学位論文要旨



No 215128
著者(漢字) 島内,景二
著者(英字)
著者(カナ) シマウチ,ケイジ
標題(和) 源氏物語の影響史
標題(洋)
報告番号 215128
報告番号 乙15128
学位授与日 2001.09.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15128号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小島,孝之
 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 助教授 藤原,克己
 東京大学 教授 佐藤,信
 東京大学 教授 三角,洋一
内容要旨 要旨を表示する

 11世紀初頭に成立した『源氏物語』ほど、途絶えることなく日本文学史に大きな影響を及ぼし続けた作品はない。12世紀末の『六百番歌合』判詞で「源氏見ざる歌詠みは遺恨のことなり」と藤原俊成によって宣言された和歌文学は当然のこととして、中世・近世の散文も、さらには文語文以外で小説が書かれるようになった近代以降も、『源氏物語』の影響力は続いている。長編を可能にするストーリー作成能力、人間関係の配置図、特徴的な性格を与えられた登場人物、印象的な場面設定、そして含蓄に満ちた言葉(源氏詞)、これらが後世に及ぼした『源氏物語』の影響力の実態であると考えられる。

 本研究は、『源氏物語』に影響されて誕生した各時代の作品の表現を丹念に読み込み、『源氏物語』のどのような側面がどのように受け継がれ、どのように変型されたのかを、つぶさに辿ることを出発点とした。なぜならば先学の著した古典作品の注釈書・校注書にも、『源氏物語』の影響の指摘がいまだ十二分に行われているとは言いがたいように思われたからである。国文学研究の基盤とも言うべき解釈学的観点から、中世・近世に書かれた文章の表層的な意味だけではなく、『源氏物語』なしには生成しえなかった表現の真意を新たに多数発掘することに努めた。その意味で本研究は、何よりも注釈的および解釈的研究として、先学の到達点を一歩でも先へ進めることをめざした。

 「源氏物語の影響」という観点自体は必ずしも真新しいものではないが、本研究によってどのような新しい文学の地平が切り拓かれたかということを、ここで提示しておきたい。まず第一に、従来は見落とされがちだった中世・近世の作品の全体像と主題が、『源氏物語』の影響を媒介することで姿を現し、文学史における独自の位置づけが可能となった。第二に、濃淡はあるものの『源氏物語』に影響を受けた点で共通性を帯びている膨大な中世や近世の作品群を同一の視野に収めることで、日本文学の「連続と変化」が明らかになった。従来、ややもすれば「時代別」「ジャンル別」に構築されがちだった文学史を、「人と人との結びつきを通して人間の本当の幸福を探究する」という『源氏物語』の重要な側面を受け継ぐ文学の系譜という観点から、統一的に構想し直す契機たろうと努めた。第三に、本研究が最終的に意図したものは、影響を受けた後世の作品群から、『源氏物語』そのものの本質を逆照射するという『源氏物語』の生命力の解明であった。『源氏物語』が後の時代の文学者に影響力を行使し続けたと言っても、影響を与えるストーリー・人間関係・人物造型・場面・源氏詞には、偏りがある。この偏差に着目すれば、『源氏物語』の中でも特に生命力を持った部分が特定できる。しかし、従来の「受容史研究」においては、この領域にまで踏み込んだ研究が少なかった。

 以上の三つが、本研究を通底する問題意識である。不断に影響力を行使した『源氏物語』の意義の解明を最終目標とするため、「受容史」という術語ではなく、「影響史」という術語を論文名には採用した。影響を受けた作品の精読を通して浮かび上がる『源氏物語』の磁場が、『源氏物語』研究にも応用できることを明示したかったからである。ただし「影響」という言葉が、先述したような三つの研究目的を併せ持った本研究全体の構想を完全には支えきれていない憾みも残った。それを補う意味で本研究では、「響映」という術語を造語して適宜併用した。『源氏物語』に依拠した後世の文学と、影響を与えた『源氏物語』とを対等の立場で響き合わせ、映じ合わせる、という意味である。

 本研究は、四部十六章の論考から成る。方法論の概略を述べた第I部の第一章・第二章は、従来の「受容史研究」の意義と達成を評価したうえで、和歌文学と擬古物語に限定されがちだった研究対象を、軍記・日記などの散文や尾崎紅葉などの近代小説にも拡大させた。そのうえで、『源氏物語』研究に新たな展開をもたらすために最も必要なのは「影響史研究」であると、提唱した。第三章・第四章では、中世の文学と『源氏物語』を「響映」させれば新たに多くのものが見えてくること、それが『源氏物語』本体の読解をも深めることを、末摘花と空蝉を具体例としながら指摘した。

 第II部は、本研究の「注釈的研究」の中核をなす。中世日記紀行文学である『うたたね』と『都のつと』には、最近の「新日本古典文学大系」に集約されるような先学の注釈的研究の蓄積がある。しかし、作者の創作心理を過不足なく理解するためには、『源氏物語』の表現との照応と齟齬を、作品の本質としてさらに突き詰める必要がある。第一章・第二章で分析した『うたたね』作者が、恋と旅に彩られた自分の現実のあらゆる場面を虚構の『源氏物語』と重ね合わせて初めて「文学者」たりえた事実は、『源氏物語』の影響力を如実に示すものである。第三章で扱った『都のつと』は、『源氏物語』が存在しなければ成立しえなかった『うたたね』とは、やや異なる相が浮かび上がる。『都のつと』には、『古今和歌集』や『源氏物語』の古注釈書の影響が顕著である。『うたたね』が『源氏物語』に没入した人物の『源氏物語』との一体化をめざした主観的作品だとすれば、『都のつと』は王朝文学との客観的距離感を保った研究者的な影響の受け方だった。第四章で考察した15世紀の『耕雲紀行』になると、『源氏物語』の本文書写や『古今和歌集』の注釈活動を行った人物(耕雲)の著した作品であり、まさに古典を血肉化させた文章である。従って、あえて『源氏物語』の影響力を読み取らなくともよいとする立場も可能であるが、場面設定や印象的な表現を根底において支えているのが、作者の『源氏物語』本体と古注釈書への深い沈潜だったことを具体的に指摘した。一見すると散漫な先行古典作品群の綴り合わせの如き作品も、『源氏物語』によって作品創出の原動力を与えられていることが明らかとなる。

 第III部は、中世説話・謡曲・お伽草子などのジャンルの構造と表現に及ぼした『源氏物語』の影響を具体的に測定した。従来の「受容史研究」で空白地帯になりがちだった領域を埋めるものである。第一章では、成立と作者に未解決の問題の多い『無名草子』が、中世の最初期に『源氏物語』を再評価できた理由と意義について考察した。第二章では、『源氏物語』の古注釈書に見られる天竺の「術婆伽」という人物の悲劇的恋愛説話の系譜を文学史的に辿り、「注釈」という研究的な営みが中世の文学作品の創造に直結したダイナミズムを解明した。第三章では、『室町時代物語大成』と『未刊謡曲集』の膨大な文献の中に分け入ることで、『源氏物語』に影響を蒙った中世・近世文学の表現を、『源氏物語』の作中人物や素材や語彙の問題としてどこまで収斂できるか、試みたものである。第四章は、お伽草子の代表作『鉢かづき』のヒロインをめぐる叙述が、紫の上と玉鬘の双方のイメージを帯びている事実を指摘した。第五章では、『俵藤太物語』に見られる「現実と虚構の立体化」が『伊勢物語』の古注釈書の基本構造と一致し、登場人物の恋愛場面にリアリティを与えているのが『源氏物語』であることを考察した。第六章は、お伽草子『雁の草子』の表現に見られる『源氏物語』の影響を逐一指摘した注釈的研究である。

 第IV部は、近世における『源氏物語』の影響を略述した。第一章では、上田秋成の歌文集『藤簍冊子』を取り上げて、先行注釈研究に新知見を付け加え、近世の和歌と散文がいかに深く『源氏物語』の発想と語彙に依拠していたかを具体的に指摘した。第二章では、19世紀初頭に『源氏物語』を題材にして制作された『詠源氏物語和歌』を精読し、『源氏物語』の各巻のどの場面が近世和歌に詠まれたかを正確に突き止めた。わずか二作品のみしか分析できなかったが、今後分析を積み重ねれば、中世から近世への変化の中で『源氏物語』の影響力の実態に変化があったのかどうか、測定できるようになろう。

