学位論文要旨



No 215267
著者(漢字) 益田,隆嗣
著者(英字)
著者(カナ) マスダ,タカツグ
標題(和) スピン・ギャップを有する量子スピン系の不純物効果
標題(洋) Study of Impurity Effects in Quantum Spin Systems with a Spin Gap
報告番号 215267
報告番号 乙15267
学位授与日 2002.02.14
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第15267号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 内野倉,國光
 東京大学 教授 宮下,精二
 東京大学 教授 福山,秀敏
 東京大学 教授 藤井,保彦
 東京大学 助教授 為ヶ井,強
内容要旨 要旨を表示する

 1983年のハルデン仮説の提唱及び、1986年の高温超伝導発見以来、量子スピン系は理論のみならず、実験的研究も以前にまして精力的に行われるようになった。最近注目されているのは、スピン・パイエルス系、ハルデン系、2本足梯子系、ダイマー系等、スピン・ギャップを有する系である。本論文においては、スピン・ギャップ系にスピン欠陥を導入した場合に、基底状態や低エネルギー励起がどのように変化するかに着目し、スピン・ギャップを有する量子スピン系の不純物効果の研究を行った。

 スピン・ギャップ系の基底状態は非磁性なスピン一重項状態であり、スピン相関関数は指数関数的に減衰することが知られている。このような状態に、非磁性不純物の置換を行いスピン欠陥を導入すると、不純物の近傍で周囲のスピンが誘起される。不純物濃度が小さく、不純物間距離が長い場合、これら誘起されたスピンが長距離秩序を有することは、直感的には考えにくい。しかし長谷らによる先駆的研究により、スピン・パイエルス物質CuGeO3においては少量の不純物による反強磁性長距離秩序の発現が明らかになった。また、数多くの理論、実験両面から、この不純物誘起反強磁性相においては、反強磁性的なスピン波励起のみならず、スピン・ギャップ励起も共存していることが明らかとなった。この新奇な反強磁性状態が、不純物濃度を増大させていくことにより、どう変化していくかを調べるために、Cu1-xMgxGeO3の温度−組成(T-x)相図の研究を行った。

 磁化率測定により作成されたT-x相図を図1に示す。不純物濃度xの増加にともない、x=0.023までは、スピン・パイエルス転移温度(TSP)は、ほぼ線形に減少し、反強磁性転移温度(TN)は、ほぼ線形に増加している。ところが、x=0.023においてスピン・パイエルス相の消失と反強磁性転移温度に跳びが同時に観測されている。このことからx=0.023を臨界濃度(Xc)として、Xc以下の低濃度領域においてはスピン波励起とスピン・ギャップ励起が共存した新奇な反強磁性相が存在しているのに対し、Xc以上の高濃度領域においてはスピン波励起のみ存在する通常の反強磁性相が存在していることが分かる。またTNに跳びが観測されたことから、これら二相間には組成的な一次相転移が存在することが明らかとなった。Cu1-xMgxGeO3における3つの相、すなわち強い量子揺らぎによりスピン・ギャップを有するスピン・パイエルス相、量子揺らぎが抑制された古典的な反強磁性相、そして、強い量子揺らぎを伴った反強磁性相、の相図が実験的に得られ、多くの注目を集めた。この組成的一次相転移は、多くの研究者たちにより、詳細な磁化率測定、中性子回折、X線回折、熱伝導率測定など様々な手法により研究され、その存在は、いずれの実験からも支持された。Cu1-xMgxGeO3のみならず、Cu1-xZnxGeO3、磁性イオンによる不純物置換を行ったCu1-xNixGeO3においても組成的一次相転移は観測されたことから、CuGeO3のサイト置換効果に一般的な現象であることが明らかとなった。一方ボンド置換に相当するCuGe1-xSixO3の相図も作成されたが、組成的一次相転移は観測されなかった。スピン・パイエルス相が消失する臨界濃度で、反強磁性転移温度の跳びは観測されず、その急激な増加のみが観測された。従って、ボンド置換においては、組成的二次相転移が存在していることが示唆された。位相ハミルトニアンを用いた理論により、不純物により乱れたスピン・パイエルス系の基底状態の研究がなされ、我々の実験とは独立、かつ同時期に、組成的相転移の存在が予想されていた。当初は二次相転移であるとされていたが、CuGeO3のように鎖間相互作用の強い系においては、一次相転移が生じる可能性もあることが現在では分かっている。

