学位論文要旨



No 215284
著者(漢字) 吉田,敏則
著者(英字)
著者(カナ) ヨシダ,トシノリ
標題(和) マウスにおける藍藻肝毒素Microcystin-LRの毒性病理学的研究
標題(洋)
報告番号 215284
報告番号 乙15284
学位授与日 2002.03.04
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第15284号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 土井,邦雄
 東京大学 教授 熊谷,進
 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 教授 小野,憲一郎
 東京大学 助教授 中山,裕之
内容要旨 要旨を表示する

 Microcystins(MCs)はアオコの原因となる一部の藍藻の産生する肝毒性物質であり,日本を含めた世界各地の湖沼,ダム湖,河川で検出され,野生動物,家畜,魚類,両生類ならびにヒトを含む生態系に広く悪影響を及ぼしている。ヒトでは,1996年,ブラジル,カルアルの透析病院における透析液への汚染事故により100人以上が発症し,半数以上が死亡する大惨事が発生した。また,中国の肝癌多発地帯におけるMCsの汚染報告とともに実験的に肝発癌性が証明され,ヒトの健康に悪影響を及ぼす重要な環境汚染物質として位置付けられている。このような背景をもとに世界保健機構(WHO)は,1998年,最も普遍的に存在するMicrocystin-LR(MCLR)について,飲料水中の許容基準値を1.0μg/Lに設定している。ブラジルの症例では,MCLRを含めて平均19.5μg/Lの汚染透析液が静脈内投与され,これはマウスにおける100μg/kgの腹腔内投与に相当する量であるという。

 永田および堤らは,MCsに高親和性を持つ抗MCモノクローナル抗体(抗MC抗体)を作製し,MCsの環境モニタリングを目的とした免疫測定法を確立した。本法は,従来の分析手段である高速液体クロマトグラフィー(HPLC)より簡便かつ高感度であり,世界中の環境水での汚染状況の報告により成果をあげつつある。本研究では,マウスにおけるMCLR単回投与の病理像を把握し,この抗体を免疫染色に応用して染色強度を定量化することにより,MCLRの分布を考慮した新たな視点からの病理学的解析を試みた。さらに,肝障害における遺伝子発現を調べ,あわせてKupffer細胞の関与についても検討した。

 実験動物にMCsを投与すると,肝出血により動物は死亡するが,この変化はProtein phosphatase 1および2A(PP1/2A)の活性阻害による中間径フィラメントをはじめとする各種タンパク質の脱リン酸化阻害に起因することが示されている。この場合,少量の投与量で再現が可能な腹腔内あるいは静脈内投与が行われることが多い。しかし,一般的な野外における暴露経路を考慮すると経口投与による実験結果の集積が望まれる。そこで,MCLR(純度95%以上)の雌マウス(Balb/c)に対するLD50を経口と腹腔内投与により求め,投与経路による毒性発現の違いを病理学的に比較検討した。死亡はいずれの投与経路とも投与後6時間以内に観察された。LD50は経口投与で10.9mg/kg(Up-and-down法),腹腔内投与で65.4μg/kg(Moving average法)であり,その差は167倍であった。これはMCLRの肝臓に対する集積率の差によるものと考えられた。しかし,MCLRの経口および腹腔内投与による病理学的変化は極めて類似していた。投与6時間以内の死亡動物では,肝小葉中心部から中間部にわたる出血が認められた。肝内静脈内には脱落肝細胞がみられ,肺胞毛細血管には肝細胞由来と考えられる塞栓が観察された。投与24時間後の屠殺動物では,巣状,層状あるいは塊状の壊死が観察された。壊死は肝小葉中間部に主座し,中心静脈へ突出するように広がる傍中心性壊死に相当した。中心静脈周囲および壊死周囲では単細胞壊死およびTUNEL法陽性のアポトーシスが観察された。超微形態像では,肝細胞の壊死およびアポトーシスに加え,炎症反応および微小循環障害を示唆する変化が観察された。ブラジルにおけるヒトの死亡例においても,肝臓に壊死,アポトーシス,炎症反応などが観察されており,それらの変化は実験動物での肝病変に類似していることが報告されている。従って,マウスの肝病変の観察結果はヒトへの暴露を考える上でも有益な情報を提供するものと考えられる。

 従来,MCLRの局在観察には放射性同位元素標識の毒素が用いられていたが,抗MC抗体を免疫染色に応用することで,容易にMCLRの分布を観察できる。種々の固定液での染色条件の検討の結果,陽性反応は10%中性緩衝ホルマリン固定標本で最も明瞭に観察された。MCLRを経口あるいは腹腔内投与したマウスの組織にビオチン化MC抗体を用いた免疫染色を行い,MCLRの組織内分布と病理学的変化の関連性を調べた。経口投与および腹腔内投与とも同様の染色パターンを示した。投与6時間以内に死亡したマウスの肝臓では,抗MC抗体に対する陽性反応は出血を呈する小葉中心部から中間部の肝細胞の細胞質および核に認められた。肝内静脈および肺毛細血管内の遊離あるいは変性肝細胞も陽性であった。投与24時間後に屠殺したマウスの肝臓では,陽性反応は小葉中心部でみられ,アポトーシスの発生部位と一致した。しかし,傍中心性壊死の発生部位とはかならずしも一致しなかった。肝臓の免疫ブロッティングでは,約40kDaの抗MC抗体陽性バンドが認められ,抗MC抗体で免疫沈降した試料の解析により,本抗体がMCLR-PP1/2A adductを認識していることが示唆された。HPLCにより遊離MCLRが確認できたが,これは定量限界値以下であった。

 MCLRの肝小葉内分布をさらに詳細に観察するため,画像解析装置を用いてMCLRの染色強度を定量化し,病理学的変化との関連性を調べた。0〜57.6μg/kgの用量でマウスに単回腹腔内投与し,24時間後に剖検したマウスの肝臓では,抗MC抗体の染色強度は用量相関性に増加し,各用量とも小葉中心部>中間部>周辺部の順に高い値を示した。アポトーシスは57.6μg/kg投与マウスの小葉中心部および中間部,48.0μg/kg投与マウスの小葉中心部で増加し,MCLRの小葉内分布と濃度に関連して発生することが示唆された。一方,60.0μg/kgの用量で単回腹腔内投与し,投与7〜21時間後に剖検したマウスの肝臓では,MCLRはいずれの観察時点においても小葉中心部>中間部>周辺部の順に高い値を示した。しかし,染色強度は投与7および11時間で既に高く,それ以後,小葉内各部とも経時的に減少した。投与7時間では小葉中心部および中間部に多発性の微小出血がみられ,投与11時間以降に傍中心性壊死に移行した。巣状の傍中心性壊死は,微小出血による循環障害によりもたらされ,層状あるいは塊状壊死に進展した場合にはMCLRの分布とは関係なく観察されることが明らかとなった。壊死に伴いアポトーシスが増加したが,MCLRの染色強度の減少に伴う現象であるため,MCLRの分布以外にアポトーシスの発生に関与する因子が存在することが示唆された。

 アオコの粗抽出物をマウスに投与すると血清Tumor necrosis factor-α(TNF-α)が上昇し,抗TNF-α抗体の前投与により粗抽出物によるマウスの死亡が抑制されることが報告されている。しかし,この実験で精製された毒素は7-desmethyl-MCLRであり,MCLRによる肝毒性にTNF-αが一義的に関与しているか否かは明らかではない。そこで,MCLRをマウスに60.0μg/kgの用量で単回腹腔内投与し,7および17時間後に採取した肝臓におけるTNF-αの発現を検討した。Real-time RT-PCR法によるTNF-α mRNA量は,投与7および17時間後で,それぞれ対照群の1.5倍ならびに3.3倍に増加した。抗TNF-α抗体を用いた免疫染色でも,TNF-α発現細胞数がそれぞれの時期に3.6倍ならびに8.7倍に増加した。TNF-α発現細胞は壊死巣で頻繁に観察され,好中球浸潤との関連を示唆していた。一部のアポトーシス細胞は抗活性型Caspase-3抗体に陽性を示し,Caspase cascadeが活性化していることを示していた。cDNAマイクロアレイによる遺伝子発現解析の結果,投与7時間目にInterleukin 1β, Oncostatin M, Signal transducer and activator of transcription 3, c-Jun, inducible nitric oxide synthaseおよびCD18の増加が観察され,TNF-αに関連する細胞内シグナル伝達が示唆された。また,この他,アポトーシス促進遺伝子としてActivin receptor IIBおよびProtein kinase Cδが,アポトーシス抑制遺伝子としてSMAD7, Bcl-ωおよびHeat shock protein 90の増加が観察された。さらにTNF-αの主たる産生細胞であるKupffer細胞の関与を調べるため,Kupffer細胞阻害剤であるGadolinium chlorideを前投与したところ,MCLR投与による壊死およびアポトーシスが抑制された。以上の結果より,TNF−αを含む種々の遺伝子の発現がMCLRによる肝障害の発生に関連しており,Kupffer細胞の活性化がその一因を担っていることが示唆された。

