学位論文要旨



No 215196
著者(漢字) 宮本,久雄
著者(英字)
著者(カナ) ミヤモト,ヒサオ
標題(和) 他者の原トポス : 存在と他者をめぐるヘブライ・教父・中世の思索から
標題(洋)
報告番号 215196
報告番号 乙15196
学位授与日 2001.11.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第15196号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡部,雄三
 東京大学 教授 大貫,隆
 東京大学 教授 竹内,信夫
 東京大学 教授 北川,東子
 東京大学 教授 山本,巍
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は「他者」の一真相を「自己」「わたし自身」の探求とからませて今日どのような言葉にひとまず定位できるかを参究した試論である.その際後述するように他者問題の広さと深さのため哲学のみならず,神学や文学の諸文脈やテキストを参照したのである.

 そこでまず論文題目「他者の原トポス」を概説しつつ,他者および自己探求にまつわる諸文脈と問題とを明らかにしておきたい.

 本論文のテーマ「他者」とは後述するように「わたし」の自同性を揺るがし破裂さす異であり,その意味でわたしより大いなる存在を示すが,他方で彼に責任をとるべく迫られ共に死ぬかも知れない無にも等しい存在ともいえる.

 この他者問題を掘りさげる1つの方法論的切り口は「存在−神−論」(Onto-theo-logia)に求められた.というのも,それは哲学的思潮にあって,他者の抹殺「ショアー」をもたらしたロゴス中心主義や根源悪と深く連動していると考えられたからである.つまり「存在−神−論」は最普遍的な次元を設定し(存在やロゴスなど),その次元を超越的にであれ内在的にであれ統一する視点や実在(神的至高存在者や文法など)から一切をヒエラルキアとし秩序づけ意味づけ,その限りで存在権を与え支配してゆくという特徴的構造をもつ.その結果,それは自同的に構成され,その自同的自己保存の力(conatus essendi)を自らに異となる他者に対して暴力として用い,非存在として抹殺するからである.

 この「存在−神−論」の超克と他者の地平の開披に向けて本論文は,それを構成する三点(存在,神,ロゴス)に集中して再吟味を遂行し,その遂行上諸テキストと対面した.すなわち,存在はギリシア哲学以来の中心的な哲学の問いであり,神は殊にヘブライ・キリスト教の血脈を受け継ぐ問題であり,論(ロゴス)は理性・言葉さらにテキスト解釈に関わる問いであり,こうして本論は如上の三点を内蔵する場(トポス)としてのテキスト群を解釈しつつ,他者との出会いの痕跡をそこに参究したのである.本書はその「トポス」という言葉を,アリストテレス(『トピカ』『弁論』)をふまえつつも,およそ思索と生がそこに於いて生起・展開する場という広い意味で用いる.その意味では哲学史・文化史上のあらゆるテキストがトポスであるといえる.しかし,ここでわざわざ原(アルケー)を付したことは一体何故だったのか.

 第一に他者の問題を内蔵するテキストの中でロゴス中心主義的理性主体とそれが構築した有神論的形而上学「以前」のテキストを「原」トポスと考えたからである.そうした原トポスは,理性主体による学知的還元に捕囚の浮目にあっていない古代・中世的テキストを意味しよう.第二にテキスト自体が他者への問いへの「根源」として他者として読者に迫り,様々な仕方で「存在−神−論」を超える方位を孕む意味で「原」と考えたからである.以上の意味で「原トポス」は単に哲学史教科書が教えるクロノス的な意味での古代・中世哲学でもなく,また弁証法的展開を経て充実する,ヘーゲルの絶対的理念の立場から存在の歴史を俯瞰する論理(ロゴス)学を意味するのでもない.またハイデガーのように存在論的差異から出発して「存在の歴史」を思索し,まだ語られていない存在を現代的存在者から思考する立場でも,さらに一や善美というプラトン的思索と根本語を場とするものでもない.このようにわれわれは理性と理性が構築した存在(神)の死を自覚した原トポスのテキストを参究しつつ,「存在の彼方」に他者の地平を披こうとする.それが「他者の原トポス」という表題の意味であり目論見に外ならない.

 如上の解説を基に次に本論文の具体的内容に言及し,さらに他者と自己に関わる探求の問題性と文脈を示したい.

 「序」では上述の問題意識と現代的「ショアー」を招く契機となった「存在−神−論」の特徴と歴史を概観した.その特徴については先に触れたので今はその歴史を示しておきたい.その歴史はアリストテレスの第一哲学(神学)に端を発するとした.そしてプラトン主義からトマスを経てスコトゥスにおいて「存在−神−論」が形式上実質上成立したと考えた.しかし,この「存在−神−論」に対しコギトによる認識論的「存在−神−論」を構築して転換したのはデカルトであった.すなわち,彼は古き至高的存在者(善のイデア,不動の動者,キリスト教の神)のかわりにコギトを神とし数学的最普遍的な世界(mathesis universalis)の秩序化・法則化・構築の糸口をつくった.これ以降西欧の有神論的形而上学でさえ実のところ人間理性の構築物としてニヒリズムであると考えられる.こうしてヘーゲルを経て完成された「存在−神−論」は,今日技術支配,神の死(それに伴う人間の死),全体主義支配などの歴史的悲劇をうむ温床となったことが論ぜられた.

 「序」の問いを承けて「本論」では原トポスのテキストの解釈が遂行された.その際テキスト群は第一部の「哲学」的テキスト群と第二部の「神学」的テキスト群に分別された.それはどういうことであろうか.

 哲学的テキスト群は,ギリシア哲学から中世に及ぶ「理性の彼方」が自覚されていた頃のもので,これとは別に神学と殊更銘打たれたテキストはヘブライ・キリスト教の系譜に属する文学,歴史,神話,福音書,手紙などをいう.この分別の理由は様々であるが,その一つは,哲学的言語がそこで鍛えられて出来した文脈として文学,聖典などに注目し「他者」探求の視界を広げるためであった.例えばパルメニデスの哲学言語がホメロス叙事詩に,アウグスティヌスの告白言語が「詩篇」に拠っているのは周知のことである.次に他者である「神」の文法を解釈しつつ人間の出会いの文法を見極めようとしたのである.だからここでいう神学はキリスト教的教義神学ではなく,諸宗教の伝える人類史的伝承の示すテキスト群に通底する新しい人間論的視点である.またニーチェ的な「神の死」がアウシュヴィッツ以降「神の沈黙」という文脈において再・解釈される今日,他者論に「神」がはずせない状況にあるからだともいえる.

