学位論文要旨



No 215229
著者(漢字) 安田,次郎
著者(英字)
著者(カナ) ヤスダ,ツグオ
標題(和) 中世の興福寺と大和
標題(洋)
報告番号 215229
報告番号 乙15229
学位授与日 2002.01.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15229号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 五味,文彦
 東京大学 教授 村井,章介
 史料編纂所 教授 菅原,昭英
 史料編纂所 教授 保立,道久
 日本女子大学 教授 永村,真
内容要旨 要旨を表示する

 日本中世史研究上、大和国はきわめて重要な位置を占めている。荘園、名(みょう)、商業、市、座、商人、職人、寺院、都市、差別、身分、城郭、館など、中世史の中心的なテーマにについて語るとき、大和は外すことのできないフィールドである。

 ところで、この国を舞台にして何かを探っていった場合、ほとんどつねに行き当たる問題がある。それは、興福寺による大和国支配ということである。中世の大和では、興福寺が国司にかわって国内を支配し、鎌倉幕府ができてからは守護を設置させず、その役割を代行した。正安二年(一三〇〇)一二月に興福寺下所司のひとりは、「大和一国」は昔から「国司・守護」の「執務」を止めて興福寺と春日社に「寄付」されたとその申状のなかで主張している。そして国司・守護が「寄付」された時期について、応永二一年(一四一四)七月に室町幕府に提出された事書のなかで、興福寺の衆徒・国民は、「承保之明時」に「一国吏務」が、「元暦之往代」に守護職が「寄付」されたと述べている。

 承保年間に「一国吏務」職が「寄付」されたというこの主張について、大山喬平氏は、摂関家出身の貴種としてはじめて興福寺一乗院に入った覚信の出家が承保元年(一〇七四)で同三年に一乗院院主となったと考えられること、氏が確かな史料と考えられた「大和国奈良原興福寺伽藍記」が「承保二年<乙卯>年、和州一国吏務被付興福寺」と記すことを根拠に、大和国務の興福寺への寄付を承保二年と考えていいだろうという判断を示された。

 しかし、朝廷が大和国司の権限を興福寺に「寄付」したという事実は、おそらくない。また、守護の権限に関しても、鎌倉幕府がそれを興福寺に委ねた、あるいは同寺を大和守護職に任じたこともないと考える。近年の研究によると、南都の大寺および寺僧の活動は、一二世紀前半に大和国衙の支配を事実上無効にしていた。しかし、そのことは、大和国に対する興福寺の支配が、国衙支配にかわって直ちに成立したことを意味しない。また、朝廷はその後なんどか大和国支配の立て直しをはかっている。決して簡単に大和国を放棄したわけではないのである。

 興福寺の一国支配をめざす努力は、国衙が無力と化したころから本格的に始まる。そして、目標がある程度達成されたときに、かつて正式な公権委任があったという「神話」が作られたのである。つまり、興福寺の大和国に対する支配を、朝廷や幕府からの公権委譲によって成立したと考えるのは間違っており、それは営々として積み上げられていった同寺の活動の結果として考えるべきである。それが本論最初の視角である。

 「第一章 春日若宮おん祭り」では、中世大和国最大の祭礼であるおん祭りについて考えてみた。中世の興福寺が春日社と分かちがたく結びついていたことは周知のことであるが、永島福太郎氏は、興福寺の大和一国支配は春日社の祭祀権を握ることによって可能となった、あるいは、おん祭りは興福寺が大和国支配を行うために始めたという趣旨の主張をはやくから行っておられる。ところが、この傾聴すべき仮説は、氏自身によっても、また他の研究者によっても、具体的に検討されたことはない。私は、永島氏の主張は大枠で正しいと思う。そのことをできるだけ史料に即して明らかにしようとしたのが本章である。

 「第一節 おん祭りの創始」では、おん祭りは藤原忠通の立願に始まるとする通説を退け、興福寺の大衆によって始められたものであることをまず確かめた。つぎに、その目的は大衆らが大和国に所有した私領確保にあったのではないかということ、この祭礼が当初から大和一国あるいは興福寺に関係する人々を費用分担者として巻き込んでいくものであったことを述べた。

