学位論文要旨



No 215197
著者(漢字) 鹿島,正裕
著者(英字)
著者(カナ) カシマ,マサヒロ
標題(和) 中東戦争との関連における米国・エジプト関係史の研究
標題(洋)
報告番号 215197
報告番号 乙15197
学位授与日 2001.11.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第15197号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 油井,大三郎
 東京大学 教授 恒川,恵市
 東京大学 教授 山内,昌之
 東京大学 教授 山本,吉宣
 明治学院大学 教授 丸山,直起
内容要旨 要旨を表示する

 アラブ・イスラエル間の四次にわたる中東戦争については、日本では戦記物が書かれまた翻訳されているし、ジャーナリスティックな概説書も刊行されているが、政治過程の本格的研究はほとんどなされていない。その原因は、この戦争に関与した国が多数に及び、資料も多くの言語で書かれているため本格的研究が困難なためと思われるが(アラブ語文献を利用した研究はほとんどない)、本論は米国・エジプト関係史の文脈からこの研究課題に取り組んだものである。エジプトは対イスラエル戦争でアラブ側の中核をなしていたし、米国はイスラエルの独立からエジプトとの講和に至るまで後援者の役割を果たしていた。そしてアラブ側がソ連からの軍事的支援に依存したため米ソの直接対決の危機をもたらすなど、この戦争は国際政治上重要な事件であったので、限定的視角による分析であっても大きな意義があろう。

 筆者は、米国及びエジプトに滞在し収集した文献、資料・インタビュー記録を、7年余にわたって読み較べ分析して、中東戦争との関連における米国・エジプト関係史を、外国にもない長期間(ほぼ1947-1979年)についてまとめた。公文書の公開と研究は米国(と英国)がもっとも進んでおり、イスラエルはそれに次ぎ、エジプトではあまり進んでいない。米英・イスラエルの研究書は一応客観的に書かれているが、イスラエルに好意的かアラブ側にも公平であろうとするかの姿勢の違いが見受けられる。エジプト人や他のアラブ人の著作は学術的なものであってもイスラエルや米国に批判的である。筆者は常にこれらの多様な観点からの分析を比較検討し、諸戦争がなぜ、またいかに起こったか、それらを避け、あるいは紛争を早期に解決する道はなかったかを念頭に置きつつ、事実の確定と評価に努めた。

 すなわち、「序」において以上のごとき問題意識・研究方法を述べたあと、「第1章 イスラエル独立戦争と米国」において、イスラエルが1948年に建国するに至る過程及びアラブ諸国との戦争に勝利する過程で、米国のトルーマン政権及びユダヤ系市民が決定的役割を果たしたこと、「第2章 エジプト革命と米国」において、その戦争での敗北が大きな要因となってエジプトで1952年に青年将校によるクー・デタが生じ、その新政権を米国が支援してスエズ運河地帯に駐留する英軍の撤退を実現させるとともに、アスワン・ハイダム建設計画への協力と引換えにイスラエルと講和させようとして密使を派遣する等したことを論じた。

 「第3章 スエズ戦争と米国・エジプト関係」においては、エジプトのナーセル政権が軍事力強化による国際的地位の向上を目指したのに、米英が兵器売却に応じなかったため、ソ連から兵器を入手し始めるや、米英はハイダム建設への協力を撤回したので、エジプトはそれに対抗してスエズ運河会社を国有化する。そこで株主の英仏はエジプトの軍備強化を阻止したいイスラエルと共謀して出兵しナーセル政権を倒そうとするが、米国が強硬に反対して経済制裁により三国軍を撤退させたこと、「第4章 米国のエジプト援助とその停止」では、アラブ連合結成によりいっそう国際的影響力を強めたエジプトに対して、米国は食糧援助等を大々的に行ない、エジプトはソ連と米国の援助競争によって大いに利益を得たが、シリアの離反による失点を挽回しようとイエメン内戦に軍事介入してサウジアラビアをも脅かしたため、米国はナーセル政権と対立し、ジョンソン政権が援助を停止するに至ったことを論じた。

