学位論文要旨



No 215244
著者(漢字) 戸辺,一之
著者(英字)
著者(カナ) トベ,カズユキ
標題(和) インスリン受容体基質−2欠損マウスにおける脂肪肝と糖尿病の発症機序の解析
標題(洋)
報告番号 215244
報告番号 乙15244
学位授与日 2002.01.23
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第15244号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 清水,孝雄
 東京大学 教授 藤田,敏郎
 東京大学 教授 油谷,浩幸
 東京大学 助教授 久保田,俊一郎
 東京大学 講師 三崎,義堅
内容要旨 要旨を表示する

 インスリンは肝臓・骨格筋・脂肪組織などのインスリン標的臓器に、消化管で分解・吸収されたブドウ糖・アミノ酸・脂質などをグリコーゲン・蛋白質・中性脂肪などの形にして貯蔵することに関与するホルモンである。いずれの作用もインスリンがインスリン受容体に結合し内在するチロシンキナーゼを活性化し、インスリン受容体基質(Insulin Receptor Substrate : IRS)-1やIRS-2などの細胞質内に存在する基質がチロシンリン酸化を受けることがその作用発現の第一歩となる。IRS-1やIRS-2などのインスリン受容体の基質の役割は、これらの遺伝子の欠損マウスを作製することにより明らかにされてきた。IRS-1欠損マウスは、骨格筋でのインスリン抵抗性を有するが耐糖能障害を示さない。これは肝臓ではIRS-1の作用を代償するpp190/IRS-2の発現量が多く、骨格筋ではpp190/IRS-2の発現量が少ないためである。また膵β細胞が過形成を呈し高インスリン血症によりインスリン抵抗性を代償するため耐糖能障害を示さない。一方IRS-2欠損マウスは肝臓でのインスリン情報伝達障害に加えて膵β細胞が過形成不全を示すため、インスリン分泌が不足して糖尿病を発症する。

 本論文では、IRS-2欠損マウスの肝臓におけるインスリン抵抗性の機序と糖尿病発症の機序を明らかにするために、肝臓よりRNAを抽出しDNAチップ(Affymetrix Mu11K)を用いて包括的・網羅的な遺伝子発現の解析を行った。DNAチップの結果は、IRS-2欠損マウスの肝臓で複数の遺伝子の発現が上昇していることを示していたが、私はその中でもステロール調節領域結合蛋白(Sterol Regulatory Element-binding Protein : SREBP)-1の遺伝子の発現の上昇に特に注目した。それはSREBP-1遺伝子が、ブドウ糖および脂質代謝などエネルギー代謝の調節に関係している重要な転写因子であるからである。例えばトランスジェニックマウスの実験ではSREBP-1が脂肪酸合成を司る酵素群の遺伝子発現を亢進することで脂肪肝の発症に関与していることが示されている。一方、SREBP-1遺伝子の発現に関してはインスリンがこの遺伝子の発現を誘導することがこれまでに報告されていた。この視点に立って考えると、私のDNAチップの結果は、インスリンでその発現が誘導されるはずの脂肪肝の形成に関与する遺伝子であるSREBP-1の発現が、インスリンシグナルが低下しているIRS-2欠損マウスの肝臓で上昇しているという意外な結果であったのである。

 SREBP-1遺伝子には第1エクソンのみが異なるSREBP-1a遺伝子とSREBP-1c遺伝子の2つのアイソフォームが存在し、このうち肝臓で主に発現しているはSREBP-1c遺伝子である。SREBP-1c遺伝子はインスリンやブドウ糖によりその遺伝子発現が上昇し、絶食で低下、摂食時や再摂食時にはその発現が上昇する。RNaseプロテクションアッセイ法により、IRS-2欠損マウスの肝臓で上昇しているアイソフォームはSREBP-1cであることが確認された。またIRS-2欠損マウスの肝臓での中性脂肪含量は野生型にくらべ有意に上昇しており、IRS-2欠損マウスにおける脂肪肝の存在が証明された。このことはSREBP-1c遺伝子とその下流の遺伝子がIRS-2欠損マウスの肝臓で上昇しているとの結果と合致するものである。実際DNAチップの結果を検討すると、SREBP-1遺伝子の下流に位置するATPクエン酸リアーゼ遺伝子、spot 14遺伝子、脂肪酸合成酵素遺伝子の発現も上昇していた。これらのDNAチップの結果はすべてノーザンブロッティングで確認された。

