学位論文要旨



No 215272
著者(漢字) 杉本,一樹
著者(英字)
著者(カナ) スギモト,カズキ
標題(和) 日本古代文書の研究
標題(洋)
報告番号 215272
報告番号 乙15272
学位授与日 2002.02.20
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15272号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,信
 東京大学 助教授 大津,透
 東京大学 教授 五味,文彦
 東京大学 助教授 月本,雅幸
 史料編纂所 教授 石上,英一
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、日本古代文書という一つのテーマのもとに、筆者がこれまで行なってきた研究の成果を一書にまとめたものである。

 最近の日本古代史研究の顕著な特徴として、使用する史料に対して厳密な史料学的検討を加え、生成ないし発展・継承のプロセスを重層的にとらえた上で、その層序を歴史学的情報として読みとる、という方法が見られる。本書もその立場を継承するが、これに加えて、従来古文書学として蓄積されてきた学問的枠組みの再検討を通じ、古代文書の多様なあり方と社会的機能を、当時の実態に即して具体的に追究する。これが第一の課題である。

 古代文書について論じる場合、その中心的位置を占めるのが、東大寺正倉院に伝来した正倉院文書である。本書はまた、第二の課題として、正倉院文書という史料群の体系的研究という性格をもつ。多くの先行業績の中で、その基本的性格が写経所文書であることが明らかにされ、研究水準は精密さを増しているが、著者は原本そのものの綿密な観察調査から出発し、「もの自体」のあり方を追究した。

 上記の二つの課題は、多くは一つの具体的論述の中に分離不可分な形で包摂される。本書では、個別的な事象を記述した各篇を第2部に置き、総論ないしはそれを指向する論述を第1部にまとめた。さらに第3部では、戸籍・計帳を例に、民衆支配の方途として古代文書が果たした機能について論じる。

第1部 古代の文書と古文書学

 第1部は、伝統的な古文書学の枠組みの中で正倉院文書を捉えることを通じて、その特質を浮かび上がらせる第2章と、そこで明らかになった特質を手がかりに、伝統的古文書学の枠組み自体の全面的な再検討を行なう第1章との二章を主軸に構成される。

 第1章 古代文書と古文書学 古代文書を主対象とする古文書学を構想するとき、そこでは、いかなる問題が、いかなる観点から扱われるべきか、を論じる。個別事象から抽出されるモデルを使用し、汎用性をもつ概念装置の構築を目標とする。

 ここでは、史料の三分法批判、文字の担うものについての理解、公式令文書の古代文書全体に占める位置、宣旨非文書説批判、〈しごと〉指向の文書理解などの論点を提示し、文書を、〈ひと〉が〈言葉/文字〉を使って行なおうとした〈しごと〉の観点からとらえ直すことを提唱した。それによって、「文書の機能」「文書が伝達する内容」など、古文書学の中では自明とされる概念の枠組みを再検討する。第1部のみならず、本書全体に対する導入と展望の意味をもつ。

 第2章 正倉院文書 正倉院宝庫に伝来した正倉院文書は、一般に「極めて特殊な」文書群とされることが多い。そこで、正倉院文書の概説を行ないながら、その個別特殊性の由来を確かめること、それをオーソドックスな古文書学の枠組みに乗せて叙述すること、の二つの目標を設定した。

 正倉院文書の伝来に関しては、何らかの効力によるのではなく、反故としての再利用を待つうちに忘れられた、全体が一つの紙背文書に相当するものと見た。また、文書群の構造は、写経所で行なわれた〈しごと〉の構造と照応するものであることを指摘し、一般性と特殊性の分岐点について述べた。また正倉院文書の視点から文書の機能論批判を行なった。

 第3章 律令制公文書の基礎的観察 原本観察の成果を、統一的な観点から展望し、古文書学の中に位置づけた論述。様々な視点からの「観察」を基本に据え、事象を「製作手順」という時系列に基づいて整序する、という手法をとった。律令制公文書が貴重な基準史料である点に鑑み、多様なデータを活用しやすい形で提供することも目指した。

 第4章 端継・式敷・裏紙 紙という素材は、文字を書くための単なる白地ではなく、独自の特性をもち、文字と組み合わさって多彩な役割を果たす。写経の製作過程で使用される料紙「端継」、書写の際の用具「式敷・下纒」、経紙を包む「裏紙」、等について史料と実物の双方から考察した論述。個別事象のモノグラフの体裁をとるが、形態論を古文書学の中に正当に位置づけることを意図している。

 第5章 揺籃期における書の諸相 日本で文字が使われ始めた時期、金石文として表現された文字は強い呪術性・霊性を具えていた。その文字が、やがて〈しごと〉のための道具に転化していく過程を、飛鳥白鳳期まで概観する。

 第6章 献物帳の書 奈良時代中葉の献物帳の書をとりあげて、この時期における「書」の意味・位相を探る。当時の書に見られる王羲之・欧陽詢などの影響を、「どのように書くか」という規範意識の問題としてとらえ、「何を書くか」と同列に扱うべきことを提唱する。「文字を書く行為」の地盤まで掘り下げることを通じ、「書」をめぐって古文書学と書道史が学的な交流の可能性を探る。

 第7章 正倉院文書における紙について 素材としての紙について、材質・製法の側面から、紙の表裏、打紙、原料などの論点について述べた。

第2部 正倉院文書の復原と研究

 正倉院文書の原本や正倉院宝物の中に含まれる文字史料の調査に基づき、事例の報告と考察を行った諸論考からなる。ほとんどが新出史料ないし新たな情報に基づくオリジナルな成果であると同時に、形態分析や復原のやり方などの研究手法、情報発信の方法についての問題提起となることも意図した。〈もの〉としての側面を重視し、狭義の文書以外のものまで対象に含むのは、筆者の構想する古文書学の領域設定と対応する。

 第1章 正倉院文書の原本調査 後掲の第2〜5章に内容別に編成した個別の事例報告等について、時系列を基準に並べて、相互の連関を確かめつつ全体構造を素描したもの。各論の概要を示して第2部の導入の役割を与え。

 第2章 形態観察による律令制公文の断簡整理と復原 戸籍・計帳の断簡整理と復原に関わる論述5篇からなる。古代国家が民衆支配の基礎として依拠した籍帳に関する新知見はそれ自身史料的価値を持つが、〈しごと〉のために作成された文書、という観点からしても、最も大がかりな事例となる。

 第3章 正集・続修・続修後集・続修別集の調査 正倉院文書の原本調査に基づく事例報告。継続的に進めてきた調査の成果を再編し、モノグラフそれぞれのメインテーマにしたがって5節に分配した。第1、2節の『大日本古文書』未収文書紹介、断簡の接続・復原は、未刊史料公刊と同様の意味をもつ。第3節では原本の多様な情報のうち「史料」という形で翻刻著録が困難な角筆・顔料の種類等について、第4節では聖語蔵経巻と正倉院文書の関係について、第5節では幕末・明治初頭に始まる近代の文書整理の過程について触れる。近代部分の歴史は、従来、写本・目録研究として進められてきたが、ここでは原本に残る徴証に基づいて検討を加えた。

 第4章 塵芥文書の復原 塵芥文書は、正倉院文書の中で最も保存状態が悪く、明治の整理にも混乱があって、史料として十全に活用することが困難であった。その全容を明らかにし、内容を12の節に分けて述べた。

 第5章 正倉院宝物をめぐる史料調査 考察の範囲を文書以外の正倉院宝物に広げ、鳥毛立女屏風に使われた反故文書、典籍「詩序」の欠失部の復原、新発見の「官戸月粮下給帳」、「日向国計帳」とされてきた調の紙箋、院蔵の木簡、箱のうちばり、鏡背の下絵など、史料紹介を通じて〈もの〉と文字の接点を探った7編を集めた。

第3部 古代文書とその周辺−戸籍・計帳と古代社会−

 律令制公文書の中でも代表的な戸籍・計帳のあり方の分析を通じ、古代国家が、実態としての社会をいかに把握しようとしたか、を巡る論考を収める。その考察によって、国家が文書を使用して支配を実現することの意義、またその限界が明らかになる。籍帳制度が、文書を使ってする〈しごと〉の最たる物であったことは、本書の構想の中で、次第に明確となってきた論点である。

 第1章 戸籍制度と家族 戸籍制度の沿革、現存戸籍の概観、戸・戸籍の法的位置、家族・村落・社会論への展開などの論点について、具体例を挙げながら包括的に論じたもの。第2〜4章の論述を踏まえながら、その補足を含む。本書では、第3部の導入の役割を与えている。

 第2章 編戸制再検討のための覚書 戸籍・計帳に対する研究史の整理と、記載の徹底的な史料批判を通じて、籍帳の制度的特質を明らかにした論文。さらに「戸口の編成原理」からうかがわれる、「編戸」をインターフェースとして「制度」と緊張関係をはらみつつ対峙する「実態」の考察−村落・社会論への展望を行ない、日本古代における編戸制の意義を検証する。