 さて第1部では,現代的他者論も援用されながら,ニュッサのグレゴリオスの『雅歌講話』が解釈された.そこでは人間の一期一会的在り方がエペクタシス(背面的聴従)論およびエペクタシス的解釈として示された.次にアウグスティヌスの『告白』テキスト解釈を通して,ギリシア的ロゴスが質料的他者(歴史,身体,感情など)さえ引き受ける言(Verbum)に転位した次第が解明された.いずれの場合も,情報伝達言語と異なって他者との出会いと自己の成立を創る創造的言語の地平が拓けた.トマスの判断論も可能的世界を描く学知的判断を超え,他者の現実性を披き「存在−神−論」の彼方を指示し,エックハルトはそれを基に説教言語を通し他者との出会いの途に立った.彼において存在に対する無が実存的な自己無化とそれによる共同存在的生に生きうる根底となることが闡明された.第2部の神学的テキスト解釈はまずヘブライ的『創世記』に関する構造的分析に始まり,そこで他者の無からの誕生とその喪失としての根源悪とについて論ぜられた.次に「善きサマリア人の譬え話」解釈を通じ,如上の根源悪を突破する出会いの「Ethica」の構築が始められ,殊に「Ethica」の超越的次元参究のため死に思いを潜め,ケノーシスや放下のEthicaが示された.最後に抹殺された他者の甦りの契機として記憶・証言に関わるヨハネテキストが分析され,結局他者との出会い全体の根底に働くプネウマ言語が指摘された.すなわち,プネウマは気・霊風として凝固した自同的実体のかわりに動的な他者に開く存在(ハーヤー)の深処を披き,気に溢れる革新的解釈の動力となり,過去の忘却を現代に甦らせ未来の希望を創る想起的気力なのである.「むすびとひらき」は以上の解釈の結実を新たな出会いの可能性に向けて放とうとする試みでもある.まず「存在−神−論」を解体して存在がハーヤーとして了解された.ハーヤーは伝統的形而上学の「本質」でも,スコトゥスの一義的ensでも,ハイデガー的Seinでも,レヴィナス的essanceでもなく,自己脱自がそのまま存在であるような存在そして無を他者とする存在として明らかにされた.それは神の構造を三一的に了解させる.つまり,神はヘブライ的ツィムツームや三位一体論に窺われるように「自己無化」(ケノーシス)を意味し,自己同一性を無化して他者を迎えることそのことであった.この存在や神の了解はロゴスをヘブライ的ダーバール(言即事)として再解釈させた.ロゴスは最早一切を自己の許に再現前化させる理性というより,質料性(異文化,女性性,汚れ,時間など)を引き受け共に受難し出会いの共存在に向け思索する言となる.そうした言の根拠となるのも気(プネウマ)に外ならなかった.

 以上のようにして示された存在,神,言は根源悪を越えて他者と出会うわれわれ人間一人ひとりの根拠としての日常的生の深層系を垣間見せてくれた.要はわれわれの許に到来する隣人が,ハーヤー的深層から息吹くプネウマ的働きに乗ぜられて日常の今ここに到来する限り,彼を通してわれわれは深層の示しの声の響くのをききうるのであり,そこにわれわれがいわば〓啄同時的に生まれ在らしめられ,しかもその自同を突破して再び生まれそして在るという生を生きることが自覚された.その意味で存在(hypostasis)と生成こそ,人間の在ることに外ならず,最後にその在るの契機ともなる他者は,彼を通し(per)出会いの深層から出会いに向けてのケノーシス的言が響く(sonare)意味で,古くして新しいペルソナ(persona)という言葉に定位された.それが本論の限界である.

審査要旨 要旨を表示する

 「われ」から出発する近代哲学において「他者」問題は一つのアポリアであった。「われ」が「われわれ」という普遍妥当的な主観性一般へと解消されるとき、他者は単なる「もう一つのわれ」とされて「われ」へと回収され、本来的に「われ」とは異質な固有性をもつべきはずの「他者性」が見失われるという事態が生じてしまうからである。フッサールやブーバー、レヴィナス等が、それぞれの立場から他者経験の間接性、汝との出会い、絶対他者などをめぐって哲学的考察を行ったのは、自我の肥大化がもたらす暴力に対抗しうる他者性の回復が現代においていかに可能かというアクチュアルな問題とかかわっていたからである。

