学位論文要旨



No 215185
著者(漢字) 薄,浩則
著者(英字)
著者(カナ) ウスキ,ヒロノリ
標題(和) 遺伝資源としてのマガキCrassostrea gigasの特性評価と保存に関する研究
標題(洋)
報告番号 215185
報告番号 乙15185
学位授与日 2001.11.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15185号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 寺崎,誠
 東京大学 教授 西田,睦
 東京大学 教授 黒倉,寿
 東京大学 助教授 金子,豊二
 東海大学 教授 沼知,健一
内容要旨 要旨を表示する

 日本の養殖マガキ種苗は宮城県、広島県などで天然採苗されている。広島県では養殖海域周辺で採苗され基本的に同一の地方集団が継続して養殖に利用されているが、必要種苗数が得られない場合、他海域から時として相当量の種苗が移入される。これにより予想される遺伝的な混合・撹乱は将来の育種や遺伝資源の保存にとっても大きな危惧であり、その実態や天然集団の再生産に与える影響を予測し、適切な養殖過程や保全計画を考える基礎として、まず、各海域天然集団の形質の差を知る必要がある。さらに、将来的には天然集団を素材とした選抜や交雑などによる育種をすすめてゆくことも必要となると考えられるが、一般的に選抜による品種改良では目的とする形質について遺伝率を推定することが選抜効果の予測に役立つとされる。また、交雑による品種改良を実行するには近縁種との交配特性を知る必要があり、これらの実行に関しても、その基礎として、遺伝資源としての天然集団の形質の差を知る必要がある。また、近縁種との交配特性等を明らかにすることは交雑育種を実施する上で必要であるだけでなく、交雑可能な近縁種どうしが同所的に生息している海域での遺伝資源の動態の解明といった生態的な視点からも要求される。

 マガキの各地方集団は本来の生息海域での再生産の維持という形で存続できるのが望ましいが、天然のマガキ地方集団の安定的な存続は決して約束されたものとは言えない。集団内の遺伝的多様性を完全に保持したまま本来の生息環境外で遺伝資源を長期的に保存することは殆ど不可能であるものの、凍結保存技術により最低限の遺伝資源を長期的に保存できる可能性はある。また、育種により作出した系統を保存するためにも配偶子や幼生の凍結保存は有用な手段と考えられる。

 本研究は日本および諸外国のカキ養殖の最重要種であるマガキを中心に遺伝資源としての特性を評価するとともに、その保存方法を明らかにすることを目的とした。

1.地方集団間の特性比較

 広島、宮城、有明、五島の各天然海域で採取した、成育の履歴が異なる各地方集団と、これらを母貝として作出した各地方集団内の次世代(P1)を広島湾で養成し、成長、生残や形態等を比較することによりマガキ地方集団の遺伝資源としての特性を評価した。天然集団、P1とも全重量の増加速度は宮城産が最も大きく、有明産と五島産は小さかった。有明産P1の稚貝は他産地のものに較べ殻表に棘状の突起や襞を持つ個体が多く観察され、稚貝期以降も殻高殻幅比が高く推移した。

 ポケットカゴで養成した天然集団の斃死率は、有明産が最も低く、五島産が最も高く推移し、有明産は広島産との間で、五島産は宮城産との間で有意差はなかった。P1の斃死率はポケットカゴ養成では産地間に明らかな差は無いがコレクター養成では五島産が他の産地よりも明らかに斃死率が高く、また、目合いが小さいザブトンカゴでの養成という悪条件下では有明産が他産地産よりも明らかに低い値を示した。殻内の軟体部の充実度を同じ個体について連続して追跡するためバイオマス比(全容積に対する麻酔後の容積の比率)を測定した結果、有明産の天然集団は他産地が低い値を示した秋にも高い値を保持したが、P1では、値は他産地よりも高いものの、他産地同様秋に低下した。これらのことより、日本のマガキ地方集団間ではいくつかの形質に関して遺伝的な差異が存在していることが明らかとなり、遺伝資源としての地方集団の重要性と保全の必要性が確認されたが、それらの形質を評価する場合には適切な養成条件の選択が重要であると考えられた。

 宮城産と広島産のマガキ種苗を2つの水域で各々2垂下点、合計4垂下点で養成し、3元配置分散分析により種苗の産地、養成場所、測定月の各因子やそれらの交互作用が絶対的形質、相対的形質に与える影響を比較した結果、形質によって各因子やそれらの交互作用からうける影響の大きさが異なることが明らかとなった。多くの絶対的形質は産地や養成場所の影響を受け、特に外套膜縁辺部色は産地の違いにより明確な影響を受けた。相対的形質の中では殻内容積比が産地の違いにより明確な影響を受けたが、幾つかの相対的形質では種苗の産地差の影響が認められなかった。また、元来カキの外部形態は生息環境により大きく影響を受けると言われているが、殻高/殻長と殻高/殻幅や殻の膨らみは産地の違いにも明らかに影響を受けた。また、産地×月や産地×養成場所の交互作用の影響、すなわち産地間差の現れ方が測定月や養成場所により異なるかどうかは形質間で明瞭な違いがあることが明らかとなり、特性評価に際してはこれらのことに留意する必要があると考えられた。

