学位論文要旨



No 215241
著者(漢字) 小林,雅彦
著者(英字)
著者(カナ) コバヤシ,マサヒコ
標題(和) 死後硬直と筋線維組成との関連について
標題(洋)
報告番号 215241
報告番号 乙15241
学位授与日 2002.01.23
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第15241号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 飯野,正光
 東京大学 教授 深山,正久
 東京大学 助教授 横溝,岳彦
 東京大学 助教授 横山,和仁
 東京大学 講師 山脇(石川),昌
内容要旨 要旨を表示する

1.緒言

 法医実務における死体硬直は,早期死体現象の1つとして,死後経過時間を推定する上できわめて重要な意味を持っている.死体硬直は顎関節から出現し,下方へと進行して,四肢では近位から遠位へ進行するとされているが,この死体硬直における下行性の発現は,Nystenの法則(1811)といわれ,現在の法医実務においては,この経時的変化を参考にして死後経過時間の推定が行われることがしばしばある.

 しかし,硬直の発現に順序がみられる原因はいまだに明らかではない.Shapiro(1950)は,「死体硬直は死後の筋肉組織に同時並行的に起こる物理化学的変化である」ことを前提として,「小さい筋肉では大きい筋肉よりかなり早く硬直が起こる」という仮説を提唱した.この説は,信頼性,説得力のある説として複数の書籍に引用されているが,この説の現象を確かめた研究はなく,著者は死体硬直の研究を開始した.

 研究の前段階として,ラットを用い,死亡直後および死後2時間において,5種類の筋肉をそれぞれ片側ずつ取り出し,それぞれのATP等の濃度を測定したところ,筋肉によってこれらの死後変化が大きく異なることがわかった.これより,Shapiroの説はその前提から再考しなければならなくなった.筋肉によって異なる死後変化をたどる原因として,筋線維タイプ(muscle fiber type)に着目し,筋肉の筋線維組成と死体硬直との関連を,生化学的,力学的な筋肉の変化の両面から確認することを目的として,本研究を行った.

 複数の筋肉について死体硬直の進展を力学的に測定することを考えた場合,筋肉を死体から摘出した上で,乾燥や筋肉内外の物質の拡散を防ぎながら経時的に測定することが必要であるため,著者はラットの死亡直後に筋肉を死体から取り出し,そのまま流動パラフィンに浸漬して実験を行う,流動パラフィンモデルを考案した.本研究においては,この流動パラフィンを用いた死体内筋肉モデルにより,筋線維タイプと死体硬直との関係を調べることを目的とした.

2.ラットの筋肉における筋線維組成

 まず,実験に使用するラットの筋肉について,筋線維タイプの面積比を調べた.筋線維タイプとしては,ATPase染色によって決められる,type I, IIA, IIBを用いた.Type Iは,酸化的リン酸化を主に行う線維で,ミオグロビンが多いため赤く見え,赤筋線維といわれる.Type IIBは,無気的な解糖を主に行う線維であり,グリコーゲンが多く蓄積され,ミオグロビンが少ないため白く見える白筋線維である.Type IIAは,type IとIIBとの中間に位置する線維であり,酸化的リン酸化と解糖の両方をよく行い,ラットにおいては赤筋線維として分類されている.骨格筋はこれらのタイプの異なる線維がモザイク状に混在して成立しており,この筋線維タイプの割合は,筋肉の種類によってある程度の傾向がある.赤筋線維の多い筋肉は一般に赤筋といわれ,白筋線維の多い筋肉は一般に白筋といわれる.

 本研究においては,ラット(Sprague-Dawley,オス,9-10ヶ月齢)を用い,咬筋,側頭筋,腓腹筋赤筋部,腓腹筋白筋部,ヒラメ筋,長指伸筋,脊柱起立筋(腰部)の凍結切片にATPase染色を施し,それぞれの線維の面積比を求めた.

 咬筋,腓腹筋赤筋部,ヒラメ筋はtype IおよびIIAの多い,いわゆる赤筋であったが,ヒラメ筋はtype Iが多く,咬筋はtype IIAが多かった.側頭筋,腓腹筋白筋部,長指伸筋,脊柱起立筋は,type IIBの多い,いわゆる白筋であった.特に,腓腹筋白筋部はほとんどすべての線維がtype IIBであった.

