学位論文要旨



No 215182
著者(漢字) 鶴岡,賀雄
著者(英字)
著者(カナ) ツルオカ,ヨシオ
標題(和) 十字架のヨハネ研究
標題(洋)
報告番号 215182
報告番号 乙15182
学位授与日 2001.11.05
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15182号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 金井,新二
 東京大学 教授 島薗,進
 東京大学 助教授 市川,裕
 東京大学 教授 宮本,久雄
 早稲田大学 教授 田島,照久
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、十六世紀スペインの神秘家十字架のヨハネ(Juan de la Cruz, 1542-91)の神秘思想というべきものについて、彼の全著作を展望した一つの解釈を提出するものである。序論に相当する第I部、本論をなす第II部「道程」、第III部「合一」からなる。

 第I部では、本論での論述を展開するための資料的前提として、彼の生きた対抗宗教改革期スペインの精神史的状況と生涯に関する伝記的事実(第一章「生涯と時代」)、作品に関する文献学的研究状況(第二章「作品」)、および彼の思想形成を巡るさまざまな可能的影響源(第三章「思想の源泉」)に関して、それぞれ必要最小限の叙述をおこなう。続いて第四章「方法と視点」では、本書が採る方法論的態度として、(i)テクストへの注目、(ii)現代からの読解、(iii)形式への着目、の三点を指摘する。(i)は、言詮不及の神秘体験を神秘思想の中核に想定し、その体験に迫ることを目的とするような研究が陥りかねない袋小路を避けるための態度である。神秘体験なるものは、定義上、研究者が追体験できるものではないから、神秘思想研究とは神秘家とされる人々が遺したテクストを読解する以外のことではありえない。これは、二十世紀後半の、人文諸学研究におけるいわゆる言語論的展開を受けた研究態度でもある。(ii)は、その読解ということを、現在の研究者による過去の他者との関わりと捉える思想史理解に基づいている。思想史研究とは、過去と現在の間に流れた歴史の時間を、除去すべき障碍ではなくして、むしろ過去の他者を理解するために不可欠の構成的契機と見る解釈学だと考えるからである。しかるに、神秘家のテクストが最終的に語らんとする神秘そのものは、いわゆる否定神学の彼方にあって直接的には語り得ないとされるのだから、神秘主義的テクストの生産的な読解のためには、(iii)それが明示的に語っている内容よりも、むしろそれが語られている形式、さまざまな文体上の特徴に着目することが重要な手がかりとなる。以上の準備の上に立って、第II部以下の読解がなされる。

 第II部第一章「神への翻案/人への翻案」は、『ロマンセ』と呼ばれる詩作品を取りあげ、そこに彼のキリスト教神学理解の根幹を確認する。すなわち、神の子の受肉にまでいたる神の人への愛と、それに応ずる人の神への愛の同等・同質性、つまり「愛の等しさ(igualdad de amor)」の教説が、「魂の神との合一」という彼の全教説の主題の実現を可能とする神学的根拠となっていることを示す。第二章「愛にみちた観念」と第三章「見ることと触れること」は、第一の主著『カルメル山登攀』(以下『登攀』)を題材とする。この書は、「魂の神との合一」が実現するまでに出来する全心的現象を、専らスコラ心理学の用語に拠って整合的に分類し評価しようとする形式を採るが、しかしその体系構築の頂点において合一そのものに属する事態を扱わんとするとき、「晦瞑、曖昧、総体的で、かつ愛にみちた観念(noticia oscura confusa general y amorosa)」、あるいは「魂の本体での神の本体との接触」といった、この書の採る体系的整合性をはみ出すような概念が提出される。両章では、この体系破綻がスコラ学的知の枠組み自体の限界を露呈したものと解釈し、この破綻の事実にこそヨハネの神秘思想の核心が逆説的なかたちで雄弁に語られていることを示す。第四章「夜の構造」では、『登攀』および第二の主著『暗夜』を貫いている「暗い夜(nocha oscura)」という言葉ないしイメージに焦点を当て、この詩的イメージに潜在的に込められている思考を抽出する。十字架のヨハネの主著は、みな自作抒情詩を自ら注解するという独特な形式で著されるが、この章では、両著で注解される抒情詩の主導イメージ「暗い夜」が、聖書中のさまざまな夜の場面、牧歌的情景下で恋人たちが愛しあう夜、ヨハネの愛していたスペインの自然の夜の雰囲気、等を重層化して含み濃密化したイメージであること、そしてそのさまざまな位相が、「魂の神との合一」という事態の多様な側面を解明するべく活用されているありさまを抽出する。こうした詩的言語に支えられているが故に、ヨハネの著作は純然たるスコラ学の枠組みを脱する性格を持つのである。第II部最後の第五章「魂の受動性」では、第二の主著『暗夜』で詳説される「魂の受動的夜」(「夜」は魂の浄化過程の象徴)における受動性の意味を明らかにする。西洋哲学一般の伝統とは逆に、ヨハネの神秘思想において能動性より受動性が重視される所以の解明でもある。ヨハネにとって「魂の受動性」とは、(i)魂がその最深層において神からの浄化の働きかけを「受ける(recebir)」という言わば物理的意味、(ii)神自身から来る激しい浄化の働きかけ故に魂が「苦しむ・受苦する(padecer)」という言わば心理的意味、そして(iii)この魂の核心における苦しみは根源的には「愛の苦しみ(pasion)」であり、ここでこそ魂は神を「情熱的に(apacionadamente)」愛するのだという、言わば人格的意味、の三つのレベルを同時にもつ。とりわけ第三の情熱恋愛的位相を魂と神との間に開く故に、「魂の受動性」はヨハネの思想において決定的意義をもつのである。

 以上の第II部は、十字架のヨハネの神秘思想の否定神学的な側面に専ら注目するものだった。「無の博士」とも称せられるヨハネの教説は、神以外の一切への徹底的な否定性をその特徴とする。しかし私見では、彼の本領は、つねにこの否定性を前提にしつつだが、逆にきわめて豊かな肯定的言語を駆使して展開される情熱的な愛の神秘思想にある。これが第III部の検討対象となる。そもそも第II部の論究の主題材となった『登攀』および『暗夜』は、ともに体系的叙述構想の中途で執筆が放棄された未完の著作なのだが、これは、ヨハネが最終的に語らんとする神秘的合一については、この両著が採ったスコラ学的語彙に拠る内省心理学の言語では、結局「それは〜ではない」という否定的な語り方しかできないことに気づかれたからだと解される。この意味ではたしかに「魂の神との合一」は言葉を超えた事態であるが、しかしこの神秘自体の不可説性はつねに、或る特定の言語形式を採って書き始められたテクストが、その形式に従う限りでの叙述の限界に到ったときに現れ出る性格であって、あらゆる言語表現を無条件で拒絶するものではない。ヨハネの場合も、『登攀』・『暗夜』両著の言語形態は放棄する傍らで、これとはまったく別の叙述形式を新たに採用して、神秘的合一について、より積極的・肯定的に語る作品を著している。第三の主著『霊の讃歌』(以下『讃歌』)と最後の著作となった『愛の生ける炎』(以下『炎』)である。この両著が、第III部の主題材となる。

 第III部第一章「合一を語る言葉」は、この両著が書かれる言語の性格を、『登攀』・『暗夜』のそれと対比して論じたもので、後者が当時のスコラ神学に倣ったものであるのに対して前者は伝統的聖書釈義のスタイルを模すものとなっていることを指摘する。ただしヨハネの著作は、聖書ではなく自作抒情詩の自注であるから、ここには、神的霊感による聖書の言語と、詩的霊感による自らの詩の言語とを類比的に価値づけるという大胆な詩的言語理解が見てとれる。また、スコラ学に倣った『登攀』や『暗夜』が、概念の一義的明晰性を理想とする学問言語で構築されるのに対して、聖書釈義を模した『讃歌』や『炎』は、詩的言語に類した本質的に多義的な言語−−イメージ言語−−で語られているが、そこには概念の論理とは異質・別種の柔軟な論理性が潜在することを指摘し、これを「イメージの論理」と名づける。続く第二章から第五章までは、自作恋愛詩のイメージをかりて「魂の神との合一」の実相を自在に語る『炎』の叙述から、とりわけ濃密な思索喚起力を発揮している四つのイメージを選び、そこに作動しているイメージの論理の展開を跡づけ、ヨハネの神秘的合一理解の特徴を抽出する。第二章「魂の中心/神の中心」では、「魂の中心と神の中心が再び重なる(reconcentracion)」というイメージ、第三章「甘美な接触」では、その魂の中心が神の中心と「接触(toque)」するというイメージ、第四章「神のかげ」では、その接触・触れあいにおいて魂に神の「かげがうつ(映・写・移・遷)る(obumbracion)」というイメージ、そして第五章「私の胸で恋人は目覚める」では、「魂の胸での神の目覚め(recuerdo de Dios)」という、恋人どうしの抱擁シーンを喩としたイメージを入念に検討する。とくに第五章で主題化する、雅歌解釈の伝統を受けた「婚姻神秘主義」的言説は、十字架のヨハネの神秘思想の最も大胆で魅力的な場面であり、これは最終章「合一の人称」でさらに詳論される。そこでは、彼の最高傑作と目される『讃歌』から、魂が神に対して「貴方の美のなかで私は貴方であるでしょう(Sere yo tu en tu hermosura)」と発話する場面を論究の題材に取りあげ、「魂の神との合一」が、"魂が神と「ふたり」となって一人称双数形の言葉を語りうるようになること"、と把握する試みが提出される。これは、ブーバー、バンヴェニスト、レヴィナスらの現代的言語哲学を受けつつ、人称言語による神秘思想・宗教哲学形成の可能性を探ったものであり、今後の著者の研究方向を開拓するものでもある。

