学位論文要旨



No 215198
著者(漢字) 柴田,寿子
著者(英字)
著者(カナ) シバタ,トシコ
標題(和) スピノザの政治思想 : デモクラシーのもうひとつの可能性
標題(洋)
報告番号 215198
報告番号 乙15198
学位授与日 2001.11.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第15198号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山脇,直司
 東京大学 教授 山本,巍
 東京大学 助教授 森,政稔
 東京大学 教授 門脇,俊介
 日本大学 教授 長尾,龍一
内容要旨 要旨を表示する

1.本書の目的と方法

 本書は、スピノザの政治思想の理論的独創性と歴史的意義を明らかにし、そこから現代のリベラル・デモクラシーに対して、どのようなオルタナティヴが示唆されうるか検討することを目的としている。そのさい筆者がとった観点と方法は、以下の三点である。

 まず第一に筆者は、近代西欧政治思想史および政治哲学の理論的枠組みを参照しつつ議論を展開し、具体的には17世紀に主流を占めた社会契約論やシヴィック・ヒューマニズムにおいて、どのような自然権論、主権論、人民論、政体論、徳論などが展開され、それにたいしてスピノザがどのような異端的解釈を示し、本質的な理論転換をなしたかを検証した。またスピノザ以降の西欧において、かれの思想がいかに無意識的に「抑圧」され、すり替えられて「復活」したかを検証することによって、伏流として存在し続けたスピノザ的な政治哲学のモメントを再発見し、従来の西欧政治思想史を再構築することを目指した第二に筆者は、政治思想・政治哲学と人々の日常的な社会意識とが絡み合って成立する歴史的な現場に接近するため、スピノザをはじめとした各思想家のテキストやテキスト相互間の読解のズレを、歴史的背景とつき合わせて検討するとともに、各思想家による聖書解釈との関連を分析した。第三に筆者は、スピノザ思想の現代性を考えるため、1960年代後半以降盛んになったスピノザ哲学にかんする新解釈の方向性や、それに伴う「ポスト・モダン」的な問題意識を積極的かつ批判的に受け止め、政治思想の領域で発展的に応用しつつ、スピノザの政治思想がリベラル・デモクラシーにたいして示しうるオルタナティヴを構想した。

2.各章の内容

 第一章では、まずスピノザの生涯とその思想の独創性を育んだネーデルラントの歴史的政治的背景を概観し、共和主義的分権制や宗教的寛容などのオランダ的自由について確認した。さらに政治思想においてスピノザが最も大きな影響を受けたホッブズの社会契約論を、スピノザがいかに継承しつつ転換したかを検討した。規範や法に先行する個人主義的な近代的自然権と、それに相合する規範的道徳的な自然法というホッブズの議論を、スピノザは政治的な場における「自然」の必然性によって解釈しなおし、「自然権」とは、ある状況に置かれた有限な個体が現実的にもつ自然の力そのものであり、その内実は、その個体と無数の他者との相互関係が織りなす「自然法」(=自然法則)そのものであるとみなした。その結果スピノザは、ホッブズ的な契約論や代表主権論を、「大衆」の力の合成によって生じる多様で自然的な運動や集合の理論へと読み換え、ルソー的な社会契約論と民主政のヴィジョンへと接近する。

 第二章では、ヨーロッパ啓蒙思想のなかでも、とくに政治・宗教論としてスピノザを継承した傾向が顕著なフランスに焦点をあて、自由思想家、貴族改革派、百科全書派、ルソーと順次各々の思想のなかで、スピノザ思想がどのように受容、誤解、批判され、復活したかをたどりながら、スビノザ思想と啓蒙思想との理論的ズレを浮き彫りにした。それはスピノザとルソーの国家論をめぐる連続と不連続の問題において一つの頂点を迎え、ルソーはスピノザの社会契約論を、市民のあるべき権利と「自由への強制」にもとづく一般意志論という、「公共的啓蒙」のヴィジョンへと読み換えた。しかしスピノザが把握した国家とは、「大衆」による諸力の構成(最高権力)をあたかも一つの全体性のごとく現出させながら、公私の領域区分ばかりか民族・宗教・階層・言語など、あらゆる表象的な同一性を横断して運動し続ける、開かれたダイナミックな編成体だった。

