学位論文要旨



No 215230
著者(漢字) 光田,剛
著者(英字)
著者(カナ) ミツタ,ツヨシ
標題(和) 国民政府期の華北政治 : 1928−1937年
標題(洋)
報告番号 215230
報告番号 乙15230
学位授与日 2002.01.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 第15230号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 北岡,伸一
 東京大学 教授 高橋,進
 東京大学 教授 塩川,伸明
 東京大学 教授 酒井,哲哉
 東京大学 教授 石井,明
内容要旨 要旨を表示する

 1911年、大清帝国は辛亥革命によって倒壊し、中国の統一は失われた。その後、1949年に中国共産党(以下、「共産党」)が大陸統一を果たすまで、中国では、地方軍事勢力が各地に割拠する分裂状態がつづく。

 しかし、1920年代には、国民革命と称する新たな革命を基盤にその分裂を克服し、中国を統一しようとする動きが始まっていた。その中心勢力が中国国民党(以下、「国民党」)であり、また、国民党の指導下にある国民政府・国民革命軍であった。南京を本拠とする国民党は、1928年6月の北伐完成により、形式的にはその目標を達成する。しかし、形式的な統一のもとで、中国の各地方にはなお地方軍事勢力がその勢力を維持しており、実質的な統一は十分に達成されてはいなかった。1937年7月の抗日全面戦争前の段階で、国民党中央・国民政府による統一は、1928年の段階からは大きく進展していた。しかし、その統一はなお完全なものではなかった。

 国民党中央・国民政府による統一とは、どのような性格のものであったのか。本稿は、1928年6月の形式的な統一の達成から、1937年7月の抗日全面戦争勃発までの時期を対象として、中国を自らの主導下に政治的・軍事的に統一しようとする国民党中央・国民政府と、国民党・国民政府による形式的統一の下で各地方の政治的・軍事的独立性を維持しようとする地方軍事勢力との関係の動態を論じたものである。

 抗日戦争前、国民政府期中国の統一に向かう動きに関する研究は、近年、経済・財政的な視点やナショナリズムを鍵概念とする思想的な視点からの研究が進められている。本稿は、この統一の動きのなかで地方が果たした役割の面から捉え直そうとするものである。

 本稿では対象地域として華北を採り上げる。なお、ここでいう「華北」は、河北・山東・山西・チャハル・綏遠五省と北平(北京)・天津・青島などの地域の主要都市を含む地域を指す。

 華北は1928年までの旧中央政府の所在地であったため、国民党中央・国民政府の勢力がほとんど及んでいなかった。1928年以後も華北では従来の地方軍事勢力が軍事力を背景にした支配をつづけており、国民党中央・国民政府の影響力は限定されたものであった。1931年に始まる日本の東北侵略の動きのなかで、日本は、東北に隣接する華北を、国民党中央・国民政府の勢力から実質的に独立させようという動きを示した。これに対抗するために、国民党中央・国民政府は華北の実質的な統一を迅速に進めなければならなかった。

 すなわち、1928〜1937年の中国のなかで、華北は実質的な統一の遅れた地域であり、同時に迅速に統一を達成しなければならない地域であった。しかも、その達成のためには、地方軍事勢力と日本の抵抗を排しなければならなかった。したがって、1928〜1937年の華北には、国民党中央・国民政府による統一の特徴や、それが抱える問題点が凝縮されて現れる。これが、本稿が華北を対象地域に選んだ理由である。

 北伐後、国民党中央は、全国統一のために二つの方途を模索した。第一は、国民党中央に権力を集中する「中央化」であり、第二は、各地域の地方勢力にその地域の政治・軍事的権力を委ねてそれを国民党中央のもとに連合させるという「分治合作」である。

 北伐完成の時期には、国民党支配下の主要都市に国民党の政治分会が置かれており、政治分会がその都市周辺の地域を管轄するという「分治合作」制度が行われていた。この政治分会が、国民党に属する地方軍事勢力の地方支配の拠点となっていた。

 北伐完成後、国民党中央を掌握した蒋介石は「中央化」を進めようとした。しかし地方軍事勢力の抵抗によって「中央化」は進展しなかった。1930年、蒋介石は大規模な内戦(中原大戦)によって抵抗する地方軍事勢力を撃滅し、ようやく「中央化」の動きを本格化させることができた。しかし、華北は、なお張学良を指導者とする東北軍の「分治合作」下に置かれ、華北を「中央化」することはできなかった。

