学位論文要旨



No 215250
著者(漢字) 米田,穣
著者(英字)
著者(カナ) ヨネダ,ミノル
標題(和) 放射性炭素の海洋リザーバー効果と先史時代人の食性
標題(洋) Marine Radiocarbon Reservoir Effect and Prehistoric Human Diet
報告番号 215250
報告番号 乙15250
学位授与日 2002.01.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第15250号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 諏訪,元
 東京大学 教授 木村,賛
 東京大学 助教授 吉永,淳
 東京大学 講師 近藤,修
 国際日本文化研究センター 教授 赤澤,威
 お茶の水女子大学 助教授 松浦,秀治
内容要旨 要旨を表示する

 本研究では、日本列島を含む西部北太平洋表層で観察された放射性炭素(14C)年代における海洋リザーバー効果と、人骨試料の14C年代測定におけるにその影響について調べた。考古学遺跡から発掘される人骨資料の正確な年代を決定することによって、時間軸にそって他の人骨資料と比較検討することが可能となり、また当時の自然環境に関する情報を参照することも可能になる。近年、加速器質量分析法(AMS)を用いた14C年代測定技術の進展により、従来のβ線計測では数g必要であった炭素の量がAMSでは1mg以下で年代決定が可能であり、学術的に貴重な人骨資料でも形態学的情報にほとんどダメージをあたえずに測定することできる。例えば博物館に収蔵されている古い発掘による人骨資料では学術的な発掘調査記録がない場合も多く、木炭などの供伴遺物の絶対年代から人骨資料の年代を推定することが困難な場合も多い。AMSでは0.5g程度の骨片から抽出したコラーゲンの14C年代を直接決定することが可能であり、絶対年代を決定することで過去の学術資料の価値を再評価することができる。一方、コラーゲン中の炭素の安定同位体比(δ13C値)と窒素安定同位体比(δ15N値)を測定することで、過去の人々の食生活について定量的な復元ができる。我が国の先史時代の人類集団に関しても、縄文時代を中心に分析結果が報告されている。なかでも北海道の集団では、タンパク質の大部分を海産物に依存していることが明らかになった。これは北海道先史文化の特殊性や、その後のアイヌ文化との関係を考える上で非常に重要な知見であるが、同時に海生生物で認められる海洋リザーバー効果の影響、すなわち見かけ上の14C年代のずれが人骨の14C年代にも影響している可能性を示唆している。

 近年、日本考古学でも14C年代測定を積極的に応用し、年輪年代法と組み合わせることで先史時代に関してより正確な年代観を構築しようという試みがなされている。その中で海洋に由来する貝殻や海生動物骨あるいは人骨試料のより高精度な年代決定が求められている。AMSを利用することで様々な試料の測定が可能になり、また測定技術の進歩により分析精度が向上した結果、海洋全体の平均で約400年という海洋リザーバー年代の影響が分析結果を解釈する際に無視できない。特に第四紀の古環境研究で広く用いられる深海底コアの年代決定でも有孔虫などの14C年代は重要な絶対年代決定法であるが、その14C年代を暦年代へと高精度に較正するためには各海域における正確な海洋放射性リザーバー年代の決定が不可欠である。しかし、現在の海水中に含まれる溶存無機炭素は大気圏核実験によって発生した人為起源14Cを大量に含んでおり、もともと天然レベルで海水中に存在した14C濃度を復元することは容易ではない。そのため、欧米では自然史博物館などに保管されている核実験以前(pre-bomb)に採取された海洋生物標本を用いて、その推定がなされている。しかし、日本では採取状況が記録された生物学的な標本が少ないため、これまで日本列島周辺海域における海洋リザーバー効果に関する系統的な研究はなされてこなかった。

 我々は京都大学地質学教室が保管する核実験以前の貝殻試料を分析する機会を得たので、それらの試料を用いて、これまで研究がなされてこなかった西部北太平洋における海洋リザーバー年代を復元することが可能かどうかを検討した。提供された試料の多くは1920年代から1930年代に採取された生物学的標本であり、採取年月日や採集地点のラベルが添付されており、当時の大気14C濃度との比較により人為起源14Cの影響以前の海洋リザーバー年代を推定することが可能である。また採取地点はサハリンから台湾、フィリピン、ミクロネシアに及んでおり、北太平洋における海洋リザーバー年代の地理的な変異を検討できると期待された。しかし、貝殻試料が採取された時点でその個体が生息していたのか、それとも貝殻のみが死後に採集されたかについては、採取に関する詳細な情報が残されていなかった。死後かなりの時間が経過したもの(例えば化石)が混入してしまうと、採取年代と生息年代とのずれ生じてしまう。今回は、目視で風化形跡が認めらない試料を選択したが、古い貝殻の混入の危険はさけられない。そこで、近接する地点で採取された貝殻資料を複数分析することで、生息年代が古い資料が混入していなかどうかを確認することにした。その上で、西部北太平洋の広い範囲で海洋リザーバー年代がどのような地域的変動を示すかを検討し、海洋学的な情報との関連を検討した。

 30点の貝殻試料を分析した結果、沖縄県久米島産の試料6点のように近接した地点で採取された資料でも必ずしも一貫した値を示さない場合が認められた。一般的に北緯40度以南の親潮と黒潮の混合水域や珊瑚礁域では、局地的な変動が非常に大きく海域を代表する補正値(ΔR値)を決めるのが困難であった。また台湾産の資料には2000年を大幅にこえる古い貝殻が混ざっており、京都大学コレクションへの化石資料の混入が考えられた。これらの変動は貝殻自身が古いものであったのか、それとも局所的な環境要因、例えば石灰岩地帯を流れた河川から古い炭素がもたらされた影響なのか、今回の分析では区別することはできない。今後、貝殻の風化を評価する物理化学的な指標を検討すると同時に、生きたまま採取された生物学的な証拠、例えば連結した二枚貝や軟部組織の存在する標本などを再調査する必要がある。しかし、北海道以北ではほとんどの資料で見かけ上の14C年代が一貫して約800年と非常に大きい値を示した。すなわち、西部北太平洋でも東部北太平洋に匹敵する古いリザーバー年代を示す可能性を、具体的な証拠をもって我々が初めて示すことができた。

 北海道以北で観察された大きな海洋リザーバー効果は、熱塩循環によってもたらされた古い深層水が湧昇した結果である。したがって、湧昇流の強度と海洋リザーバー年代の問には密接な関係があると考えられる。湧昇流のもととなる熱塩循環は地球規模で海水を攪拌する大きな力であり、地球環境に強く影響している。しかし、ヒプシサーマル以降はほぼ一定であると考えられており、その時代変化については詳細な研究がなされていない。そこで、縄文時代から近世に至るまで貝塚が形成された北海道の考古学遺跡に着目し、海生および陸生の動物の骨試料を用いて、海洋の14C年代と大気の14C年代を比較し、ΔR値の時代変化を検討した。また、外洋を回遊する海生哺乳類を分析することで、河川流入などの局所的な環境要因の影響が少なくなると期待された。今回は北海道噴火湾沿岸に立地する5つの遺跡からオットセイとニホンジカの骨107点を採取し、14C代測定及び炭素・窒素安定同位体比分析に供した。対象とした遺跡は、北黄金貝塚(縄文時代前期)、高砂貝塚(縄文時代中期)、南有珠6貝塚(続縄文時代恵山期)、南有珠7貝塚(擦文時代)、オヤコツ貝塚(アイヌ文化期)である。分析の結果、今回分析した5つの遺跡では海洋表層の炭素を代表するオットセイの見かけ上の14C年代が大気と平衡であるニホンジカのそれよりも80014C年程度古くなることが分かった。さらに、年輪年代法との比較から得られた大気較正曲線(INTCAL98)とモデル計算された海洋試料用の較正曲線を用いてΔR値を算出したところ、各遺跡で顕著な違いは認められなかった。これは、ヒプシサーマル以降は熱塩循環に大きな変動がなかったという仮説を支持し、平均で382±1614C年というΔR値は核実験以前の貝殻の結果とも矛盾しない。しかし、本研究で分析した遺跡の時期は、花粉分析の結果ではいずれも比較的温暖な時期のものであり、今後さらに寒冷期の遺跡を分析することで陸域環境と熱塩循環の関係を詳細に検討することが可能になる。

 最後に、人骨試料における海洋リザーバー効果の影響について、北黄金貝塚出土人骨(縄文時代前期)8体で検討した。この遺跡の場合、炭素・窒素安定同位体比から強い海産物依存性が指摘されている。人骨の見かけ上の14C年代と同じ遺跡から出土したニホンジカやオットセイの見かけ上の14C年代を比較したところ、人骨試料では5499±46BPとニホンジカで代表される大気の14C年代(4820±20BP)よりも明らかに古い年代を示した。これはヒトの組織が海産物を経由して14Cが減少した炭素を取り込んでいたことを示している。オットセイで得られた5680±5BPという海洋リザーバーの14C年代と人骨の見かけ上の14C年代の差から、タンパク源における海洋由来の炭素の割合を計算したところ、北黄金縄文人の場合、約80%の炭素が海洋から由来していることが明らかになった。見かけ上の14C年代という指標は、熱統計力学的な同位体分別による安定同位体比の変動とはまったく異なる地球物理学的現象に起因する。したがって、δ13C値やδ15N値とは独立した新たしい食性の指標である。さらにδ13C値やδ15N値よりも食料資源における変動が小さいためより高精度な定量的復元が可能となった。

