(英字)
著者(カナ) ヒョウドウ,ヒロミ
標題(和) 平家物語の歴史と芸能
標題(洋)
報告番号 215120
報告番号 乙15120
学位授与日 2001.07.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15120号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小島,孝之
 東京大学 教授 長島,弘明
 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 教授 五味,文彦
 東京大学 教授 島薗,進
内容要旨 要旨を表示する

 『平家物語』を語る琵琶法師の同業者組織を、当道という。室町時代をつうじて行なわれた語り物「平家」の芸能座だが、徳川家康が征夷大将軍に任じられた慶長八年(一六〇三)、惣検校(当道の最高責任者)伊豆円一は、家康から当道の保護を約束されている。

 人皇百八代後陽成院の御宇、慶長八年癸卯 源家康公、天下御一統に治めさせ給ふ節、時の職役、伊豆惣検校円一、恐悦に罷り出で、先例の通り御礼申し上げ終りぬ。時に東照宮、当道古代の儀御尋ね有らせらるヽに依て、伊豆惣検校円一、古例の趣、一々申し上げしかば、東照宮、聞こし召し為され、当道の格式、古例の通り相守るべき旨、…(中略)…仰せ付け為さる。 (『当道大記録』「東照宮御改正配当之事」)

 近世の当道では、将軍宣下にさいして惣検校は江戸城に出仕し、新将軍の前で「平家」を演奏する慣例があった。また、将軍新喪の法会にも惣検校が出仕して「平家」を演奏する。江戸時代の「平家」は、大衆あいての芸能としてより、徳川将軍家の式楽として存在したのだが、このような当道と将軍家とのかかわりは、じつは前代の足利将軍の時代までさかのぼるのである。

 たとえば、江戸時代に行なわれた毎年正月十四日の惣検校の将軍家参賀は、すでに室町時代に行なわれている。また四月下旬、足利将軍の北野社参籠に惣検校が出仕する慣例があったことも記録から確認できる。徳川家康が将軍となった慶長八年、惣検校伊豆円一が「先例の通り」新将軍に拝謁したとあるのも、当道と将軍家との関わりが前代からの慣例であったことをうかがわせる。

 ところで、「平家」を語る琵琶法師が畿内を中心とした広範な座組織(当道)を形成したのは、南北朝時代である。当道の記録類は、南北朝時代の覚一検校を、当道の「中興開山」と伝えているが、覚一の事績としてたしかなものに、「平家」語りの最初の正本、いわゆる覚一本『平家物語』の作成があげられる。

 覚一本の奥書によれば、応安四年(一三七一)三月、七十歳を過ぎた覚一が、自分の死後に伝承上の「諍論」が起こることを予測し、「後証に備へ」るべく「口筆を以て書写」したのが本書であるという。伝承を確定しておくことが、座組織の維持と不可分の関係にあったのだが、しかし覚一本の伝来に関して注目されるのは、奥書で、歴代の惣検校以外は所持することを禁じられた本書が、覚一の没後しばらくして足利将軍に進上されたことだ。すなわち、摂津国川辺郡(兵庫県尼崎市)大覚寺の所蔵文書に記載された覚一本奥書によれば、定一(覚一の後継者)によって清書された覚一本は、定一の死後、「室町殿」(足利義満)に進上されたという。

 当道の正本(覚一本)はなぜ足利義満に進上されたのか。進上された正本は、すくなくとも八代将軍義政のころまで将軍家に保管されていたことが確認されるが、正本の閉鎖的な伝授が当道の内部支配を権威的に補完していた以上、それが足利義満に進上されたことは、当道の支配権(その権威的な源泉)が足利将軍家にゆだねられたことを意味している。

 げんに応永年間(一三九四〜一三四七)以降、足利義持(四代将軍)、義教(六代将軍)が当道にたいして格別の発言権を行使していたことは、史料から確認できる。「平家」語りの芸能、およびその座組織が足利将軍の管理下に置かれていたわけで、その一つのきっかけが、足利義満への正本の進上にあったことはたしかである。

 ところで、足利政権が成立した南北朝時代は、語り物「平家」が流行のピークをむかえた時代である。それに関連して注意されるのは、この時代の政治史が、『平家物語』に規制されて推移していたことである。たとえば、元弘年間(一三三一〜一三三四)に起こった反北条(北条は桓武平氏を称している)の内乱が、あれほど急速に足利・新田(ともに清和源氏の嫡流家)の傘下に糾合されたこと、また北条(平家)が滅亡したのち、内乱が公家一統政治として落着することなく、ただちに足利・新田の覇権抗争へ展開した事実をみても、武士たちの動向がいかに源平合戦の物語に左右されていたかがうかがえる。

 足利将軍が全国に号令を発することができた根拠は、なによりも当時の武士たちに共有された源平合戦の物語にあったろう。「平家」の物語が、政治史の推移にたいして神話的に作用していたわけで、そのため足利政権は、語り物「平家」の流通・管理のあり方に重大な関心を示したものらしい。

 平家一門の鎮魂の物語は、源氏将軍家の草創・起源を語る神話でもある。それは足利政権にとって、現在に永続する秩序・体制の起源神話でもあったろう。また「平家」が南北朝期に完成した新芸能だったことも、南北朝内乱の覇者、足利義満には格別の意味をもったにちがいない。あたかも古代の天皇神話が語り部によって伝承されたように、源氏政権の神話的起源が当道の語り部集団によって伝承されたのだが、しかしそのような当道と足利将軍の関係は、十五世紀後半の応仁の乱をさかいとして急速に後退したらしい。

 足利将軍の権威を失墜させた応仁の乱は、将軍の権威を背景に確立した当道の内部支配を急速に弱体化させたきっかけでもある。また十五世紀末以降、「平家」は時代の芸能としてのアクチュアルな地位を失っていくのだが、そのような中世末の状況をうけて、「平家」語りを将軍家の芸能として再度位置づけたのが、足利氏にかわって源氏将軍家を継承した徳川家康であった。

 芸能としての「平家」は、現実の政治史と交錯・連動するかたちで推移したのである。たとえば、北条(平家)から足利(源氏)、織田(平家)、徳川(源氏)へいたる武家政権の推移史が、『平家物語』の源平交替史をなぞっていたことはいうまでもない。そのような物語と歴史、あるいは芸能と権力との微妙な交錯状況に注意しながら、本書は『平家物語』の芸能史について考察した。

 第一部では、『平家物語』の覚一本(正本)の伝来について述べ、それと不可分に推移した当道の歴史について考察した。当道と足利将軍の関わりは、源氏将軍家の草創神話としての『平家物語』の一面を浮き彫りにする(それは同時に、『源氏物語』という王朝古典がもちえた神話的な意味をも浮上させる)。また、正本の伝来に関連して、その周辺本文である非正本系の位置、および、非正本系の本文と「平家」演唱との関係を検討することで、非正本系の本文から、いわゆる八坂流(八坂系)の本文が創出される過程について考察した。

 第二部では、当道盲人(琵琶法師)の中世的な実態と、中世末から近世にいたる当道の変容過程について考察した。近世の幕藩体制のもとで、当道は幕府の支配機構の一翼に組み込まれる。だが、中世における盲人芸能者と、かれらをとりまく各種職人、道々の者たちとの(信仰を介とした)横断的な相互交渉は、中世の物語・語り物が生起する基盤をかいま見せるのである。

 第三部では、中世的な「平家」演唱の実態について、可能なかぎり復元的な考察を試みた。その手がかりとして、九州地方に伝わる座頭(盲僧)琵琶の語り物伝承について考察したが、「平家」語りの中世的な実態、および語りと文字テクストとの関係の諸相は、盲人芸能者の口頭的(オーラル)な語りの考察をとおして具体的(復元的)にあきらかにされるのである。

 当道の近世的なあり方から、中世の当道盲人(琵琶法師)を安易に類推することはできないように、近世平曲からただちに中世の「平家」をイメージすることもできないだろう。『平家物語』の研究プロパーでは、従来、近世平曲をもとに中世の「平家」を類推するという方法がとられてきた。そして近世平曲の流儀・芸風を中世にまでさかのぼらせることで、一方系と八坂系といった諸本の分類・系統化案さえ行なわれている。だがそのような憶測にもとづく研究がすすめられるまえに、芸能としての「平家」語りの実態が歴史的にあきらかにされる必要がある。中世の「平家」と近世平曲との距離が測定される必要があり、また中世の当道盲人と近世のそれとのあり方の相違があきらかにされる必要がある。