 宮本氏は、他者忘却と喪失の哲学的立場であるいわゆる理性的ロゴス中心主義を「存在−神−論」(Onto-theo-logia)と位置付けしなおすことによって、その系譜をデカルトやカント、ヘーゲルなどの近代哲学にのみ限定せず、広く古代から中世の各種テキストを柔軟かつ鋭利な読解を行うことによってその本質と弊害を見極めるとともに、それにとどまらずさらにこれを超克する「他者の原トポス」の鉱脈を探り当てることに成功している。ここにいう「存在−神−論」とは、氏によれば、「存在」が「存在者」によって隠蔽され、その結果「存在」の代わりに神や一者などの「第一存在者」が存在界を根拠付けるに至り、さらにこの第一存在者の座を人間の表象的主体が簒奪し、技術力を駆使して存在界を全体主義的に支配する事態を招来し、ついには現代の「ショアー」を惹き起こす契機となった哲学的立場を指す。これに対し、氏は、自己の成立というものが自助的努力によるのではなく、むしろ「他者」との出会いによってはじめて行われうることに注目し、閉塞的な「われ」を打開し「他者」の呼びかけに出会いこれに聴き随うことに「存在−神−論」を克服する鍵があるという視点を導入する。「原トポス」とは、一方で近代成立以前の哲学的ないし神学的テキストにみられるこの出会いの原点的在り処を指示するとともに、他方でその出会いと思索が生起する根源的な場を意味し、それはそこから思索が胎動し生命が湧出するロゴスの場であると同時に、そのロゴスを体悟体現した個人であり、そこに生まれる伝統を踏まえて成り立つ人間同士の交わりの場と考えられている。このように、氏は、日常底の生活やテキスト、あるいは他者忘却の場というトポスを突破し、他者との出会いによって思索と生がそこにおいて始まり展開する根源的な場・トポスとは何かを問い、「他者の原トポス」という観点のもとに新たな存在理解の地平を開明することを目指している。

 本論「存在と他者のトポスヘ」は、序論「他者と存在−神−論」の以上のような思想的展望を踏まえて、「存在−神−論」を超克する形で再度「存在」、「神」、「論」(ロゴス)を各思想家の言説に照らしつつ哲学的に検討する第1部、超越的他者としての神をヘブライ・キリスト教思潮の地平で神学的に検討する第2部の2部構成となっている。以下、論文の構成に即し、氏の議論を要約する。

 第1部「原トポスの哲学−教父・中世哲学と他者」は、学知的言語の確立以前と以後にそれぞれ成立した教父と中世期の哲学的テキストを考察の対象とし、そこに見られる「存在−神−論」を超克する哲学的系譜が探究される。第1章「ニュッサのグレゴリオス」は、4世紀のギリシャ教父であるグレゴリオスの『雅歌講話』が考察の主な対象として取り上げられる。モーセがシナイ山で神と出会う出エジプト記の記述に、無限存在である知られざる神との一致に向かう人間の聴従的で無限背進的な自己変容(エペクタシス)を寓意的に読み取ったグレゴリオスが、本質(ウーシア)と働き(エネルゲイア)の存在論的区別を踏まえながら『雅歌』の花婿と花嫁の相聞において絶対他者との人格的交わりの地平を拓いたことが論じられ、ヘレニズム的本質主義とヘブライ的現実理解の統合がここに豊かに結実したことが指摘される。第2章「アウグスティヌス」は、5世紀のラテン教父アウグスティヌスの『告白』が主に取り上げられる。彼の回心体験の核心には受肉したロゴスとの出会いがあり、それは自己を無化すること(ケノーシス)によってはじめて魂ばかりではなく身体性をも含めた全人間的なレベルでロゴスが転位し新たな生命のことばを鳴り響かせ、さらには個を超えた共同体的な交わりを可能にされたことが論じられ、「告白」という行為が実は他者にすでに知られていた自己が他者を知ろうとする自己無化と自己開被のいとなみであることが明らかにされる。第3章「トマス・アクィナス」は、スコラ学の大成者である13世紀のトマス・アクィナスの『神学大全』における存在理解の問題が取り上げられる。哲学史的にはトマスは「存在−神−論」の完成者と見なされるが、氏は彼の神学に存在(エッセ)と存在者(エンス)との存在論的差異があることを指摘し、神聖四文字をめぐる神名論や否定神学による理性の超越論等の検討によって、学知的判断を超えた他者の現実性の開被があることを論証している。14世紀の神秘思想家エックハルトのドイツ語説教5bが考察の対象とされる第4章「マイスター・エックハルト」では、説教言語の背後にトマス的な学知的言語が伏在していることがまず論証され、存在に対する彼の無の理解が個人の実存的な自己否定と共同体的な生の連帯の根底となっていることが例証されている。

 第2部「原トポスの神学−ヘブライ・新約思潮」においては、他者ないし他者の根拠としての神がユダヤ・キリスト教教典のテキストのなかでどのようにふるまいかつ語られているかが探究され、神の死以後の現代にあって「存在−神−論」がもつ内在的還元主義がいかに乗り越えられ、他者の地平を拓きうるかが論じられる。第5章「他者(アダム)の誕生と喪失−『創世記』に即して」は、『創世記』の天地創造からノアの洪水に至るテキスト構造分析を踏まえて、「無からの創造」という創造理解の根底には他者を迎えるという仕方で自己充足から脱自する神の対面的動態があり、根源悪とはその他者の喪失とかかわることが論じられる。第6章「ハーヤー存在論と他者のエチカ−『ルカ』の「善きサマリア人の譬え」より」では、異邦人であるサマリア人によって律法的な全体主義が乗り越えられるイエスの譬え話の解釈を介して、根源悪を突破する出会いのエチカの在り処としてハーヤー的他者が検討され、神が不変不動の永遠的自己同一者ではなく、自らの彼方へ向けて不断に新たな境界へと脱自していく動態であることが指摘される。第7章「死と甦り−『マルコ』の空虚の墓の物語より」は、イエスの復活と空の墓の物語がはらむ死の問題が取り上げられ、死に直面したイエスの自己無化がなんら外的保証のない形で父なる神への聴従にあったこと、それはとりもなおさず父なる他者を迎え入れることであったことが示され、そこにこそ復活という生命の新たな創生という地平が拓かれることが論じられる。最終章の第8章「プネウマ言語と他者の記憶−『ヨハネ』13-17章」は、受難物語をイエスのショアーととらえ、このトラウマに弟子たちがいかに向き合ったのかという問題を扱い、動的な他者の深みを披き、過去の忘却を甦らせ未来的な希望を創造し、自然の変容をももたらすプネウマ言語に「存在−神−論」を突破する地平を見る。結論「むすびとひらき」は、以上の議論を踏まえた上で、原トポスの否定としての「ウートポス」が促す思索の地平が指摘されている。

 本論文は、以上のようにヨーロッパ精神史を形成した複数の重要なテキストを取りあげ、「存在−神−論」の克服と新しい思考の構築というテーマを「他者の原トポス」という立論から一貫して追及し、独創的な解釈を随所に示しながら、従来にないまったく新しい古典文献学的、哲学的な理解と解釈を提示している。また、たとえばショアーにみられる根源悪というきわめて現代的な問題意識から古典的テキストを読解するという姿勢に貫かれており、さらに自己を超克しつつ新たな自己を開示していくというハーヤー的存在の力動的なあり方が言語に呼び寄せる魅力的な造語と思考のダイナミックな構築にみちあふれており、哲学=愛智の原点へと立ち返らせる稀有な書といえる。

 なお、本論文に対し、将来的展望も含め、次のような問題が審査委員から提示され応答された。第1に、絶対的他者と相対的他者の区別が明確にされていないきらいがあるため後者の占めるべき位置が不分明となっているのではないかという疑問点に関しては、相対的他者が絶対的他者を披く場について今後より詳しい議論がなされるべきことが確認された。第2に、創世記の分析において聖の秩序ばかりでなく汚れの秩序についての考察もなされていれば、創造秩序の中にすでに異物が含まれていたことが一層明確になったのではないかという指摘がなされたが、これに対してはポリフォニーとしての聖書解釈という視点の重要性が確認された。第3に、ロゴスの転移に関する議論において、良き回収と悪しき回収があるように記述されているが、回収には洩れ落ちる事態が必ず付帯するという視点が充分議論の対象になっていないという点が注意された。また、仏教などの東洋思想との比較をもう少し取り入れて論述しても良かったのではないかという指摘もあった。しかし、本論文が、学界に画期的な学問的貢献をすることは確かであり、指摘された箇所は本論文の暇瑾とするにあたらないというのが審査委員全員の意見であった。

 したがって、本審査委員会は、全員一致して、本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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