3.筋肉における生化学的な死後変化と筋線維組成との関係

 一定温度の流動パラフィン中に摘出した筋肉を保ちながら,31P-NMR(核磁気共鳴)を用いて,リン酸化合物の死後変化を連続的に測定した.

 前項と同じラットの筋肉を切り出して腱や筋膜を可及的に除去したもの,および,切断せずに採取したヒラメ筋および長指伸筋を使用した.筋肉は採取後直ちに流動パラフィンに浸漬し,試料管(直径4mm)に入れた.37℃または25℃に温度を保ちながら,各筋肉,各温度につきそれぞれ4試料を用い,筋肉内に含まれる,糖に結合したリン酸(SP),無機リン酸(Pi),クレアチンリン酸(PCr),ATPのリン酸における死後変化を,31P-NMRを用いて約5分ごとに測定した.

 PCrとATPは次第に減少し,PiとSPは増加した.25℃においては赤筋のほうが白筋よりもPCrとATPが減少した.しかし,側頭筋は白筋であるが赤筋に近い速い減少を示した.37℃においては白筋と赤筋との間に明らかな差は認めなかった.25℃より37℃において,また,切断されていない筋肉よりも切断した筋肉のほうがPCr・ATPの減少は速かった.

4.筋肉における力学的な死後変化と筋線維組成との関係

 力学的に死体硬直を測定する場合に,硬直性クロスブリッジの形成はほぼstiffness(硬さ)の変化として表現され,硬直の指標として定量されるが,死体硬直においては,張力も重要な因子であると考えられる.流動パラフィンモデルを使用して,硬直性張力を単独で,また,stiffnessと硬直性張力を同時に測定した.

 硬直性張力の単独測定においては,ティッシューバスに流動パラフィンを満たし,温度を37℃または25℃に保った中に,一定の大きさに切断した筋肉(腓腹筋赤筋部及び白筋部,ヒラメ筋)を浸漬し,アイソメトリックセンサーに連結し,等尺性張力の経時的変化を記録した.

 Stiffnessと硬直性張力の同時測定においては,同様に流動パラフィンに浸漬した筋肉(切断した腓腹筋赤筋部,腓腹筋白筋部,ヒラメ筋,長指伸筋,脊柱起立筋,および切断していないヒラメ筋と長指伸筋)の片方の端に1分毎に筋長の1%未満の長さ分の伸展を加え,5秒後に元に戻すことを繰り返し,もう一方の端は張力トランスデューサーに連結し,この張力の経時的変化を記録することにより測定した.

 硬直性張力およびStiffnessは,ともに赤筋では速く上昇し,白筋では遅く上昇した.Stiffnessと張力はATPの全リンに対する割合が30から10%に低下したときに上昇をはじめた.Stiffnessよりも張力のほうが速く上昇し,速くかつ大きく低下する傾向にあった.Stiffnessと張力は,25℃より37℃において,また,切断されていない筋肉よりも切断した筋肉のほうが速い上昇を示した.

5.考察

 本研究においては,筋線維組成のさまざまな筋肉を用い,死亡時のPCr・ATPをそのまま用いて死後変化の観察を行うために,筋肉を切断して用いているが,筋肉の切断の際には損傷に伴う大きな収縮が認められ,エネルギー基質は実験開始時にはすでに減少しているものと考えられた.さらに,PCr・ATPの減少速度が切断によって異なったことから,切断時のみではなく,その後のエネルギー基質の変化にも影響するような変化を引き起こした可能性があると考えられた.したがって,本研究のモデルにおいて,切断した筋肉については,死体硬直の再現が十分にできていたとは言いがたい.しかし,切断した筋肉を用いた実験においても,筋肉間に大きな差が認められ,赤筋・白筋と筋肉の死後変化の関係が生化学的・力学的に確認されたことから,切断した筋肉においても,筋線維タイプの性質を反映した結果が得られたものと考えられた.一方,本研究において行った切断しなかった筋肉についての実験ではばらつきが大きく,赤筋と白筋との間にほとんど差が認められなかった.筋肉採取等の技術を安定させ,さらに試料数を増やして検討したい.