 「第5章 第三次中東戦争と米国の『関与』」においては、イスラエルがパレスチナ人のゲリラ活動に反撃してしばしばシリア領・ヨルダン領を攻撃するのに対して、エジプトが無策を批判されてついに1967年、対イスラエル国境に大軍を送って圧力をかけ、イスラエルの紅海側港に通じるチラン海峡の封鎖を宣言したので、イスラエルは開戦を決意するが、米国が制止した。しかしエジプトにシリア・ヨルダン他のアラブ諸国が同調してイスラエルを包囲攻撃する態勢をとったのに、米国の対応策がなかなか実を結ばないなか、イスラエルは先制攻撃を行なって圧勝したので、アラブ諸国が米国のイスラエルとの共謀を疑って断交するに至ったこと、「第6章 『消耗戦争』と米国・エジプト関係」では、エジプトはイスラエルに占領されたシナイ半島を回復すべく、ソ連の緊急援助で再建された軍事力をもってスエズ運河を挟んだ限定戦争を始めるが、もともと少ない兵員の消耗を恐れたイスラエルがエジプト深部への空襲を行なうと、ナーセル政権はソ連部隊に防衛を依頼する。ソ連軍の中東進出に衝撃を受けた米国は、国交断絶中であったにもかかわらず国務長官をカイロに送り込み、イスラエルとの間に和平の前提条件としての停戦協定を結ばせたことを論じた。

 「第7章 第四次中東戦争と米国・エジプト関係」においては、エジプトでナーセルが死去してサダトが後継者となると、彼はソ連部隊を退去させて米国の支持によりイスラエルから占領地を回復しようとしたが、イスラエルは軍事的優勢を信じて譲歩の必要を認めず、米国も圧力をかけようとしないので、イスラエルを油断させてシリアとともに1973年、戦争を再開する。緒戦の勝利とアラブ産油国の「石油兵器」使用により、米国の仲裁約束を引き出したが、イスラエルがなかなか停戦に応じないのでソ連に再び軍事介入を求め、米国がそれを阻止しようとして直接対決の危機を生じたこと、「第8章 キャンプ・デービッド合意とエジプト・イスラエル講和」では、米国のキッシンジャーの仲介でイスラエルとエジプト・シリア間に兵力引離し協定が結ばれたが、ウオーターゲート事件に苦しむニクソンと後継フォード両大統領は、中東包括和平に取り組む力がなかった。つぎのカーター政権になって、石油の供給確保のためにも中東和平が不可欠と、米国はよりアラブ側に公平な姿勢でイスラエルとの仲裁に取り組む。その結果、1978年にキャンプ・デービッド和平協定、翌年にはエジプト・イスラエル講和を実現したが、キャンプ・デービッド協定が意図した包括和平は、イスラエルの頑なな態度と他のアラブ諸国やPLOの敵対的姿勢によって成果を挙げられなかったことを論じた。

 以上のごとき諸戦争に対する米国とエジプトの政策とその決定過程の特徴を、結論的に終章でまとめた。すなわち、米国は、大統領によって多少の違いはあるが、一貫して(1)ソ連との対抗、(2)イスラエル支援、(3)アラブ産油国との友好、という一部相矛盾する政策目標を追求した。(1)はソ連がナーセル政権のエジプトやシリア等に兵器供給をするようになったためで、エジプトを味方につけようと努力した。(2)は米国内のユダヤ・ロビーの影響力やアラブ人と比較してのユダヤ人に対する文化的・思想的親近感ゆえであり、第三次戦争以降は同国を頼りになる同盟国ともみなした。(3)は西欧が、そして徐々に米国自身も、アラブからの原油輸入に依存するようになったためであるが、(2)と矛盾するために、米国はアラブ諸国とイスラエルを和解させようとして、そしてアラブ急進派をソ連が取り込むのを阻止しようとして、戦争と和平交渉に深く関与するようになった。しかし超大国としての立場と、地域大国を目指すエジプト等との関心・利害の相違もあって、中東の平和を実現できなかった。

 エジプトの場合は、ファルーク王、ナーセル、サダトと指導者によって多少の違いはあったが、(1)軍事的強国たらんとする、(2)それによりアラブの指導国たらんとする、(3)そのために外国の支援を求める、という一貫した政策目標があった。(1)は、1956年まで英国軍が駐留して内政に干渉していたことと、1967年からはシナイ半島をイスラエルに占領されていたために、英国やイスラエルに侮られない軍事力をもちたかったのであり、ナーセル・サダトとも軍人出身で軍部を権力基盤としていただけに尚更であった。(2)はアラブーの人口大国、また工業や文化の発展度も一番という自負から、アラブ諸国の指導権を、第一次戦争前後はヨルダンやイラク、第三次の頃はシリア等、第四次以降はサウジアラビア等と争っていたのである。(3)はさしたる産油国でないため、軍事力やそれを支える経済力を大きくしようと外国の援助に頼ったもの。それにより、米国の助けで英軍の撤退を実現したり、スエズ戦争では戻ってきた英軍と仏・イスラエル軍を米国の助けで撤退させることができた。ソ連から兵器供給やアスワン・ハイダム建設支援を受けて、米国に援助競争をさせることもできたが、アラブの指導権争いから第三次戦争を起こして惨敗する。その後はサウジアラビア等の経済援助によりソ連から兵器の追加供給、消耗戦争ではソ連部隊による防空支援までも引き出すが、結局シナイ半島を回復するために第四次戦争を必要とするなど、外国の援助は高くついた。

 こうした両国の政策の決定過程は、米国では民主主義国として平時は官僚政治モデル、危機の際は合理的アクター・モデルで説明できるが、エジプトは権威主義的政治体制下、大統領個人の独断によるところが大きく、それゆえ失敗することも多かったが、指導者が変われば大きく政策を転換することも可能となった。サダトによる大胆な対イスラエル和解政策の採用は、中東和平に道を切り開くものだった。

審査要旨 要旨を表示する

 鹿島正裕氏の博士(学術)学位請求論文「中東戦争との関連における米国・エジプト関係史の研究」の審査は、地域文化研究専攻から恒川恵市、山内昌之、油井大三郎、国際社会科学専攻から山本吉宣、学外から丸山直起(明治学院大学)の5名で行われ、油井が主査をつとめた。

 鹿島氏の博士論文は、1947年のイスラエル建国をめぐる第一次中東戦争から1973年の第四次中東戦争までの四回に及ぶ中東戦争とその後の講和過程の画期となった1979年のエジプト・イスラエル講和までの全過程をエジプトと米国の関係史を中心に分析したもので、400字詰め原稿用紙に換算すると777枚に及ぶ労作である。

 従来の日本における中東戦争研究は、イスラエル建国をめぐる第一次中東戦争やスエズ運河国有化をめぐる第二次中東戦争の個別的な事例研究の蓄積はあったが、4回に及ぶ中東戦争とその後の講和過程の全体を一貫した筆致で分析したものは初めての試みと評価できる。その際、鹿島氏は、米国側で公開された外交文書や大統領文書、関係者へのインタビューなどを駆使しつつ、主として欧米の学界で蓄積されてきた膨大な二次研究を丹念に渉猟して、独自の解釈を加えている。また、エジプト側の史料については、公文書の公開が行われていないなどの関係で、英文で発表された関係者の回想録や若干のアラブ語文献などの利用に止まっている点は残念である。しかし、従来の研究が親イスラエルの立場と親アラブの立場により歴史的事件の評価が正面から対立する傾向にあったのに対して、鹿島氏は両者の研究を冷静に対照し、できるだけ客観的な分析に徹するよう心掛けている点にも優れた特徴が見出せる。

 そこで、章別構成に従って要旨を紹介した上で、全体的な内容に即した評価を加えてみよう。まず、序章で中東戦争に関する従来の研究動向を概観した上で、独自の問題設定が説明されている。次いで、「イスラエル独立戦争と米国」と題された第一章では1948年のイスラエル建国に関連して発生した第一次中東戦争でイスラエルが勝利する上で米国が決定的な役割を果たしたことが分析されている。「エジプト革命と米国」と題した第二章では、イスラエル独立戦争での敗戦の衝撃がエジプトにおける1952年の青年将校によるクーデターを誘発し、ナーセル政権の誕生を促したこと。米国は当初この新政権を支援し、英軍のスエズ運河地帯からの撤退を助長したことが指摘されている。

 「スエズ戦争と米国・エジプト関係」と題した第三章では、ソ連からの援助で軍事力の強化を図ったエジプトに対して米英両国がアスワン・ハイダム建設への援助を撤回したため、ナーセル政権は対抗してスエズ運河の国有化を強行した結果、英仏、イスラエルがエジプトに軍事干渉して第二次中東戦争が勃発するが、米国はむしろ英仏・イスラエルに圧力をかけ、三国軍を撤退させた経緯が解明されている。次いで、「米国のエジプト援助とその停止」と題した第四章では、1958年のアラブ連合の結成により国際的地位を高めたエジプトは米ソ両国の援助競争を利用して、両国から援助をえて国力を強化したが、イエメン内戦に介入して、サウジアラビアに脅威を与えたため、米国のジョンソン政権はエジプト援助を停止し、関係が悪化した過程が分析されている。

