学位論文要旨



No 215218
著者(漢字) 前田,佳一郎
著者(英字)
著者(カナ) マエダ,ケイイチロウ
標題(和) 脳血管構築と脳虚血後の組織障害の関係 : レニンアンギオテンシンシステムに注目して
標題(洋)
報告番号 215218
報告番号 乙15218
学位授与日 2001.12.19
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第15218号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 金澤,一郎
 東京大学 教授 井原,康夫
 東京大学 教授 飯野,正光
 東京大学 教授 山本,一彦
 東京大学 助教授 坂本,哲也
内容要旨 要旨を表示する

 レニンーアンギオテンシンシステム(RAS)は体内に広く分布し、血圧や電解質の調節に重要な役割を担っている。脳虚血との関連では、中大脳動脈閉塞モデルを使った実験において、アンギオテンシン変換酵素(ACE)阻害剤の投与によって虚血傷害が軽減されることが報告されている。さらに臨床例の遺伝子解析の結果からはACEやアンギオテンシノーゲン(AGN)の遺伝子異常によりRASの活動度が上がることが脳梗塞のリスクファクターであることが報告されている。このことはRASの活性が高いことが脳虚血の悪化要因になっている可能性があることを示しているが、そのメカニズムはいまだはっきり解明されていない。しかしACE阻害剤は最も多く使われている降圧剤の一つであり、RASの抑制によって脳虚血を治療しうるかを研究することは意義深いと考える。

 脳虚血の実験では、薬剤の効果やある遺伝子の虚血における役割を調べるため、ラットやマウスで中大脳動脈を閉塞し、梗塞面積あるいは体積を評価するのが一般的である。中大脳動脈本幹の閉塞後には、虚血となったその支配領域の脳は主に前大脳動脈と中大脳動脈の間の吻合血管を介して灌流される。よって脳虚血後の組織傷害にその吻合血管の数、径、機能は強く影響すると考えられる。実際にラットを用いた脳虚血実験では、ラットの種による中大脳動脈閉塞後における梗塞面積の差に、吻合血管の径が関与することが示されている。従って脳虚血の実験結果の解釈には、薬剤や遺伝子の変異が脳の血管構築に影響しそれが虚血後の組織障害に反映されることを考える必要がある。

 RASの中の主要な作用物質であるアンギオテンシンIIは血管壁の肥大やトーヌスに関連している。従ってRASは吻合血管の径や機能に影響を与え、その結果として脳虚血後の組織障害の程度に関与していることが考えられる。RASの働きを抑制することによって脳血管構築に変化を与えそれが虚血後の脳組織障害を軽減する方向に働くかを調べるのに、RAS全体の前駆物質であるアンギオテンシノーゲンのノックアウトマウスを用いることは有効な手法である。しかしマウスの脳の血管構築を観察する方法は報告されていない。そして脳血管構築の変化が脳虚血後の組織障害にどのように反映されるかもわかっていない。

 多くのマウスの系の中でも、C57Black/6マウス(C57Black/6)とSV129マウス(SV129)は遺伝子操作マウスを作るための親種として最もよく使われ、またこの2つの系の間で中大脳動脈閉塞後に梗塞面積が異なることが知られている。その理由として最も考えられるのは、吻合血管の径や機能及び中大脳動脈の支配灌流領域などの脳血管構築が2つの系で異なることである。そこで今回の実験ではまずこの2つの系で着色したラテックスを脳の血管に注入して、脳の血管構築を調べることとした。そして中大脳動脈の支配灌流領域及び吻合血管の数や径が、中大脳動脈閉塞後の虚血障害とどのような関係があるかを評価した。その結果、脳の血管構築と中大脳動脈閉塞後の組織障害とは極めて合理的で密接な関係があることを示し得た。

 次にRAS全体の前駆物質であるAGNのノックアウトマウスを用いて、RASの活動度の低下が脳の血管構築にどのような影響を与えるかを調べた。そしてRASの活性の低下が脳の血管構築に影響し、それが中大脳動脈閉塞後の虚血障害を軽減するかを検証することを本実験の最終的な目的とした。

 まずマウスにおける脳表微小血管構築を観察するために、C57Black/6及びSV129に塩酸パパベリンを過剰投与して全身の血管を最大拡張した後に、着色したlatexを血管に注入して血管を固定した。脳を取り出し脳表を背側真上から写真に撮って拡大し、前大脳動脈と中大脳動脈の枝が交わる部分、つまりは中大脳動脈閉塞後に前大脳動脈からの側副血行路となる吻合血管を同定した。隣接する吻合血管同士を線で結ぶことで前大脳動脈、中大脳動脈の還流支配領域の吻合境界線を作った。吻合境界線の大脳半球中心からの距離を測定し、さらに吻合血管の本数と径を測定した。C57Black/6では前大脳動脈と中大脳動脈の吻合境界線はSV129に比べて大脳の前半部、中央部、後半部いずれの部位でも有意に中心に近く、このことはC57Black/6で中大脳動脈の灌流領域がより大きいことを示していた。しかしながら吻合血管の数、吻合血管の径ともに有意な差はなかった。

 次に塞栓糸を用いた方法でC57Black/6とSV129に中大脳動脈閉塞を作成して、脳虚血後の組織傷害を調べた。まず閉塞後24時間で脳梗塞の大きさを両マウス間で比較したところ、C57Black/6では有意にSV129より梗塞面積は大きかった。さらに大脳前縁から4mmの部位で梗塞を皮質の部分の梗塞と皮質下の部分に分けて比較すると、皮質の部分においてのみC57Black/6で有意にSV129より梗塞面積は大きかった。具体的に脳表の血管構築と中大脳動脈閉塞後の組織傷害の関係を調べるために、中大脳動脈閉塞24時間後にlatexを血管に注入して脳表血管を描出してから脳表を2, 3, 5-triphenyltetrazolium hydrochlorideにて染色を行って、梗塞部位と脳血管構築の関係を検討した。C57Black/6では吻合境界線、梗塞と正常組織との境界線のどちらもSV129に比べて大脳の前半部、中央部、後半部いずれの部位でも有意に中心に近かった。ところが吻合血管を介する脳血流によって救われた脳組織の大きさを反映すると考えられる吻合境界線と梗塞正常境界線の距離は、両マウス間で大脳前半部、中央部で差はなかった。

 さらに以上示した血管構築の違いが、虚血侵襲を受けているが治療によって救済可能でありそのため脳虚血研究の主要なターゲットとなっているペナンブラ領域の面積に影響するかを調べた。C57Black/6とSV129で中大脳動脈閉塞後1時間で、大脳前縁から4mmの部位の脳スライスを作り組織中のATP含有、及び蛋白合成能が傷害されている部分の面積を両マウスで測定した。蛋白合成が阻害されているがATPは保たれている部分をペナンブラ領域と定義した。C57Black/6は有意にSV129と比較してATP欠乏領域、蛋白合成低下領域の面積は大きかった。ペナンブラ領域の範囲は血管支配領域の差を反映してC57Black/6でSV129と比べて外側に変位していたものの、ペナンブラ領域の面積に両方のマウスで差はなかった。

 次にRASの活動度が脳の血管構築と脳虚血後の組織傷害にどのように関与しているかを、アンギオテンシノーゲンノックアウトマウスのワイルドタイプ(WT)とホモタイプ(HT)を比較することによって検討した。まず上記と同様の方法で着色したlatexを血管内に注入して脳の血管構築を描出した。前大脳動脈と中大脳動脈の吻合境界線の大脳半球中心からの距離はWT、HTで差がなかった。吻合血管の数でも同様に差がなかった。しかし吻合血管の径ではHTがWTより有意に太かった。

 続いて虚血後の脳組織傷害を比較した。まず中大脳動脈閉塞後24時間で両者の梗塞面積を調べたが、HT及びWTで有意な差はなかった。さらに中大脳動脈閉塞後1時間及び24時間で大脳前縁から4mmの部位の脳スライスを作り組織中のATP含有、及び蛋白合成能が傷害されている部分、及びペナンブラ領域の面積を測定した。閉塞後1時間では、組織ATPの減少している領域はWTでHTに比べて有意に大きかったが、それに反して蛋白合成の障害されている領域には差がなかった。その結果としてペナンブラ領域はHTで有意にWTより大きかった。閉塞24時間後では、蛋白合成の阻害されている部分はWT、HTともに閉塞1時間後とほとんど変化なく、両群間に差はなかった。組織ATPの減少している領域はほぼ蛋白合成の阻害されている領域に重なるまで両群とも拡大しており、両群間に有意な差はなくなっていた。ペナンブラ領域は両群ともでほぼ消失しており差はなかった。

 生理学的因子として、中大脳動脈閉塞前、及び閉塞後15分で平均血圧、動脈血酸素分圧、動脈血二酸化炭素分圧、動脈血pHを測定した。平均血圧は閉塞前、後ともWTがHTに比べて高かった。動脈血酸素分圧、動脈血二酸化炭素分圧、動脈血pHは差がなかった。

 C57Black/6とSV129の脳血管構築を着色したラテックスで描出することによって、脳表のマウスの微小な血管の観察及び評価を可能にした。その結果、中大脳動脈の支配還流領域がC57Black/6で大きいこと、またこの2つのマウスの系では前大脳動脈と中大脳動脈の間の吻合血管の数と径は同様であることを明らかにした。中大脳動脈閉塞後早期の脳代謝障害及び24時間後の脳梗塞はC57Black/6でSV129より大きかったが、中大脳動脈閉塞後早期のペナンブラ領域の大きさや24時間後に吻合血管を介しての血流で救われる脳組織の大きさに差はなかった。この結果から、中大脳動脈閉塞後の脳虚血障害は脳の血管構築と密接な関係があることが示された。

