学位論文要旨



No 215183
著者(漢字) 佐藤,裕之
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,ヒロユキ
標題(和) ダルマラージャの認識論の構造 : 『ヴェーダーンタ・バリバーシャー』知覚章の解読
標題(洋)
報告番号 215183
報告番号 乙15183
学位授与日 2001.11.05
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15183号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 丸井,浩
 東京大学 教授 末木,文美士
 東京大学 助教授 下田,正弘
 東京大学 助教授 鶴岡,賀雄
 東京大学 教授 上村,勝彦
内容要旨 要旨を表示する

 17世紀に活躍したとされるダルマラージャ(Dharmaraja)が著した『ヴェーダーンタ・パリバーシャー(Vedantaparibhasa)』はアドヴァイタ(Advaita)学派の入門書として名高く、標準的なテキストとして広く読まれている。特にその前半部分は、アドヴァイタ学派の数多い文献の中でも認識論を独立のテーマとして扱った唯一のもので、単にアドヴァイタ学派にとってだけでなく、インド哲学の認識論研究にとっても重要視されている。

 ダルマラージャの認識論を取り上げた代表的な研究としては、D.M. DattaとS.Satprakashanandaによるものがあり、『ヴェーダーンタ・パリバーシャー』の翻訳も既にA.Venis、S.S. Suryanarayana Sastri、S.Madhavanandaによって全訳が発表され、B.Guptaによって知覚章の訳が発表されている。わが国においても、現在まで前田専学博士、村上真完博士が研究に取り組んできた。

 ダルマラージャは『ヴェーダーンタ・パリバーシャー』の中で認識手段(pramana)や正しい認識(prama)をはじめとする認識論的術語のそれぞれに定義を与え、分類を示している。先行研究においても、それらの定義や分類を問題にしてきたが、それらの研究には、欠けていた点がある。それは、『ヴェーダーンタ・パリバーシャー』の叙述に対してしばしば「体系的」という評価を与えながらも、そこで展開される認識論の構造を体系的に捉える試みを行ってこなかった点である。個別的な定義や分類はある程度理解できても、それらを認識論の全体像、認識論の構造という観点で捉えなければ、それらを理解したことにはならないだろう。例えば、正しい知覚知(pratyaksaprama)は純粋精神(caitanya)と定義されているが、一方で、ダルマラージャは正しい知覚知に「<それぞれの感官にとって知覚可能であり、現存し、否定されていない対象に局限された純粋精神>と<それぞれの対象の形相をとった変容に局限された純粋精神>に区別がないこと」という定義も与えている。正しい知覚知の定義を理解するためには、この二つの定義が認識論の構造の中で占める位置を理解しなければならないだろう。ダルマラージャが個々の定義や分類を述べている以上、彼の認識論もその全体像と構造を前提にしているはずである。本論文の目的は、『ヴェーダーンタ・パリバーシャー』によって示される認識論の構造を解明することにある。

 本論文は論述部分の第1部と和訳研究の第2部によって構成されている。

 第1部では、ダルマラージャの認識論の構造を解明する。まず、ダルマラージャは認識手段(pramana)を「正しい認識の手段(pramakarana)」と定義しているから、正しい認識は認識手段から生じる結果として捉えられていることになる。そして、正しい認識には想起(smrti)を含める場合と含めない場合の定義が提示されていて、ダルマラージャ自身の立場は明確ではない。しかし、正しい認識を「認識手段から生じる結果」と捉える限り、認識手段ではない潜在印象から生じる想起は正しい認識にはならない、という註釈があり、この解釈に従えば、正しい認識の定義は「以前に知られていることなく(anadhigata)、否定されていない(abadhita)ものごとを対象とする認識」になり、そこから想起は排除されることになる。

 認識手段は知覚(pratyaksa)・推理(anumana)・類比(upamana)・ことば(sabda)・論理的要請(arthapatti)・無知覚(anupalabdhi)の六種類に分類されている。アドヴァイタ学派の文献でこのような分類を明示するのは『ヴェーダーンタ・パリバーシャー』だけである。この点だけをとっても『ヴェーダーンタ・パリバーシャー』が画期的な位置を占めていることがわかる。認識論の構造の中で認識手段の分類が問題になるのは、分類された知覚等の定義が「正しい認識の手段」という認識手段の定義を共有し、他の認識手段を排除しているかどうかという点であるが、この点で、ダルマラージャが与えた「知覚とは正しい知覚知(pratyaksaprama)の手段である」という知覚等の定義に全く問題点は見られない。

