学位論文要旨



No 215273
著者(漢字) 佐々木,揚
著者(英字)
著者(カナ) ササキ,ヨウ
標題(和) 清末中国における日本観と西洋観
標題(洋)
報告番号 215273
報告番号 乙15273
学位授与日 2002.02.20
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15273号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 濱下,武志
 東京大学 教授 岸本,美緒
 東京大学 教授 佐藤,愼一
 東京大学 教授 宮嶌,博史
 東京大学 教授 三谷,博
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、一般に洋務運動期と呼ばれる1860年頃から90年代初頭までの中国において、清朝の官僚たちが日本と西洋をどのように眺めたかという問題を、これまでの研究では殆ど論ぜられていない事例に即して検討し、この時代の政治・思想情況を文人官僚の対外観という視角から捉え直そうとするものである。

 第1章では同治年間(1862-74年)における李鴻章らの日本観を、第2章では初代駐英公使郭嵩〓の中国論と西洋観・日本観を、第3章では1880年代末諸外国へ派遣された遊歴官たちの西洋観・日本観を取り上げる。李と郭は同一世代に属し、また同じく1847年に進士となった高級官僚であったのに対し、遊歴官たちは李・郭よりもほぼ一世代後の世代に属する無名の中下級官僚であった。ただ彼らは、いずれも儒教経典を中心とする伝統的学問を身につけた所謂文人官僚或いは士大夫であった点において共通している。

 ところで洋務運動については、これまで政治、外交、経済、思想といった側面から様々に論ぜられてきたが、対外観という視角からの研究は僅少であった。また対外観を問題とする場合でも、改革論との関連において、即ち官僚や知識人が西洋の軍事・技術のみならず政治や制度に注目し、これらに倣って中国の近代的改革を唱えたという側面を取り上げて論ずるものが多かった。筆者は、かかる立場からは一応離れ、この時代の官僚たちの見方を何らかの意味で代表しているが従来論ぜられてこなかった事例に着目して、彼らの日本観・西洋観をなるべく内在的に理解することを目指した。

 第1章「同治年間における清朝官僚の日本観」では、幕末の無条約時代から日清修好条規締結を経て台湾事件後の海防・塞防論争に至るまでの時期につき、李鴻章ら清朝当局者が明治維新前後の日本の国内事情と対外進出志向をどのように捉えたかを考察した。

 李鴻章など一部の官僚は、明治維新前より、主に新聞報道に依拠して、同時代の日本の動向に言及し始めた。この際、彼らの関心は次の二つの契機に基づいていた。

 その一は日本の自強であり、このため日本は列強の進出に対し中国よりも有利に対処しているとされた。これは当時の中国における洋務運動の展開と表裏の関係にあり、日本の例を引き合いに出して中国における自強の必要を説くというものであった。

 その二は日本の脅威である。自強を進めつつある日本が中国を侵略するかもしれぬということであり、明代の倭寇の故事が根拠とされた。なお朝鮮に関しては、日本はその併呑を狙っており、中国の安全にとり英仏米よりも危険である、という見方が明治維新直前より現れていた。但しこの時期、清朝は日朝関係の実相を把握していなかった。

 以上のような日本観は、1870-71年、清朝内部で対日条約締結の是非やその内容が論議された際、判断の基礎とされた。中でも李鴻章は、自強に努めている日本を中国の敵としてはならぬとの認識に基づき、対日条約締結を主唱、推進した。

 しかしながら、日清修好条規締結後の日本の行動は李鴻章らの意図に副うものでなく、とりわけ台湾出兵は、日本の対外進出は朝鮮に向うであろうと予測していた李の意表を突いた。彼は、これを契機として、日本は欧米列国以上の脅威であるとの認識を強める。

 なお李鴻章らは、修好条規締結の頃より、日本の内政にも目を向け始めたけれども、この時期彼らは日本から直接情報を入手する手段を持たず、その日本論は新聞報道や中国・日本の歴史書に基づいた断片的、主観的なものであり続けた。海防・塞防論争の際にあっても、清朝官僚は、明治維新変革の内実、それが日本の自強と脅威にとり如何なる意味を有するか、といった問題を理解するには至らなかった。