 次に私はIRS-2欠損マウスの肝臓でSREBP-1c遺伝子発現が上昇する機序について検討した。これまでにSREBP-1c遺伝子はインスリンやブドウ糖によりその遺伝子発現が誘導されると報告されてきた。このうちインスリン作用については、IRS-2欠損マウスの肝臓ではインスリン情報伝達障害があるため、SREBP-1c遺伝子発現の上昇にはインスリン作用が主に関与しているわけではないことは明らかである。もう一つ、SREBP-1c遺伝子発現を上昇させる因子としてブドウ糖がある。実際に16週齢のIRS-2欠損マウスは糖尿病により高血糖を呈している。そこで高血糖がSREBP-1遺伝子発現を上昇を司る要因である可能性を検討するため、耐糖能が正常の6週齢のIRS-2欠損マウスの肝臓におけるSREBP-1遺伝子発現を調べた。結果は、正常血糖の6週齢のIRS-2欠損マウスの肝臓でもSREBP-1遺伝子の発現が上昇しており、高血糖がSREBP-1遺伝子の発現上昇をもたらす主要な因子とは考えられないことが判明した。このようにSREBP-1c遺伝子の発現調節におけるインスリン、ブドウ糖の作用の関与は否定された。では一体何がIRS-2欠損マウスの肝臓でSREBP-1c遺伝子の発現を誘導したのであろうか。

 IRS-2欠損マウスには、もう一つ重要な特徴がある。それは体脂肪量の増加と高レプチン血症を示すこと、即ちレプチン抵抗性の存在が示唆される点である。レプチンとは脂肪細胞から分泌されるホルモンであり、視床下部の弓状核にあるレプチン受容体に作用して食欲の抑制やエネルギー消費の亢進をもたらすことでエネルギーの過剰状態を改善し体重の低下させる。実際、野生型マウスに10mg/kg体重の量のレプチンを投与すると食餌摂取量や体重増加が十分に抑制された。しかしながらこの量のレプチンをIRS-2欠損マウスに投与しても食餌摂取量も体重増加も抑制できないことが判明し、IRS-2欠損マウスがレプチン抵抗性を示すことが証明された。次に、IRS-2欠損マウスに食餌摂取量や体重増加を抑制しうるより多くの量のレプチンを投与を行った。すると、肝臓で上昇していたSREBP-1の発現が低下することが判明した。即ち、IRS-2欠損マウスでは視床下部においてレプチン抵抗性があり、このことが肝臓でのSREBP-1遺伝子の発現を誘導した原因であることが強く示唆された。

 IRS-2欠損マウスは肥満に伴い糖尿病を発症することから、ヒトのインスリン抵抗性2型糖尿病モデルとして妥当なものと考えられる。このような観点から今回の結果を考察すると、過食・高脂肪食・運動不足のエネルギー過剰に起因する肥満・インスリン抵抗性2型糖尿病に高率に合併する脂肪肝の発症は、視床下部でのレプチン抵抗性が肝臓でのSREBP-1遺伝子の発現を誘導したことが原因となっていることが推察される。

