学位論文要旨



No 215208
著者(漢字) 竹端,寛治
著者(英字)
著者(カナ) タケハナ,カンジ
標題(和) 遠赤外分光法を用いた強磁場下におけるスピンパイエルス物質CuGeO3の研究
標題(洋)
報告番号 215208
報告番号 乙15208
学位授与日 2001.12.14
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第15208号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 内野倉,國光
 東京大学 教授 宮下,精二
 東京大学 教授 三浦,登
 東京大学 教授 藤井,保彦
 東京大学 助教授 為ヶ井,強
 東京大学 助教授 岡本,博
内容要旨 要旨を表示する

 磁性体において、スピン間に働く相互作用の次元性はその物性、特に磁気的特性を決定する重要な要素の一つである。磁気的異方性の強い低次元磁性体においては、その低次元性により量子揺らぎが顕著となり、強磁性や反強磁性などの磁気秩序が現れにくくなる。特に、特定一方向の磁気的相互作用が他方向の相互作用に較べ無視できるくらい強い一次元磁性体においてその傾向が顕著に現れ、スピンパイエルス転移や、ハルデンギャップ等の興味ある磁気的特性が発現する。CuGeO3は無機物質で初めてスピンパイエルス転移が発見された物質であり、この物質では中性子非弾性散乱や不純物置換が可能となったため、それまでの有機スピンパイエルス物質では得られなかった詳細な磁気的励起スペクトルの観測や不純物置換効果などの重要な知見が得られている。しかし、強磁場中で現れる不整合相に関する研究などが必ずしも十分でなく、またスピンパイエルス転移発現と密接に関連しているスピン−フォノン結合モードが観測されない。

 本研究では、スピン−フォノン結合モードの観測とその特性評価によるスピンパイエルス転移発現機構の解明を目的とし、CuGeO3に関して、二量体相、及び不整合相にわたる広い温度および磁場範囲で偏光測定も含めた遠赤外分光測定を行った。この研究を行うため、金属材料技術研究所(現 物質・材料研究機構)強磁場マグネットを利用した高精度な強磁場中遠赤外領域分光装置を開発した。

 遠赤外分光の温度変化の測定からは、スピンパイエルス転移に伴って44 cm-1、63 cm-1、98 cm-1、284 cm-1、312 cm-1に新たな吸収線が現れ、温度の低下と共に吸収強度の増大が観測された。これらのうち、44 cm-1の吸収線は一重項基底状態から三重項励起状態への光学遷移による磁気的励起、284 cm-1と312 cm-1の吸収線は折返しフォノンによる吸収と同定されていた。一方、63 cm-1、及び98 cm-1における吸収線は本研究により発見されたものである。後者については、低温低磁場下で実現する二量体相における吸収線の温度磁場依存性から折返しフォノンによるものと同定した。他方、前者の吸収線について、二量体相での温度及び磁場依存性またそのエネルギーや吸収線の形を解析することで、一重項基底状態から連続帯状態への光学遷移による磁気的励起によるものと同定された。この磁気的励起が光学的測定により観測されたのは初めてである。

 強磁場誘起の不整合相での吸収線の詳細な測定からは次の点が明らかにされた。即ち、既知の折返しフォノンでは分裂しないのに対し、98 cm-1の折返しフォノンのみが不整合相で分裂を示すことを見いだした。この分裂の分裂幅は不整合相における不整合性に比例する。この不整合相での特異な分裂を解析した結果、この98 cm-1の折返しフォノンが強いスピン−フォノン結合を示す、即ち、本研究で新たに発見された98 cm-1の吸収線はスピンパイエルス転移を引き起こすスピン−フォノン結合モードであると同定された。CuGeO3におけるスピンパイエルス転移発現を明らかにする上で重要な発見である。

 低濃度不純物置換されたCuGeO3における98 cm-1の折返しフォノンの分裂や強度変化などの挙動を調べることにより、低温低磁場相や高温低磁場相、また未だに明らかになっていない低温強磁場相や高温強磁場相の特性を調べた。その結果、低温低磁場相での98 cm-1折返しフォノンの吸収強度の減少から反強磁性秩序とスピンパイエルス秩序の競合が示される。折返しフォノンの強度変化からこのような競合が示されたのは初めてである。また、低温強磁場相、及び高温強磁場相における98 cm-1折返しフォノン分裂の磁場依存性を解析した結果、スピンソリトンと不純物間の相互作用の存在が示唆された。その相互作用は、高温強磁場相に較べ低温強磁場相においてより強いことが示された。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、"遠赤外分光法を用いた強磁場下におけるスピンパイエルス物質CuGeO3の研究"と題し、スピンパイエルス物質CuGeO3の二量体化相(D相)から不整合相(IC相)にかけての強磁場下における遠赤外分光測定や磁歪測定を中心とした物性測定に関する研究をまとめたものである。

 表題中のCuGeO3において1993年に無機物質では初めてスピンパイエルス転移が発見された。この物質は従来の有機物スピンパイエルス物質とは異なり、比較的容易に数センチメートル程度の良質の単結晶試料が生成されることや、GeサイトをSi原子、CuサイトをZn,Mn,Mg等の不純物原子で置換することが出来ることなどから、擬一次元S=1/2反強磁性量子スピン系に対する興味を一新する良いモデル物質として精力的に研究が行われ、特に中性子散乱実験による詳細なスピン励起の解明や不純物置換効果が与える影響など重要な知見が得られた。また、それまでのスピンパイエルス物質では十分な研究が行われていなかったIC相に関して、この物質の発見により強磁場下における中性子散乱実験などの様々な研究が行われ、解明が飛躍的に進んだ。しかしながら、この物質はスピンパイエルス転移発見当初から精力的に探索が行われたのにも関わらずスピンパイエルス転移を引き起こしているスピン−フォノン結合モードの解明が十分ではなかった。本研究はこれらの背景を受け、この物質におけるスピンとフォノン間の相互作用のメカニズムの解明のためスピン−フォノン結合モードの発見を目的とし詳細な遠赤外分光測定を行った。同時に新たな折返しフォノンモードや磁気的励起の発見を目指した。また、それらのモードのD相からIC相にかけての挙動を調べるため強磁場下における遠赤外測定を行った。更に、スピンパイエルス転移に伴い導入される自発歪みのD相からIC相にかけての変化を調べるため強磁場下における磁歪測定も行った。

 論文は5章から成る。

 第一章は"序論"であり、これまでのに関する研究経緯、および本研究の目的が述べられている。

 第二章は"実験方法"と題し、本研究で行った強磁場下における遠赤外分光測定や磁歪測定に関する詳細が述べられている。

 第三章は"強磁場遠赤外分光測定の結果と考察"と題し、この物質のD相からIC相にかけての強磁場下における遠赤外分光測定に関する実験結果、およびその考察が述べられている。まず、本研究により98 cm-1に折返しフォノンモードが発見され、このモードの特異な振る舞いを解析した結果、このモードはスピンフォノン結合モードであることが明らかにされた。このモードの特異な振る舞いとは、即ち、IC相において特異な分裂を示し、分裂幅はIC相における不整合性の大きさに比例したことであり、このモードにおいて初めて発見された。スピンフォノン結合モードはスピンパイエルス転移と密接に関連する重要なモードであり、この物質においてはスピンパイエルス転移発見以来精力的に研究されたが、この物質の特殊性のためソフト化を示すスピンフォノン結合モード(ソフトモード)が見出されないことによって詳細は分かっていなかった。本研究において初めて発見された現象である折返しフォノンモードのIC相の分裂の観測によりこの物質のスピンフォノン結合モードが同定された点は興味深く、この物質のスピンパイエルス転移を含む磁気的特性解明にとって重要な発見である。

 また、この98 cm-1のモードはHC近傍で分裂したピークが現れるともにソフト化が観測された。このソフト化はdiscommensurate描像が成り立つ狭い磁場領域領域で観測され、IC相の不整合性と関連が示された。このようなソフト化の観測は本研究が初めてである。この現象は、IC相への相転移とともにフォノンモードの局在化が起こりスピンソリトン間隔の減少とともに局在領域の減少することにより引き起こされるとするモデルで定量的に説明された。このソフト化は新しい物理現象であり、注目される。

