学位論文要旨



No 215290
著者(漢字) 新村,容子
著者(英字)
著者(カナ) ニイムラ,ヨウコ
標題(和) アヘン貿易論争 : イギリスと中国
標題(洋)
報告番号 215290
報告番号 乙15290
学位授与日 2002.03.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15290号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 濱下,武志
 東京大学 教授 岸本,美緒
 東京大学 教授 中里,成章
 東京大学 助教授 黒田,明伸
 東京大学 教授 並木,頼寿
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、1830年代より1890年代に至る時期を対象として、イギリスと中国双方のアヘン貿易への対応を考察し、アヘン貿易はその担い手イギリスと受け手である中国との双方に対して、大きな歴史的規定性を及ぼし続けてきたものであることを論じている。本論文の前篇においては、19世紀イギリスにおけるアヘン貿易をめぐる論争を紹介し、アヘン貿易とは何か、同時代のイギリスやインドにおいてアヘン貿易に関してどのような言説がなされていたかについて考察した。後篇では、アヘン貿易にいかに対抗すべきかという問題をめぐる中国での論争、および、選択された政策について考察した。

 前篇においては、第一に、当時のイギリス人のアヘン貿易に関する言説を通じて、イギリスにとってアヘン貿易を続ける目的は何であったかを明らかにした。アヘン貿易は、イギリス資本主義の要請に応えて、インドからイギリスへの送金を実現する機能を果たしていた。それは、インド政庁のアヘン収入(ベンガルアヘンの専売収益とマルワアヘンの輸出税収入)を支えることによってインド政庁からイギリス本国への送金を実現させるとともに、中国市場においてアヘンを支払い手段とする多角的決済を実現させ、インドアヘンを茶や棉花という商品形態に転換してイギリス本国に送る役割を果たしていた。第二に、アヘン貿易は、ヴィクトリア朝時代イギリス人の人種主義的世界観によって正当化されていたことを明らかにした。当時のイギリスには人間というものは人種によって根本的に異なるという認識が根強く広まっており、アヘンは東洋人の体質に適合した嗜好品であるという「科学的認識」が社会的に受け入れられていた。第三に、そのようなアヘン貿易に対して、1870年代からフレンド教徒や福音主義諸派などの非国教徒からの批判が高まり、1874年には「アヘン貿易反対協会」が結成され影響力を強めていったことを明らかにした。彼らは、キリスト教徒の文明国イギリスが国としてアヘンの生産・輸出に関与することは道義的に許されないという認識に依拠してアヘン貿易を批判した。第四に、アヘン貿易は1870年代より中国アヘンとの熾烈な競争にさらされて利益率を低下させており、インド政庁やイギリス本国の官僚たちの中にはアヘン貿易の将来性に疑問を抱く人々も出現していたことを明らかにした。以上のごとく、イギリスでは1870年代より、政治的に異なる立場からインドでのアヘン専売事業に疑問や批判が向けられるようになり、アヘン貿易の存続を脅かしつつあった。

 後篇においては、第一に、1830年代の中国では、アヘン密輸によって中国から銀が流出しているという危機意識が強まり、銀流出を阻止する方策について官僚たちの間で議論が闘われ、中国アヘンの生産を奨励し輸入アヘンに代替させてアヘンの輸入を止めるという弛禁論が影響力をもったことを明らかにした。弛禁論はイギリスのアヘン輸出による独占的利益の獲得を阻止する方策であった。第二に、「夷」の独占的利益に対抗するという使命を帯びた中国アヘンは、アヘン戦争後、建前は禁止、裏では黙認ないし奨励という清朝中央政府および地方政府の政策のもとに、生産を拡大させていったことを明らかにした。とりわけ四川省は、気候・風土に恵まれて中国最大のアヘン生産地へと成長し、1881年においてすでに四川一省でアヘン輸入総量の二倍近いアヘンを生産するまでになっている。19世紀後半の中国は世界最大のアヘン産出国になっていた。第三に、中国に広範に展開したアヘン生産は、当初は輸入アヘンを駆逐する使命を担わされていたが、次第に地方政府や中央政府にとって重要な財源としての意味を持つに至ったことを明らかにした。中国アヘンの財源としての重要性が増すとともに、アヘン生産に対して建前においては禁止の姿勢をとり続けてきた清朝政府の政策は変化を見せていく。最初の変化は日本による台湾出兵がなされた1874年であり、軍事費調達のためにアヘン生産を容認する姿勢を打ち出し、弛禁論はここにおいて初めて正統性を獲得した。ついで、1890年、清朝中央政府は、中国アヘン課税収益を中央に集中させる政策を打ち出した。この時点において、清朝は中国アヘンによってインドアヘンを駆逐するという弛禁論を放棄し、アヘン生産を税収を獲得する重要手段とみなすことになった。この新しい政策は、それまで中国アヘン課税収益を地方独自に享受していた地方官僚との間に大きな亀裂を生み出すことになった。中国アヘンへの重点的な課税政策は、総税務司ロバート・ハートの提言に沿ったものであった。

 税収源としての中国アヘンへの着目は、イギリスの提案を受け入れてなされたものであり、イギリスの対中国政策の転換と結びついている。日清戦争以後のイギリスは、中国にイギリス製品を輸出して収益をあげる方法から、外債を貸し付けて担保収益を獲得する方法に転換しつつあった。中国アヘン課税機構の整備と課税収益を清朝中央に集中させる試みは、清朝政府が「夷」への対抗という姿勢をとりやめ、イギリスの意向に沿うような形で中央集権を進めようとしていたことを示すであろう。アヘン課税収益をめぐる中央政府と地方政府との対立、イギリスに政治的・経済的に依存する形で中央集権を進めようとする清朝中央政府のあり方を解明することは、辛亥革命の性格を理解するためにきわめて重要な意味を持つ課題であるが、今後の課題とする。本論文の要旨は以上のごとくである。

 次に、本論文の学問的意義を述べよう。本論文は第一に、従来の研究においてあくまで経済史の問題として扱われてきたアヘン貿易を、同時代のイギリス人がどう見ていたかという社会史的な視点から扱っている点に意義がある。アヘン貿易を社会史的にとらえることは、『アヘン貿易反対協会』の機関誌The Friend of Chinaという未開拓の史料を使うことによって可能となった。The Friend of Chinaには当時のイギリス人のアヘン貿易に対する言説がきわめて豊富に掲載されている。

 第二に、1836年の許乃済「弛禁論」をいかに評価するかという問題は、日本でも中国でも注目され、論争が繰り広げられてきたテーマであるが、それに対して独自の見解を提起したことに意義がある。日本では「弛禁論」については従来二つの評価があった。一つは1960年代の田中正美氏に代表される評価であり、「弛禁論」は、アヘン密貿易による銀の流出を阻止するために、アヘン貿易を合法化しようとするものであり、合法化すると同時に関税を課し、さらに中国商品との現物取引を義務づけることによって銀の流出を防ぐ具体的手だてとした、という。これに対し、1990年代に井上裕正氏が田中正美氏を批判して新しい見解を提起した。井上氏は「弛禁論」がアヘン貿易合法化に際して「行商」に業務を委ねると主張していることを重視し、「弛禁論」はアヘン貿易を合法化して低廉な関税を課すことにより、広東を超えて拡大しつつあった外国との交易を広東に引き戻し、外国貿易は広東一港にて公行商人が請け負う広東貿易体制(カントン・システム)を再建する目的を持つ、と論じた。私は、「弛禁論」のアヘン生産合法化の提案を重視し、それは国内産アヘンの生産を奨励して輸入アヘンを駆逐しようとする輸入代替化の提案であると考えた。「弛禁論」を輸入代替論ととらえることによって、アヘン戦争以前のアヘン論争と以後におけるそれとを連関させてとらえることが可能となる。

 第三に、アヘン貿易に対して、中国は受動的な存在ではなかったことを明らかにしたことに意義がある。アヘンの輸入を止めるために、国内でのアヘン生産を奨励する政策を採用したことも清朝のアヘン貿易への積極的な対応と評価しうる。また、アヘン戦争前と戦争後を通じて一貫してアヘン輸入・販売ネットワークは中国人商人に握られていたのではないかと考えている。ただし、中国人商人によるアヘン貿易を実証的に解明することは今後の課題として残されている。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、1830年代より1890年代にかけ、イギリスと中国の双方のアヘン貿易に関する論争と対応策を克明に考察し、中国国内産アヘンが広範に栽培されるに至った過程を研究史上初めて明らかにした力作である。そこでは、アヘン問題は単に輸入貿易のみに止まらず、清末の財政と国内市場構造に大きな影響を及ぼしたことが論ぜられている。19世紀のイギリスにおけるアヘン貿易をめぐる論争に関して、当時のイギリス人のアヘン貿易に関する言説の検討を通じて、イギリスには、「人間は人種によって根本的に異なるという認識が根強く広まっており、アヘンは東洋人の体質に適合した嗜好品である」という認識が社会的に受け入れられていたことなど、興味深い東洋人像に注目しつつ、1870年代からフレンド教徒や福音主義諸派などの非国教徒からの批判が高まり、1874年には「アヘン貿易反対協会」が結成される過程が追跡される。さらに、アヘン貿易が、インドからイギリスへの送金を実現する機能を果たしていたことを分析し、それは同時に、中国市場においてアヘンを支払い手段とする多角的決済を実現させ、インドアヘンを茶や棉花の購買に充当してイギリス本国に送る役割を果たしていたという市場構造の全体像が論ぜられる。他方、中国側においては、銀の流出という危機意識が強まるなかで、従来注目されてこなかった議論すなわち、中国アヘンの生産を奨励し輸入アヘンに代替させてアヘンの輸入を止めるという弛禁論が影響力をもったことを明らかにし、アヘン戦争後、建前は禁止、裏では黙認ないし奨励という清朝中央政府および地方政府の政策のもとに、生産が拡大されていった過程を明らかにした。その後、アヘン生産を税収獲得のための重要な手段とみなすに至り、地方官僚との間に大きな亀裂を生み出すことになった点も明らかにしている。

 今後の課題として、筆者も述べるように、輸入アヘンならびに国内アヘンの販売のネットワークにおける中国人商人の役割と位置はどのようなものであったか、また、インドにおける生産・流通はどのようなものであったか、などの点が挙げられる。しかし、このテーマは、全く新たな資料的・方法的準備のもとに、稿を改めて検討すべきであり、本論文において明らかにされたイギリスと中国のアヘン論争に関する議論をいささかもそこなうものではないと考える。本委員会は、上記のような画期的な成果をあげていることに鑑み、本論文が博士(文学)の学位に十分に相当するものであると判断する。

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