学位論文要旨



No 215236
著者(漢字) 田口,康二郎
著者(英字)
著者(カナ) タグチ,ヤスジロウ
標題(和) パイロクロア型モリブデン酸化物における電子物性の研究
標題(洋) A Study of Electronic Properties in Pyrochlore-type Molybdates
報告番号 215236
報告番号 乙15236
学位授与日 2002.01.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第15236号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 十倉,好紀
 東京大学 教授 五神,真
 東京大学 教授 永長,直人
 東京大学 教授 鹿野田,一司
 東京大学 教授 高木,英典
内容要旨 要旨を表示する

 本論文ではパイロクロア型モリブデン酸化物R2Mo2O7に関して、輸送現象測定および光学測定によってその電子物性を明らかにした。パイロクロア構造(図1)においては、Mo-副格子は、頂点共有した四面体で構成されている。このような格子構造のため、磁気イオン間に反強磁性的な相互作用がはたらくとき、スピン間に幾何学的フラストレーションと呼ばれるフラストレーションが生じる。このような幾何学的フラストレーションが、パイロクロア構造の最大の特徴と考えられる。本研究の目的は、溶融結晶を用いて、この系の本質的な輸送特性、電子構造を現代的視点から再び見つめなおして金属絶縁体転移に伴う電子構造変化を明確にし、また、スピンの作る非自明な構造が電荷ダイナミクスに与える影響を明らかにすることである。

 希土類イオンがGdより大きい時は、抵抗率は金属的な温度依存性を示し、それより小さいときは絶縁体的な温度依存性を示す。金属相では、30K以下の温度領域で、抵抗率はT2に比例する振る舞いを見せるが、その係数はR=Smの場合で、5.0×10-8Ωcm/K2と非常に大きな値を示し、モット転移近傍の金属であることを示唆する。また、抵抗率は室温付近で飽和し、非金属的な温度依存性へと変化する。このような振る舞いは、動的平均場理論で予想されているような、コヒーレント−インコヒーレントクロスオーバーとして理解することができる。輸送現象測定および磁化の測定から得られた電子相図は、過去に焼結体試料に対して得られている相図とほぼ一致するものである。さらに、金属のSm2Mo2O7と絶縁体のY2Mo2O7に対して反射率の温度変化を測定し、光学伝導度スペクトルを導き、その電子構造変化を議論した。両者のスペクトルを比較すると、強い電子相関効果を反映して、1eV以上の大きなエネルギースケールで電子構造の変化が起こっている。さらに、Sm2Mo2O7のスペクトルは金属的なスペクトルであるが、通常の金属に見られるようないわゆるドゥルーデピークは極めてウェイトが小さく、インコヒーレントな中赤外吸収が支配的である。一方、絶縁体のY2Mo2O7においては、10Kにおけるギャップが0.1eVあるいはそれ以下であり、抵抗率から求めたギャップの大きさが小さいことと符号している。Sm2Mo2O7においては、10Kにおける1/ωに比例するような形状から、温度の上昇とともに0.55eV付近を等吸収点として低エネルギー側のウェイトが高エネルギー側に移動し、よりインコヒーレントな形状へと変化していく。高々300Kの温度変化に対して、スペクトルの変化は2eV以上にまでおよび、強相関電子系の特徴を明確に示している。また、10Kにおいて0.1eV以下にかろうじて存在したドゥルーデピークが290Kにおいてはほとんど消失して、フラットなスペクトルの形状へと変化している。このような光学伝導度スペクトルの温度変化は、動的平均場理論で予言されているような、フェルミレベル付近のコヒーレンスピークの消失として理解することができる。

 次にTcがおよそ90Kの遍歴電子強磁性体であるNd2Mo2O7に対してホール効果の測定を行った。図2に抵抗率、磁化、中性子の磁気散乱強度の温度依存性を示す。Tcで(200)反射の強度が立ち上がり、それにともなって一様磁化が現れる。40K付近にもう一つ別のクロスオーバー温度があり(以後、T*と呼ぶことにする)、この温度以下で(111)反射の強度が急速に強くなり、一様磁化が減少に転じる。Tcでは主にMoのモーメントが強磁性的に整列する。Ndの4fモーメントはこれと反強磁性的に結合しているが整列した大きさはわずかであり、T*以下で顕著になる。重要な点は、両者は正味の磁化の方向から傾いており、アンブレラ構造を作っていることである。8KにおけるMo(Nd)のモーメントの大きさ、傾き角は1.4μB(2.2μB)、10°以下(70-80°)と見積もられる。図3に磁場を(100)方向にかけたときのホール抵抗率の磁場依存性を示す。磁場が小さいとき、正常項は無視できるから、0.5Tにおけるホール抵抗の値は異常項の良い目安になると考えられる。挿入図にこの値を温度の関数としてプロットした。異常項は2Kに至るまで、増大し続けている。より基本的な量であるホール伝導度に変換して、図4に示す。縦伝導度および、中性子回折の結果から求められたMoスピンのみによる磁化の温度依存性も示してある。この図で興味深い点は、縦伝導度とMoの磁化は20K以下で飽和するにもかかわらず、ホール伝導度のみが2Kに至るまで増大していることである。また、もう一つの重要な点は、T*以下で、ホール伝導度に異方性が生じることである。上述のような異常ホール効果の振る舞いは、通常の理論的見地からすると極めて異常なものである。従来の理論によれば、異常ホール抵抗は、低温に向かってゼロになる、あるいは減少することが予想されている。従って、図3に示したホール抵抗率の温度依存性は定性的に全く異なったものである。しかしながら、最近提唱されているベリー位相理論によればこのような振る舞いは自然に理解できる。電子がスピンのバックグラウンドの中をフント結合によって強く相互作用しながらホップするとき、電子のトランスファー積分はt=t0cos(θij/2)exp(iaij)と変更を受ける。ここでt0がもとのトランスファー積分、θijはiサイトとjサイトのスピンのなす角、aijは一種のゲージ場である。ベリー位相理論では、3サイトのスピンが立体角を張るとき、すなわち、スピンカイラリティー(図5)が存在するとき、電子はこの立体角に比例する仮想磁場を感じ、これが異常ホール効果をもたらす、とされている。この理論によれば、低温に向けて増大する異常ホール効果は、低温に向けてスピンの傾き角が大きくなることによって生じると解釈される。実際、中性子回折の結果から、そのようなスピンの傾き角の増大が確認されている。また、ホール伝導度の絶対値についても、実験値とベリー位相理論に基づいた計算とでよい一致をみている。