2.近縁種との交配特性

 有明海のカキ類には分類学的に識別困難な集団の存在が示唆され、遺伝資源としての系統の識別や人工種苗生産での親貝の選択時の混乱が危惧される。ここではマガキと非常に近縁であるといわれているシカメを中心に分子生物学的手法に基づいて有明海での生息の有無を確認するとともに、マガキとシカメのミトコンドリアDNA、核DNAの一部であるCaM intorn3の塩基配列特性に基づいた交配実験を実施し、初期発生から稚貝にいたる特性を調査することにより、シカメとマガキの間の交配特性および交雑個体の遺伝的特性を検討した。

 有明海から採取した天然カキのミトコンドリアDNAの解析では現在でも有明海にシカメと思われるカキが存在することを確認した。さらに、スミノエガキを含めた同所的に生息するCrassostea属3種の出現状況に基づき、これらの水平・垂直分布特性を河川、干潟の存在および泥面からの垂直距離に注目して論じた。また、ミトコンドリアDNAと核DNAの解析ではマガキとシカメの自然交雑が起こっている可能性が示唆された。

 交配実験では核DNA型が異なるmtシカメ型カキをマガキと交配することにより、自然交雑から生じると予想されるDNA型の稚貝が得られることが明らかとなった。また、mtシカメ型♀の卵では初期発生の成否は親のmtDNA型やCaM intorn3の型には左右されないものと思われた。従来受精しないと言われていたマガキ♀×シカメ♂の交配からも低率ながら稚貝が生じることが明らかとなり、さらに、マガキ♀×mtシカメ型♂から得た稚貝の一部から雄親のmtDNA型が検出され、精子のミトコンドリアの卵への侵入が示唆された。これらのことから、有明海産マガキ遺伝資源の評価と利用に関しては特に注意が必要であることが示唆された。

3.遺伝率の推定

 広島産と有明産のマガキ地方集団を用い、枝分かれ交配による半兄弟分析法により幼生期や稚貝期以降の遺伝率を求めるとともに、異なる養成方法による遺伝率を求め、養成方法の違いが遺伝率推定に与える影響を検討した。

 広島産・有明産ともに幼生期・稚貝期の殻長については、父親成分からの遺伝率にくらべ母親成分からの遺伝率がかなり大きな値を示し、用いた卵の質や飼育環境のかたよりなどの共通環境要因、あるいは優性効果などが大きく影響しているものと思われる。広島産マガキでは斃死率の遺伝率は全重量の遺伝率より大きな値を示し、有明産マガキでも斃死率は全重量よりも交配組間で大きな差があったことから、マガキの出荷初期までの生残率は全重量よりも高い選抜効果を期待できると考えられた。しかし、幼生期の成長・生残と付着期以降のそれらとは相関が低く、幼生段階で成貝期の成長・生残を予測するのは困難であると考えられた。また、アップウェリング養成では全重量や生残率について実験区の間の誤差をカゴ養成より小さくすることが可能であるが、順調な成長には十分な流水量(ほぼ3L/分/筒以上)の確保が必須であることが示された。

4.精子と幼生の凍結保存

 マガキ遺伝資源の保存方法の一つとして、精子と幼生の凍結保存について検討した。

 精子の凍結保存に関する凍害保護剤の種類と冷却方法の検討では、8%DMSO、50mMシュークロース及び6mM還元型グルタチオンを凍害保護剤とする希釈液を用い、液体窒素蒸気中で冷却する方法で最も高い浮遊幼生率が得られた。さらに液体窒素蒸気中での3つの冷却条件を比較した結果、凝固潜熱の放出が緩やかな条件で冷却後に保存した精子で解凍後の生残率が高かった。凍結精子を用いて新鮮精子並みの受精率を得るためには、108精子/200μ1以上の濃度で凍結した精子を1個の卵あたり103個以上の割合で媒精する必要があり、原精液の希釈は10〜数10倍が限界と考えられた。液体窒素中で4年間保存した精子は、短期保存の精子に比べ低い生残率を示し、長期保存による精子の劣化が推察された。しかし、これから得た幼生の正常D型幼生率と飼育6日目の生残率は新鮮精液を用いた場合より下回りはしたものの実用に耐えうる値であり、飼育6日目の幼生の殻長も新鮮区に劣らず、長期保存精子の実用性が確認された。