 第五章「第三次中東戦争と米国の関与」では、パレスチナ人のゲリラ活動に関連したイスラエルのシリア・ヨルダン領攻撃に端を発して第三次中東戦争が発生し、イスラエルが圧勝すると、ナーセルは米国のイスラエル支援を非難して、米国と断交するが、エジプト国内では敗戦の責任が問われ、ナーセル政権が弱体化する過程が分析されている。次いで、第六章「消耗戦争と米国・エジプト関係」では、シナイ半島を占領したイスラエルに対して「消耗戦争」を仕掛けたエジプトに対してソ連が空軍力の援助を開始すると、米国は断交中にも拘わらず、イスラエルとの間を調整して停戦協定を結ばせた過程が分析されている。「第四次中東戦争と米国・エジプト関係」と題された第七章では、ナーセルに代わってエジプトの政権を掌握したサダトが対米関係を修復しつつ、シナイ半島の奪還を目指して第四次中東戦争を開始し、アラブ産油国の石油戦略発動にも助けられて善戦した過程が描かれている。また、第八章「キャンプ・デービッド合意とエジプト・イスラエル講和」では米国のニクソン政権期にキッシンジャーの斡旋でエジプトとイスラエル間の兵力引き離し協定が結ばれたものの、包括的和平合意にまでは至らず、それがカーター政権期の1978年にキャンプ・デービッド合意として成立し、翌79年にエジプトとイスラエル間の講和が実現する過程が分析されている。

 最後に、終章で米国とエジプトの政策決定の特徴が整理されているが、米国の場合、それは主としてソ連との対抗、イスラエル支援、アラブ産油国との友好という時には相互に矛盾する政策目標の追求として特徴づけられている。また、エジプトの場合は、軍事大国志向、アラブの指導国志向、そのための外国からの援助志向という政策目標の追求として特徴づけられている。また、政策決定過程の分析モデルとしては、米国の場合、平時には「官僚政治モデル」が、危機時には「合理的アクター・モデル」が妥当するが、エジプトの場合は、権威主義的体制にあったため、大統領個人に決定権が集中し、政策転換が大統領の交代によって可能になる傾向があったと分析している。具体的には、イスラエルに対する軍事的勝利を断念したサダトの政策転換が中東和平の道を切り開いたと評価して結びとしている。

 以上の特徴をもつ鹿島論文に対して、審査の結果、次のような意義をもつものと評価できる。第一には、従来の研究では、米国が一貫して親イスラエル的な立場をとってきたという評価をする傾向が強かったのに対して、鹿島氏は丹念に米国側の動向を分析することによって、米国政府はソ連との対抗やアラブ産油国との友好関係を重視して時にはイスラエルを牽制する姿勢をとっていたことを明らかにした。

 第二に、米国においては概して、民主党政権が親イスラエル的で、共和党政権が親アラブ産油国的とみる傾向があるが、鹿島氏は歴代の米国政権の対エジプト政策の実証研究を通じて、同じ民主党政権でもジョンソン政権の場合は親イスラエル姿勢が明瞭であったが、石油危機後に登場するカーター政権の場合はアラブ産油国との協調を重視して、キャンプ・デービッド交渉では調停役に徹した面を解明している。

 第三に、エジプト側の動向分析を通じて、鹿島氏はナーセルが初めから反米主義者であったわけではなく、イスラエルに対抗する上での軍事援助をソ連から獲得する過程で反米姿勢を強めたように、米ソの冷戦状況を利用して政策を変更していった過程を解明している。また、サダトの政策転換にしても、ナーセル時代の対ソ依存を大胆に転換することで、かえって米国からの支援を引き出し、イスラエルとの交渉を有利に展開した面を解明するなど、国際政治での超大国間対立を巧みに利用したエジプト側の動向を明確にした点もこの学位論文の成果と高く評価できる。

 最後に、従来の研究では個別の中東戦争研究に集中する傾向が強かったため、何故、中東戦争が4回にも渡って戦われたのかという全般的な問いが不明である印象が強かった。それに対して、鹿島氏の研究は、4回にも及ぶ中東戦争を講和過程も含めて、米国とエジプト関係に限定して系統的に分析することによって、エジプトが最終的にイスラエルとの単独和平に踏み切る動機の解明に成功したと評価できるだろう。

 以上の理由から、本審査委員会は鹿島正裕氏が提出した論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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