 以上の四部十六章構成を持つ本研究によって、『源氏物語』の普遍性が浮き彫りになった。ここで言う「普遍性」とは、我が国において文学作品の創作を企図し、生きることの歓びと哀しみとを描く感動的なストーリーを構築し、魅力的な主人公や登場人物を配置し、印象的な場面を設定し、季節感と情感に満ちた表現を紡ぎ出す際に、いつの時代のどのジャンルでも、濃淡はありつつも『源氏物語』が「規範」として意識されてきた、という意味である。しかし、『源氏物語』の普遍性が際立てば際立つほど、逆に中世や近世という時代の特異性や、それぞれのジャンルを担った文学者たちの階層の特殊性も、照らし出される。例えば、本研究では『源氏物語』や『伊勢物語』の古注釈書がフィクションとしての文学の創出に重要な役割を果たしたと指摘したが、古注釈書を著した人々と享受した読者層への歴史学的アプローチも必要であろう。本研究を完成させることで明らかとなった今後の課題の一つである。さらに本研究を通してほの見えてきたのは、これほどまでに強固な規範として君臨した『源氏物語』が、日本文学史に正負両面に作用しているのではないかということである。『源氏物語』の原文を通読した経験のない文学者が台頭し、20世紀文学が『源氏物語』との直接の影響関係を断ち切ったことは、日本文学史に新たな可能性を切り開いたと言えるのか。また、『源氏物語』の伝統と無縁の作品は、「日本文学」としてどのような価値を確保しうるのか。21世紀を目前に控えた現在、千年前に成立した『源氏物語』の影響史を辿る意義は大きい。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、『源氏物語』が和歌・物語・日記・紀行・軍記といったジャンルをこえて、後世のさまざまな文学作品に及ぼした影響を、表現に即して精緻に分析することを通して、『源氏物語』の影響というひとすじの水脈によって貫かれた文学史を構想するものである。それととともに、後世の文学作品がそれぞれに『源氏物語』との間に持った独自な関わり方を「響映」という造語によって解析し、その「響映」のありかたから、ひるがえって『源氏物語』の本質を照らし出すことをも試みた、きわめて意欲的な労作である。

 全体は四部十六章から成る。第I部「影響史研究の方法論」では、『太平記』や室町物語、そして近代の尾崎紅葉の小説などを例に取り上げて、本論文の方法と問題意識を鮮明に提示している。すなわち、島内氏が分析の対象とするのは、『源氏物語』の明示的な引用だけではなく、語彙レヴェルでの一致やシチュエーションの相似性にまで及び、後代の文学作品における創作営為が、『源氏物語』によって規定される一方、またこれと緊張関係を取り結びつつ新たな創造がなされたありようを浮かび上がらせてゆく。また同時に、後代の文学作品における『源氏物語』の解釈を丹念に掘り起こしてゆくことを通して、『源氏物語』という作品が喚起するさまざまな読みの豊かな可能性を開示してゆくのである。

 以下、第II部「中世日記紀行文学への浸潤」では、阿仏尼の日記『うたたね』、宗久の『都のつと』、耕雲の『耕雲紀行』を、第III部「中世から『源氏物語』を読む」では、『無名草子』や室町物語、未刊謡曲集、お伽草子を、第IV部「近世への浸透」では、上田秋成の『藤簍冊子(つづらぶみ)』と、堀田正敦の主催で文化11年(1814)に大名・幕臣・文人たちが詠作した『詠源氏物語和歌』とを対象にして、上記の方法による具体的な分析を試みている。

 膨大な作品群の分析の中には、部分的に『源氏物語』との類似の指摘や、後代の個々の作品それ自体の文脈に即した読みの追求において、過不足を感じる場合もなしとしない。書名を「影響史」より、「響映史」とした方が内容により相応しいのではないかという点も指摘できる。しかしながら、「響映史」という用語を用いることで方法を鮮明に打ち出し、従来の『源氏物語』受容史研究とは一線を画す新たな文学史の叙述に成功しており、これまでほとんど顧みられることのなかった中世紀行文や室町物語、お伽草子、未刊謡曲集等の膨大な作品群を精査し、中世における『源氏物語』の解釈や受容のあり方を生き生きと浮かび上がらせた功績は高く評価できる。

 よって審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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