 幼生の凍結保存では、桑実胚期から殻およびベラム形成中のトロコフォア幼生期までの耐凍性を検討し、貝殻腺形成直前のトロコフォア期が最も耐凍性が高いことを明らかにした。凍害保護溶液中の海水に無希釈海水を用いた場合は解凍後に殻を形成する幼生は得られなかったが、1/4に希釈した海水を用いるとことにより殻を形成する幼生が得られた。さらに、幼生の凍結前の発生温度が解凍後の生残に影響することを示した。凍害保護剤として1.0MのDMSO、250mMのトレハロースを含む1/4濃度海水中に貝殻腺形成直前のトロコフォア幼生を浮遊させ、-1℃/minの速度で-35℃まで冷却し5分間そのままの温度で保持後液体窒素中に保存することにより、解凍後の幼生から付着稚貝を得ることができた。これらのことから、将来さらに技術的な検討を進めることにより、マガキ浮遊幼生の凍結保存法が確立できる可能性があることした。

審査要旨 要旨を表示する

日本の養殖マガキ種苗は宮城県、広島県などで天然採苗されている。近年、広島県では必要種苗数が得られない場合、他海域から時として相当量の種苗が移入される。これにより予想される遺伝的な混合・撹乱は将来の育種や遺伝資源の保存にとって大きな危惧である。これには天然集団の再生産に与える影響を予測し、適切な養殖過程や保全計画を考える基礎として各海域での天然集団の形質の差を知ることが不可欠である。本研究では牡蛎養殖の最重要種であるマガキを中心に遺伝資源としての特性を評価するとともに、その保存方法を明らかにすることを目的とした。第1章では広島、宮城、有明、五島の各天然海域で採取した、成育の履歴が異なる各地方集団と、これらを母貝として作出した各地方集団内の次世代(P1)を広島湾で養成し、成長、生残や形態等を比較することによりマガキ地方集団の遺伝資源としての特性を評価した。第2章ではマガキの近縁種であるシカメを中心に分子生物学的手法に基づいて有明海での生息の有無を確認するとともに、マガキとシカメのミトコンドリアDNA、核DNAの一部であるCaM intorn3の塩基配列特性に基づいた交配実験を実施した。第3章では広島産と有明産のマガキ地方集団を用い、枝分かれ交配による半兄弟分析法により幼生期や稚貝期以降の遺伝率を求めるとともに、異なる養成方法による遺伝率を求め、養成方法の違いが遺伝率推定に与える影響を検討した。第4章ではマガキ遺伝資源の保存方法の一つとして、精子と幼生の凍結保存について検討した。

1.地方集団間の特性比較

 日本のマガキ地方集団間ではいくつかの形質に関して遺伝的な差異が存在していることが明らかとなり、遺伝資源としての地方集団の重要性と保全の必要性が確認されたが、それらの形質を評価する場合には適切な養成条件の選択が重要である。宮城産と広島産のマガキ種苗を2つの水域で各々2垂下点、合計4垂下点で養成し、3元配置分散分析により種苗の産地、養成場所、測定月の各因子やそれらの交互作用が絶対的形質、相対的形質に与える影響を比較した。その結果、形質によって各因子やそれらの交互作用からうける影響の大きさが異なることが明らかとなった。また、産地×月や産地×養成場所の交互作用の影響、すなわち産地間差の現れ方が測定月や養成場所により異なるかどうかは形質間で明瞭な違いがあることが明らかになった。

2.近縁種との交配特性

 有明海から採取した天然カキのミトコンドリアDNAの解析では現在でも有明海にシカメと思われるカキが存在することを確認した。また、ミトコンドリアDNAと核DNAの解析ではマガキとシカメの自然交雑が起こっている可能性が明らかにされた。さらに、マガキ♀×mtシカメ型♂から得た稚貝の一部から雄親のmtDNA型が検出され、マガキではじめて精子のミトコンドリアの卵への侵入が確認された。

3.遺伝率の推定

 広島産マガキでは斃死率の遺伝率は全重量の遺伝率より大きな値を示し、有明産マガキでも斃死率は全重量よりも交配組間で大きな差があったことから、マガキの出荷初期までの生残率は全重量よりも高い選抜効果を期待できると考察された。

4.精子と幼生の凍結保存

 8%DMSO、50mMシュークロース及び6mM還元型グルタチオンを凍害保護剤とする希釈液を用い、液体窒素蒸気中で冷却する方法により長期保存精子の実用性が確認された。さらに解凍後の幼生から付着稚貝を得ることができた。これらのことから、将来さらに技術的な検討を進めることにより、マガキ浮遊幼生の凍結保存法が確立できる可能性があることを示した。

 以上本研究は水産資源として重要なマガキの遺伝学的特性を明らかにした。また本研究で開発された精子と幼生の凍結保存法は今後牡蛎養殖の発展に大いに寄与すると考えられる。これら本研究で得られた知見は、学術上並びに応用上貢献するところが少なくなく、よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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