審査要旨 要旨を表示する

 鶴岡賀雄氏の博士学位請求論文「十字架のヨハネ研究」は、十六世紀スペインの神秘家十字架のヨハネの神秘思想について、一個の斬新な解釈を提出したものである。

 まず、第I部では、ヨハネの置かれた歴史的文脈や伝記的諸事実(第一章)、主要諸著作の内容(第二章)、ヨハネ思想の基盤である新約聖書やスペイン神秘思想の伝統(第三章)などを述べた後、著者は本研究の方法について述べている(第四章)。それによれば、氏は、テキストの背後にある神秘家の原体験への到達や、なんらかその追体験を目指すことなど、神秘思想研究において生じがちな傾向を自ら強く戒め、あくまで、テキストそのものを、特にその言語的形式に注目しつつ、同時に著者の生きる現代の視点から解釈するにとどめ、また、それに徹するべきだとする。これは、一見、控えめな姿勢とも言えるが、むしろ、厳しく考え抜かれた氏の学問的姿勢と言えよう。

 第II部では、神の愛と人の(神への)愛の同質性同等性の思想がヨハネの神学の骨格であること(第一章)、ついで、ヨハネがその思想の最終的到達を論理的に述べるとき、自ずとスコラ神学的枠組を越えて行く多くの局面が入念に示され(第二章、第三章)、そして、「暗い夜」という含蓄豊かなイメージによって、ヨハネがいかに多面的に神との合一の体験を示唆しようとしたかが分析される(第四章)。さらに進んで、ヨハネにおいては、西欧一般の伝統とは逆に、能動性よりも受動性が強調されるとの指摘も重要である(第五章)。物理的、心理的、人格的の三レベルからなされるこの受動性の解明は、そのまま、かれの合一思想そのものの解釈への必要な準備作業となっている。

 最後の第III部では、ヨハネの神人合一思想が俎上に載せられる。すなわち、スコラ神学的言語との対比において、ヨハネが自由な詩的言語たる「イメージ言語」を創造してゆくこと(第一章)、それは、魂の中心と神の中心との重なりのイメージ(第二章)、二つの中心の接触のイメージ(第三章)、神のかげをうつ(映、写、移、遷)すとのイメージ(第四章)、そして最後に、恋人の抱擁を喩えとする、魂の胸での神の目覚めのイメージ(第五章)などから成ることが、ヨハネの言葉に密着しつつ、また現代解釈学・現象学の成果を援用しつつ、きわめて精妙に分析される。そこでは、魂は神と「ふたり」となって一人称双数形の人称代名詞や動詞を語るに至ることが、ブーバー、バンヴェニスト、レヴィナスらの言語哲学的洞察を受け継ぎつつ説得的に述べられたのである。

 以上のように、鶴岡氏の研究は、いわゆる婚姻神秘主義の一典型である十字架のヨハネの思想の現代的解釈として、現在の研究水準を抜くものであり、なお十分な展開が望まれる部分を残すとは言え、今後の研究にとって重要な里程標を打ち立てたものと言える。よって、本審査委員会はこれにたいして博士(文学)の学位を授与することを認める。

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