 以下,切断した筋肉においては,NMRを用いた測定におけるPCr・ATPの減少において,および硬直性張力やstiffnessの上昇において,一般に赤筋は死後変化が速く進行し,白筋では遅い傾向にあった.白筋において死体硬直が速く進行する原因としては,白筋のATPの産生が赤筋より多いことが考えられたが,さらにその原因としては,白筋では赤筋よりも多く含まれているグリコーゲンを用い,グリコーゲン分解・解糖系によって,より多量のATPを死後にも産生している可能性が考えられた.

 ヒトの咬筋と側頭筋はその咀嚼筋としての特殊性のため,赤筋線維であるtype I線維の直径がtype II線維よりも大きく,type I線維は線維数の割合としては少ないものの,面積比は大きい.よって,赤筋線維の硬直の進行が速いならば,咀嚼筋の硬直の進行も速い可能性は十分に考えられ,顎関節から硬直が発現する死体が多いということの原因の一つが,筋線維組成の差による硬直の進行の違いである可能性があると考えられた.その他,関節における力学的な特徴の違い,死後の筋肉における温度低下速度の違いは,死体硬直の発現順序を説明する上で重要な要素であると思われた.

 死後経過時間の推定のみならず,死亡前の状況や病態を示唆する可能性がある死体硬直は,法医学的にきわめて重要なものであり,死体硬直の順序について考察を深めることは意義のあるものであると考えられた.本研究は,実験手技的にpreliminaryな研究であると考えられるが,今後は,より精度の高い実験を行うことによって,さまざまな問題点を解決し,法医実務への応用を目指していきたい.

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、法医実務において死後経過時間の推定に重要な死体硬直が、なぜ顎関節から出現し下方へ進行する(Nystenの法則)のかという疑問から出発し、筋肉の筋線維組成と死後硬直との関連を、生化学的、力学的な筋肉の変化の両面から確認することを目的として行われた。死体内組織のモデルとして、死亡直後に死体から取り出した筋肉をそのまま流動パラフィンに浸漬して実験を行う、流動パラフィンモデルを考案し、ATPase染色にて筋線維タイプの面積比を求めたラットの筋肉を用いて、下記のような実験を行い、それぞれ結果を得ている。

 1.一定温度の流動パラフィン中に摘出した筋肉を保ちながら、31P-NMR(核磁気共鳴)を用いて、リン酸化合物の死後変化を連続的に測定した。クレアチンリン酸(PCr)とアデノシン三リン酸(ATP)は次第に減少し、無機リン酸(Pi)と糖に結合したリン酸(SP)は増加した。25℃においては赤筋のほうが白筋よりもPCrとATPが減少した。しかし、側頭筋は白筋であるが赤筋に近い速い減少を示した。37℃においては白筋と赤筋との間に明らかな差は認めなかった。25℃より37℃において、また、切断されていない筋肉よりも切断した筋肉のほうがPCr・ATPの減少は速かった。

 2.流動パラフィンモデルを使用して、硬直性張力を単独で、また、stiffnessと硬直性張力を同時に測定した。硬直性張力およびStiffnessは、ともに赤筋では速く上昇し、白筋では遅く上昇した。Stiffnessと張力はATPの全リンに対する割合が30から10%に低下したときに上昇をはじめた。Stiffnessよりも張力のほうが速く上昇し、速くかつ大きく低下する傾向にあった。Stiffnessと張力は、25℃より37℃において、また、切断されていない筋肉よりも切断した筋肉のほうが速い上昇を示した。

 これらの結果より、本研究においては、切断の有無による違いが今後の課題として残るものの、NMRを用いた測定におけるPCr・ATPの減少において、および硬直性張力やstiffnessの上昇において、一般に赤筋は死後変化が速く進行し、白筋では遅い傾向にあることを明らかにした。これにより、ヒトの咀嚼筋の特殊性から、その硬直の進行が速い可能性は十分に考えられ、顎関節から硬直が発現する死体が多いということの原因の一つが、筋線維組成の差による硬直の進行の違いである可能性が示唆された。

 本研究はこれまで未知であった死後硬直と筋線維組成との関連を示し、Nystenの法則に初めて実験に基づく理論的な解釈を加えたものであり、学位の授与に値するものと考えられる。

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