学位論文要旨



No 215169
著者(漢字) 李,悦欣
著者(英字)
著者(カナ) リ,エツキン
標題(和) 前庭代償過程中のラット前庭一下オリーブ核経路におけるBDNF mRNA発現誘導の定量解析
標題(洋) QUANTITATIVE EVALUATION OF BDNF mRNA EXPRESSION LEVELS IN RAT VESTIBULO-OLIVARY SYSTEM DURING VESTIBULAR COMPENSATION
報告番号 215169
報告番号 乙15169
学位授与日 2001.10.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第15169号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,憲作
 東京大学 助教授 横溝,岳彦
 東京大学 講師 小山,文隆
 東京大学 講師 山口,正洋
 東京大学 講師 辻本,哲宏
内容要旨 要旨を表示する

 緒言

 片側前庭器官が破壊されると、前庭からの左右の入力のバランスがくずれ、平衡失調が起こる。破壊直後にはさまざまな姿勢.運動異常が引き起こされるがこれらの異常は時間とともに次第に消失して行く。この回復過程は前庭代償と呼ばれ、損傷誘導型の可塑性のモデルの一つとして広く研究されてきた。今まで、電気生理や神経化学の研究では前庭代償にはいくつかの脳幹領野、例えば内側前庭核や下オリーブ核等、が関係していることが示唆されている。前庭代償にはこれらの領域が協同して関与し、片側前庭破壊による前庭入力の欠損を補うように神経回路が変化すると考えられるが、その分子メカニズムは現在のところ明らかではない。脳由来神経栄養因子BDNFは神経突起伸長やシナプス伝達効率を制御する因子として知られている。そこで、私はBDNFが前庭代償過程中において神経回路の変化に関与しており、前庭代償に関わる領域においてBDNF mRNAの発現は一過的に誘導されているとの作業仮説をたてた。この仮説を検証するため、本研究で私は前庭代償の初期過程におけるラット脳幹でのBDNF mRNAの発現誘導を定量解析した。

 方法と結果

 本研究では二つの方法を用いて前庭代償に伴うBDNF遺伝子の発現様式の変化を検討した。最初にラット脳幹の内側前庭核や下オリーブ核などにおけるBDNF mRNAの発現レベルを定量的RT-PCR法によって解析した。次に最も顕著に発現レベルが上昇した下オリーブ核における発現誘導パターンをさらに詳細に調べるため、定量的in situ hybridization法により下オリーブ核の亜領域毎に定量解析した。

(1) 定量的RT-PCR法によるBDNF mRNA発現レベルの定量解析

 本実験においては7週齢のラットを実験群・対照群を合わせ133匹用いた。全身短時間麻酔剤プロポフォール(0.4mg/kg/min)の尾静脈注射による麻酔下で、片側の内耳を外科的に破壊した。全ての内耳破壊動物には特徴的な姿勢・運動異常(破壊側への体の回転、頭部の傾き及び自発眼振など)が現れた。内耳破壊後のラット7匹を用いて前庭代償の指標となる自発眼振を術後4、8、24、48、72時間後に測定したところ、自発眼振の頻度は術後4時間では37±1.5回/15秒(n=7、MEAN±SEM)であったが、その後指数関数的に減衰し、約72時間でほぼ消失した。手術によって選択的に内耳の前庭感覚器が破壊されたことは、ラット側頭骨の組織切片にて確認した。

 定量実験においては、内耳破壊後3、6、24、72時間にてラットの脳(それぞれn=18)を取り出した。麻酔や手術損傷の影響をコントロールするため、36匹のラットを用いて模擬手術を実施し、同様に脳を3、6時間後に取り出した。また未手術のラット(n=18)からも同様に脳を取り出しnaiveコントロールとした。それぞれの取り出した脳を150μm厚のスライスにし、破壊側および破壊反対側の内側前庭核、舌下神経前位核、下オリーブ核内側部を別々に切り分け、組織を集めた。また、舌下神経核も同様に集め対照サンプルとした。個体間のばらつきを平均化するため、それぞれの領野に関して6匹分の組織を集め一つのサンプルとした。用意したサンプルからグアニジウム・酸性フェノール法を用いてtotal RNAを抽出し、得られたRNAサンプルを定量的RT-PCR法である共増幅法により解析した。mRNA発現量変化の有意性は、分散分析(ANOVA)により検定し、有意な主効果・交差作用があった場合にはさらに多重検定による統計解析を行った。