 第2章「郭嵩〓の中国論と西洋観・日本観」では、中国最初の常駐外交使臣として1877年初より2年間イギリスに駐在した郭嵩〓が、中国の現状と歴史をどのように捉え、さらにこれをふまえて西洋文明の諸相や日本の情況を如何に認識したかを考察した。

 郭は、アロー戦争に際し、中国の政治のあり方、とりわけ士大夫の無責任な言論によって清朝の対西洋策が左右されることに深刻な批判の念を抱き、これに基づき歴史の研究を行い、南宋以降士大夫の言論が中国に破滅をもたらしたという独自の歴史観を構築していた。また彼は、夙に西洋の事物に注目しており、渡英の直前には、中国は西洋の科学技術のみならず、その基礎にある「政教」をも学ばねばならぬと主張していた。

 郭は、渡英後、政府機関や議会、裁判所、各種の教育・研究機関、工場など西洋の政教と富強に関わる施設を訪れ、政教の一体という伝統儒教的立場から西洋文明を観察した。彼は、西洋では君主・官僚の恣意的支配や君民上下の懸隔がなく、人民が政治に参加し人民のための政治が行なわれていると捉え、又このような優れた政治や富強の基礎には「実学」を重視する教育があると考えるようになり、この結果、当時の中国の政教に対する西洋の政教の優越を承認するに至る。ただ彼は、西洋文明に全面的に屈服したわけではなく、中国でも三代盛時にあっては優れた政教が行われていたが、秦漢以降、政治も教育も腐敗堕落して今日に至っていると考えたのであった。

 また郭は、イギリスで上野公使や井上馨らと知己になり、多数の日本人が西洋の様々な事物を懸命に学んでいることに感銘するとともに、日本が政府組織や交通通信網の整備、通商の振興、教育の充実などについて如何なる努力を行なっているかを知った。その明治初期日本についての知識は同治年間の日本論に比べ格段に詳細且つ正確であり、加えて日本の西洋化努力を全面的に賞賛している点において際立った対照を示している。郭は、政教こそが文明の根本であるという伝統儒教的立場から中国と西洋を対比して、当時の中国の腐敗と西洋の卓越を承認していたので、政治や教育の西洋化に邁進している日本は、中国とは対極にある、ほぼ西洋に匹敵する国と映ったのであった。

 第3章「1880年代末における清朝遊歴官の外国事情調査」は、清朝が六部の中下級官僚の中から進士を優先的に選考して諸外国に派遣し、調査に当らせた事例を扱う。これは、1870年代以降における在外公使館設置や米欧への留学生派遣に続き、諸外国にについての情報を直接獲得すべく清朝が採用した第3の方策であった。

 本章では、この計画の立案過程や12名の遊歴官の選考経過、彼らの履歴、派遣先、調査報告書の所在など基礎的事実を明らかにするとともに、北欧南欧、ロシア、英仏、日本を遊歴した5名の報告書の内容を検討した。さらに彼らのその後の経歴、報告書の形式・内容、その読まれ方といった観点から、この問題が清末期中国人の対外認識において有した意味を考察した。遊歴官たち自身は、清朝の政治・外交や中国の近代化に対し特に貢献することなく終ったが、その報告書は、戊戌変法の頃まで、官僚や知識人が外国事情を知る上で或る程度役に立ったと言える。