 認識手段と正しい認識の間に因果関係は成立するのだが、それが知覚と正しい知覚知等の種のレベルになると成立しない、と考えられている。正しい知覚知は知覚からだけ生じるものではなく、推理等の他の認識手段からも生じるとされている。それは、正しい知覚知は特定の手段に起因するのではなく、「直接的な対象」という特定の対象に起因すると考えるからである。その結果、「知覚は正しい知覚知の手段である」という定義も、「知覚知は必ず知覚から生じる」を意味するのではなく、「知覚からは必ず知覚知が生じる」を意味するだけになる。さらに、「推理は推理知の手段である」という定義も、「推理からは必ず推理知が生じる」を意味するのではなく、「推理知は必ず推理から生じる」だけを意味することになる。このような主張は、ダルマラージャの認識論の構造上の特徴として指摘できる。

 そして、ダルマラージャは全ての正しい認識を<それ自身に関わる面(svatmamsa)>と<対象に関わる面(visayamsa)>という二つの面で捉えていたと思われる。正しい認識を<それ自身に関わる面>で捉えた場合、全ての正しい認識は正しい知覚知である。この正しい知覚知はいわば広義の正しい知覚知であり、純粋精神(caitanya)と定義される。推理知も類比知等も全て広義の正しい知覚知であり、純粋精神である。一方、正しい認識を<対象に関わる面>で捉えた場合、正しい認識は正しい知覚知や推理知等に区別される。<対象に関わる面>の正しい知覚知は狭義の正しい知覚知であって、「<それぞれの感官にとって知覚可能であり、現存し、否定されていない対象に局限された純粋精神>と<それぞれの対象の形相をとった変容に局限された純粋精神>に区別がないこと」と定義されるものになる。知覚という認識手段から生じるのは、狭義の正しい知覚知の方であって、広義の正しい知覚知は認識手段から生じるものではない。

 知覚知は、(1)<関係を捉える(savikalpaka)知覚知>と<関係を捉えない(nirvikalpaka)知覚知>、(2)<ジーヴァを直証者とする(jivasaksin)知覚知>と<神を直証者とする(isvarasaksin)知覚知>、(3)<感官から生じる(indriyajanya)知覚知>と<感官から生じない(indriyajanya)知覚知>という観点・方法の相違によって三通りに分類されている。(1)と(3)の分類自体は他学派にもみられるもので、必ずしもダルマラージャの認識論の特徴と考えることはできないが、それらの解釈や例になると、他学派と著しく異なってくる。(1)の<関係を捉えない知覚知>は「これはあのデーヴァダッタである(so 'yam devadattah)」「お前はそれである(tat tvam asi)」という文章から生じる認識が例として挙げられているように、同一性を捉える認識のことである。また(3)の<感官から生じない知覚知>は「私は楽しい(aham sukhi)」という例が示されているように、マナス(manas)から生じる知覚知のことである。ダルマラージャはマナスを感官とは考えないためにこのような解釈になる。(2)に含まれる「直証者」という概念はアドヴァイタ学派に固有なものだが、その内容はそれぞれ<ジーヴァを認識者とする知覚知>と<神を認識者とする知覚知>に相当する。これらの点は、分類自体は他学派のものを巧みに採り入れ、独自の解釈と例を与えることによって、アドヴァイタ学派に特徴的な認識論を体系化したと考えられる。ダルマラージャの認識論の特徴は、知覚知の分類の解釈にもあらわれていると指摘できる。さらに、これらの分類は、純粋精神と定義される広義の正しい知覚知の分類ではなく、狭義の正しい知覚知の分類である。

 ダルマラージャの認識論の構造を理解する上で最も重要なのは、彼が正しい認識を<それ自身に関わる面>と<対象に関わる面>という二つの面で捉えていたことになるだろう。おそらくニヤーヤ学派では正しい認識を<それ自身に関わる面>と<対象に関わる面>に区別して考えたりはしない。ダルマラージャの考えにあてはめれば、ニヤーヤ学派では<対象に関わる面>だけの正しい認識しか考えていないことになる。彼が正しい認識をこれら二つの面で捉えることを明言しているわけではないが、このように解釈しない限り、彼が描いていた認識論の構造は理解できないと思われる。そして、正しい認識の二つの面については、<それ自身に関わる面>を本来的な認識、あるいは、究極的(paramarthika)立場から捉えた認識に、<対象に関わる面>を比喩的な認識、あるいは、日常的(vyavaharika)立場から捉えた認識に解釈するのが最も適切であるだろう。しかし、<それ自身に関わる面>での正しい認識は純粋精神として区別がなく、<対象に関わる面>での正しい認識は認識手段によって区別があることになるから、この点から考えれば、正しい認識に二つの面があるという主張は、正しい認識をある面で捉えれば区別がなく、別な面で捉えれば区別があるという主張にも解釈できると思われる。

 本論文の第2部は『ヴェーダーンタ・パリバーシャー』知覚章の和訳研究である。底本としたS.S. Suryanarayana Sastri本では序章と第1章にあたる。この部分については、すでに4つの英訳と3つのヒンディー語訳があるが、日本語訳はなく、初めての和訳になる。テキストの読みについては、底本以外の13の公刊本を参照し、異読を示した。