 「第二節 流鏑馬と武士」では、おん祭りに流鏑馬を奉納する六党の武士団の形成などを検討した。興福寺によって大和国の武士の編成・組織が段階的に行われたこと、その一応の完成が鎌倉末期で意外に遅かったことなどが明らかにできたと思う。

 「第三節 若宮神主家の成立」は、初代若宮神主の中臣祐房に注目し、祐房の神格化とその背後に見える若宮神主家の成立を明らかにしたものである。おん祭りで主役のひとつを勤める若宮神主の職が特定の家に独占されること、つまり若宮神主家の成立はおん祭り挙行体制の安定・確立として考えることができるが、その時期が一三世紀後半であることは、本章第二節や第二章第二節などの検討結果とも照応して注目される。

 「第二章 大和国の支配」には、興福寺の大和国支配に直接関わる問題を扱った論文を収録した。一乗院と大乗院という寺内の二大院家、院家領荘園の形成、延久の雑役免帳に記載された多くの雑役免荘園のその後、興福寺が一国平均役として大和国一国に賦課した土打役、これらはいずれも中世の大和と興福寺を考える際に避けて通れない基本的な問題である。それらを扱った章である。

 「第一節 中世興福寺と信円」は、平氏の南都焼き討ち後に興福寺別当に就任した信円という摂関家出の僧を扱ったものである。多くの研究者が注目していたにもかかわらず専論のなかった信円について、その後の中世興福寺の原点に立ち、一乗院・大乗院の両門体制の形成と大和を興福寺の領国とするうえできわめて重要な役割を果たした人物として捉えた。

 興福寺は一三世紀後半以降、大和国に一国平均役として土打(つちうち)反米あるいは土打反銭をかけるようになる。この問題を扱ったのが、「第二節勧進の体制化と『百姓』」である。土打役が興福寺僧の勧進の延長上に成立したこと、時代の進行とともにこの課役がより下級の土地所有者に賦課されていき、彼らが新しい「百姓」として浮上させられて興福寺の支配のもとに編成されていったことを述べた。「土打役」とは何かという素朴な疑問からスタートして、中世の「税金」の多くが神仏への贈与として生まれてくることに気付かされた。

 「第三節 雑役免荘園と院家領荘園」は、興福寺の荘園の基本的性格について全面的に見直したものである。興福寺の雑役免荘園は「相坪の論理」によって成長して院家の一円荘園になるという有名な研究があるが、これには疑問が出されていた。もう一度周知の史料を読み直す作業のなかから「相坪の論理」説が成立しないことを述べ、そこから興福寺の荘園全体について考え直したものである。院家領荘園は、各院家の本願(創立者)が寄せ置いた寄進型荘園であった。

 「第三章 寺門・門跡の落日」は、興福寺の大和支配崩壊の始まりとなった鎌倉後期から南北朝期にかけての院家争奪を扱ったもの。第一章、第二章で支配の成立、展開についてみたとすると、この第三章では後退の原因についてみるということになる。門跡相互間の、あるいは門跡内の争いに動員された武士が次第に力をたくわえ、寺内で発言権を強めてゆく。それが興福寺の大和一国支配を動揺させて行くというのが、この章での基本的な視角である。基本的な史実を確定するための史料紹介に終始したような章になってしまったが、新出史料を中心に興福寺の混迷の時代を捉え直してみた。

 「第一節 永仁の闘乱」で取り上げた永仁闘乱は、室町初期に足利義満が出て興福寺を押さえるまで断続的に続いたいくつかの内訌の初めである。興福寺の大和支配に暗雲を投げかけた一乗院・大乗院両門の闘乱について、未紹介の史料を一部翻刻して事件の経過や背景について具体的に明らかにした。

 「第二節 大乗院の譲状・置文」は、まとまった史料に欠ける鎌倉・南北朝期の興福寺の歴史を、大乗院門主の譲状や置文を主な素材にして探ろうとしたものである。「重書」であるはずの譲状が意外に気軽に作られ、また門主の交代がほとんどつねに何らかの緊張を孕んでいたということは予想外であった。

 「第三節 実玄とその時代」は、興福寺を「滅亡」に導いたとされる観応以降の両門確執について概観したものである。複雑きわまりないこの時代の争いを頭の中に整理して入れるために、一乗院の門主であった実玄という個人を中心に据えてみた。両門の争いが、南北両朝の代理戦争として始まったとする通説的な見方を否定する史料を紹介し、当時の争いはあくまで院家支配権をめぐる争いであることを述べた。

 以上の三章を通じて、従来必ずしも明確でなかった大和一国に対する興福寺の支配の成立と衰退の契機が、かなり具体的に解明できたと思う。

 興福寺や大和の歴史は特殊視されることが多いが、祭礼を通じた武士の編成や、一国平均役の問題などは他国でも普通に見られることであり、また寺社が朝廷や幕府の動きと切り離されてあったわけではないことを考えると、一見特異な争いに見える門跡内や門跡相互の争いもまた当時の政治、経済、社会の動向を敏感に反映したものとしてあらためて捉えることができる。日本中世史を地域の側から、また寺社の側から解明していく上で、本論はなにがしかの寄与をなし得たと信じる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、日本中世の大和国の政治・経済・文化の枠組みを明らかにし、その歴史的変遷を探ったものである。大和は興福寺という寺院権門が支配する特殊な国であったため、永島福太郎氏の先駆的な研究以後、本格的な研究はなかったが、本論文はそうした研究状況を打破し、大和の中世を歴史的に位置づけ、新たな中世史の可能性を提示している。

 最初に従来の研究の整理と問題点の指摘をした「視角と構成」をおき、本論は、三章九節の論稿からなる。第一章の「春日若宮おん祭り」では、春日社の若宮の祭として今に継承されている「春日若宮おん祭り」がいかに始まったのかを実証的に明らかにしている。

 祭りの創始が藤原氏の氏長者であった藤原忠通によるという通説を検討し、通説とは異なって興福寺の大衆が大和国を支配する意図から始めたものであることを史料の丹念な分析によって明らかにするとともに、祭礼で行われる流鏑馬が大和の六党の武士に担われるに至った経緯を探り、祭礼の場となった若宮の神主家の成立についても、中臣祐房とその孫の努力によるものであったことを解明している。

 不明であった若宮祭の創始にまつわる諸問題を一挙に解明したもので、これによって院政期における大和や興福寺の在り方について多くの知見が示された意義は大きい。

 第二章の「大和国の支配」は、興福寺による大和国の支配の実態を明らかにしている。まず大和の興福寺支配に大きな役割を果たした別当の信円の動きを追って、一乗院・大乗院の二つの院家が興福寺の別当を出す体制の成立に信円がかかわり、興福寺の再建を通じて、勧進を梃子にして信円が大和の興福寺領国化を進めていった事情を明らかにする。次に十三世紀後半から始まる一国平均役である土打役の徴収を考察して、勧進や土地所有の性格の変化を探り、さらに溯って興福寺の土地所有の在り方を雑役免荘園と院家領荘園の違いから明らかにしている。

 大和国のみならず広く中世の土地支配と所有に関する新説を提起しており、今後の研究に大きな示唆をあたえるものとなっている。

 第三章の「寺門・門跡の落日」は、鎌倉末期から南北朝期にかけての寺門・門跡の動きを新史料の発掘によって明らかにしている。まず永仁年間の闘乱事件を天理図書館所蔵文書を駆使して探り、次に福智院文書所収の大乗院の譲状を紹介しつつ、門主の意識や動きを探る。さらに興福寺の寺門・門跡の衰退を決定づけた観応以降の両門の確執をとりあげ、特に一乗院の実玄の動きに焦点をあてて、院家支配権をめぐる争いの様相を明らかにしている。

 以上は、新史料を丁寧に分析し、興福寺の寺門・門跡の動向を明らかにしたもので、大和国のみならず朝廷や幕府の政治を考える上でも貴重な成果である。

 このように本論文は、従来その重要性が認識されていながらも十分取り組まれてこなかった中世の大和国を分析し、精緻な実証研究を行ったもので、通説の問題点を的確に指摘するとともに、新たな枠組みを提示したことによって、空白となっていた大和の情勢を明らかにしたことは、今後の大和の研究のみならず、広く全国的な動向を考える上で基礎をなす研究としてその意義は大きい。

 ただ若干の史料の読みや解釈には問題を残すが、それは論旨に直接に関わるものではなく、本審査委員会では上記の顕著な成果に鑑み、本論文が博士(文学)にふさわしいものとの結論に達した。

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