 その結果、内側前庭核においてBDNF mRNAが破壊側特異的に誘導されたことが判明した。この領域では術後3時間にはBDNF mRNAの誘導が見られなかったが、6時間には上昇し始め(p<0.01,Duncan's multiple comparison)、24時間にピークに達し(p<0.01)、72時間に通常レベルに戻っていた。それに対し、舌下神経前位核の破壊反対側ではBDNF mRNAレベルは3時間後に上昇し(p<0.05)、6時間後にピークに達し(p<0.01)、72時間後に回復した。下オリーブ核の破壊反対側においては、誘導は舌下神経前位核と同じ時間経過を示したが、もっとも顕著な誘導が認められた。BDNFの発現と比較するため、c-fos遺伝子の発現も調べた。その結果、内側前庭核においてはc-fos mRNAは両側性に誘導されていた。c-fosの発現量は舌下神経前位核においても両側性に上昇していたが破壊反対側ではより高い発現誘導が認められた。一方、下オリーブ核においては、破壊反対側にのみ顕著な発現誘導が認められた。これら全ての領域では内耳破壊3時間後にc-fos mRNAの発現レベルがピークに達し、また24時間後には通常レベルまで戻っており、BDNFと比してより早い時間経過を示した。対照サンプルとした舌下神経核では、BDNFとc-fos遺伝子はいずれも発現誘導は見られなかった。また、模擬手術の術後3時間、6時間においてもBDNF、c-fos mRNAの誘導は認められなかった。さらに私はBDNFの高親和性受容体TrkB mRNAの変化も調べた。しかし調べた領域においては破壊側および破壊反対側ともに内耳破壊によるtrkB mRNAの発現誘導はみられなかった。

 以上の結果から、BDNF遺伝子は前庭代償に関わっている脳幹領域に特異的な誘導様式を示し、その経時変化は前庭代償の指標となった自発眼振の回復に一致することが示唆された。

(2) in situ hybridization法によるBDNF mRNA発現レベルの定量解析

 定量的RT-PCR法により顕著な発現誘導が見られた下オリーブ核はいくつかの亜領域から成る。BDNFの発現誘導が一体どの亜領域に起こったのかを調べるため、in situ hybridizationを行った。実験対象として、内耳破壊ラット10匹を用いた。今回私はrostrocaudal方向に沿って連続切片(10μm)を用意し、35S−ラベルしたcRNAプローブによりハイブリダイゼションした。特異的にハイブリダイズしたシグナルを高解像度イメージング解析装置BAS5000(pixel size:25×25 μm2)を用いて定量した。各亜領域の境界はニッスル染色した隣接切片を用いて決定し、これをハイブリダイゼションした切片に対応させることにより亜領域毎のBDNFの発現レベルを定量し、PCRと同様にANOVAで解析した。

 その結果、BDNF mRNAは内耳破壊6時間後において亜領域毎に異なる発現誘導パターンを示すことがわかった。まず、dorsal capとventrolateral outgrowthにおいては、発現量は破壊反対側で未手術動物と比べ有意(共にp<0.001,ANOVA with post hoc t-test)に上昇したのに対し、破壊側では低下した(p<0.05)。一方、beta nucleusやmedial accessory oliveにおいては、反対側のみ有意に上昇した(p<0.001)。また、dorsomedial cell columnでは発現量は両側で有意に上昇した(p<0.01)。このような発現誘導は内耳破壊72時間後に通常レベルに戻った。最後に、dorsal accessory olive、principal oliveまたはrostral medial accessory oliveではBDNF mRNA発現レベルの変化は認められなかった。模擬手術後6時間の動物はいずれの亜領域にもBDNFの発現誘導は認められなかった。

 以上の結果より、片側内耳破壊後のBDNF mRNAは、下オリーブ核の一部、特に内側部の亜領域に特異的に誘導されることが示された。

 考察とまとめ

 本研究では二つの異なる方法により、前庭代償に伴い中枢前庭系において、BDNF mRNA発現誘導が時空特異的に起こることが示された。

 まず、定量的RT-PCR法によりBDNF mRNAの動的誘導が示された。このBDNF mRNA発現誘導の経時変化は前庭代償の初期過程に現れる自発眼振の回復過程とよく一致していることからBDNFが前庭代償過程中のシナプスの機能調節や神経回路再編成に働いている可能性が示唆された。さらに、in situ hybridization法を用いた定量解析により、いくつかの下オリーブ核の亜領域が内耳破壊による特徴的なBDNF mRNAの発現誘導を示すことがわかった。これらの下オリーブ核の亜領域からは、主に小脳のflocculus、nodulusまたはuvulaへ登上繊維を投射している。また、これらの小脳の領域は内側前庭核へ出力を送っている。さらに、下オリーブ核の内側部(主にdorsal capとbeta nucleus)は内側前庭核や舌下神経前位核からの入力を受けることが知られている。したがって、今回BDNF mRNAの特異的な発現の見られた下オリーブ核の亜領域は下オリーブ核亜領域の中でも特に前庭経路に関わりが深い領域である。以上により、BDNFは前庭−下オリーブ核−小脳経路において、前庭代償初期過程の神経回路再編成に関与している可能性が示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は損傷誘導型の可塑性のモデルである片側内耳破壊後の前庭代償の分子機構を解明するため、二つ異なる方法を用いて前庭代償に伴う脳由来神経栄養因子BDNF遺伝子の発現様式の変化の検討を試みたものである。筆者はまずラット脳幹の内側前庭核や下オリーブ核などにおけるBDNF mRNAの発現レベルを定量的RT-PCR法によって解析し、次に定量的in situ hybridization法により下オリーブ核におけるBDNF mRNAの発現誘導を詳細に解析したところ、下記の結果を得ている。

1、 定量的RT-PCR法により、前庭代償に伴いBDNF mRNAが内側前庭核において前庭破壊6時間後に破壊側のみに発現誘導されることが見いだされた。また、舌下神経前位核および下オリーブ核内側部においては前庭破壊から3時間後、破壊反対側にBDNF mRNAの発現誘導がみられた。これらの領域におけるBDNFの発現レベルの上昇は、少なくとも破壊後24時間継続し、72時間後では通常の発現レベルに戻っていた。

2、 前庭代償の指標として、片側内耳破壊の自発眼振の回復過程を調べたところ、自発眼振頻度は約72時間かけて徐々に消失することが確認され、BDNF遺伝子の発現誘導の経時変化と相関がみられた。

3、 BDNFの発現との比較するため、片側内耳破壊後のc-fos遺伝子の発現様式も調べた。その結果、内側前庭核においてはc-fos mRNAは両側性に誘導されていた。c-fosの発現量は舌下神経前位核においても両側性に上昇していたが破壊反対側ではより高い発現誘導が認められた。一方、下オリーブ核においては、破壊反対側にのみ顕著な発現誘導が認められた。これら全ての領域では内耳破壊3時間後にc-fos mRNAの発現レベルがピークに達し、また24時間後には通常レベルまで戻っており、BDNFと比してより早い時間経過を示した。

4、 一方、BDNFの高親和性受容体であるtrkB mRNAは内側前庭核、舌下神経前位核、下オリーブ核のいずれにおいても破壊側および破壊反対側ともに内耳破壊による発現誘導がみられなかった。

5、 手術によるストレスおよび麻酔による遺伝子発現への影響の対照として、模擬手術を施したラットにおいてもBDNFやc-fosのmRNAの発現レベル変化を調べた。その結果、これらの動物では術後3時間、6時間にいずれにおいてもBDNFとc-fos mRNAの発現誘導は認められなかった。

6、 定量的RT-PCR法によりもっとも顕著な発現誘導が見られた下オリーブ核におけるBDNFの発現誘導を定量的in situ hybridization法を用いて亜領域ごとに解析したところ、BDNF mRNAは亜領域毎に異なる発現誘導パターンを示すことがわかった。まず、dorsal capとventrolateral outgrowthにおいては、発現量は破壊反対側で未手術動物と比べ有意に上昇したのに対し、破壊側では低下した。一方、beta nucleusやmedial accessory oliveにおいては、反対側のみ有意に上昇した。また、dorsomedial cell columnでは発現量は両側で有意に上昇した。このような発現誘導は内耳破壊72時間後に通常レベルに戻った。最後に、dorsal accessory olive、principal oliveまたはrostral medial accessory oliveではBDNF mRNA発現レベルの変化は認められなかった。模擬手術後6時間の動物はいずれの亜領域にもBDNFの発現誘導は認められなかった。

以上、本論文は定量的RT-PCR法や定量的in situ hybridization法を用いて前庭代償に伴う遺伝子の発現を検討することによりBDNFが前庭代償初期過程において特定の脳幹領域において誘導されることが明らかにされた。本研究は、これまで不明であった前庭代償過程中の神経回路再編成の分子機構の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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