 次に3つの物質に対する異常ホール効果の測定の結果について議論した。対象とした物質はSm2Mo2O7、(Sm0.9Ca0.1)2Mo2O7、(Sm0.9Y0.1)2Mo2O7である。Caをドープした試料のみMoサイトにホールをドープしたことに相当し、Yドープの試料はバンドフィリングに変化はない。このとき、Caドープされた試料およびYドープされた試料の縦伝導度と磁化の大きさは、ノンドープの試料のそれに比べて高々30%程度の変化である。ところがホール伝導度においてのみ、Caドープの試料において800%という劇的な増大を見せている。Caドーピングの役割は主に3つ考えられる。一つ目は不純物散乱をもたらすこと、二つ目はAサイトとMoの4d電子との磁気的相互作用を部分的に断ち切ること、そして最後は4d電子のバンドフィリングを変えることである。Yドープの試料との比較から、このうち本質的に重要なのはバンドフィリングの変化であることがわかる。ベリー位相機構の立場からは、自然に説明が可能である。まず、ホール伝導度は、k空間におけるゲージフラックス密度の積分値として表されるが、ゲージフラックス密度はバンド交差点において鋭いピークをとる。従って、バンドフィリングが変化してフェルミレベルがそのようなバンド交差点を横切るときに、ホール伝導度の大きな変化が期待される。t2gバンドは全部で12本あるから、そのようなバンド交差が起こることは極めて自然なことである。このような機構によって磁化や縦伝導度が大きく変化しないにもかかわらず、ホール伝導度のみが劇的な増大を見せているものと考えられる。

 最後に、ホール効果の有限周波数版である光磁気カー効果について議論した。カー回転は本質的に伝導度テンソルの非対角成分によって生じる現象であり、その意味で周波数ゼロの極限でホール効果につながっている。ホール効果の測定を詳細に行ったNd2Mo2O7について、光磁気カー効果の測定を行った。1.3eV付近および4.5eV付近に見られる構造はそれぞれ、プラズマ端による増強を受けたバンド内遷移、およびO 2pからMo 4dへの電荷移動型遷移とアサインされる。1.3eVでのカー回転角は約0.2°で、この値は代表的な強磁性体ニッケルの0.2°やマグネタイトの0.3°、あるいは光磁気デバイスとして現在実用化されている材料の0.2°と同程度の値である。通常の反射率測定より求めた光学伝導度の対角成分σxxを用いてσxyに変換すると、カースペクトルの1.3eV付近に見られた明確な構造は消えており、プラズマ端による増強効果によるものであったことを示している。赤外域のσxyはキューリー温度以下、温度依存性は小さいが、低温に向けて減少するような振る舞いは見せておらず、その意味でペロブスカイト型マンガン酸化物とは対照的な振る舞いである。従って、赤外域のσxyもスピンカイラリティーに起因している可能性が強い。

図1:パイロクロア構造の模式図

図2:抵抗率、磁化、中性子磁気散乱強度の温度依存性

図3:ホール抵抗率の磁場依存性(挿入図は0.5Tでの値の温度依存性)

図4:ホール伝導度、縦伝導度、Moのスピンのみによる磁化の温度依存性

図5:スピンカイラリティー

審査要旨 要旨を表示する

 近年、半導体エレクトロニクスに続く次世代技術としてスピンエレクトロニクスについての関心が高まりつつある。これに伴って、物性工学の観点からは、固体中のスピン制御による電子物性、光物性の制御が中心的課題の一つとなっている。本論文はこのような背景のもとに、パイロクロア型モリブデン酸化物という独特な格子構造をもつ強磁性体を対象に行われた。パイロクロア型構造を有する酸化物は、その構造に由来する幾何学的フラストレーションという観点から、主に磁性に関して研究が行われてきた。特に、B−サイトがモリブデンである場合には、A−サイトの希土類イオンを変えることによって、基底状態はスピングラス絶縁体から強磁性金属へと転移することが知られていた。従来の研究が焼結体試料に対して行われていたのに対し、本論文では溶融結晶試料を作成し、金属絶縁体転移にともなう電子構造の変化を光学測定によって明らかにした。さらに、強磁性金属相における異常ホール効果や光磁気カー回転といった、伝導率テンソルの非対角成分に着目し、スピンの自明でない構造が電荷ダイナミクスに与える影響を明らかにした。

