学位論文要旨



No 215124
著者(漢字) 田中,純
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,ジュン
標題(和) ミース・ファン・デル・ローエの戦場:その時代と建築をめぐって
標題(洋)
報告番号 215124
報告番号 乙15124
学位授与日 2001.07.26
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第15124号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小林,康夫
 東京大学 教授 松浦,寿輝
 東京大学 教授 石光,泰夫
 東京大学 教授 石田,英敬
 早稲田大学 教授 鈴木,了二
内容要旨 要旨を表示する

 本論文ではワイマール・ドイツ、ナチス・ドイツ、そしてアメリカと、それぞれ異なる社会・文化的環境という戦場のもとで展開されたルートヴィッヒ・ミース・ファン・デル・ローエの建築を、政治的・文化的な負荷を帯びたさまざまなシニフィアンが織りなす意味生産のメカニズムのなかで分析した。

 ミース初期の作品である1921〜22年のガラスの高層ビル案では、鉄骨による均質なフレームという構造原理がガラスの透明性によって明示される一方、ガラスの壁面が生む反射光の戯れが重要な効果として発見されている。透明性と反射性というこの矛盾によって、建築は均質なフレームと都市の分身イメージの狭間に幻のように浮かんでは消える。こうした両極端な矛盾する性質の同時的共存状態がこの計画案にファルス的シニフィアンの性格を与え、それを建てられるべき建築物の不完全な表象ではなく、むしろ建築それ自体の不可能性の表象と化している。この設計競技に応募した当時、ミースが改名している事実と合わせ、象徴的委託に対するこのような抵抗を通じてはじめて彼が、ひとりのアヴァンギャルドな建築家として誕生しえた経緯がここに確認できる。

 1920年代前半、ミースはダダイストを中心とした雑誌『G』の編集・発行に関与し、過激なフォルマリズム批判の論陣を張っていた。コンクリートのオフィスビル案をはじめとする計画案は素材に即した唯物論的なアプローチと徹底した即物性への志向を示している。即物性とは事物が「それ以外の何ものでもない」という事態であるが、それは単純な自己同一性を意味しない。その同語反復的な形式の背後には主語の反復以外のあらゆる述語をすべて否定する暴力が潜んでいる。即物性への接近とは事物の表象とその事物の存在とを分離してしまうことであり、素材の即物性は、われわれが表象としては知覚しえない過剰な何かを指している。ミースのダダ的唯物論は非物質的なこの残余の追求に通じていた。こうした即物性を強いる時代の強制力をミースは「時代意志」と呼んだ。

 しかし、この「時代意志」という概念は1926年の講演草稿を最後に用いられなくなる。その代わりに繰り返し語られるのが「バウクンストとは精神的決断の空間的実現である」という定義である。ミースが建築をいったん即物的なテクノロジーへと還元したからこそ、そこには反動的な「精神化」への要請が生じた。カトリック神学者ロマーノ・グァルディーニの思想に親しんだミースは、脱魔術化された世界の「鋼鉄の檻」(マックス・ヴェーバー)から逃れるために「決断」を強調するようになる。これはカール・シュミットやエルンスト・ユンガーに代表される反民主主義的な保守革命思想の鍵となる概念であった。この「決断主義」のパトスに貫かれたミースの建築は、女性身体の形象の扱いを通じて、同世代ドイツ人男性に共通する独特な性幻想の構図を浮かび上がらせている。

 ドイツ時代のミースの代表作バルセロナ・パヴィリオンは、おびただしい垂直・水平方向それぞれの対称性の錯綜を孕んでいる。対称性とは反転可能性である。知覚主体はそこで、天と地、実在と鏡像という、対称をなして向かい合う二世界が反転するシステムのただなかに置かれる。バルセロナ・パヴィリオンでは絶対的対称性のもとにおける現実空間と表象空間との完全な一致が夢見られていた。この両者は、二項対立の両極を共存させる示差的中間項のシニフィアンによってつなぎ合わされ、このシニフィアンと相関した空虚な主体を外部とすることではじめて、ひとつの「全体」を構成していた。

 このパヴィリオンはバルセロナ万国博覧会においてワイマール共和国の政体(政治の身体)を表象することを求められていた。だが、この共和国の政治状況はむしろ、民主主義政体の生成にともなう既存の社会システムの崩壊過程にほかならなかった。民主主義社会はかつて君主に体現された権力のような身体表象をもたない。バルセロナ・パヴィリオンをはじめとするミースの建築が「全体」を構成する論理は、実体的属性によっては規定されない市民という空虚な主体が内的な限界として社会「全体」を閉ざすという民主主義社会の構造と形式的な対応関係にある。ヴァイセンホーフ・ジードルングやベルリン・アレクサンダー広場計画案においてもミースは、民主主義がもたらしたドイツ社会の根源的な亀裂を浮かび上がらせることになった。

 いわゆる相対的安定期のワイマール・ドイツを支配した合理化イデオロギーは、政治を含む社会領域の複雑な諸関係をも合理的・計画的にコントロールする技術的手段への信仰によって支えられていた。それに対してミースは、この中立的な技術という観念を克服する精神的決断を、近代民主主義社会の代表=表象システム内部ではなく、このシステムそのものが成立する時空に追求してゆく。また、ドイツ建築文化における「住文化」の観念が、すでに擬似的なものでしかない私生活圏と公共圏を擬制的に成立させるイデオロギーであったのに対して、トゥーゲントハット邸を代表とするミースの一種の皮膜空間としての住まいは、こうした市民社会的分割の反転可能な不安定性こそを露わにしていた。

 1937〜38年の渡米にいたるまでの数年間、ことにナチが政権を掌握した1933年以降、ミースは作品を実現する機会を失っていった。そのなかで彼の建築思想はプラトン哲学をはじめとする古代ギリシアの世界観に接近している。ミースがナチの国家社会主義に対してとった態度は曖昧なものにとどまるが、国家社会主義と交錯する彼の建築における「政治」はむしろ、古代とのこうした模倣的闘争(アゴーン)の論理の次元にあった。一方、ニューヨーク近代美術館における近代建築国際展は、ミースの建築を「インターナショナル・スタイル」という本来異質な様式概念に組み込むことによって、それをアメリカ合衆国のなかに受け入れる場をあらかじめ作り出していた。

 移住後の1940年代に建造されたイリノイ大学の諸施設において、ミースの建築は柱を外周へと引きつけた箱形の構成への急速な接近を示している。柱は壁体から自由なものであることをやめ、外壁に密着し、さらには構造体を再現表象する擬態に変化してゆく。その建築はひとつの言語的な意味表出構造であり、注視と解読を要求する出隅のディテールによって、単なる箱であることを回避していた。

 アメリカでは、民主主義における権力の空虚な場は、プラグマティックな功利主義と個人主義の産物として与えられた都市のグリッド構造によって隠蔽されている。ミースがそこで試みたのは、巨大化した箱型建築によってこの既存のグリッド構造に圧力を加えて内破させ、それが覆っている空虚な広がりを、無中心的な場として顕在化させることだった。1953〜54年のコンベンションホール案は、大統領選挙というアメリカ民主主義にとって最重要な儀式の光景を巨大なトラス列の圧迫下に配置し、この国のノモスとしての都市グリッドを無化しようとしている。クラウンホールにおける反復的グリッドと中心性という対立する概念の奇妙な共存にも同じ志向が示されている。

 1950年代のミースの高層ビルでは、構造は隠されることによって「見せる」ことを拒否される一方、偽装しつつ自己を抹消する記号としてのI型鋼というディテールによって暗示されている。建築がシニフィアンの示差的体系であるとき、或る細部の存在は、そのありうべき不在を隠蔽するものとしてのみ機能しうる。従って、このように無用な装飾的細部が変形されつつ反復されている事態は、同一物の再生産という実態の偽装と見なしうるのである。高層ビル群に見られる同じモチーフの繰り返しは、ミースの建築が過酷な合理化過程に組み込まれ、単なる技術的形態にすぎないものに化しつつあったことを示唆している。それは1950年代のアメリカ合衆国において「鋼鉄の檻」が最終的な完成に達しつつあった歴史的状況に対応している。「建築とは精神の真の戦場である」という言葉が表わすように、ミースはそこであくまで技術を超克する精神的価値を求め、ディテールの差異が刻む緩慢さを増すリズムによって、時代の展開の「遅さ」を繰り返し説くことを強いられていった。

 シーグラム・ビルにひとつの究極を見るミース晩年の作品には、グリッド構造の反復強迫が認められる。ミースの建築が有する、いわゆる「均質空間」を体現するかのような普遍的な個物という幻想的な性格は、視覚形式としてのグリッド構造そのものの内部分裂に由来する。「精神(ガイスト)」の追求はそこで、グリッドとは対照をなす不定形なオブジェの「幽霊(ガイスト)」を呼び寄せざるをえなかった。これに対し、政治的東西対立の渦中に置かれた最晩年のベルリン新国立ギャラリーは、1930年代の作品以上にナチ国家建築の感覚に近いものとなった。その展示空間はベルリンという都市の混乱した歴史的記憶に脅かされた不安定性を露呈している。

 ミースの死後、その建築は近代建築の退屈さの代表として度重なる激しい批判に晒された。ミースはひとつの時代の終焉へと接近しつつ、その接近を遅延させる身ぶりによって、このような時代画定の欲望を周囲に強く惹起したのだと言える。彼の建築思想は一貫して表象=代表作用をめぐる反省と政治的批評であり、その建築は、近代の政治社会的な体制が共有する、民主主義社会の根源的な亀裂という不可視なものに触れていた。このような意味でミースの建築は近代における「表象」の作用を集約的に「表象」する構造を有していたのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、20世紀最大の建築家のひとりであるミース・ファン・デル・ローエの建築の意味を、単なる建築史学的なアプローチではなく、表象としての「建築」という表象文化論的なアプローチを通じて、時代の重層的な文脈のなかで再定義しようとするものである。本論文は、分析の方法論を提示した序に続いて、ワイマール・ドイツ時代、ナチス・ドイツ時代、そしてアメリカ時代というミースの生涯の歩みに沿った八つの章から構成されている。その限りでは、これは、ミースに関するモノグラフィとしての性格を持つものでもあるが、しかしミースの生涯と建築作品を通年的に解説するものではなく、それぞれの時代において、ミース自身が単なる「建築」とは異なる営為として定義した「バウクンスト」という作品行為が、いかにして「時代」の政治性に対する「戦い」の表現になっていたかを、それぞれの時代のいくつかの特権的な作品ないし作品案の分析ならびにその作品(案)をめぐる種々の言説の分析を通じて読み解くという大胆な構想と緻密な構造をあわせ備えている。

 こうして本論文の最大の特徴は、建築を「像」として読み解く、文字通り表象文化論的と言っていいその方法論にあり、審査会における議論もまずなによりもその次元に集中した。すなわち、ミースにおける「バウクンスト」の即物性の論理や決断主義、さらにはアメリカ時代のグリッドや偽装の構造を、それぞれの時代の政治状況に対峙しつつ、それを脱構築していく純粋に論理的な形式性において把握することの妥当性について、あるいは、そのようなシニフィエを欠いた純粋なシニフィアンの出現のダイナミズムを分析する精神分析的な方法の限界設定について、論文提出者と審査員とのあいだに実りの多い議論が行われたが、それを通じて、本論文が企図した、ミースの建築が、それぞれの時代に特徴的な表象作用そのものを表象する構造を備えていること、また、そうした「表象の表象」という構造が近代の政治社会的な体制が共有する民主主義的なものの根源的な亀裂と相即するものであることがあらためて掘り下げられ、確認された。それは、同時に、建築という、これまでほとんど建築史学的なアプローチによる研究しか許容されてこなかったフィールドに対して、表象文化論的な研究が可能であり、しかもそうした研究が、少なくとも「近代」という時代の政治的文化的な文脈を剔抉するためにきわめて有効であることが確認されたということである。その意味で、本論文は、これまでなかった研究の新しい地平を開いた画期的な業績であると判断される。

 田中純氏は、今回、本論文のほかに参考論文として、「都市表象分析I」も提出したが、そこでは、田中氏はベルリンや東京という都市、あるいはヴァーチャル・アーキテクチャーや都市写真のなどまことに広範で多様な主題を取り扱いながら、しかし本論文と同様に、なによりも「像」という根本的な問題設定から出発して、現代の都市の「無意識」の分析を行っている。すなわち、ミースという個人を通して行われた本論文の歴史的な研究そして参考論文においてその最初の成果が発表された都市空間への同時代的な分析研究という互いに直交する二重の仕事によって、いわば都市と建築の表象文化論を完全に打ち立てたと言うことができる。

 もちろん、審査の過程においては、このきわめて挑発的でもある論文に刺激されて対抗意見が出されなかったわけではない。1929年のバロセロナ・パヴィリオンにおける対称性についての別の解釈の可能性、シーグラムビルにおける彫刻案の精神分析的な「回帰」のもうひとつの読み方、あるいはミース最後の作品である新国立ギャラリーの不安定性の異なる位置づけの可能性、などいくつかの問題点が取り上げられたが、これらは、なんら本論文の瑕疵ではなく、むしろ本論文が開いた解釈の地平の潜在的な豊かさを証言するものであったと言うべきである。

 以上の審査により、本審査委員会は、田中純氏が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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