 『平家物語』が語り物として広汎に流布・浸透したことは、わが国の歴史・社会を考えるうえできわめて重要な問題である。『平家物語』における歴史と芸能の問題について考えることは、日本社会という枠組みをなりたたせた歴史の物語性を問いかえすことでもある。それは『平家物語』という個別の一作品をこえて、物語と歴史との交錯の相を考えるうえでも、ある普遍的な観点を提供するだろう。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は琵琶法師の語る「平曲」としての『平家物語』を芸能史の上に位置付けようとするものである。したがって書かれた文学作品としての『平家物語』を論じようとするものではない。過去に口頭で演じられた「平家」を音声として再現することは不可能である。そこで論者は、歴史的な文書・記録から「平家」に関わる事実関係を明らかにし、それが政治史と交錯・連動しながら推移したことを解明する方法と、九州地方に伝わる座頭(盲僧)琵琶の詳細な調査に基づいて「平家」の演奏実態を可能な限り復元的に考察するという方法を採用している。

 本論文は、「第一部 「平家」語りと歴史」、「第二部 中世神話と芸能民」、「第三部 物語芸能のパフォーマンス」の三部から成る。第一部は四章で構成されるが、「第一章 覚一本の伝来」で、覚一本が当道(座)を、惣検校を頂点とするピラミッド型の内部支配の構造として、確立・維持するための権威的な拠り所として作成・伝授されたこと、したがって、誰もが参照できるような台本ではなかったことを明らかにし、その覚一本が足利義満に献上されたことを尼崎市大覚寺文書により確認する。当道の支配・統括権が足利将軍家に委ねられたと見て、当道が従来の個別的・分散的な座のあり方からより広範かつ自治的な座組織へ脱皮する企てでもあったとする。またこれは、もう一方の当事者たる足利将軍家、すなわち天皇家とも摂関家とも異なる新たな権力の世襲形態を志向した足利義満にとっても、源氏将軍家の神話的起源を語る歴史語りという点で特別の意味を持ったとする。「第二章 屋代本の位置」「第三章 八坂流の発生」では、覚一本を一方流の、屋代本を八坂流系統の語り本と見る従来の解釈に確かな根拠がないことを示して、当道の規範的な語り口を伝える覚一本に対して、中世には普通に行われていた通し語りの叙事的な演唱ヴァージョンを伝えるのが屋代本のテクストであるというという全く新しい見解を示す。「第四章 歴史としての源氏物語」では、源氏の氏長者の推移とその意味を跡付け、源氏長者の家筋が村上源氏中院流から足利将軍家に移行したことと、平家座頭の本所権が中院流から足利将軍家に移ったことが並行することを示し、第一章を補完する。

 第二部は四章からなり、「第一章 当道祖神伝承考」では、近世の当道(座)において、盲人支配の一元化と座の集権的な支配を達成するために、中世の祖神伝承が廃棄されたことに注目し、『妙音講縁起』『小宮太子一代記』等の小宮太子系の座頭伝書を検討、「第二章 中世神話と諸職」では、太子講の解体を検討、「第三章 当道の形成と再編」では、中世から近世にかけての当道の変遷過程を市、時宗との関わりから検討、「第四章 平家物語の芸能神」では、妙音菩薩・弁財天信仰を検討し、それぞれ当道盲人(琵琶法師)の中世的な実態と中世末から近世にいたる当道の変容過程について考察している。

 第三部は三章からなり、「第一章 平家物語の演唱実態へ向けて」「第二章 語りの場と生成する物語」では、近年まで九州地方に伝承された座頭琵琶のフィールドワークによる聞き取り調査を基に、語りと文字テクストとの関係の諸相、盲人芸能者のオーラルな語りの考察を通して、中世的な「平家」演唱の実態に復元的に迫ろうとしている。「第三章 口承文学とは何か」では、語りの問題を理論的に論じつつ、研究史の課題とポスト・モダニズムの今日的状況における文学研究の意味についての問題提起を行っている。

 歴史的事実関係の確定のためには、さらなる資料による裏付けや傍証を必要とする点も残り、現代の座頭琵琶の実態から中世の演唱実態を復元する可能性の検証はさらに深められる必要があろう。しかしながら、第三部の座頭琵琶のフィールドワークの成果のみを取上げても、その伝承者が既に失われた現実を鑑みれば、著者による聞き取り調査の成果はそれ自体としても極めて重要であり、江戸幕藩体制下に変容してしまった近世平曲から中世の「平家物語」の享受の実態を探ろうとして来た、従来の『平家物語』研究の抱え込んだ研究上の困難を克服する新たな方法の提示と、それによって齎された新鮮な立論は、今後の研究に大きな意義を有すると言えよう。

 以上により、本論文は、博士(文学)の学位を授与するのに相応しい論文であると判断する。

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