 スピン・パイエルス転移は磁気相転移であると同時に、構造相転移でもある。したがって、圧力印加によりスピン・パイエルス系は大きな影響をうけることが予想される。実際CuGeO3においては、圧力印加によりスピン・パイエルスギャップは増大すること及び、スピン・パイエルス転移温度は大きな圧力依存性(△TSP=4.8K/GPa)を有することが報告されている。そこで、Cu1-xMgxGeO3のT-x相図が圧力印加により変化していく様子を調べるため、温度−圧力−組成(T-P-x)相図の研究を行った。図2(a)に、xが十分大きく、スピン・パイエルス相が消失している高濃度試料における磁化率測定結果を示す。圧力により、最近接スピン間相互作用J1が抑制されることと、次近接スピン間相互作用をJ2とするとJ2/J1で表される、スピン相互作用のフラストレーションαが増大することが分かる。西らにより、不純物を置換していない純粋なCuGeO3において、実効的な鎖間相互作用(J')は圧力により増大することが報告されている。J1の抑制、J'の増大はともにスピン・パイエルス相を不安定化させ、反強磁性相を安定化させる。αの増加は系にどのような影響を与えるのであろうか?図2(b)に示された、磁化率の低温部をみると圧力印加によりスピン・パイエルス相が復活することが分かる。X線回折から、格子歪みの存在も観測された。このことから、αの増大はCuGeO3のスピン・パイエルス相を安定化させる要因となっていることが分かる。高圧下においてはJ1,α,J'の競合の結果、反強磁性相よりスピン・パイエルス相が安定化し、圧力誘起スピン・パイエルス転移が生じていると考えられる。磁化率測定により、Cu1-xMgxGeO3のT-P-x相図が得られ、この相図はJ1,α,J'の競合により決定されることが示唆された。

 スピン・ギャップ励起と反強磁性的スピン波励起が共存する不純物誘起反強磁性相は、CuGeO3に特有な現象なのか、それとも、他のスピン・ギャップ系でも観測されうる現象なのか?この観点から、ハルデン系の不純物効果の研究を行った。反強磁性状態は3次元秩序状態であるので、鎖間相互作用の存在が不可欠である。CuGeO3において不純物誘起反強磁性相が実験的に観測された理由には、鎖間相互作用が大きく、基底状態が、秩序状態とスピン・ギャップ状態の境界付近に位置していたことが挙げられる。ハルデン物質PbNi2V2O8は負の方向に比較的大きな単イオン異方性を有し、比較的大きな鎖間相互作用を有しており、基底状態は、秩序状態とハルデン状態の境界付近に位置している。従って、CuGeO3同様の不純物誘起反強磁性相が観測できる可能性がある。実際、すでに予備的な不純物効果の研究はPb(Ni1-xMgx)2V2O8においてなされており、不純物置換による反強磁性秩序の誘起が報告されていた。しかし、その反強磁性相において、ギャップ励起とスピン波励起が共存しているのか、スピン波励起のみを有するものなのかは明らかではなかった。ハルデン系において後者のような、高温側でハルデン・ギャップ励起を有するものの、反強磁性転移温度以下ではスピン波励起のみを有する物質はCsNiCl3等がすでに知られている。しかし、前者のような系は未だ報告されていなかった。PbNi2V2O8はCuGeO3と異なり、分解溶融型の物質であるため、単結晶が未だ得られていない。したがって、中性子非弾性散乱による磁気分散の直接観測は困難である。そこで、Pb(Ni1-xMgx)2V2O8において、反強磁性転移温度以下の低温における高磁場下磁化測定が行った。図3に示すように、高磁場で磁化の急激な上昇が観測された。磁化曲線の振る舞いは、純粋試料と類似しており、この急激な上昇は、ゼーマン分裂による、非磁性な基底一重項状態と磁性を有する励起状態との準位交差によるものと考えられる。このことはすなわち、反強磁性転移温度以下においても、スピン・ギャップ励起が存在していることを示唆する。従って、Pb(Ni1-xMgx)2V2O8で観測された不純物誘起反強磁性相においても、スピン・ギャップ励起と反強磁性スピン波励起とが共存していることが強く示唆された。スピン・パイエルス系のCuGeO3、ハルデン系のPbNi2V2O8以外にも同様の現象が、二本足梯子系、SrCu2O3、ダイマー系、TlCuCl3においても観測されている。従って、2つの励起が共存する不純物誘起反強磁性相は、スピン・ギャップ系一般に観測されうる現象であることが分かった。