 本論文は、6章からなる。

 第一章では、序論として、本研究の背景が述べられている。特に、本研究で扱った物質系に最も特徴的である幾何学的フラストレーションに関する知見が述べられており、これを踏まえて、本論文の目的および意義が述べられている。

 第二章では、試料作成法、輸送現象(抵抗率、ホール効果)測定、光反射率測定、光磁気カー回転測定、中性子回折実験などの各種実験方法が詳細に述べられている。

 第三章は、希土類イオンを変えたときの金属絶縁体転移の様子を抵抗率や光学スペクトルの結果から議論している。まず溶融試料を用いた抵抗率と磁化の測定結果からこの系の電子相図を作製し、これが過去の結果と一致するものであることを確かめている。さらに、スピングラス絶縁体と強磁性金属の代表物質としてY2Mo2O7(YMO)とSm2Mo2O7(SMO)を取り上げ、反射率測定から求めた光学伝導度スペクトルを示し、金属絶縁体転移に伴って1eVといった大きなエネルギースケールで電子構造が変化していることを明確にしている。さらに、SMOの場合、強相関金属の特徴、すなわち、基底状態における小さなドゥルーデピークと支配的な中赤外域のインコヒーレント吸収、およびドゥルーデピークの消失を伴った大きな温度変化などが観測され、本物質系の過去の研究において十分考慮されていなかった電子相関効果の重要性を明らかにしている。

 第四章は、強磁性金属相における異常ホール効果についての結果を示し、その機構に関する議論がなされている。まず、Nd2Mo2O7(NMO)系において、中性子回折実験の結果と合わせて、スピン状態と異常ホール効果との相関を明らかにしている。異常ホール効果は、強磁性転移温度以下2Kに至るまで、低温に向けて増大し続けるが、40K付近でのNdモーメントが急速に増大する温度以下で顕著な異方性を示す。さらに、縦伝導率とモリブデンスピンの磁化が飽和する20K付近以下においても、ホール伝導率のみが温度変化を見せるという異常な振る舞いを示している。このような振る舞いは、実験的にも理論的にも従来の異常ホール効果に関する定説とは相容れないが、スピンの作る非自明な構造、あるいはスピンカイラリティーが異常ホール効果をもたらすとする最近のベリー位相理論とは定性的にも定量的にも一致するものであることを述べている。さらに、SMO系において、SmをCaで10%置換したときに、縦伝導率と磁化は30%程度しか変化しないにもかかわらず、ホール伝導率のみが800%にもおよぶ変化を見せることを明らかにした。このようなホール伝導率の極めて敏感なフィリング依存性も、従来の見方からすれば異常であるが、ベリー位相理論の予想とは一致するものであり、これらの実験結果から、この系における異常ホール効果はスピンカイラリティーによってもたらされるものであると結論している。

 第五章は、ホール効果の有限周波数版である光磁気カー効果の結果について、ホール効果と対比しながら検討している。まず、NMOにおいて、プラズマ周波数付近で0.2°程度のカー回転角を観測し、これがマグネタイトやニッケルといった典型的強磁性体のカー回転角と同程度であり、また、光磁気記憶媒体として実際に用いられている物質のそれとも同程度であることを述べている。また、温度依存性が強い領域は0.17eV以下に限られるが、赤外域においても有限のホール伝導率が残っていることが明らかになった。スペクトルの解釈としては、コヒーレント成分とインコヒーレント成分の2成分にわけて考えるのが妥当であるとし、その際、ペロブスカイト型マンガン酸化物と比較して、インコヒーレント部においても光学伝導度の非対角成分にスピンカイラリティーの影響がでている可能性があることを示唆している。

 第六章は、本論文のまとめにあてられている。輸送現象と光学測定の結果をあわせて、本物質系においては、電子相関効果が重要なこと、および、それによって1eV程度のエネルギー領域にまでスピン状態が電荷ダイナミクスに影響を与えていることなどを総合的に討論している。最後に、この結果を踏まえて、将来の光磁気デバイスへの可能性について言及している。

 以上を要するに、本論文ではパイロクロア型モリブデン酸化物において、溶融結晶を用いた輸送現象、光学測定の結果から、この系における電子相関効果の重要性を明らかにし、この強相関効果の現れとして、スピンの自明でない構造が直流および光学伝導率の非対角成分を生み出し得ることを初めて示した。強相関系におけるスピンと電荷の複合物性という観点から、また将来のエレクトロニクスへの新しい可能性を与えたという点からも、物性工学の進展に寄与するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク