学位論文要旨



No 215179
著者(漢字) 福澤,薫
著者(英字)
著者(カナ) フクザワ,カオリ
標題(和) 星間分子雲及び大気中における気相反応の理論的研究
標題(洋) A Theoretical Study of Gas-Phase Reactions in Interstellar Clouds and Atmosphere
報告番号 215179
報告番号 乙15179
学位授与日 2001.10.18
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第15179号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平尾,公彦
 東京大学 教授 北森,武彦
 東京大学 教授 越光,男
 東京大学 教授 山下,晃一
 東京大学 助教授 中野,晴之
内容要旨 要旨を表示する

序論

 化学反応の量子化学的理解として、中間体や遷移状態を含む反応のポテンシャルエネルギー曲面を正確に捉えることは理論化学計算の最も重要な課題の一つである。目的の化学反応のポテンシャルエネルギー曲面を正確に計算する手法が確立されれば、我々が利用する化学反応の理解や予測、また反応条件の設定など化学の多くの分野で計り知れない利益を与えるはずである。より正確でかつ現実的な方法の確立は常に実験事実との対応によって展開される必要がある。しかし現実に地球上で起こる溶液反応などでは、当該分子は近接分子との複雑な多体相互作用の影響下にある。これらの複雑系を量子化学的に理解するためにこれまで様々な試みがなされているが、現在のところ理論計算の検証のための実験データにはより単純な系が適している。

 近年の電波天文学の発展に伴い、大型電波望遠鏡を用いて主にマイクロ波領域の分子のスペクトル線を検出することによって、宇宙に漂う星間分子雲中に110種を越える分子種が発見されている。これらには簡単なアルコール、エーテル、アルデヒドなどから、より複雑なエステルやアミンなどが含まれる。地球上では寿命の短いHCO+などの分子イオンやOHなどのラジカル分子も多く、さらに興味深いのはH−C≡C−C≡C−C≡C−CNのようなシアノポリイン化合物に代表される不飽和炭素鎖分子種の存在である。また、星間分子雲中の化学反応の大きな特徴は、極低温・極低密度条件下で起こるため、吸熱反応や活性化エネルギーの必要な反応は殆ど進まない孤立系の分子反応である点である。この条件を考慮すると星間化学は現在の理論計算による化学反応解析を最も有効に遂行できる系の一つであり、計算手法の開発と結果の検証のための最も適した場である。

 本論文では、まず第1部において、星間分子として特徴的なシアノポリインHC2n+1N(n=1−5)に注目し、その中で特に重要なHC3Nとその準安定異性体種の生成経路を取り上げる。現在までの研究では生成反応の速度定数や反応の可否など類推に頼った計算が成されており、その結果、例えば星間空間に存在するHC3N異性体種に対して観測される存在比は十分説明できていない。本論文では非経験的分子軌道法を用いて、提案されている反応モデルの可否を理論的に検討し、次いで新しい反応の導入を試みる。

 本論文の第2部では高層大気中における化学反応を検討する。地球の高層大気化学においては、酸素イオン(O+)の関与する反応が重要である。例えば約300kmの上空では大気の約70%が酸素原子によって占められており、紫外線などによりイオン化されたO+が多く存在する。最近、大気上層部の環境を想定した希薄ガス中におけるイオン−分子衝突の実験的研究が行われている。例えば、宇宙船排気ガスの一つであるアセチレン(C2H2)と酸素イオンの反応では衝突エネルギー1〜410kcal/molの範囲でC2H2+,CH+及びHCO+/HOC+など様々なイオンが生成し、それぞれの生成反応における熱化学定数が決定されている。通常これらのイオン−分子反応は活性化エネルギーを持たず、実験的解析から反応機構を推測することが出来るが、この反応は全ての生成物に対して高いエネルギーを必要とし、機構はよくわからない。宇宙船の速度による衝突エネルギーを使用してエネルギー供給を必要とする反応も進行すると思われるが、孤立系反応であることに変わりはない。従って、やはり量子化学計算の検証に適した場の一つであり、さらに実験事実と比較できる点でより詳しい議論が可能である。そこで、酸素イオンとアセチレンの反応機構を理論的に検討することにした。

第1部 星間化学反応

第1章 HCCCNH+及びHCCNCH+を生成するイオン−分子反応

 星間分子雲中においてはエネルギー供給源が殆どないため、分子種が静電的に引き合うイオン−分子反応が主要な化学反応であると考えられてきた。イオン−分子反応説によると、星間分子雲中に特徴的に存在するシアノアセチレンHCCCNは前駆体イオンHCCCNH+から生成する。従来、これは主としてcyclic-C3H3+と窒素原子との反応によって生成するものと考えられてきた。この反応を量子化学的手法により検討した結果、スピン禁制反応である上に、反応物間の接近に対して反発的なポテンシャル面を持つため、反応は進行しないことがわかった。そこで、さらに幾くつかのHCCCNH+生成反応を検討した結果C2H2+とHNCとの反応が唯一可能であることを見い出した。また、異性体イオンHCCNCH+を生成する反応は見い出されなかった。

第2章 解離性再結合反応HCCCNH++e-

 星間空間に存在するHCCCNH+と電子との解離性再結合反応は、イオン−分子反応モデルにおいてはHCCCN生成の最終過程とされる主要な反応である。この再結合反応からHCCCNとその準安定異性体HNCCC,HCCNC,HCNCCを生成する反応経路を検討した。その結果、全ての構造異性体が生成可能であることがわかった。特に、既に観測されているHNCCC及びHCCNCに加えて未同定種HCNCCも生成可能であることが初めて示された。

第3章 シアノアセチレンとその異性体生成に関する中性分子反応

 最近の極低温におけるラジカル−分子反応の速度定数に関する実験から、ラジカル種を含む中性分子反応が星間空間でも可能であることが示唆されている。そこで、HCCCNとその異性体の中性分子反応による生成の可能性を検討することにした。アセチレンとCNラジカル、HCNもしくはHNCとC2HラジカルからHCCCNを生成する反応を検討した結果、中性分子反応C2H2+CN及びC2H+HNCが可能であることが明らかになった。

 それに対して、準安定な異性体はここで扱った中性分子反応からは生成されないことがわかった。

第4章 中性分子反応によるシアノポリイン及びポリアセチレンの炭素鎖成長

 類似の中性分子反応によってCNラジカルとポリアセチレンHC2nHから炭素数の1個増えたシアノポリインHC2n+1N(n=1−4)を生成する一連の反応が可能であることが結論づけられた。さらに、反応物よりも炭素数の短い様々な生成物の反応熱を調べたところ、全て吸熱となり、炭素鎖の短くなる反応は起こらないことがわかった。ポリアセチレンに対しても同様の結果が得られた。

第5章 星間化学反応のまとめ

 以上の結果から、星間空間で観測されるHC3N異性体種の存在比の定性的な理解が可能である。イオン−分子反応モデルの検証においては前駆体イオンHCCCNH+の支配的な生成経路は見い出されなかったが、続いて起こるHCCCNH+と電子との解離性再結合反応によって全ての異性体種が生成されることがわかった。一方、中性分子反応によればHCCCNが直接的に生成可能であることがわかった。従って、観測される多量のHCCCNは定説に反して主に中性分子反応によって生成されると結論づけられる。観測される少量の準安定異性体は中性分子反応により生成されたHCCCNがプロトン化してできる前駆体イオンHCCCNH+から生じたものと推定できる。

 さらに、アセチレンやC2Hラジカルを媒介にした同様な中性分子反応によってシアノポリイン及びポリアセチレンの炭素鎖は2個ずつ伸びていくことがわかった。これは観測事実と一致している。このように、中性分子反応は星間分子雲内の"複雑な"分子生成に極めて重要な反応であることが確認された。

第2部 大気化学反応

イオン−分子反応O++C2H2

 最近のイオン衝突実験により酸素イオンとアセチレンの反応における生成物と反応のエネルギーしきい値が明かにされたが詳しい反応機構は未だわかっていない。この反応は高層大気に関する環境問題からも興味深い。考えうる反応の影響をあらかじめ予測できるのは、理論計算の最も優れた利点の一つである。

 まず反応初期段階である電荷移動反応と反応中間体形成過程の機構解明を試みた。その結果、幾つかの非断熱遷移を経て、励起状態を含む3種の電荷移動生成物を生成する反応機構と、その他の化学反応生成物の前駆体として重要な反応中間体の生成機構が明らかになった。すなわち、電荷移動反応には高低2つのエネルギー機構があり、後者の生成物はごく少量であるという実験事実、また電荷移動反応および反応中間体形成は共通の機構を経るという実験的予測を裏付ける結果が得られた。

結論

 本論文では、星間分子雲内で重要な幾つかの反応及び高層大気中において環境への影響が懸念される幾つかの化学反応の機構を非経験的分子軌道法を用いて理論的に検討した。

 第1部では星間分子生成反応に関する議論を行った。これまで起こらないとされていた中性分子反応が星間空間で容易に起こること、また、中性分子反応を考慮して初めて主要な分子種シアノアセチレンとその異性体種の存在比を説明付けられる事を数値的に証明した。さらに、類似の中性分子反応によって星間空間で特徴的な炭素鎖分子が成長する反応のみが起こることを明らかにした。これらによって星間化学反応の研究に新たな知見を加えることができた。

 第2部では、大気化学反応として酸素イオンとアセチレンとの反応を取り上げ、実験では不透明であった複雑な反応機構を分子軌道計算によって明瞭に理解することができた。実験と理論との相補的研究が大気化学反応の詳細な理解に極めて有用であることを示した。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、星間分子雲内で重要な反応および高層大気中において環境への影響が懸念される幾つかの化学反応の機構を非経験的分子軌道法を用いて理論的に研究したものである。本論文は2部から構成されている。第1部は星間分子として特徴的なシアノポリインHC2n+1N(n=1−5)に関する研究をまとめたものであり、第2部は高層大気中における化学反応、酸素イオンとアセチレンの反応機構を理論的に研究したものである。

 第1部は星間分子生成反応に関する理論研究であり、全5章で構成されている。近年の電波天文学の発展に伴い、大型電波望遠鏡を用いて主にマイクロ波領域の分子のスペクトル線を検出することによって、宇宙に漂う星間分子雲中に110種を越える分子種が発見されている。星間分子雲中の化学反応の大きな特徴は、極低温・極低密度条件下で起こり、吸熱反応や活性化エネルギーの必要な反応はほとんど進まない孤立系の分子反応である。このため従来は分子種が静電的に引き合うイオン−分子反応が主要な化学反応であると考えられてきた。本論文では、星間分子として特徴的なシアノポリインHC2n+1N(n=1−5)、特にシアノアセチレンHC3Nとその準安定異性体種の生成経路を取り上げて、その生成機構を理論的に考察している。シアノアセチレンは前駆体イオンHC3NH+から生成する。これまでの研究では星間空間に存在するHC3N異性体種に対して観測される存在比を説明できていない。本論文では非経験的分子軌道法を用いて、さまざまな反応モデルの可否を理論計算から詳細に検討し、星間空間で観測されるHC3N異性体種の存在比の定性的な理解が可能であること、イオン−分子反応モデルの検証においては前駆体イオンHCCCNH+の支配的な生成経路は見い出されなかったものの、続いて起こるHCCCNH+と電子との解離性再結合反応によって全ての異性体種が生成されること、中性分子反応によってHCCCNが直接的に生成可能であることを明らかにした。これまでは起こらないとされていた中性分子反応が星間空間で容易に起こること、また、中性分子反応を考慮して初めて主要な分子種シアノアセチレンとその異性体種の存在比を説明付けられることを数値的に実証した。さらに、類似の中性分子反応によって星間空間で特徴的な炭素鎖分子が2個ずつ成長する反応のみが起こることをはじめて明らかにした。これらの成果は星間空間における分子進化の過程を理解する上で重要な寄与をなすものである。

 第2部では高層大気中における化学反応の理論研究が述べられており、全2章から構成されている。地球の高層大気化学においては、酸素イオン(O+)の関与する反応が重要である。例えば約300kmの上空では大気の約70%が酸素原子によって占められており、紫外線などによりイオン化されたO+が多く存在する。最近、大気上層部の環境を想定した希薄ガス中におけるイオン−分子衝突の実験的研究が可能となってきた。宇宙船排気ガスの一つであるアセチレン(C2H2)と酸素イオンの反応では衝突エネルギー1〜410kcal/molの範囲でC2H2+,CH+及びHCO+/HOC+など様々なイオンが生成することがわかっているものの、その反応機構はよくわかっていない。本論文では酸素イオンとアセチレンの詳細な反応機構を理論的に検討している。その結果、幾つかの非断熱遷移を経て、励起状態を含む3種の電荷移動生成物を生成する反応機構と、その他の化学反応生成物の前駆体として重要な反応中間体の生成機構を明らかにしている。すなわち、電荷移動反応には高低2つのエネルギー機構があり、後者の生成物はごく少量であるという実験事実、また電荷移動反応および反応中間体形成は共通の機構を経るという実験的予測を裏付ける結果を得ている。実験と理論との相補的研究が大気化学反応の理解に極めて有用であることを示したものとして注目される。

 以上のように本論文では、星間分子雲内で重要な反応及び高層大気中において環境への影響が懸念される幾つかの化学反応の機構を非経験的分子軌道法を用いて理論的に検討したもので、星間化学反応、大気化学反応の研究に新たな知見を加えたことは高く評価される。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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