審査要旨 要旨を表示する

 ウパニシャッドの体系的解釈を基礎として,いわゆる梵我一如の一元思想の理論的整備と発展を図り,今日にその確たる伝統を残すヴェーダーンタ学は,特に8世紀のシャンカラ以降,現象世界の現前を認識者に内在する根本的無知に帰し,究極的実在は一切の差異相を越えたブラフマン/アートマンのみであるとする,不二一元論派(Advaita派)が主流をなしてきた。

 本論文は,その不二一元論派の系譜に連なる17世紀の学者ダルマラージャが著した作品『ヴェーダーンタ・パリバーシャー』(以下VPBhと略す)に展開する認識論の体系を,同書の第1章知覚章の綿密な読解作業を通して,解明しようとした意欲作である。元来,不二一元論派は,知覚や推理といった日常的な認識方法は,それ自体に矛盾をはらみ,究極実在の覚知に直接資することはないとの立場から,pramana(認識手段=正しい知をもたらす手段・根拠=知覚・推理・信頼すべき言葉など)に関する議論に積極的に関与した形跡はないが,不二一元論派固有のpramana論を提示した,ほとんど唯一の文献と言えるのがVPBhである。なかでも知覚(pratyaksa)に関する議論は同書におけるpramana論の主要部をなし,最も難解な箇所とされてきたが,佐藤氏はその知覚論の部分を,14種の刊本・7種の注釈,そして英訳・主要な研究書を精査し,かつ氏独自の批判的考察をも加えて解読した。

 本論文は二部構成から成り,第1部では「ダルマラージャの認識論の構造解明」(pp.13-142)がなされ,第2部は「VPBh知覚章和訳研究」(pp.144-225)であり,さらに付録としてVPBh全体のほぼ網羅的なWord indexが付されている。本論にあたる第1部は,まず序章においてVPBh知覚章から,同書の認識論の基本構造のほぼすべてが集約された一節を手がかりとして,考察すべき諸問題を抽出・整理した上で,以下,第1〜6章において順次,それらの問題点に解答を与えて,最終的にVPBhの認識論体系を明快な図式によって示すという,整然とした論述方法をとっている。

 VPBhという作品の中心部分は,関連諸概念の定義であるが,佐藤氏は個々の定義文を構成する術語の意味と,術語間の関係を一つ一つ確定した上で,定義文全体の意味を考察し,最終的には定義文相互の有機的関係を解析して,ダルマラージャの提示した不二一元論派の認識論の全体的な構造を,認識手段と認識結果との多因一果的因果関係,二種の直接知,および認識が孕む二種の直接性(pratyaksatva)という概念を軸として,ほぼ描き出すことに成功した。特に,ブラフマン/アートマンの本質としての純粋精神と規定される知覚知は,認識が認識自身を照らしだす作用としての,<認識それ自身に関わる直接性>を孕んだ広義の直接知であり,認識手段の種類の如何を問わず,得られる認識はすべて自己光照作用をもつから,その意味では直接知となるということ,またこれに対して狭義の,あるいは本来の知覚知は,認識が孕むもう一つの直接性である<認識対象に関わる直接性>によるものであり,しかもこの狭義の知覚知が,同一関係の把捉から成る直観知の場合は,感覚機能ではなくある種の文章に起因する場合があること,この二点を新知見として提示した成果は,きわめて重要である。これによって,ウパニシャッドの聖典文(のみ)から得られる直観知が,日常的な認識方法としての知覚知(狭義)と基本的に同一の構造で説明されていることが明らかとなった。

 第2部のVPBh知覚章和訳研究は逐語訳というよりは,佐藤氏のテキスト理解を明確に示した意訳であり,また暗黙の前提となる議論や,前後の脈略を丁寧に解説しており,全体的に簡潔な文体に豊富な意味が凝縮されたVPBhのような作品の翻訳としては,非常に有効な方法であり,これ自体が本研究のすぐれた成果の一部を成している。

 本論文は,考察対象となったテキストが,不二一元論派のpramana論をまとまった形で論ずるほとんど唯一の文献であったことに起因して,内容理解に際して十分な文献上の根拠が得られず,未だ恣意的な概念理解にとどまっている箇所が若干残され,かつそれとも関連して再考すべき訳語の問題もある。しかし,VPBhの認識論の体系が全体として,ニヤーヤ学あるいはミーマーンサー学のpramana論の諸概念を下地としつつも,不二一元論派特有の形而上学との連携・調和が図られている点を,着実な資料解読をベースとして,十分な説得力をもって明らかにした本研究の意義は大きく,今後のpramana研究ないしヴェーダーンタ研究に新たな方向性を示唆していると言えよう。

 以上の理由により,本論文が博士(文学)の学位を授与するにふさわしい業績であると審査委員会は判断する。

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