 他方で、蒋介石は、孫文が「国民政府建国大綱」で定めた憲政体制への移行プログラムを自己の指導下で遂行することで、政治的な主導権を確保しようとした。しかし、それは、移行途上の「訓政」段階で蒋介石に権力を集中させることにつながった。これに対して、国民党長老の胡漢民を支持するグループが強い反発を示し、広東省に新たに国民政府を組織した。1931年9月の九・一八事変(満洲事変)勃発後、広東国民政府は南京国民政府に合流したが、広東には広東政府の組織の一部を改変した西南政務委員会が残存し、広東・広西両省を「分治合作」下に置いた。

 1931年9月〜1933年3月まで、中国は「中央化」の進展の途上で、華北に張学良、広東・広西に西南政務委員会による「分治合作」機構が残存する状況のもとに置かれていた。

 1933年3月、熱河防衛に失敗すると、蒋介石は華北の「分治合作」解消を進め始める。しかし、その目的の達成には「中央化」に消極的な華北の地方軍事勢力の反発を抑える必要があった。蒋介石がそのために起用したのは、地方自治論者であり、国民党員ではない黄郛であった。黄郛のもとに北平政務整理委員会を設置して華北を管轄させ、その下で「中央化」を進めようとしたのである。

 黄郛は、地方軍事勢力の指導層から政治的・軍事的権力を奪うと同時に、地方軍事勢力を地方社会の再編・建設の担い手に変えていこうとした。地方軍事勢力の指導層は、ある程度はそれに協力しつつも、重要な人事権などは手放そうとせず、黄郛の計画は順調に進展しなかった。

 いっぽうで、黄郛は、共産党軍事勢力との内戦を優先させつつ、日本に対する領土的な譲歩をも拒絶するという中央政府の「安内攘外」政策のもとで、満洲国を支配する関東軍指導部との交渉をも委ねられていた。1933年5月末の塘沽停戦協定締結がその最初の成果であった。しかし、停戦協定締結以後も、黄郛は、華北の実質的独立を目指す日本側と、日本に対する譲歩を強く批判する国内世論のあいだに立たされた。1934年8月までは黄郛の対外政策は中央政府によって支持されていたが、1934年9〜12月まで進められた通郵交渉で黄郛と行政院(行政院長:汪精衛)との対立が明らかになった。黄郛は、蒋介石のもとでの憲政への移行と、それに伴う「中央化」の完成に期待しつつ、1935年1月、北平政務整理委員会の活動を停止させて南下した。

 黄郛南下後の1935年5月、蒋介石の「中央化」の動きに対抗するかたちで日本の華北分離工作が本格的に展開され始めた。北平にはチャハルの地方軍事勢力の宋哲元が進出し、蒋介石の「中央化」の動きは再び停滞した。同時に、長征を終えた共産党軍事勢力が華北への進出の動きを見せ始めた。

 これに対して、蒋介石は宋哲元に華北の「分治合作」を委ねることで対処しようとし、1935年12月、宋哲元を委員長とする冀察政務委員会を設置した。宋哲元も、それに応じて、日本の求める華北独立を拒否し、共産党主導の民衆運動(一二・九運動)を弾圧した。しかし、共産党は、劉少奇の指導下に反宋哲元の動きを抑制し、宋哲元との連合を策した。宋哲元もこれに応じ、1936年中には華北で「抗日」を目的とした共産党との合作体制が形成されつつあった。

 1936年12月、西安事変が勃発し、国民党中央は最終的に「抗日」断行の方針を受け入れた。これは「抗日」のために共産党との連携を進めつつあった宋哲元の立場をかえって悪化させた。蒋介石の主導する国民党中央・国民政府を頂点とする「抗日」の原理による全国統一が進められ、宋哲元の「分治合作」は必要性を失ったからである。

 1928〜1937年にかけて、孫文の国民革命の理論に依拠し、軍事力の優位に依存した蒋介石による統一達成は順調に進展しなかった。地方の自立に一定の理解を示す黄郛のような人物を媒介に立てても、「中央化」に対する地方軍事勢力の抵抗を排しきれなかった。九・一八事変から華北分離工作と続く日本の中国侵略への反発が中国国民に「抗日」ナショナリズムを喚起した。蒋介石は、1936年末〜1937年にその運動の頂点に立つことで、中国の実質的統一の基盤を獲得することができた。しかし、抗日戦争終結後、「抗日」ナショナリズムの論理を抗日民族統一戦線というかたちで理論化した毛沢東が、中国統一の主導権を握ることになる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、1928年から1937年すなわち国民党による中国統一から日中全面戦争の勃発に至る華北の政治状況を分析することにより、国民党の中国統一の実態を明らかにし、それが日本の侵略(華北自治工作)と中国共産党の抵抗の前で挫折せざるを得なかった所以を明らかにしたものである。

 中国では、1911年に清朝が滅亡して以来、地方軍事勢力が各地に割拠する分裂状態が続いていた。中華民国前期(1912〜1927年)の北京政府は分裂への動きを止めることができず、自らも崩壊していった。しかし、南方から発した中国国民党は北伐に成功し、1928年、中国の統一に一応の成功を収める。

 本論文は、その後の国民党政権による実質的な統一の進展過程とその問題点について、地方政治の観点から考察したものである。広大な領域を持つ中国では、地方をどのように中央政府の下に組み込むかが、歴史を貫く重要課題であった。とくに華北は、清朝および中華民国前期において国民党と敵対していた地域であり、国民党の勢力のもっとも及ばない地域であった。他方で、中国にとって最大の脅威である日本の勢力に隣接する地域であった。それゆえ、華北をいかに中央に組み込むかが、決定的に重要な問題だったのである。

 こうした国民党の華北政策を、著者は、第一に国民党の国家統一プログラム、すなわち「訓政」から「憲政」への移行、第二に統一方式、すなわち「分治合作」から「中央化」への移行、第三に国民党にとっての阻害勢力との関係、すなわち日本および共産党との関係、という三つの角度から分析を加えている。そして北平政務整理委員会およびそのリーダーである黄郛に焦点をあて、1931年9月の満州事変の勃発、1933年5月の塘沽停戦協定の成立、1935年6月の華北分離工作の開始、などによって、華北と中央との関係がいかに変化していったかを明らかにしている。

 以下、論文は序章と五つの章からなる。

 序章「国民政府期の華北の位置づけ」では、国民政府期の地方政治を考察するための素材として、1928〜37年の華北政治を取り上げる理由がまず明らかにされる。華北は、北伐完成まで北京政府の根拠地であったため、国民党政権による統一が最も不十分な地方だった。ところが、1931年、満洲事変(九・一八事変)が勃発し、華北は関東軍占領地域(満洲国)に直接に境界を接することとなった。関東軍の華北・内モンゴルへの勢力拡張の動きに対抗するため、国民党政権は華北の統一を急がなければならなかった。このような事情から、北伐から抗日全面戦争開始までの華北には、国民党政権による統一の特徴とその問題点が集中して現れることになったのである。

 第一章「華北政治をめぐる諸問題」では、国民党政権の対華北政策を、次の三点から論じている。その第一は「憲政」への移行である。すなわち、1929年に国民党は孫文の理論によって一党支配体制を宣言したが、それは「憲政」への移行を前提としており、1935年までに実現しなければならないものであった。国民党政権の実質的な最高指導者だった蒋介石は、この期限までに地方の統一を完成させようとした(第一節)。

 第二に国民党政権の地方政策が、「分治合作」から「中央化」へと変化したことである。地方の統一をめぐって、国民党政権には二つの方針があった。その一つは、地方の政治的・軍事的指導者の自立性を認めて、その連合により統一国家を実現するという「分治合作」であり、もう一つは、強力な中央集権政府の実現をめざす「中央化」であった。蒋介石は、北伐後の暫定的な方針として「分治合作」を認めていたが、その後、「中央化」への移行を本格化しようとしていた。しかし、地方軍事勢力は、「分治合作」は受容する姿勢を示したものの、「中央化」には抵抗を示していた(第二節)。

 第三は共産党および日本に対する政策である。蒋介石は、日本の侵略に抵抗すること(抗日)よりも共産党軍事勢力の包囲・撃滅を優先していた。共産党軍の撃滅前は対日妥協に努め、その撃滅後に抗日の課題に取り組む政策方針を堅持した。これが「安内攘外」政策であった(第三節)。

 続く三つの章、すなわち第二章「北平政務整理委員会の成立」、第三章「北平政務整理委員会の活動」、第四章「北平政務整理委員会解消への過程」で、「安内攘外」政策のもとで対日妥協方針がとられていた時期の華北に、華北全体を統括する機関として設置された北平政務整理委員会とその委員長であった黄郛の活動について論じている。

 黄郛は辛亥革命前には孫文らの中国同盟会で活動し、北京政府の要職を歴任した後、1928年の北伐時に国民政府外交部長を担当した政治家であった。連邦制論に近い地方自治論を持っていたが、軍人の地方支配には強い反発を持っていた(第二章第一節)。また、国民党の一党支配には否定的だったが、蒋介石のリーダーシップには期待していた。満洲事変下でも、蒋介石のもとでの憲政移行を待望し、そこに苦境からの脱出策を求めていた(第二章第二節)。1933年、蒋介石は、「中央化」に抵抗していた華北の政治・軍事の最高責任者張学良を、対日抗戦の失敗を理由に辞任させた。つづいて、汪精衛(行政院長)と蒋介石は黄郛を華北に派遣することに決定した。黄郛は、中国側にとって苛酷な条件を受け入れて、1933年5月に関東軍と塘沽協定を締結し、停戦を実現した。しかし、その交渉は、地元の省政府を掌握する地方軍事勢力からはもちろん、中央政府からも必ずしも支持されず、黄郛の基盤の弱さもこの過程で明らかになった(第二章第三節)。

 塘沽協定後、黄郛は、北平政務整理委員会を正式に発足させ、停戦協定後に残された問題に関する関東軍との交渉と、華北地方社会の整備に取り組み始めた。8月までの段階では関東軍との交渉は比較的順調に進み、関東軍の撤退と不正規軍の再編成はほぼ完了した。また、5月に国民党の長老軍事指導者である馮玉祥が「抗日同盟軍」を称して起こしたチャハル省での決起も大きな問題だったが、交渉と軍事的圧力によって馮玉祥の下野を実現した。しかし、麻薬の蔓延を初めとする北平市治安問題解決のために北平市公安局長を交替させようとした際には、地元の地方軍事勢力の強い抵抗に遭遇した(第三章第一節)。10月に北平に復帰した後、黄郛は再び関東軍との交渉に臨んだ。今回は、塘沽協定の取り決めによって満洲国との境界地帯に設置されていた非武装地帯「戦区」の位置づけが交渉の焦点となった。「戦区」からの関東軍の完全撤退を実現しようとする黄郛と、「戦区」を華北・内モンゴルへの進出拠点として認めさせようとする関東軍とが対立し、黄郛は大きな譲歩を強いられた。また、11月には南方の福建省で反蒋決起(福建事変)が起こった。黄郛は、華北の地方軍事勢力への懐柔策を進めて、この反蒋決起が華北に波及することを回避するために努めた(第三章第二節)。

 1934年には、華北では、満洲国との直通列車運行問題についての交渉(通車交渉)が進められていたが、中央政府では黄郛の対日妥協政策への批判が高まりつつあった(第四章第一節)。そのような情勢の中で、4月に天羽声明が報道された。中国では天羽声明が日本の中国独占政策の表れと解釈され、強い反発を呼び起こした。すでに共産党軍事勢力撃滅の目標達成が近いと判断した蒋介石は、天羽声明を機に、抗戦を視野に入れた対日強硬策への転換を模索し始めた。黄郛も、塘沽協定が日本の華北への進出の足がかりとなりかねないと判断し、協定撤廃を検討し始めるに至った(第四章第二節)。9月、黄郛は、満洲国との郵便物の直接送受信に関する交渉(通郵交渉)に臨んだ。しかし行政院(内閣)が形式的問題に拘泥したため交渉は難航し、黄郛は汪精衛を院長とする行政院への不信感を強めた(第四章第三節)。一方、蒋介石は、1935年の憲政移行とともに「分治合作」を解消するため、自ら華北を巡回して各省を視察するとともに、華南各省にも統一に向けた工作を進めた(第四章第四節)。黄郛も、蒋介石の動きに呼応して、華北の地方軍事勢力を地方社会改良政策の主体に転換させて行こうとした(第四章第五節)。

 第五章「華北分離工作下の華北」では、1935年の華北情勢を、日本の華北分離工作の進行とそれに対する中国側の対応に焦点をあてて論じている。黄郛は、華北の農村・都市社会の整備・改良のための基盤は整ったと判断し、憲政移行とともに「分治合作」が解消されることを期待して華北を離れた(第一節)。しかし、5月から華北では日本軍が華北分離工作を開始し、これに呼応したチャハル省の地方軍事勢力・宋哲元が河北省に進出して、北平政務整理委員会が活動を停止した後における華北中心部の覇権を握った(第二節)。汪精衛にかわって行政院長に就任していた蒋介石は、日本軍と宋哲元のこの動きに対して妥協策を採り、宋哲元を委員長とする冀察政務委員会の樹立を認めて華北での「分治合作」を復活させざるを得なかった(第三節)。

 第六章「冀察政務委員会と中国共産党」では、1936年の冀察政務委員会と中国共産党勢力との関係を中心に、冀察政務委員会成立から1937年7月の盧溝橋事変までの華北について論じている。中国共産党は、1935年まで強硬な反国民党政策をとっていたが、1936年には、コミンテルンの統一戦線論を毛沢東が独自に解釈した統一戦線政策により、蒋介石を除く国民党勢力との連合を模索し始めた(第一節)。統一戦線政策の一環として毛沢東は劉少奇を華北に派遣した。劉少奇は、冀察政務委員会に対して強硬な反対運動を行っていた学生組織などの運動体に働きかけて、冀察政務委員会との協調を推進しようとした。一方の宋哲元は、蒋介石に対しても、日本に対しても、自らの自立性を侵されるのではないかという警戒心を抱きつづけていた。そのため宋哲元は共産党のこの働きかけに積極的に応じた。憲政施行と「分治合作」解消による対日抗戦段階への移行という蒋介石の計画の実現が難航するなか、「抗日」を目標にした中国ナショナリズムに基づく抗日民族統一戦線が華北を舞台に成立したわけである(第二節)。それは、1936年12月の西安事変を契機とする共産党と蒋介石政権との合作実現に先行するものであった。しかし、全国的な国共合作共合作の成立が、冀察政務委員会と共産党との地方的合作の意義をかえって失わせる結果となり、「分治合作」機関であった冀察政務委員会はそのなかで役割を終える(第三節)。

 対日抗戦を戦い抜いた蒋介石は、第二次大戦後、憲政移行を通じて自らの権力を固めようとする。それに対して、共産党は、抗日民族統一戦線の方法を応用して幅広い勢力を結集し、蒋介石・国民党を孤立化させて、自らの手で中国統一を達成する。地方を「統一戦線」に組みこむことができた毛沢東・共産党が最終的な勝利を手にし、地方の統一に失敗した蒋介石・国民党が敗北したのである(結論)。

 以上が本論文の要旨であり、以下はその評価である。

 本論文の長所としては、第一に、北伐によって国民党が中国を統一したのち、日中全面戦争が勃発するに至る時期について、中国華北における権力状況を、中央との関係において具体的に明らかにしたことである。すでに知られているように、北伐を実現した国民党勢力は国民党と親国民党軍閥勢力との連合勢力であり、華北の軍閥勢力はその中でも有力な存在だったが、それらは日本の侵略によって力をそがれ、むしろ国民党の統一が進んだこと、しかしながら、国民党が前面に出た段階からは、日本の侵略は中国統一にとって困難な条件となったことが、明らかにされている。

 第二に、以上と関連するが、これまでナショナリズム対帝国主義、国民党対共産党などの軸で理解されることが多かったこの時期の中国政治を、統一にむけての国民党の地方政策という内在的な視点から検討したことである。それによって中国政治の理解がより立体的に深まったことは間違いない。

 第三に、日中関係史において、日本側から見てよく分からない存在であった冀察政権などが成立する背景がよく分かるようになった。東アジア国際関係史の空白を埋める点で重要な貢献であり、今後しばしば参照される研究となるであろう。

 第四に、この時期の対日外交のうち、郵便、鉄道などの実務レヴェルの交渉がどのようなものであり、どういう意味を持ったかを明らかにしたことが挙げられる。

 他方で、本論文にもいくつかの弱点があることは指摘せざるをえない。

 その第一は、黄郛という人物に焦点を当てすぎる嫌いがあり、しかもその資料として、やや少数特定のものに偏っていることである。1990年代には中国、台湾、ロシアで資料の発見が加速されたが、それが十分反映されているとは言いがたい。

 第二に、日本以外の国々との外交、および財政状況との関係が、十分述べられていないことである。30年代にイギリスの援助を得て行われた幣制改革とその影響などは、もう少し関連させて論じることが可能だったように思われる。

 第三は、華北と中央との関係に焦点を絞りすぎて、抗日を共通の目標とする知識人やジャーナリズムの役割を十分視野に入れていないことである。

 しかし第一点については、資料の公開はなお進行中で、まとまった形の利用はまだ難しい。また第二点、第三点については、従来そうした方向で説明されてきたことに対し、別の次元の説明を提示することが、本論文の主なねらいであった。したがって、これらの弱点は、本論文の価値を大きく損なうものではなく、北伐完成から日中戦争に至る時期の中国政治を新たな観点から論じ、日中関係の諸側面を詳細に明らかにした点で、学界に貴重な貢献をしたものと認められる。したがって本論文は博士(法学)の学位を授与するに相応しいものと評価できる。

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