 98 cm-1のモードを含めた折返しフォノンモードと超格子反射ピークのD相からIC相にかけての強度変化に共通性があることを見いだした。この強度変化は格子変調と関連づけ定量的に説明された。

 続いて、不純物置換された試料におけるこの特異な98 cm-1のモードの挙動が調べられている。その結果、不純物置換試料においても98 cm-1のモードの強磁場相における分裂が観測されるが、強磁場領域における分裂ピークの磁場依存性が理論曲線でよく記述できるのに対し、HC近傍で理論曲線からのずれが観測された。この振る舞いは、不純物サイトとスピンソリトン間に相互作用が存在することで説明される。また、実験結果は、この相互作用が高温強磁場相においてよりも低温強磁場においてより強いことを示している。この結論は、未だによく分からない不純物置換試料における強磁場相の解明にとって重要な、不純物が存在している場合におけるスピンソリトンの振る舞いに関する知見が得られた点で興味深い。

 最後に、63 cm-1に新しい吸収線を発見し、解析の結果、一重項状態から連続帯状態への磁気的励起によるものと同定した。この磁気励起は中性子線非弾性散乱実験により観測されているが、光学的に観測されたのは本研究が初めてである。

 第四章は"強磁場磁歪測定の結果と考察"と題し、この物質のD相からIC相にかけての強磁場下における磁歪測定に関する実験結果、およびその考察が述べられている。本研究は28 Tまでの強磁場下における各結晶軸方向の磁歪測定を行い、その結果から、スピンパイエルス転移に伴い結晶に導入される自発歪みのD相からIC相にかけての磁場による変化を算出した。自発歪みはスピンパイエルス転移の特徴の一つである格子変調と密接に関連するため、自発歪みの評価は間接的に格子変調の変化を観測していることになり非常に重要である。本研究の結果、自発歪みはD相内では著しい磁場変化を示さないが、D相からIC相への相転移により急激に減少し、IC相においては引き続き緩やかに減少し続けることが判明した。IC相における振る舞いは、HC直上のスピンソリトンが孤立している状態から磁場の増大とともにスピンソリトン間の重なりが無視できない状態への移行における格子変調の変化を示しており、興味深い。

 第五章は"結論"であり、本論文で得られた結論を簡潔にまとめてある。

 以上のように本論文では、無機物質で最初のスピンパイエルス物質として注目を集め数多くの研究が精力的になされているスピンパイエルス物質CuGeO3について、D相からIC相にかけての強磁場下における遠赤外分光測定や磁歪測定に関する詳細な研究を行った。その中でも、この物質の折返しフォノンモードのIC相での分裂という新しい物理現象を発見し、その解析の結果、この物質においてスピンパイエルス転移が発見されて以来精力的な研究にもかかわらず見出されていなかったスピン−フォノン結合により引き起こされていることと同定したという点は何より評価に値する。この結果はスピンパイエルス転移を引き起こしている一次元スピン系と三次元フォノン系の結合のメカニズムの解明に直接的に結びつく発見であり、スピンパイエルス物質のなかでも特異なCuGeO3の物性について解明が進むものと期待される。また、このスピン−フォノン結合モードのHC近傍で観測されるソフト化も新たな物理現象の発見であり、その現象をフォノンモードの局在化とその局在領域の変化によるものとして定量的に説明している点も独自の議論を展開しており評価される。これらの成果以外にも不純物置換試料における不純物サイトとスピンソリトン間の相互作用の存在を示す結果や光学測定で初めて観測された連続帯状態への磁気励起など有用な知見が得られている。以上のように、本研究はスピンパイエルス物質CuGeO3についてスピン−フォノン結合モードの発見など、その物性の解明に少なからぬ寄与をしており評価される。また、本研究により得られた成果は、測定技術の開発およびその精密化によっている点も認められる。従って、本研究の成果は低次元量子スピン系における物性の解明に寄与するばかりでなく物理工学全般への貢献が大きい。

 以上の理由から、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク