学位論文要旨



No 215121
著者(漢字) 林,香里
著者(英字) Hayashi,Kaori
著者(カナ) ハヤシ,カオリ
標題(和) 〈マスメディア・ジャーナリズム〉の矛盾と革新
標題(洋) Mass Media Journalism. its innovations for democracy : with case studies on Japan, Germany and the U.S.
報告番号 215121
報告番号 乙15121
学位授与日 2001.07.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(社会情報学)
学位記番号 第15121号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 花田,達朗
 東京大学 教授 濱田,純一
 東京大学 教授 吉見,俊哉
 早稲田大学 教授 林,利隆
 東京大学 教授 内川,芳美
内容要旨 要旨を表示する

 本論では、「ジャーナリズム」と「マスメディア」とが生み出す矛盾と、また「ジャーナリズム」が現代社会に持つ革新的可能性の双方を理論的、実証的に検証していくことを目的とする。そのために「マスメディア」と「ジャーナリズム」という2つの概念の不分明を解きほぐしていくという手続きを踏む。つまりマスメディアとはシステムであり、これまで新聞をはじめとするメディアが歴史的に担い代表してきた。一方、ジャーナリズムとは広く社会に思想やイデオロギーを公開していく意識の活動と見なすべきものである。従って、マスメディアは必ずしもジャーナリズムという意識活動と一致するものではなく、ジャーナリズムも必ずしもマスメディア・システムの上でのみ展開されているとは限らない。情報化時代、多メディア時代において、この二つの言葉は一層のこと峻別され、かつ関係づけられていくべきである。

 さらに筆者は本論において、〈マスメディア・ジャーナリズム〉というカテゴリーを設け、マスメディア・システムにおけるジャーナリズム意識の宿り場という問題を考えていく。すると、「ジャーナリズムの意識とは、むしろマスメディアの周縁の方に宿る」という点が明らかになっていくのではないか。これが本論の中心的テーゼである。

 では、このような問題意識に呼応する具体的事例をどこに発見することができるだろうか。本論では、異なった文化圏から、日本の新聞「家庭面」、『ターゲスツァイトゥング』というドイツのオルターナティヴ新聞、そして米国の「パブリック・ジャーナリズム」運動を取り上げる。それらは、すべてマスメディアの周縁部に存在しながら、現代における革新的、そして核心的ジャーナリズムを推進してきた事例である。と同時に、各事例はマスメディアとジャーナリズムが引き起こす深刻な矛盾とコンフリクトを見事なまでに抱えてるのである。

 本論の主な構成は以下のとおりである。

 第I部において、以上概説した筆者の問題意識およびテーゼを提示した後、第II部においては、現代社会のマスメディアの実態を分析する。その際「大衆化」「産業化」「システム化」という3つの契機を抽出し、それらによって実態が構造化されているありさまを描出していく。ここではとくに、マスメディアというものが、今日直面している実態状況を総合的な観点から書き取り、それを冷徹に分析していくことによって、今後のジャーナリズムに残された可能性を考える基盤とする。

 続く第III部においては、現代ジャーナリズムの思想を理論的に考察する。第II部で分析したようなマスメディアの現実があるにもかかわらず、我々がなおもジャーナリズムという活動を重視し、それに希望を託すならば、その希望を支える思想にはどのようなものがあるか、を理論的に考える。元来ジャーナリズムは、言論・表現の自由を基礎とした自由主義理論によってその存在を社会において主張し、また保護されてきた。しかしながら今日のジャーナリズムは、自由主義理論に拠っているだけでは、社会とのコンフリクトはますます避け難く、ともすればその存在意義が見失われてしまう。そこで筆者は、現代のジャーナリズム活動の意義を再発見することに通じると考えられるいくつかの政治・社会思想や理論を挙げ、それらをジャーナリズム活動の視点から検討する。ここでは今日最も頻繁に検討されている現代政治・社会哲学−たとえばシヴィル・ソサエティ論、公共圏論、ジェンダー論やマルチカルチュラリズムの議論など−を積極的に取り入れ、それを軸に新しいジャーナリズム研究の可能性を探索する。