 第3章 「計帳歴名」の京進について 標記のテーマについて、律令の規定や先行研究の論点の再検討、現存計帳の伝来過程の分析に基づき、「計帳歴名」は畿内では毎年京進、畿外では非京進(歴名は各国衙保管、目録形式の大帳のみ京進)であり、提出先では差科簿としての機能を果たしたと想定した。方法的には、正倉院文書研究の観察から得た知見を問題の解明に援用し、この制度を通じて把握しようとした古代社会の特質を展望する。

 第4章 日本古代家族研究の現状と課題 標記の分野について、関口裕子・吉田孝・明石一紀説を中心に学界動向の紹介を試みたもの。第1〜3章で「制度」に対置した「実態」の側面について、所有・婚姻・居住などの観点から、多様なアプローチが可能なことを示した。本書では、第3部の補論として位置づけ、最末尾に収録する。

審査要旨 要旨を表示する

 杉本一樹氏の論文『日本古代文書の研究』は、日本古代史の基本史料である正倉院文書の原本の観察・調査・研究に二十年ちかく取り組んだ経験とその成果を総合し、形態論をふくむ新しい「古代文書の古文書学」を構想するとともに、多岐に渡る正倉院文書の復原研究を進め、あわせて戸籍・計帳と古代社会との関係を見通した研究成果である。

 研究の特徴は、精緻な原本観察にもとづき多様な正倉院文書の復原研究を進めた点、古代の文書作成にかかわる具体的な諸過程を解明した点などにあり、形態観察にもとづいて従来の古文書学にはない視座から新しい古代文書学を提唱しているところは、意欲的な研究成果として評価できる。

 第一部「古代の文書と古文書学」では、中世文書を中心として構成されてきた従来の日本古文書学の体系に対して、古代文書を主とした古文書学の立場を提示する。その際、文書に主体を与えてその機能を論ずるのではなく、「<ひと>が文書を使って<しごと>をする」あり方を重視し、文書が担ったくしごと>から文書をとらえる立場を強調する。また、活字化された文書の内容からは知り得ない即物的な「姿かたち」から情報を読み取る文書の形態論を重視する。そして「官に在る文書」を「公文」として、多様な帳簿と文書との両者からなる写経所文書を古代官司における一般的な「公文」であるととらえ、正倉院文書を特殊な存在とみる見方を否定し、公式令に規定された公文書中心の文書観を批判する。

 ついで、精密な観察にもとづきつつ、律令制公文書の作成手順に注目する。すなわち、料紙を継ぎ、打紙し、界線を引いて、書写・校正したのち、端切して表紙・帯・軸を取り付け、さらに捺印するという諸過程を明らかにする。そして関連して、写経の際に用いられた、軸付紙と仮表紙とを兼ねる白紙の「端継」や、吸取紙とスケールとを兼ねる「式敷」の使用法などを具体的に明らかにしている。

 第二部「正倉院文書の復原と研究」は、正倉院文書原本の調査と形態観察にもとづく「各論」であり、個別の成果として、多岐にわたる新知見を提示している。その中には、巻子のまま和蝋燭状に固まった形状で塵芥文書の付属として残る「蝋燭文書」が、東大寺大仏開眼供養に供奉した一万人を越える僧侶たちの名帳であったことを明らかにしたことや、鳥毛立女屏風の画面本紙に日本の反故文書が利用されていたことを確認して屏風が日本で制作されたことを明らかにして美術史の論争に終止符を打ったことなど、日本古代史に大きな影響を与えた成果をふくんでいる。

 原本調査の機会が限定される正倉院文書の存在形態を明らかにした個々の論点は新鮮であり、精緻な観察にみられる堅実な実証的手法や、モノとしての古文書に即した立場は、説得力ある論旨展開となっている。

 第三部「古代文書とその周辺一戸籍・計帳と古代社会−」では、現存する戸籍・計帳の分析やその制度の検討を通して、多様な古代家族とその多様性を捨象して柔軟に編戸された「戸」との関係などを見直している。

 以上、本論文は、正倉院文書の原本観察にもとづいて日本古代文書の存在形態を多角的に浮き彫りにし、文面のみでない即物的な文書の存在形態の特質を解明し、さらに古代文書の古文書学の構築をめざして明快な提唱を示しており、研究史上の意義を有するものといえよう。正倉院文書以外にも広範囲に及ぶ古代文書全体の体系化に向けてさらに展開が望まれる点もあるものの、機能・形態にわたり日本古代文書の実態とその歴史的特質に迫る上で独自の達成を果たした点で、本論文は今後の日本古代史研究に有益な基礎をもたらしたものと評価できる。

 したがって審査委員会は、本論文が博士(文学)にふさわしい研究であると判断する。

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