 第三章では、独立戦争から17世紀後半にいたるネーデルラントの政治情勢と政治思想を概観し、とくにオラニエ派と都市貴族派各々の代表的な政治思想とみなされたアルトゥジウスおよびグロティウスにおける、暴君放伐論、人民主権論、立憲主義的混合政体論、自然法論と、スピノザの政治思想との相違を理論的に考察した。スピノザは、共和主義的貴族政やシヴィック・ヒューマニズムにおける公共的徳論の限界を指摘しつつ、政治参加能力がなく市民社会の体系に組み込まれえない「大衆」が形成する社会意識(感情・欲望)の必然的運動を分析する。その結果スピノザは、「大衆」が恐怖や憐憫といった否定的感情を、積極的な喜びや愛という能動感情へと転換する可能性をみいだし、「大衆」の分散性・対立性と政治的統合性とが両立する可能性を展望した。とくにスピノザが、ヘブライ語聖書や福音書の歴史物語をかれ独自の「自然」の立場から読み解くことによって、ユダヤ教やキリスト教ばかりか、すべての宗教が普遍的宗教として機能し、異質な人々のあいだで共同の社会的政治的行動が成立する可能性を展望した点は注目される。

 第四章では、カルヴィニズムとの政治的思想的関係を機軸に、アルトゥジウス、ホッブズ、スピノザ各々の聖書解釈を検討し、それぞれの思想家が、族長契約やシナイ契約、さらにはその後のイスラエル国家の歴史的展開をどのように分析したか、またそれが政治論や権力観とどのような関連にあったかを分析した。それを通じてスピノザが、社会制度による権力の分散・統合・調整の機能や、民族的伝統・習慣・言語などの心的レベルで機能する権力作用を積極的に分析し、同時に権力が日常レベルで生産ないしは解除されるメカニズムを示唆することによって、きわめて現代的な権力観を展開した点を明らかにした。

 第五章では、「自由主義」の政治哲学的基礎のひとつである「自由な自己」というアイデンティティの概念と、スピノザにおける政治哲学的な「自由」の概念との相違を検討した。またそれに関連する限りで、フォイエルバッハ、ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、現代のアイデンティティの政治思想などと、スピノザとの理論的関係を論じた。まず現代の政治哲学的視点から考察した場合、スピノザの自由意志論批判の眼目は次の点にある。それは人間の主体的な自由意志とそれを越えたより大きな主体(神、理性、市場、国家、歴史など)とが相互に追認しあう理論体系は、結局大きな主体への人間の従属に帰着することである。スピノザの「エティカ」の政治哲学的な目的は、そうした「自由な自己」意識による他者への従属から、真の自由への方向転換にあり、自我・国家・民族・階層・道徳など、さまざまなアイデンティティ(およびそれにともなう差異の意識)が、他者から発せられ決定されるメカニズムを認識し、それによってその意識を解除・転換することにある。そのメカニズムを分析するためスピノザは、まずデカルトの心身二元論を排し、身体=精神の具体的な「定まり」の場であり、自己と他者が実在的に関係しあう場を「コナトゥス」という概念で理論化した。そして個人や集団の「コナトゥス」において、さまざまな表象(感情・欲望)が類似・対立・複合しながら連動・成立し、日常的習慣として集積される力動性、組織性、規則性を詳細に分析した。人間は、この「コナトゥス」の機能変化を自ら感じ認識することによって、自己内外の数々の固有性や活動性が、「自然」の無限性・必然性によって基礎づけられていることを直観し、真に普遍的な認識(理性)へと開かれうる可能性をもっている、とスピノザは考えたからである。

 第六章では、近代西欧政治思想史の系譜において論じられてきた平等の概念と、スピノザが提示している「同等性」の概念の相違を論じた。近代的な平等概念は、自然的社会的平等と政治的平等とを無媒介に同一視することによって、なんらかの政治的能力とそれにもとづく同一性と排除の構造を、国境の内外に設定せざるをえなかった。これにたいしスピノザは、「自然権」の無限の多様性・差異性とその存在論的な「同等性」、ならびに政治的な領域における公的自由としての「同等性」を区別した上で、国家を両者の連動性が現出する場とみなした。それによってスピノザは、デモクラシーが「無規定で絶対的な平等」(シュミット)や「社会的画一化や専制」(アーレント)に転落する可能性を回避しようとしたのである。

3.結論

 以上のように、スピノザは国家を、多様な存在論的差異(=自然権)をもった多数者=「大衆」が邂逅し、民族・宗教・言語・伝統・階層・文化・ジェンダーなどを機軸とした数々の抽象的な表象を成立させながら、それにともなう権力の形成・喪失の運動を繰り広げる場と捉え、その変動をもっとも顕著に現す政体をデモクラシーとみなした。それはなんら規範的な概念ではなく、その様態は「大衆」が現実的に表象=力をどのように連結・結集させるかにかかっていたが、それゆえにこそデモクラシーは、抑圧的・闘争的・閉鎖的ではなく、多元的・平和的・開放的で、多様性や異質性を内包しつつ変動する政治システムとして成立する可能性を秘めていた。後者のようなデモクラシーは、社会的な画一性や平等ではなく、政治的同等性にもとづいて成立する。しかし政治的同等性は、一般的抽象的なアイデンティティやそれと相互補完的な社会的差異によって、たえず毀損され易いため、政治的同等性を維持する方策こそが重要だった。スピノザはそのための具体的な考察や提案として、一方では、法・制度・組織・習慣等における様々な工夫を、また他方では、宗教をはじめさまざまな表象から直観知や理性へいたる実践的な倫理を提示した。それは、西欧近代政治思想において後に主流を占めていくことになる国民国家論や代表制民主主義、あるいは公共的市民や自由主義を前提とした民主主義とは方向性を異にする、きわめて今日的なデモクラシーのヴィジョンを示唆している。

審査要旨 要旨を表示する

論文題目「スピノザの政治思想--デモクラシーのもうひとつの可能性」

 近代西洋思想史上不朽の位置を占めるスピノザについて、『神学・政治論』や『国家(政治)論』に代表される彼の政治思想を包括的に論じ、かつ『エティカ』に代表される彼の哲学との関連をも検討した研究は、これまでほとんどなされてこなかった。少なくとも我が国の政治思想史家にとって、スピノザはホッブズ、ロック、ルソーに代表される社会契約説の中の異端ないし亜流程度にしか扱われてこなかったし、哲学研究者にとって、スピノザはデカルト批判、汎神論、あるいはドイツ観念論等々の関連で重要な思想家とみなされる一方、彼の政治思想はごく付随的にしか言及されてこなかった。本論文は、こうしたギャップを埋めるべく、スピノザの政治思想を、彼の哲学との関連を十分考慮しながら本格的に論考した重厚で画期的な力作・研究書である。

 論者は、序章(はじめに)で、1960年代後半からフランスを中心に起こったポスト・モダン的ないしネオ・マルクス主義的なスピノザ読解に一定の評価を与えつつも、それが、スピノザにおける社会契約説を性急に否定したり、彼の政治・宗教論を正面から取り上げて分析しなかった点を批判し、精緻なテキスト・クリティークや当時のネーデルランド(オランダ)の政治や思想状況の周到な考察に基づいて、スピノザが社会契約説を否定したのではなく、むしろその意味を変形させながらその現実的機能を肯定的に継承しようとしたことを明らかにし、その上で、リベラル・デモクラシーに代わるもう一つのデモクラシー論をスピノザから引き出すことを、本論文の大きな狙いと明言する。そして論者は、そうしたスピノザの独創性と意義を、ホッブズやルソーなどの社会契約説との異同、ネーデルランドの代表的共和主義者(シビック・ヒューマニスト)との対比、独自の旧・新約聖書解釈と宗教論、存在論的観点からの他の現代政治思想との対比、等々の作業を通して浮き彫りにしていく。

 第1章では、17世紀半ばのネーデルランド共和国に生きたスピノザが、彼に先立つホッブズの社会契約説のキー・コンセプトを用いながら、その意味内容のラジカルな改変によって、全く独自の社会契約説を構想したことが論じられる。論者によれば、スピノザの政治論の目的は、何よりも、国家(civitas)の最高権力(summa potestas)とその制度とが大衆(multitudo)の感情と力にどのように依拠して構成されているかを知ることであり、彼はそのための理論的素材を、当時評判の芳しくなかったホッブズの国家論にあえて求め、ホッブズの言う自然権(naturale Jus)を、「可能な限りでの個人の身体的精神的能力の総体」と改釈した。スピノザはホッブズの社会契約説の核心を、臣民の力の総和以上の力を政府が行使すれば、抑圧、独裁、隷属といった事態が生まれ、逆に臣民の力の総和が政府の力よりも大きければ内乱、闘争、政府の無力や不安定などが帰結する点にあるとみなし、ホッブズ同様その実例をピューリタン革命の顛末に見出していた。しかしスピノザは、臣民(subditus)の自然権という力(potentia)の総和と政府(Supremus Magistratus)の力とのバランスで統治形態のあり方を考えようとしたホッブズと異なり、自然権の総和そのものを最高権力とみなし、構成員全員が平等で水平的な結合を常に保ちながら、放棄した自然権の総和が、あたかも一つの統一的な意志と力を形成し続ける運動のプロセスを表す社会契約の方式を案出した。このような政治体制において、一個人は市民(civis)と臣民という二重の規定を持つことになる。

 かくして論者は、スピノザの社会契約論がルソーの人民主権的な社会契約論を先取りしていたことを認めつつも、重要な点でルソーのそれとは異なっていたことを、第2章で明らかにしていく。論者によれば、ルソーの一般意志論と違って、スピノザの国家論においては、個々人の欲望が公的領域の下に一括されるのではなく、個々人の私的欲望とその多様性・異質性がたえず編成され続けることが前提とされ、国家も、私的な領域から分離された公的でナショナルな領域で成立するものではなく、さまざまな位相や領域で繰り広げられる大衆の自己保存力に基づく活動が織り成す力の諸関係とみなされる。したがってスピノザの社会契約説は、民族・文化・宗教・言語等々における異質性を抑圧的に統合するのではなく、それをダイナミックに変動可能な多元的システムとしていかに政治的に連結させていくかという今日的課題に十分対応しうるものであると、論者は指摘する。

 さて、スピノザの社会契約説がルソー型の人民主権論と異なるばかりでなく、アルトジウスに代表されるネーデルランドのシヴィック・ヒューマニズムとも異なることを、スピノザの宗教論に着目しつつ論考したのが、本論文の圧巻とでもいうべき第3章である。この章でキー・コンセプトとなるのは、シヴィック・ヒューマニズムの人民(populus)と対比される大衆(multitudo)という概念であり、それは、人民が政治体に参画しうる資格をもつ多数の人々を意味するのに対し、国家において政治的権能をもちえない人々を集合的に指し示す言葉として理解される。そして、この「大衆」に独自の宗教観・倫理観を付与し、それを政治を動かす主要な担い手と考えたところに、スピノザ政治思想の最大の特徴が存する。『神学・政治論』執筆後に大幅に加筆修正したといわれる『エティカ』第三部以下の感情論と関連させながら、論者は、スピノザが共和主義的な徳ではなく、大衆の能動感情に基礎を置いた政治論を展開しようとしたことを強調する。大衆を相互に対立させる受動感情ではなく、大衆を相互に和合させる能動感情こそ、「悲しみと憎しみ」の共同体(国家)ではなく、「喜びと愛」の共同体(国家)を生み出す根本的な動因である。この点、ホッブズの掲げる規範が、他者に対する消極的な禁止と自己に対する受動的な禁欲であったとすれば、スピノザの掲げる規範は、他者に対する積極的な働きかけと自己に対する能動的な愛であった。そしてスピノザにとって、大衆における能動感情の典型的形態は、敬虔(pietas)と宗教心(religio)であり、それは、神を愛する自分と神の関係の意識であるとともに、それを介して自己と他者(物)との関係を適切に設定し、みずからの欲望を制御していく社会意識に他ならなかった。

 論者は、このようにスピノザの倫理観と政治論を関連させながら、さらに彼の旧・新約聖書解釈に着目することによって、そのテーゼを補強しようとする。批判的聖書学の古典として現代の聖書学者からも評価されているスピノザの『神学・政治論』の趣旨は、何よりも、ヘブライ語聖書をユダヤ教のエスノセントリズムから、また福音書を閉ざされた党派的キリスト教からそれぞれ解放し、それらのメッセージを普遍宗教(Catholica Religio)として解釈し直すことにあった。普遍宗教とは正義と隣人愛の実践を通して神を崇拝する宗教を意味し、それは「全人類に共通する宗教」であって、当時のカルビニズムにみられるような独善的・排他的宗教ではない。スピノザは、このような普遍宗教を、ルソーの市民宗教のように主権者によって新たに樹立されるべきものとは決して考えず、むしろ既成の宗教の存在をあまねく認め、すでに大衆のあいだで機能する可能性のあるところに見出そうとしていた。この章の本論末尾で論者は、こうしたスピノザの普遍宗教論が、300年以上も経った現在でも緊急の課題であることを示唆している。

 以上の三章が、論者による思想史的観点からのスピノザ政治思想の評価だとすれば、残りの三章は、現代社会思想のコンテキストにおけるスピノザの意義についての幅広い論考にあてられる。まず第4章で、論者は、聖書のエクリチュールを社会契約論のエクリチュールに転換させたスピノザ政治思想の特質の一つは、権力が人々の意識の中で作動する現場についての反省的認識であったという見地から、彼のポイントがどこまでも自由な大衆(libera multitudo)の服従によって生成する権力の解明に置かれていたにもかかわらず、それが現代のフーコーの権力論にも通じる「日常的権力の解析学」として理解されうることを指摘する。そして続く第5章で、論者は、スピノザと他の有力な現代政治思想との違いを、スピノザの「差異の形而上学」と個別的な「身体=精神」論に求めていく。論者によれば、スピノザの汎神論は、ドイツ観念論が誤解したのとは反対に、差異を認める形而上学的な「個体主義(individualism)」であった。スピノザの哲学の大前提は、人間の選択の自由に先立って第一義的に、人間内部と外部に存在するすべての差異を必然性として位置付けることであり、スピノザは、目的論を排除した形而上学を通しコナトゥスやその場に生じる欲望や感情のすべてを基礎付けたことによって、他者と異なる一個人を、さらにまた一個人内部におけるきわめて差異に富んだ場を概念装置として設定し得た。このような差異の形而上学と個別的な心身合一論という存在論的観点によって、スピノザは現代において、均質な普遍的主体を想定する自由主義者とも、ニーチェ主義的な闘争的政治思想(コノリー)とも区別される独自の政治思想を提供しうると論者は考えるのである。そして、最終章(第6章)で打ち出されるのは、そうしたスピノザ政治思想の現代的意義である。論者はそこで、神即自然という形而上学の地平で多様な自然権を捉えるスピノザの政治思想が、エコロジカルな平等論を内包している点や、異質な大衆の共存から成る民主政の可能性を示唆している点で、リベラリズムにはみられない現代的展望を持つ新しいデモクラシーの可能性をスピノザに見出すのである。

 以上のように、本論文は繊細かつ大胆な叙述と骨太の諸テーゼによって貫かれた内容の濃い力作であり、明らかに従来のスピノザ研究の限界を突破するエポックメイキングな研究書と言ってよい。論者は、あくまでもスピノザの原書読解に即して自らのテーゼを明快に打ち出すと共に、総計で30頁にわたる豊富な註釈が示すように、スピノザ研究の最先端の動向(1999年まで)に十分配慮しながら、自らのテーゼの独創性を検証している。スピノザにおける政治論と宗教論と形而上学の統合的把握に成功したことによって、本論文は、従来の政治思想史と哲学史にみられるような一面的で平板なスピノザ像を大きく塗り替えるものとなろう。そしてまた、自由主義(リベラリズム)が先進諸国の支配的な政治思想にのし上がる一方で、文明間衝突の危機を回避すべく諸宗教の対話や相互理解が大きな課題となっている冷戦終了後の今日、政治と宗教の関連を根源的に解明し、異質なものどうしの共存を謳う新しい民主主義の可能性をスピノザに見出した本論文は、もし英訳されるならば、国際的にも注目されることであろう。

 もちろん、このような優れた論文にも、細部に問題点がないわけではない。たとえば、論者によるスピノザとカール・シュミットの政治神学との関連づけには疑問の余地があり、また論者の自由主義(リベラリズム)やニーチェ主義の理解にはやや性急で平板なところが見受けられる。特に論者が後半部で主要な標的としている自由主義(リベラリズム)が、専ら自由意志を強調する立場からのみ特徴付けられているのはやや一面的であり、その点に対して自由主義者からの反批判が十分考えられよう。また、「現象の記述」と「規範」という哲学的アポリアや争点に関して、スピノザの思想からどのようなことを言い得るかについて、もう少し踏み込んだ言及がなされてもよかったように思われる。

 しかし、これらの問題は本論文のテーマにとってはどこまでも枝葉の部分にすぎず、上述したような骨太のテーゼに貫かれた本論文の価値を損なうものでは全くない。本論文は今後、スピノザ研究者のみならず、スピノザを専門としない政治思想史家や哲学研究者にとっても必読書となるであろうし、政治と宗教の関係を根源的・哲学的に考えようとする知識人にとっても有力な指針となり得る鋭い内容を備えた作品である。したがって本審査委員会は、本論文の執筆者である柴田寿子氏が博士(学術)の学位を授与されるにふさわしいと認定する。

UTokyo Repositoryリンク