 以上,本研究の結果,MCLRによる肝障害の発現メカニズムの詳細が明らかにされた。さらに,抗MC抗体の免疫染色は病理研究室で一般的に用いられる10%中性緩衝ホルマリン固定標本で最も明瞭に観察されることから,野外においてMCs中毒が疑われる症例について,当該環境水中の汚染レベルの把握と組み合わせることで,非常に有効な疫学調査の展開が期待できるなど,本研究は応用面でも重要な成果を挙げ得た。

審査要旨 要旨を表示する

 Microcystins(MCs)はアオコの原因となる藍藻由来の肝毒素であり,ヒトを含めた幅広い生態系に悪影響を及ぼす環境毒性物質である。ヒトでは,1996年,ブラジルで透析液への汚染事故により100人以上が発症し,半数以上が死亡する大惨事が発生した。また,中国の肝癌多発地帯におけるMCsの汚染報告とともに実験的に肝発癌性も証明されている。本研究では,MCsのなかでも毒性の強いMicrocystin-LR(MCLR)をマウスに単回投与し,環境モニタリング用の免疫測定法のために開発された抗MC抗体を免疫染色に応用し,染色強度を定量化することにより,MCLRの分布を考慮した新たな視点からの病理学的解析を試みた。さらに,肝障害における遺伝子発現を調べ,あわせてKupffer細胞の関与についても検討した。

 野外における暴露経路を考慮し,MCLR(純度95%以上)の雌マウス(Balb/c)に対する経口と腹腔内投与のLD50を求めた。LD50は経口投与で10.9mg/kg,腹腔内投与で65.4μg/kgであり,その差は167倍であった。これはMCLRの肝臓に対する集積率の差によるものと考えられた。しかし,両投与経路による病理学的変化は類似していた。投与6時間までの死亡動物では肝臓の出血が,投与24時間後の屠殺動物では肝小葉の傍中心性壊死およびアポトーシスが観察された。

 MCsはProtein phosphatase 1および2A(PP1/2A)の活性阻害を引き起こす。肝臓の免疫ブロッティング・免疫沈降により,抗MC抗体はMCLR-PP1/2A adductを認識することが明らかになった。また、抗MC抗体の免疫染色条件を検討したところ,10%中性緩衝ホルマリン固定・パラフィン包埋標本で最も明瞭に陽性反応が観察された。投与経路による染色性の差はなかった。MCLRの陽性反応は肝臓の出血部位に一致して観察された。傍中心性壊死は,MCLRの直接作用による微小出血に関連した循環障害によって拡大していくことが示唆された。投与24時間後の肝臓を用いて画像解析装置により染色強度を定量化したところ,染色強度は用量相関性に増加し,小葉中心部>中間部>周辺部の順に高い値を示した。この反応はアポトーシスの発生と関連していた。一方,投与24時間以内の経時的観察では,染色強度は投与初期で高く,それ以後,小葉内各部とも経時的に減少した。これに対しアポトーシスは経時的に増加したため,MCLRの分布以外のアポトーシス発生要因が存在することが示唆された。

 MCLR投与の肝臓におけるTumor necrosis factor−α(TNF−α)の発現を検討したところ,Real-time RT-PCR法ならびに抗TNF−α抗体を用いた免疫染色により,TNF−α mRNA量およびTNF−α発現細胞数がともに壊死・アポトーシスの発生に関連して経時的に増加した。一部のアポトーシス細胞は抗活性型Caspase-3抗体に陽性であった。さらに,cDNAマイクロアレイを用いた遺伝子発現解析により,Interleukin 1β, Oncostatin M, Signal transducers and activators of transcription 3, c-Jun, inducible nitric oxide synthaseおよびCD18の増加が観察され,TNF−αに関連するシグナル伝達が示唆された。また,アポトーシス促進遺伝子のActivin receptor IIBおよびProtein kinase C δと,抑制遺伝子のSMAD7, Bcl-ωおよびHeat shock protein 90が増加した。さらに,TNF−α産生細胞であるKupffer細胞をGadolinium chlorideで阻害したところ,MCLR誘発性の壊死およびアポトーシスが抑制された。

 本研究によってMCLRによる肝障害の発現メカニズムの詳細が明らかにされた。また、本研究で確立された抗MC抗体を用いた免疫染色と環境水中のMCs汚染レベルの把握と組み合わせることで,野外におけるMCs中毒症例について有効な疫学調査の展開が期待できる。本研究はMCs研究の基盤を確立したばかりでなく、その応用面でも重要な成果を挙げ得たと考えられた。よって審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の学位を授与するに値するものと認めた。

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