 近年、高脂肪食・運動不足の生活習慣により肥満及び糖尿病の有病者数は急激に増加しており、これらの根本にはインスリン抵抗性があると考えられている。このようなエネルギー過剰の生活習慣病の病態を考える上で、脂肪肝が合併するヒトの肥満及び2型糖尿病の発症・進展においては、従来の肝臓・骨格筋・脂肪細胞などのインスリンの標的臓器でのインスリン抵抗性のみならず、視床下部におけるレプチン抵抗性の関与も考えて総合的に病態を把握すべきであることを私は本研究においてを示した。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、2型糖尿病の発症において重要な役割を演じていると考えられているインスリン抵抗性の機序を明らかにするため、2型糖尿病のモデルマウスであるインスリン受容体基質(Insulin Receptor Substrate : IRS)-2欠損マウスの肝臓で、DNAチップを用いた包括的な遺伝子発現解析を行い、その結果から糖尿病発症の機序について考察を試みたものであり下記の結果を得ている。

 1.16週齢の糖尿病を発症しているIRS-2欠損マウスの肝臓より抽出したRNAを用いてDNAチップ(Affymetrix Mu 11k)解析を行い、ステロール調節領域結合蛋白(Sterol Regulatory Element-binding Protein : SREBP)-1遺伝子及びその下流の脂肪酸合成に関与する遺伝子群(Spot 14遺伝子、ATPクエン酸リアーゼ遺伝子、脂肪酸合成酵素遺伝子)の発現の上昇を見出した。

 2.DNAチップの結果をノーザンブロッティングで確認するとともにRNaseプロテクションアッセイ法にて、上昇しているアイソフォームはSREBP-1a遺伝子でなくSREBP-1c遺伝子であることを明らかにした。さらに、IRS-2欠損マウスの肝臓での中性脂肪含量が野生型に比べ有意に上昇していること、すなわち脂肪肝を呈していることを示し、SREBP-1c遺伝子及びその下流の遺伝子群が上昇していることの生理的な意義を確認した。

 3.次に、IRS-2欠損マウスの肝臓で、SREBP-1c遺伝子の発現が上昇し脂肪肝を呈する機序について解析した。SREBP-1c遺伝子の発現上昇には、インスリンとブドウ糖が主要な調節因子として報告されてきた。しかしながら、インスリンシグナルが低下しているIRS-2欠損マウスの肝臓でSREBP-1c遺伝子の発現が上昇していること、さらに糖尿病を発症していない6週齢のIRS-2欠損マウスでの上昇がみられたことから、インスリン作用や高血糖以外に、主要な調節因子があるのではないかと考えられた。

 4.IRS-2欠損マウスのもう一つ重要な特徴は、肥満・高レプチン血症すなわちレプチン抵抗性の存在が示唆される点である。実際、野生型マウスで食餌摂取量や体重増加を抑制する量のレプチンをIRS-2欠損マウスに投与しても効果がみられないことから直接レプチン抵抗性の存在を証明した。さらに、IRS-2欠損マウスに食事摂取量や体重増加を抑制可能なより大量のレプチンを投与すると、上昇していた肝臓でのSREBP-1遺伝子の発現が野生型と同レベルにまで低下し、視床下部でのレプチン抵抗性が肝臓でのSREBP-1c遺伝子の上昇・脂肪肝の形成に関与することが示唆された。

 5.エネルギー過剰状態に伴うヒトのインスリン抵抗性・肥満・2型糖尿病では、高率に脂肪肝が合併する。本研究はインスリン抵抗性や脂肪肝の発症には、視床下部でのレプチン抵抗性が関与することを示した。従来、脂肪肝の形成には、インスリン抵抗性に伴う高インスリン血症に伴う肝臓でのインスリン作用過剰が、SREBP-1c遺伝子の発現上昇による脂肪酸合成促進が原因と考えられてきた。本研究は、インスリンシグナルが低下しているIRS-2欠損マウスを2型糖尿病のモデルとして用い、インスリン作用というよりは、視床下部でのレプチン抵抗性が脂肪肝の形成やインスリン抵抗性の発症に強く関与していることを明らかにした。

 本論文は、脂肪肝を合併したヒト2型糖尿病におけるインスリン抵抗性の病態を考える上で、肝臓・骨格筋・脂肪細胞でのインスリン作用だけでなく、視床下部でのレプチン抵抗性を考慮すべきことを示したという点で重要な貢献をなすものと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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