学位論文要旨



No 215291
著者(漢字) 新井,慧誉
著者(英字)
著者(カナ) アライ,ケイヨ
標題(和) 『父母恩重経』諸本の研究
標題(洋)
報告番号 215291
報告番号 乙15291
学位授与日 2002.03.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15291号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 末木,文美士
 東京大学 助教授 下田,正弘
 東京大学 助教授 池澤,優
 東京大学 教授 丘山,新
 鶴見大学短期大 教授 木村,清孝
内容要旨 要旨を表示する

 『父母恩重経』は当初より偽経の烙印を押された。そしてそれ以来、その偽経としての評価は仏教の長い歴史の中にあって、ついに変わることなく今日に至っている。中国で撰述された偽経は数多にのぼるが、その多くは歴史の過程で埋没し失なわれていった。しかしこの『父母恩重経』は、いずれの王朝権力、いずれの仏教教団の教理体系から疎外されても、中国を中心とした東アジア仏教文化圏の大多数の民衆に、力強く流行し発展してきた数少ない偽経である。

 親に対する孝を表面上のモチーフとして扱い、人々の情感をひきつけた上で、孝とは報恩のことであると位置づけている。そして報恩を通して、三宝帰依や経典受持などが仏教信者のあり方であると主張していくのであるが、そうした本経撰述者の宗教的ねらいは中国文化社会にぴったりマッチし、人々の根強い信仰と支持を得た。実はそのことは、朝鮮や日本にもあてはめていえることである。

 本論文は『父母恩重経』を研究テーマとし、まず「序論」において『父母恩重経』の位置を論じ、この経典の主テーマである恩について整理した。

 「本論」では、第一章において、『父母恩重経』とよばれる経典には恩重経系と大報経系の二系経があることを述べた。そしてそれぞれに属する経典の現存テキストを可能なかぎり蒐集し、経典ごとに対校して校異テキストを作製した。そのことにより各経典のテキスト間のバリアントが明瞭になり、同一経典でありながらも系統を異にする場合があって、相互間に展開の推移があったことが知られる。

 第二章では各経典の校異テキストの内容を検討し、その成立なり性格なり特徴なりを論じた。そうすることで、各経典間の展開史をかなり追求しえたと思っている。また『胎骨経』とか『省略経』とか黒水城発見の『父母恩重経』、または大足県に刻まれている『報父母恩徳経』といった改訂諸本にも論及した。そうした中にあって、経典から派生して作られたともいうべき『十恩徳讃』や大足の「父母恩重経変相像」にもふれることができた。そうしたことを、以下に総まとめとして整理し、本論文の結論に代えたい。

 『父母恩重経』の諸本はいずれも中国撰述の偽経である。

 『父母恩重経』の最初の記録は『大周録』とされているが、実はその記録は『大周録』の高麗版のみに出ているだけである。一方、『開元録』の中で『父母恩重経』は従前の経録に未載であると記しているから,『大周録』には本来『父母恩重経』の記録はなかったのではなかろうか。よって『大周録』高麗版の記事はなんらかの誤記であると思われる。そのことを前提におくならば、『父母恩重経』のオリジナル本は『丁蘭本』なのであるが、その偽作時は『大周録』編纂の六九五年から『開元録』編纂の七三〇年の三五年間に求められることになる。

 『開元録』の著者智昇は、『丁蘭本』には丁蘭等の中国人孝子名を経文に説いているとの理由で、偽経であると烙印した。すなわち智昇は『丁蘭本』を実際に手にとってその判定を下したのである。したがって『父母恩重経』は当初のオリジナル本から偽経とみなされたのであり、その結果『丁蘭本』はもちろんのこと、その他の『父母恩重経』類は一切入蔵されることはなかった。しかしその普及はたいへんに大きかったとみえ、『丁蘭本』そのものも、そして『古本』などその後の改訂本も、時代と場所に応じて人々の信仰を集めた。『父母恩重経』の偽作目的が仏教の大衆教化にあったことを思うと、所期の目論見は的中したといっていい。

 そもそもこの経典の説く内容は、子が父母から受ける恩は重く甚大であり、それへの報恩は不可欠であり、そして真の報恩は世俗的で物質的な親孝行ではなく、経典の受持や読誦や書写といった仏教的実践を行うことであるという。その報恩行こそ子のあるべき孝順の姿であるとし、中国伝統の孝思想と関連させながら報恩の大切さを説いている。

 ところで『父母恩重経』の諸本は、恩重経系と大報経系の二系統に分類できる。まず前者の流れがあって、あとで後者が成立し発展していった。

 まずは恩重経系であるが、『丁蘭本』が『開元録』で偽経と判定されたあと、その改訂版として『古本』『報本』『増益本』が作られた。次に大報経系であるが、そのオリジナル本は『報原経』である。恩重経系の説相をベースとして、少くとも円照が『貞元録』をまとめた八〇〇年には偽作されていたと思われる。『大報経』は、これまで朝鮮本と日本本が知られていたが、研究の結果、両者の系統は少しく異なることがわかった。かつまた朝鮮本については、<K1>系統と<K2>系統に分けられることも判明した。『重難報経』は、『大報経』がさらに改訂されて成立した経典である。その改訂時期はあまり古くはないのではなかろうか。

 大足県の「父母恩重経変相像」は、これまで一般にはそのように通称されてきているが、便宜上そのように通称するのはいいとしても、厳密にいえば「報父母恩徳経変相像」というべきである。

 『父母恩重経講経文』は〈P18〉と〈北72〉の敦煌本二点が知られている。両者を対照研究したところ、両者とも『報原経』に対する講経文であることがわかった。またさらに検討を深めた結果、前者は『報原経』のうちでも朝鮮本〈伊上〉に代表される新型のテキスト、後者は敦煌本〈P9原〉などの古型のテキストを講経対象としているようである。なお〈P18〉や〈北72〉のオリジナル本は、五代十国時代(九〇七〜九六〇)というより晩唐時代(八四七〜九〇七)にできたと考えてよかろう。

 「本論」の第三章では、『父母恩重経』の成立に伏線として影響を与えたと思われる『父母恩難報経』と『父母経』と『盂蘭盆経』をとりあげた。いずれも『父母恩重経』偽作に当たっての先在経典であると考えられる。

 以上の研究成果にもとづき、『父母恩重経』諸本の展開を系図するならば、次のようになるであろう。

 本論文では『父母恩重経』の展開史を明らかにする上で、関係する諸本を集め研究につとめた。その場合、内外の学者の研究や著作もさまざまに参照したつもりである。しかし、それら諸氏の研究成果は未だ断片的であり、むしろお互いが、内外の学者の論説に十分目を通していないようにみうける。

 今後の研究の方向としては、今回参見できなかった資料を求めることである。例えば『大報経』であれば、北京図書館所蔵のものとか、韓国の寺院や個人が所有しているテキストとかである。北朝鮮での調査や資料蒐集も必要であろう。また中国の山東省成武県にあるというテキストとか、河南省房山の石経テキストも眼中に入れるべきである。

 道蔵には三種類の道教版『父母恩重経』が収録されている。いずれも仏教の『父母恩重経』の影響下に作製されたと思われるが、それら道教の三本についても、別段の研究が必要である。

〈恩重経系〉

〈大報経系〉

審査要旨 要旨を表示する

 『父母恩重経』は、中国で成立したいわゆる偽経に属する仏教経典であるが、父母の恩を説くというその内容が民衆教化に用いられ、東アジアに広く普及した。それだけに、写本・刊本など多数にのぼり、内容的にもさまざまに増広や変容を被り、複雑な発展をしてきた。しかし、正統的な仏教教理から外れるため、従来まとまった研究がなかった。新井慧誉氏の論文「『父母恩重経』諸本の研究」は、このような『父母恩重経』を正面から取り上げ、多数にのぼる写本・刊本を比較対照して本文を校合し、それら諸本の関係を明確にしたものであり、今後の『父母恩重経』研究の基礎となる成果である。

 本論文は序論と本論からなる。序論は『父母恩重経』という経典についての概観的な研究であり、特に「恩」という概念が仏教でどのように発展してきたかを明らかにしている。本論は3章よりなるが、その中心となる第1章と第2章は、もっぱら多数にのぼる『父母恩重経』の諸本の詳細な紹介と比較研究、そしてその系譜の研究に費やされている。その結果として、著者が明らかにしたことは以下のような点である。

 まず、さまざまに展開した『父母恩重経』のもっとも原型となるものは、『丁蘭本』と呼ばれるものであることが明らかになった。『丁蘭本』は敦煌出土の写本が11点存する。『父母恩重経』の成立について、従来695年成立の経典目録『大周録』高麗本に見えるところから、それ以前と考えられていたが、その記事は竄入の可能性が高く、確実なのは730年成立の『開元録』である。従って、その成立は695年から730年までと考えられ、それが『丁蘭本』であったと考えられる。『丁蘭本』は、丁蘭等、中国の孝子の名を挙げるところから、すでに『開元録』から偽経と見られていた。このために、本経は大蔵経に入れられることはなかったが、中国の恩の思想を取り入れ、庶民に広く普及することになった。

 次に、本経の系統には2つあることが明らかにされた。第1は、著者が「恩重経系」と呼ぶ系統で、『丁蘭本』に由来し、それを改訂したものである。これには、『古本』『報本』『増益本』の3種類がある。『古本』は、敦煌本33点、七寺本1点の計34点が確認されている。『報本』は、四川省安岳県臥仏院の石壁に刻された2点(735年刻)で、破損が著しいが、古本と近いものであると確認された。経名が『仏説報父母恩重経』とあるところから、『報本』と呼ぶ。『増益本』は、高麗に由来する写本1点と日本の刊本1点、註釈を施されたもの1点の計3点が残され、『丁蘭本』をもとにして増広されている。

 もうひとつの系統は、著者が「大報経系」と呼ぶもので、『大報経』(『大報父母恩重経』)を典型とするもので、恩重経系をベースにしながらも、説き方が大幅に異なっている。その最も原型に当たるものは、著者が『報原経』と呼ぶものであることが明らかにされた。これは敦煌本など4点の写本が現存し、800年には成立していたと考えられる。その後、朝鮮本・日本本など、さまざまなヴァリエイションをもって広く普及した。

 以上のような諸本の比較とその系統付けが本論文の中心であり、著者は多数に上る写本を細かい文字の異同にまで注意を払って、校合の作業を行なっている。さらに、第3章においては、視野を広げ、パーリ語経典やチベット語経典などまで渉猟して、仏教において恩を説くさまざまな経典と『父母恩重経』の比較を行なっている。

 このように、本論文はその題目どおり、『父母恩重経』の諸本を可能な限り収集し、詳細に検討したもので、本経研究にかけた著者の熱意とその労力は驚異に値する。本論文をまって、はじめて『父母恩重経』は学問的に扱うことが可能になったといって過言でない。もっとも、その諸本研究に全力を傾けたため、思想内容の分析にまで十分及ばず、その点不満が残るが、それは今後の著者に課せられた課題であろう。

 以上のような点から、審査委員会は本論文が博士(文学)を与えるにふさわしい成果であると判断した。

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