 従来、先史人類学や考古学では地球化学の手法を積極的に応用して、先端的な研究として注目を集めてきた。本論文でも生物地球化学の同位体的手法を用いて、先史時代の人類集団の生業活動を研究したが、さらに考古学の発掘調査で得られた動物骨資料が過去の地球環境に関する研究でも有効な資料であることを示した。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は5章からなり、第1章は序論、第5章は結語、主要部は第2、3、4章の3部からならる。序論では本研究の目的、背景、構成がまとめられ、また本研究の分析方法論の概略とその先史人類学的、年代学的応用の概要をまとめている。

 第2章では、核実験以前の1920年から1930年の間に採取された貝殻資料、約30点について、加速器質量分析法(AMS)を用いて14C年代を測定し、日本近海の海洋リザーバー年代の推定を試みた。その結果、貝殻資料から海洋リザーバー年代を推定する方法論的な知見を幾つか得ると共に、特に北海道近海の採取資料の見かけ上の14C年代が約800年であり、西部北太平洋の海洋リザーバー年代が、海洋全体の平均リザーバー年代の約400年よりも大きい値を示す可能性が示された。これは東部北太平洋で従来から報告されている海洋リザーバー年代に近い値であり、東部北太平洋と同様、西部北太平洋においても熱塩循環モデルで予測される深層水の湧昇の影響によるものと解釈された。

 第3章では、北海道近海の海洋リザーバー年代の時代的変遷を調べる目的で、北海道先史時代の考古学遺跡から出土し、層位から同時代のものと推定される陸棲動物と海棲動物の対について14C年代を測定し、それらの測定年代差から当時の海洋リザーバー年代を推定することを試みた。陸棲動物としてはニホンジカを、海棲動物としては外洋を回遊するオットセイを用い、時代の異なる5遺跡、107点の資料の14C年代を測定した。対象となった遺跡の時代は縄文時代前期、後期、続縄文時代恵山期、擦文時代期、アイヌ文化期であり、約5000 BPから900 BPまでの間にわたる。その結果、今回調べられたどの時代においても、推定された海洋リザーバー年代は約600年から800年程度であることが判明し、ヒプシサーマル以降の熱塩循環に大きな変動はなかったとする仮説を支持する結果が得られた。

 第4章では、海洋リザーバー効果の影響により、遺跡出土の人骨の見かけ上の14C年代が変動し得ることに基き、先史時代人の食性を検討した。人骨資料は第3章で対象とした遺跡のうち、縄文時代前期、北黄金貝塚から出土した8体分である。従来から、この遺跡では強い海産物依存の食性が指摘されてきたが、本研究においても、上記8体の人骨資料の炭素・窒素安定同位体比によってこれが確認された。さらに、安定同位体比とは独立に、かつより精度良く海洋由来のタンパク摂取相対量を推定するために、人骨資料の14C年代を測定し、同時代のものと思われる、第3章で分析したシカとオットセイ資料の14C年代と比較した。その結果、人骨資料の14C年代(5499±46 BP)はニホンジカの14C年代(4820±20 BP)より古く、オットセイの14C年代(5680±5 BP)により近いことが判明した。これら3者の14C年代から、人骨資料における海洋由来のタンパク質の割合が、約80%と推定された。

 第5章では、上記の研究成果とその意義を簡潔にまとめている。

 本研究の意義は以下に在る。まずは、地球化学における意義で、本研究は、日本近海の海洋リザーバー年代を初めて推定し、また先史時代資料を活用し、その時代的変遷を一部明かにした。高精度の古環境復元が要求される現在、有孔虫などの14C年代を精度良く補正する必要があり、地域ごとの海洋リザーバー年代の時代的変遷を解明することが望まれている。本研究はこれに関して、日本近海における初めての具体的な成果であり、今後のより系統だった研究の基盤となるものである。次に、先史人類学における意義は、海洋リザーバー効果の影響を具体的に示し、遺跡の年代決定に示唆するところを示すと同時に、逆にリザーバー効果を利用し、北海道、縄文時代人の食性の一端を明らかにしたことにある。地球化学の分野の方法論を整備しながらそれを先史人類学における仮説検定に応用し、新たな方法論を導入した意義は大きい。

 なお、本論文は柴田康行氏、森田昌敏氏他との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析および検証を行なったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 以上、本論文は、先史人類学の分野において、博士論文としての価値を十分に有すると判定された。従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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