図1:Cu1-xMgxGeO3のT-x相図

図2:(a)Cu1-xMgxGeO3の圧力下磁化率(b)磁化率の低温部

図3:Pb(Ni1-xMgx)2V2O8の磁化曲線(a)H⊥cの場合(b)H⊥cの場合

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は"Study of Impurity Effects in Quantum Spin Systems with a Spin Gap"と題し、スピン・パイエルス物質CuGeO3とハルデン物質PbNi2V2O8の不純物効果に関する研究をまとめたものである。

 第一章は量子スピン系におけるスピン・パイエルス系とハルデン系の位置付けおよび、本研究の舞台となる物質、CuGeO3とPbNi2V2O8の物性について過去の研究のレビューを行っている。前者の系においては、ギャップ励起と反強磁性スピン波励起とが共存することが低濃度置換試料において実験的にも理論的にも知られている。このような状態が不純物量を増加していくことによりどのように変化するかを明らかにすること、すなわち温度−組成相図作成が本研究の一番目の目的である。スピン・パイエルス系は構造相転移を伴うため格子が柔らかく、圧力印加により系の状態が劇的に変化し得る。このことに着目し、大気圧下で作成された相図の圧力変化を明らかにすることが二番目の目的である。ハルデン物質PbNi2V2O8で観測される不純物誘起反強磁性相が、不純物で置換されたスピン・パイエルス物質CuGeO3の場合と同様二つの励起が共存する相であるか否かを明らかにすることが三番目の目的である。

 第二章では、CuGeO3で観測されている不純物誘起反強磁性相に着目し、温度−組成(T-x)相図の研究について述べられている。磁化率測定により詳細なT-x相図が得られた。不純物濃度xの増加にともない、x=0.023までは、スピン・パイエルス転移温度は、ほぼ線形に減少し、反強磁性転移温度は、ほぼ線形に増加する。ところが、x=0.023においてスピン・パイエルス相の消失と反強磁性転移温度に跳びが同時に観測された。このことからx=0.023を臨界濃度(Xc)として、Xc以下の低濃度領域においてはスピン波励起とスピン・ギャップ励起が共存した反強磁性相が存在しているのに対し、Xc以上の高濃度領域においてはスピン波励起のみ存在する通常の反強磁性相が存在していることが明らかとなった。また、反強磁性転移温度に跳びが観測されたことから、これら二相間には組成的な一次相転移が存在することが明らかとなった。この組成的一次相転移は、多くの研究者により、詳細な磁化率測定、中性子回折、X線回折、熱伝導率測定など様々な手法により研究され、いずれの実験からもその存在が支持された。Cu1-xMgxGeO3のみならず、Cu1-xZnxGeO3、磁性イオンによる不純物置換を行ったCu1-xNixGeO3においても組成的一次相転移は観測されたことから、CuGeO3のサイト置換効果に一般的な現象であることが明らかにされた。

 第三章では不純物置換されたCuGeO3の圧力効果の研究について述べられている。第一章で作成されたCu1-xMgxGeO3のT-x相図が圧力印加により変化していく様子を調べるため、温度−圧力−組成(T-P-x)相図の研究が行われた。圧力により、最近接スピン間相互作用J1が抑制されることと、次近接スピン間相互作用をJ2とするとJ2/J1で表される、スピン相互作用のフラストレーションαが増大することが高温部磁化率測定から明らかとなった。低温部の磁化率測定からは、不純物置換により消失していたスピン・パイエルス相が圧力により復活することが明らかにされた。また、他グループの研究により、不純物を置換していない純粋なCuGeO3において、実効的な鎖間相互作用(J')は圧力により増大することが報告されている。J1の抑制、J'の増大はともにスピン・パイエルス相を不安定化させ、反強磁性相を安定化させる。ところが、実験結果からは圧力によるスピン・パイエルス相の復活が明らかとなっている。従って、αの増加はスピン・パイエルス相を安定化させると考えない限り実験結果が説明できない。つまり、J1、J'、αの競合の結果、相が決定されることが実験的に結論づけられた。また、大気圧下で観測された一次の組成的相転移は、圧力印加により二次相転移へと変化することが実験的に明らかにされた。J1の抑制、J'の増大はともに組成的相転移の次数を二次から一次へと変化させることが理論的に提唱されていることから、αの増加は次数を一次から二次へと変化させると考えない限り実験結果は説明できない。つまり、J1、J'、αの競合の結果、組成的相転移の次数が決定されることが明らかとなった。以上によりCu1-xMgxGeO3のT-P-x相図はJ1,α,J'の競合により決定されることが結論された。

 第四章においてはPbNi2V2O8の不純物誘起反強磁性相の研究について述べられている。スピン・ギャップ励起と反強磁性的スピン波励起が共存する不純物誘起反強磁性相は、CuGeO3に特有な現象なのか、それとも、他のスピン・ギャップ系でも観測されうる現象なのか、という観点から、ハルデン系の不純物効果の研究が行われた。PbNi2V2O8はCuGeO3と異なり、分解溶融型の物質であるため、単結晶が得られていない。したがって、中性子非弾性散乱による磁気分散の直接観測は困難である。そこで、Pb(Ni1-xMgx)2V2O8において、反強磁性転移温度以下の低温における高磁場下磁化測定が行われた。その結果、高磁場で磁化の急激な上昇が観測された。この磁化曲線の振る舞いは純粋試料と類似していることから、急激な磁化の上昇は、ゼーマン分裂による、非磁性な基底一重項状態と磁性を有する励起状態との準位交差によるものと考えられた。このことから、反強磁性転移温度以下においても、スピン・ギャップ励起が存在していることが示唆された。従って、Pb(Ni1-xMgx)2V2O8で観測される不純物誘起反強磁性相においても、スピン・ギャップ励起と反強磁性スピン波励起とが共存していることが結論された。スピン・パイエルス系のCuGeO3、ハルデン系のPbNi2V2O8以外にも同様の現象が、二本足梯子系のSrCu2O3、ダイマー系のTlCuCl3においても観測されていることから、2つの励起が共存する不純物誘起反強磁性相は、スピン・ギャップ系一般に観測されうる現象であることが提案された。

 第五章は本論文の結論が述べられており、本研究で明らかとなった、スピン・ギャップ系における不純物誘起反強磁性相に関する知見の総括が述べられている。

 以上をまとめると、本論文ではスピン・ギャップ系の不純物誘起反強磁性相の物理を明らかにしている点で、物性物理学および物理工学への寄与は大きい。よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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