 またアンギオテンシノーゲンノックアウトマウスを用いた実験結果で、HTではWTに比較して血圧が低いにも関わらず中大脳動脈閉塞後早期の脳代謝障害は軽度であり、ペナンブラ領域は大きかった。そしてその理由として、HTはWTに比べて前大脳動脈と中大脳動脈の間の吻合血管が太く側副血行が良好であるためであることが示唆された。しかしながら中大脳動脈閉塞24時間後では、脳梗塞の大きさや脳代謝障害の程度にHTとWTに差はなかった。以上より、RASを薬物的に抑制することでペナンブラ領域を拡大し脳虚血発症後の治療の有効時間を延長できる可能性があると考えられた。しかしながらRASの抑制のみでは虚血部位の脳代謝障害は時間とともに進行しその効果は一時的であるため、脳虚血後の予後を改善するためにはそのほかの治療を組み合わせる必要があると考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は近年レニンアンギオテンシンシステム(RAS)の活動度が脳虚血の発症や予後に関連することが報告されていること及びRASの脳虚血に関連する主要な作用部位が脳血管であることが推測されていることから、RAS全体の前駆物質であるアンギオテンシノーゲンのノックアウトマウスを用いて、RASの活動度と脳血管構築及び脳虚血後の脳組織障害との関係を明らかにすることを試みたものであり、下記の結果を得ている。

1.マウスにおける脳血管の描出方法を確立することとし、遺伝子操作マウスを作る代表的親種であるC57Black/6マウス及びSV129マウスを用いて、着色したラテックスを血管内に注入する方法で脳血管を描出した。その結果中大脳動脈の血管支配潅流領域がC57Black/6マウスにおいてSV129マウスより大きいことが示された。しかし中大脳動脈閉塞後に側副血行路となる前大脳動脈と中大脳動脈の間の吻合血管の数及び径には差は無かった。

2.塞栓糸を用いた方法でマウスの中大脳動脈閉塞モデルを作成し、中大脳動脈閉塞24時間後の脳梗塞の大きさをC57Black/6マウスとSV129マウスで比較したところ、C57Black/6マウスにおいてSV129マウスより梗塞が大きいことが示された。脳血管構築を着色したラテックスで描出した脳で脳梗塞の大きさを比較したところ、上記の梗塞の大きさの差は中大脳動脈の支配領域の差に起因すること、側副血行路によって潅流され梗塞を免れる組織の大きさに両者で差がないことが示された。

3.脳虚血後に側副血行路からの血流で生き延びているものの脳代謝障害を受けており放置すると死ぬが治療によって生き延びる可能性のある部分であるペナンブラ領域を、組織の蛋白合成が障害されているが組織ATPが保たれている領域であると定義してC57Black/6マウスとSV129マウスで比較した。中大脳動脈閉塞1時間後では、ATP欠乏領域及び蛋白合成阻害領域はともにC57Black/6マウスで大きかったものの、両者でペナンブラ領域の大きさは同様であった。

4.アンギオテンシノーゲンノックアウトマウス及びその同腹のワイルドタイプマウスで着色したラテックスを血管内に注入し脳血管を描出した。中大脳動脈の支配潅流領域及び前大脳動脈と中大脳動脈の間の吻合血管の数は両者で同様であったが、吻合血管の径はノックアウトマウスで有意に太かった。平均血圧は有意にノックアウトマウスで低かった。

5.中大脳動脈閉塞1時間後及び24時間後におけるATP欠乏領域、蛋白合成阻害領域、ペナンブラ領域をアンギオテンシノーゲンノックアウトマウスとワイルドタイプマウスで比較した。閉塞1時間後では蛋白合成阻害領域は両者で同様であったがATP欠乏領域はノックアウトマウスで小さく、その結果ペナンブラ領域はノックアウトマウスで大きかった。しかし24時間後にはATP欠乏領域は両者共にほぼ蛋白合成阻害領域全体にまで拡大し、その結果ペナンブラ領域はほぼ消失し両者の差はなくなっていた。中大脳動脈閉塞24時間後の脳梗塞の大きさにはやはり両者で差がなかった。

 以上より脳の血管構築と脳虚血後の脳組織障害には密接な関係があることが示された。またRASを抑制することで側副血流を改善することにより、中大脳動脈閉塞後早期の脳代謝障害を軽減しうることが示された。本研究はRASの抑制に脳血流再開などその他の治療法を組み合わせることによって脳虚血後の予後を改善しうる可能性があることを初めて明らかにしたもので、学位の授与に値するものと考えられる。

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