学位論文要旨



No 215200
著者(漢字) 吉田,ゆり子
著者(英字)
著者(カナ) ヨシダ,ユリコ
標題(和) 兵農分離と地域社会
標題(洋)
報告番号 215200
報告番号 乙15200
学位授与日 2001.12.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15200号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 五味,文彦
 東京大学 教授 藤田,覚
 東京大学 教授 村井,章介
 東京大学 教授 久留島,典子
 史料編さん所 教授 宮崎,勝美
内容要旨 要旨を表示する

 16世紀から17世紀の在地社会の変容を、兵農分離という社会変動を軸に検討する時、注目される研究動向は次の二つである。一つは、統一政権の形成主体を、中間層の動向から説明しようとするもので、主として中世史研究の側から提示された。この研究では、中間層に「小領主」という概念を用いて兵農分離を論じた。しかし、論者によって「小領主」概念の示す歴史的実体は必ずしも一定ではなく、「小領主」という言葉が一人歩きしたため、かえって16世紀後期から17世紀前期の社会構造をとらえにくくさせることになった。二つめは、主として近世史研究の立場から示された、百姓の自治理念と近世領主による支配理念との交錯から、当該期の在地社会の変容を解明しようとする研究である。近年ではこの方向をさらに推し進め、惣村の自治を担った中間層に再び焦点をあて、村の地下人・百姓と身分的に区別された「侍分」として中間層をとらえ、村の共同運営に果たした「侍分」の役割を解明することから、兵農分離の動向を見通そうとする動向となっている。しかし、こうした研究においても、「侍分」の歴史的実体を確定しないまま議論されているため、「小領主」ではなく「侍」身分であるがゆえに兵農分離という社会変動に果たした役割を十分に明らかにするには至っていない。

 そこで本論文では、中間層の歴史的実体を確定するために、国人と土豪・地侍という二つのレベルを明確に区別し、それらと惣村との関わりに注目しながら、帰納的に16世紀から17世紀の在地社会の変容を解明することを課題とした。

 まず、第一編「国人領主と狛野荘」では、国人狛氏とその本貫地である南山城の狛野荘南荘(上狛村)との関係を扱った。狛氏は、織田信長から狛野荘の知行を安堵されていたが、本能寺の変後、秀吉の安堵を受けずに太閤検地によって知行権を没収された。狛氏に所持権が認められた土地は、居城の跡地にすぎなかったが、仕官の機会をうかがいながら本拠地に留まった。一方、中世末に狛野荘南荘の範囲で形成された惣中は、狛氏の「下知」を仰ぎながら、「下司代」・「おとな」・「中臈頭」という土豪層によって運営されていた。かれらの多くは狛氏の被官となり(「狛連中」)、惣中では身分的に「侍中」と呼ばれる層を構成して、「百姓中」とは神事の桟敷の座順などで差別化をはかっていた。太閤検地を経てもこうした「侍中」は在地に残り、「百姓中」の成長に脅かされながらも、狛氏の権威を背景に、惣中を運営していた。ところが、天正年間に来住した浅田家が庄屋に任じられると、領主権力と結んだ浅田家は17世紀後期から急速に経済力を増し、これにとってかわられるように「狛連中」の地位は衰退していく。しかも、寛文11(1661)年に織田家への仕官がかなった狛氏が、城跡の経営を「狛連中」に任せて、大和国宇陀郡松山城下へ移住していくと、「狛連中」の地域社会に及ぼす力は薄れていった。「狛連中」は、実体のなくなった狛氏を精神的紐帯として結束を固めようとしたが、むしろ地域社会において「百姓」と区別された地位にあることを表象するものは、惣村の伝統的な身分階層ではなく、新たな基準で藩権力によって与えられた「無足人」という身分であった。

 この狛氏と狛野荘との分析を通じて、すでに16世紀段階で武士団に組み込まれていた国人層は、たとえ統一政権への出仕を一旦は逃したとしても、武士化の志向をきわめて強く持ち続け、機会をみては大名に仕官しようとしていたこと、しかし武士化を遂げて在地を遊離していっても、経済的吸着の対象として関係を断ち切ることができないという皮肉な構造が、国人と本貫地の間に存在したことを明らかにした。一方、在地においては、国人に被官化することで「侍中」身分を形成した土豪層が惣村を運営していたが、実質的権力が失われていくと、百姓身分でありながら武士としての標識である苗字・帯刀を公的に認められることによって、「百姓中」との差異化をはかろうとしたことを示した。なお、従来は苗字・帯刀する百姓を「郷士」としてひと括りに理解してきたが、藩が設定した下級藩士としての郷士制度とは別に、山城国においては京都町奉行所が帯刀改めの結果認定する「浪人」、「郷侍」が存在することを明らかにした。

 第二編「地侍と上神谷」は、国人より下位レベルの地侍層と惣村との関係に焦点をあて、和泉国大鳥郡上神谷の小谷氏と上神谷を素材として、16〜17世紀の地域社会の変容を検討したものである。上神谷は若松荘と荘城が一致するが、惣村としてのまとまりは上神谷上条と下条という二つの地域に分かれる。さらに上条・下条それぞれには垣内集落があり、これが太閤検地を経た17世紀前期に、支配単位としての「村」として把握されるようになるのである。一方小谷氏は、小谷城主であったという伝承を持ち、17世紀半ばに150石余の持高を有し、「触頭」も勤める上神谷で突出した百姓であることから、従来は大庄屋層=「在地小領主」範疇でとらえ、中世における在地社会への支配力を近世領主が利用し、小谷氏を大庄屋とすることで広域支配を担わせたと理解されてきた。ところが、16世紀の上神谷上条の実態を検討すると、「殿」付の国人領主層のもとで、苗字を有する「谷ノ年寄衆」=地侍層が中心となり、苗字を持たない名主百姓とともに惣村を構成していたことが明らかになる。その中で、小谷氏は「谷ノ年寄衆」の一人にすぎず、しかも苗字を帯びるようになる時期も他の地侍より遅いことが判明するのである。16世紀後期に至り、国人領主層が織田信長の家臣化して上神谷を去っていったあと、小谷氏は上神谷の「山代官」に任じられる。そして、近世領主権力を背景とした地域社会への権力を増大させ、山年貢収取を梃子とした土地集積を推し進め、上神谷上条の宮座も実質的に支配下におさめていく。こうして、急速に力を伸ばしていった小谷家は、自らの系譜を創作し、上神谷の「城主」伝説を主張するようになるのである。

 こうした事例をみると、従来のように近世前期の大庄屋的な、一定の地域的まとまりに社会的権力を持つような存在を「小領主」であるととらえ、それが兵農分離以前の社会から同様の存在であった、ないしは兵農分離以前の「城主」であったと安易に理解できないことがわかる。むしろ、惣村は地侍層が家父長的支配を及ぼす垣内集落の集合体であり、それを地侍層を中心とする名主百姓が「年寄衆」として垣内を越えて集団で運営していた。ところが、地侍層の中で統一政権の在地支配を担うことで急成長する者が現れ、その後の地域社会のヘゲモニーを握る権力主体となっていくということを指摘した。

 第三編「土豪と伊那谷」は、土豪層が家父長的な支配を及ぼす垣内集落を形成しながら、惣村というまとまりには至らなかった地域における、16世紀末から17世紀前期の地域社会の特質を明らかにしたものである。素材は、信濃国下伊那郡の天龍川東岸に位置する虎岩郷である。この地域は伴野荘に含まれ、隣郷の知久平郷を本拠地とする守護知久氏が支配していたが、16世紀後期に武田氏、織田氏、五カ国領時代の徳川家康と、次々に侵攻する戦国大名に知久氏と土豪層が被官化することになる。特に、飯田城主となった家康直臣菅沼定利は知久氏を追い落とし、知久平郷や虎岩郷の土豪層を軍役衆として掌握した。しかし、家康の関東転封に際し、これらの土豪層はほぼ全員在地に残り虎岩村の本百姓(「年貢請負人」)になり、その内最大規模の平沢氏が近世の肝煎になっていく。とはいえ、虎岩村は谷や洞に分断されながら点在する、土豪が家父長的な支配を及ぼす「平」という集落=垣内集落の集合体であるために、村が支配単位として実質的に機能しにくかった。そのため、17世紀段階では、「村請制」ではなく「年貢請負人」が実質的に年貢を個別に請け負う特異な体制がみられたことを明らかにした。

 最後に、以上の結果をもとに、在地社会の動向を兵農分離という観点から見直すと、以下のようになる。在地領主である国人層は統一政権の家臣となる志向性を強く持っており、大名の家臣団に入るか、家康に出仕して旗本になるなど、武士化を遂げることになる。しかし、こうした武士化の機会はそれぞれに異なっていた。そのため、出仕の機会を逸し在地で百姓として太閤検地を請けたとしても、地域の百姓との差異化をはかろうとし、庄屋役も勤めない場合も多い。そして、執拗に武士化の機会をうかがうのである。一方土豪層は、垣内集落を基盤とし、経営に密着していたため、地域の利害を守る方向で動く。国人領主や戦国大名家臣への被官化も、土豪層が垣内集落内で百姓層に対抗して主導権を握るための権威を添える役割を果たすことにはなれ、領主化の契機にはなりにくかったものとみられる。そして、土豪層の中でも、統一政権と結びついた者、しかも領主としてではなく百姓身分にあって在地支配を担う役割を与えられた者が、その後の地域社会のヘゲモニーを握る社会的権力として成長していくのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は16世紀から17世紀にかけての日本の中世・近世移行期を対象にして、兵農分離を軸とした社会変動を、国人と侍衆という二つの中間層の差異に留意しながら、地域社会の在り方に沿って考察を試みたものである。全体は、従来の研究の整理と問題点の指摘をした序論に続いて、三つの編と補論とからなる。

 第一編の「国人領主と狛野荘」は、南山城の狛野荘を基盤とした国人領主狛野氏と侍衆を素材に、惣村との関係について考察している。第一章では、侍中と百姓中という階層区分に着目し、狛氏の旧臣である侍衆(狛連中)が百姓中の台頭にあってどう動いたのかを追う。第二章は、上狛村が16世紀から17世紀にかけて村落としてどのように展開していったのかを、太閤検地帳や、村の四つの株への分化の状況、新たに突出した存在となる浅田氏の動向などの分析から検討する。第三章は、狛氏が17世紀の後半に織田家の家臣となって上狛を離れた後も、狛連中との関係を幕末まで維持したことの意味とその意識とを明らかにし、最後の第四章では、京都町奉行所が山城一国で実施した帯刀改めを取り上げ、在方の浪人・郷侍・帯刀人の区別や無足人の性格を明らかにしている。

 これらは新たに国人や土豪・地侍を弁別した上で、中世・近世移行期の地域社会の変化を捉えた点で大きな意義が認められる。

 第二編の「地侍と上神谷」は、和泉国大鳥郡上神谷を素材として兵農分離による在地社会の変動を検討している。16世紀の小谷氏は国人領主のもとで谷の年寄衆(地侍)の一員に過ぎなかったが、太閤検地の村切りを経て上神谷13ヶ村が成立すると、山代官に任じられて宮座の主導権を握り、17世紀には急成長を遂げたことを明らかにした。

 これまで小谷氏を大庄屋などの中間的な支配機構と同列に見ていた通説を批判し、その性格を明快に示した点で貴重な成果である。

 第三編の「土豪と伊那谷」は、信濃国下伊那郡虎岩村を素材にして、畿内の惣村型とは異なる地域における社会変動を検討する。最初に戦国初期の土地台帳、徳川家康による天正検地などの分析によって、土地所有と知行制の在り方を探り、これらが兵農分離によってどう変化していたのかを考察し、旧土豪層が在地社会における支配の末端に位置づけられてゆく様相を明らかにしている。次に17世紀の虎岩村の社会構造の分析から、年貢請負システムの変化を明らかにし、最後の補論では、虎岩村の役屋が、年貢負担者のうちでも百姓役を勤める者に限定されていたことについて論じる。

 このように本論文は、従来その重要性が認識されていながらも十分取り組まれてこなかった課題に対して、山城・和泉・信濃の三つの地域を素材にして分析し、精緻な実証研究を行ったものと指摘できる。また中間層については、その具体的な内容や差異に注意を払わずに一括して「小領主」として論じてきたこれまでの動向を批判し、国人と土豪・地侍とを弁別して地域社会の変化を跡づけた点で意義が認められる。さらに在地社会においても侍・武士意識が社会的結合に大きな構成要因となっている事実を解明した点は、今後の身分制研究などに重要な論点を提供している。

 ただ村落論や中間層論などについての理論的な見通しがやや欠けることから、全体の動きが今一つ明らかではないという問題点は残るが、それらは今後の課題として、本審査委員会では上記の顕著な成果に鑑み、本論文が博士(文学)にふさわしいものとの結論に達した。

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