 なお5名の報告書は、形式や調査対象に関しては相違が目立つけれども、外国の事物を眺める際の視座については、次のような共通項が見出だされる。

 第1に、諸外国を文化なき夷狄と見做すことは、5名のいずれにも認められない。

 第2に、中国の政治や社会に関し、郭嵩〓の如き批判的な見方は存在しなかった。

 第3に、諸外国の政体について、来華宣教師や鄭観応・王韜らの著作に由来する「君主」「民主」「君民共主」という政体三分法が用いられていた。

 第4に、憲法に関して、スウェーデンとフランス第三共和制の憲法の一部、及び大日本帝国憲法の全文が紹介されていたが、憲法の意味や役割は理解されていなかった。

 第5に、西洋の植民地支配及び西洋列国と日本の中国に対する脅威についてみれば、5名とも特に危惧の念を抱いてはいなかった。

 総じて、5名は、海外へ出て諸外国の事情を調査する機会を得ても、中国の国内体制と対外関係に危機感を抱くことなく、その現状を肯定していたと言える。

 「結び」においては、本論文の内容を要約するとともに、若干の結論的考察と今後の課題、展望を記した。

 洋務運動の初期、清朝士大夫の外国についての知識は『海国図志』や『瀛環志略』及び新聞記事などに拠るところが大きかったが、1870年代後半、欧米の主要国と日本に清国公使館が設置されると、清朝は漸く諸外国についての情報を常時直接入手する手段を持つことになった。以後、公使館員らによる任地国の調査・研究が徐々に進み、その成果が中国にもたらされるようになる。これらが如何なる形でどれ位の範囲にまで流布し、どれ程理解されたか、といった問題の解明は今後の課題である。とまれ遊歴官たちの報告書は、かかる公使館員による調査・研究の延長線上に位置するものであった。

 日清戦争後、広い範囲にわたる官僚や知識人が改革の必要を唱え、また改革の参考とすべく外国の政治や制度に関する知識を求めるようになった。その際彼らは、外交官や遊歴官の報告書は勿論のこと、『海国図志』など1840年代以来蓄積されてきた外国知識をいわば総動員して敗戦後の新事態に対処しようとしたのであった。外国の政治や社会に関する彼らの知識の内容に質的な変化が生ずるのは、日本への留学生が急増する1900年代に入ってからのことであると思われる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、洋務運動期として区分されている1860年頃から90年代初頭までの清朝末期の中国において、異なる位置にある官僚(士大夫)たちがどのような日本観と西洋観を抱いたかという点を、同時代史料に基づき、彼らの対外観そのものを明らかにするという目的から、克明な実証的検討を加えた論考である。

 この視角によって明らかにされた点は、1) 李鴻章に代表される清朝官僚の日本観は、明治維新前後の日本の国内事情と対外進出志向を「日本の自強」と「日本の脅威」という両面から見ており、自強は高く評価するものの、脅威に関しては、明代の倭寇の故事を根拠とし、日本が朝鮮の併呑を狙っており、中国の安全にとって英・仏・米よりも危険である、という見方の存在が明らかにされる。また、この時期、清朝は日朝関係の実相を把握していなかったという指摘がなされる。これは、対外観の歴史的交錯と現実認識のズレを明らかにしたものとして重要である。2) 清末に最初の常駐外交使臣としてイギリスに駐在した郭嵩〓の中国観、西洋文明観ならびに日本観が検討され、郭嵩〓の士大夫批判が論ぜられる。郭嵩〓は、南宋以降の士大夫の言論が中国に破滅をもたらしたという独自の歴史観を形成したことが強調される。同時に郭嵩〓が西洋の事物に注目しており、渡英の直前には、中国は西洋の科学技術のみならず、その基礎にある「政教」をも学ばねばならぬという主張が分析される。3) 1880年代末、清朝が中下級官僚の中から選考した遊歴官の外国事情調査報告が検討される。そこでは、彼らが、諸外国を文化なき夷狄と見做してはいないこと、中国の政治や社会に関し、郭嵩〓のような批判的な見方は存在していないこと、諸外国の政体について、外国人宣教師や鄭観応・王韜らの著作に由来する「君主」「民主」「君民共主」という政体三分法が用いられていたこと、憲法に関して、スウェーデンとフランス第三共和制の憲法の一部、及び大日本帝国憲法の全文が紹介されたが、憲法の意味や役割は理解されていなかったことなどが、研究史上始めて明らかにされた。

 加えて討論された点は、1)郭嵩〓の対外観の検討に関連して、王船山が洋務派に対して与えた影響、2)郭嵩〓の全体像をより明らかにさせていくこと、3)中国の対日観は、日本と朝鮮の関係認識に比べ、重要度が低いと見做されているのではないか、4)対日観のみではなく、周辺を全体として捉える課題、などである。しかしこれらの項目は、全く稿を新たにして今後に論ずべきテーマでもあり、本論文において分析された清末の対外観の重要性に関する議論をいささかもそこなうものはない。本審査委員会は、上記のような画期的な成果を上げていることに鑑み、本論文が博士(文学)の学位に十分に相当するものであると判断する。

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