 第IV部においては、II部、III部における実態の構造的把握と思想の理論的考察を踏まえた上で、3つの事例研究に進む。

 まずは日本の新聞「家庭面」であるが、家庭面と「周縁性」との関係は、第一義的に「女性」というマイノリティとの関わりに見ることができる。このように情報源、テーマ、そして読者すべてに一貫して、ある特定の社会のマイノリティ・グループに絞り込んだ新聞紙面は他に例を見ない。また社内組織において記者たちが「出世コースからはずれた」周縁部に位置しているという意識が、社会の周縁に目をむけさせる動機のひとつとなってきた。記者クラブ制度などによって硬直化した「政治面」に比べて、「家庭面」は女性やマイノリティの視点から〈政治的なるもの〉の概念を再定義して、新聞におけるジャーナリズム意識の活動を押し広げていった。

 それらのことが評価できる一方で、家庭面の記事の多くは、人物描写を中心としており、政治・社会現象を構造的に分析したり、既存の制度問題を切開したり、市民の運動の「政治的目標」や「社会的意義」を体系的に追求していくという点で弱さがある。その意味で、近年フェミニズム運動の拡散が指摘され、同時に「女性」というカテゴリーよりも抽象的な概念操作によって構成された「社会的マイノリティ」がイッシューになるに従って、「家庭面」は新しい意味における周縁部の求心力を失いかけている。近年はまた、新聞社中枢の側が、伸び悩む新聞発行部数を改善しようと、家庭面的「大衆ジャーナリズム」に関心を示している。つまり中心から周縁へのアプローチである。「くらし」面、「社会保障・年金」面、「教育面」などの新しいタイプの「家庭面」が創設されて、中心部からの歩み寄りが始まっている。そのような動きは、家庭面という「周縁部」の存在を無力化してしまうことになりかねない。このような流れの中で、今後、家庭面は組織上の周縁性が温存される一方で、テーマやイッシューだけは中心に吸収されていくのではないか、と危惧される。

 2番目の事例は、ドイツの日刊全国紙『ターゲスツァイトング(taz)』である。tazは、ドイツの左派オルターナティヴ紙として1979年に創刊された。それは1970年代の旧西ドイツにおいて、新聞市場の集中化が進行し、また言論の保守化傾向が強まった時代に、左派オルターナティヴ運動に参加する若者たちが作った日刊新聞である。そのためそれは、マスメディアの中心部とは異なった「オルターナティヴ」な内容や組織が構想され、広告、社内ヒエラルキー、編集部の特権的独立など、既存のマスメディアが築いてきたありとあらゆる慣行を拒否したのだった。しかしそれらの試みは開始後まもなく失敗し、tazは深刻な財政難に陥った。そのためtazは、経営対策を講じるために、そのオルターナティヴな思想の大きな部分を譲歩せざるを得なくなった。また、tazの矛盾する姿は、現代ドイツ社会の「オルターナティヴ」のあり方とも大きく関係する。つまり過去に「オルターナティヴ」として結成された「緑の党」が今日政権担当の与党の地位に就いたことで、時代的に「緑の党」の結成と歴史的出自を同じくするtazは、そうしたドイツ社会全体における〈オルターナティヴなるもの〉の〈中心部〉への移動とともに、自らの位置づけを模索している。現在、あらゆる意味でtazの〈オルターナティヴ性〉は削がれてきていると言える。tazは何らかの手段を講じて財政的に改善されない限りは、再び社会の中でそのユニークなジャーナリズムを十分に発揮することは困難であろう。

 3つめに、米国の「パブリック・ジャーナリズム」運動を事例として取り上げる。米国の〈マスメディア・ジャーナリズム〉は産業の規模としても、またジャーナリズムという活動の影響力からしても、非常に膨大である。またそれは、現代米国社会が抱える様々な病理の、直接的あるいは間接的引き金となっていることがしばしば指摘されてきた。パブリック・ジャーナリズムとは、そうした米国のメインストリーム・ジャーナリズムが生み出すさまざまな問題に直面して、研究者とジャーナリストたちが共同で、今日なぜそのような事態が起こっているのかを分析し、それに代替するジャーナリズムの可能性を模索してきた試みである。

 パブリック・ジャーナリズムは、第一に「コミュニティの善」のために「言論の自由」を手段として行使するという考え方をする。それは米国のメインストリームとなっている「言論の自由」を神聖不可侵の権利と見なす思想に疑義を挟む考え方である。またその中心的担い手は、米国の地方紙という周縁メディアのジャーナリストたちである。こうしてパブリック・ジャーナリズムという運動は、周縁のマスメディアからのジャーナリズムのあり方への提案である、と解釈できよう。この運動の欠陥を挙げるとすれば、その仕掛けは地方紙によってデザインされるために、地理的に限られた空間−多くの場合、その地方紙の販売地域となる−のみを「パブリック」として射程に収めるに留まってしまうことである。ゆえに、パブリック・ジャーナリズムの枠組みでは、グローバル化、情報化といった現代社会が持つ複雑なパラメーターを取り入れた「パブリック」を構想してジャーナリズムの可能性を探求することが難しい。今後、パブリック・ジャーナリズムがもたらした成果を継承していくためには、この運動の核心部にある「自由主義的言論の自由」解釈の修正という思想性を、「地方紙とコミュニティ」という枠を超えていかに発展させていくことができるか、という点にかかっていると考えられる。

 以上、3つの事例を通じて確認できることは、マスメディアというシステムは、現代社会において「アムビバレントな潜在力の根拠」(ハーバーマス)を秘めているということである。そこに革新的ジャーナリズム思想の息吹が吹き込まれたとき、マスメディアはラディカルな民主主義的革命、および社会における〈政治的なるものの再興〉(ムフ)を引導する尖鋭的道具となり得るポテンシャルを持つ。たとえその現象がささやかな革命、ささやかな冒険に留まるとしても、それは民主主義を実現するプロセスとして、見過ごされるべきではない。そして、そのような現象の存在は、現在一国に留まることなく、文化的あるいは社会的背景を超えて例証できるのである。

審査要旨 要旨を表示する

 ジャーナリズムという営為は、日本においてはあまたの評論の対象とはなり得ても、学問的方法意識に裏付けられた研究として提示されることはそれほど多かったとは言えない。本論文はそうした中で、現代におけるジャーナリズムの矛盾と革新をテーマとして、「ジャーナリズム・スタディーズ」の地平を切り開く、画期的な力作である。

 Iにおいて本論文の問題意識と方法が明らかされている。筆者はマスメディアとジャーナリズムの概念的峻別に立ち、その上でマスメディア・システムを舞台として展開されるジャーナリズムに〈マスメディア・ジャーナリズム〉という概念を与え、その「矛盾と革新」の動態を描き出すことを研究の主題とする。そして「マスメディアの周縁にこそジャーナリズムの核心が宿る」との仮説を立て、それを理論的・実証的に検討することを通じて、以下の全体を組み立てている。

 「II マスメディアの発達とジャーナリズムの限界」では、〈マスメディア・ジャーナリズム〉の実態および矛盾を大衆化、産業化、システム化という3つの構造的諸契機の抽出によって分析している。それらの契機に対応する争点として、3つの章で、タブロイド化論争、プレスの社会的責任理論、ルーマン理論によるシステム分析を取り上げている。

 「III ジャーナリズムの新しい可能性を拓く思想潮流」では、ジャーナリズムの新しい可能性に関わる現代民主主義思想について理論的考察を展開している。4つの章により、ハーバーマスの公共圏論、デューイのパブリック思想、コミュニタリアニズム論争、デリバラティヴ・デモクラシー論との間できわめてアクチュアルで周到な議論が行われている。

 「IV マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心−ジャーナリズム再定義の運動」では、それらの理論的装置を援用しつつ、異なった文化圏の事例研究を通じて〈周縁−核心〉仮説を検証していく。3つの章で、日本の新聞「家庭面」、ベルリンで発行されるオルターナティヴ新聞『ターゲスツァイトング』、米国の「パブリック・ジャーナリズム」運動が取り上げられ、それらを歴史的・文化的文脈の中に据え、また現場調査の成果をも踏まえて詳細に研究している。そして、それらの事例に見られる共通性と固有性を鮮やかに記述する。

 そのような3部の中の異なる10章はいずれを取っても単独で十分に完結しており、完成度が高い。その上でそれぞれが全体の中の部分として全体の論理的一貫性によく貢献している。

 以上の構成を取る本論文は、第一に提示された命題の明晰性と現実性において、第二に研究方法意識の自覚的徹底性において、第三に理論分析と実証研究を進める上での論理の精緻さと一貫性において、第四に政治・社会思想など隣接した知の領域に関する理解の深さにおいて、疑いなく傑出した論文である。とは言え、ジャーナリズム概念の歴史的・言説史的分析、〈周縁−核心〉構図の操作の仕方などにおいてなお検討の余地がない訳ではない。しかし、それも本論文の優れた意義を損なうものとは言えず、今後の筆者の研究生活における課題として了解されるべきものであろう。

 以上の検討の結果、審査委員会は、本論文が博士(社会情報学)の学位を授与するに値するものとの結論に達した。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/40215