学位論文要旨



No 215299
著者(漢字) 佐藤,英二
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,エイジ
標題(和) 近代日本の中等学校における数学教育の史的展開
標題(洋)
報告番号 215299
報告番号 乙15299
学位授与日 2002.03.14
学位種別 論文博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 第15299号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,学
 東京大学 助教授 金森,修
 東京大学 助教授 今井,康雄
 東京大学 助教授 広田,照幸
 東京大学 教授 佐々木,力
内容要旨 要旨を表示する

 本論は、近代日本の中等学校における数学教育の導入・定着・改造の過程を叙述し、数学教育の目的・内容・方法の様式とそれを支える数学思想および教授原理に関して、歴史的な考察を行うことを主題としている。

 近代日本の数学教育は、1880年代、1900年前後、第一次大戦後という3つの時期に、それぞれ固有の問題を成立させてきた。1880年代には、普遍主義を基盤として形式陶冶説が導入されるとともに、「学」(「数学」)と「術」(「算術」)の区別に関する議論が展開され、1900年前後には、普通教育としての数学教育とナショナリズムの問題が浮上し、性差によって数学文化が差異化された。第一次大戦後には、科学や工学の問題解決における数学の重要性が主張される反面、数学が自然や社会を最適に設計するための基礎的学問に還元される問題状況が加わった。その後の数学教育は、これら3つの時期に形成された問題の重層的構造を基盤として展開してきた。

 本論では、1880年から1945年に至る数学教育の展開を、西洋数学が導入された第1期(1880〜99年:第1部)、数学教育の目的と内容が制度化された第2期(1900〜17年:第2部)、第2期の教育に対する数学教育改造運動が展開された第3期(1918〜45年:第3部)に区分している。その3つの時期の数学教育の展開を、各々の時期を特徴付ける数学思想と教育思想の諸系譜、すなわち、東京帝国大学数学教室を中心に形成された「数学研究の正統的系譜」、東京高等師範学校を中心に展開された「数学教育の正統的系譜」、東京物理学校において形成され、広島高等師範学校に継承された「数学研究と数学教育の周辺的系譜」に対応させて叙述した。

 中等学校の数学教育史に関する研究としては、小倉金之助の『数学教育史』(1932年)と『日本の数学100年史』(日本数学会、1983年)における彌永昌吉らの研究がある。小倉は、「中学校教授要目」(1902年)を支えた菊池大麓と藤沢利喜太郎の教育思想が、J.ペリーを中心とする欧米の改造運動に逆行する遅れた思想であったと指摘した。他方、彌永らは、1880年代にユークリッド流の幾何学を移入した菊池大麓を、ギリシャの古典の正統な導入者として高く評価した。以上のとおり、先行研究では菊池と藤沢の評価が分かれてきたが、いずれの研究においても、菊池と藤沢の教育思想の同質性が前提とされており、菊池と藤沢を批判した数学教育改造運動は、進歩的な単一の運動として捉えられてきた。本論では、菊池(イギリス)と藤沢(ドイツ)が学んだ数学の違いに着目して、第1期と第2期を区別するとともに、改造運動を、1880年代から受け継がれたフランス流の系譜などの5つの系譜に分節化して叙述した。

 第1部は、東京数学会社(日本数学会と日本物理学会の前身)が訳語会を設置した1880年から、イギリス流の数学を模範に中等学校の数学が制度化された1899年に至る20年間を扱っている。

 第1章は、東京数学会社訳語会における論議を検討した。'arithmetic'の訳語が草案の「算数学」ではなく「算術」に議決された背景には、「学」と「術」に語感の違い以上の違いを認めない和算家の態度があった。その後、この議決は、'arithmetic'を数の科学とみなしていた寺尾寿(東京物理学校初代校長)らフランス流の数学者の反発を招いた。彼らは、定義・定理・証明によって体系化された「理論流儀算術」を提唱し、「学」を「術」の上位に置く思想を普及させた。

 第2章は、菊池大麓による記号を避けた幾何学の導入を、普遍主義とナショナリズムの点から考察した。菊池は、西欧の正統な文化によって、言文一致文体を持たない日本人に精密で論理的な思考の能力を与えるとともに、代数演算に傾斜していた和算の文化を矯正することを意図していた。

 第2部は、藤沢利喜太郎の影響下で「中学校教授要目」(1902年)と「高等女学校教授要目」(1903年)が制定され、検定教科書の様式が統一された第2期を検討している。

 第3章は、藤沢の教育理論における「算術」と「代数」の関連を検討した。藤沢は、「算術」と「代数」を物理学における実験と理論の関係に類比して捉えることにより、「術」と「学」の分裂を克服し、初等教育と中等教育を連続的に捉える論理を準備していた。藤沢の教育理論は、例題の解決過程から一般的な数学的法則を帰納する学習方法として具体化されたが、この方法は、例題の模範的解法の習熟に変質して定着した。また歩合算などの導入によって数学を社会と関連付ける藤沢の試みは、純粋数学を好む「理論流儀算術」の支持者の抵抗を受けて、十分な展開を遂げることなく衰退した。

 第4章は、藤沢に批判を受けて教科書への影響力を失った「理論流儀算術」が、東京物理学校で持続していたことを示した。同校が輩出した年平均27人の数学教師は、分科の融合を唱えて、菊池や藤沢を批判するなど、数学教育改造運動の下地を作っていた。

 第5章は、性差によって数学文化が差異化される過程を考察した。高等女学校の教科書は、「高等女学校教授要目」(1903年)の制定以前は、裁縫や家事の素材を扱っていたが、教授要目の制定以後は、それらの内容を排除した。結果として、高等女学校には、中学校用教科書に比べ学問的水準が低く、社会との関連も失った数学が割り当てられた。

 第3部は、全国師範学校中学校高等女学校数学科教員協議会の開催(1918年)から戦時期に至る改造運動の展開過程を、多様な系譜に即して考察している。

 第6章は、東京高等師範学校を母体とした全国師範学校中学校高等女学校数学科教員協議会の開催(1918年)と日本中等教育数学会の創立(1919年)が改造運動に果たした歴史的意義を考察した。これらの組織は、微積分の導入などラディカルな主張をしていた「理論流儀算術」の系譜(第7章)と産業主義の系譜(第8章)を、教授要目の部分的改正を目指す穏健な運動体に統合する機能を果たした。

 第7章は、『数学教育の根本問題』(1924年)によって改造運動を理論的に指導した小倉金之助の思想を検討した。小倉は、数学教育現代化運動において数学の論理性に対する否定的態度を指摘されていたが、実際には、生涯にわたって数学の系統性を重視していた。小倉における数学の系統性の重視は、分科の融合や量の重視の主張と同様、東京物理学校から継承されたものであった。小倉は、1880年代の「理論流儀算術」を支えた形式陶冶説とエリート主義を批判することを通して、フランス流の数学教育思想を、近代産業社会に即して再編しようと試みていた。

 第8章は、工業学校で展開された産業主義の系譜を検討した。工業学校の教師は、効率的な問題解決過程を生徒に発見させる教育の重要性を主張し、微積分を最終目標とするカリキュラムを実験した。工業学校において教育改革が始まった背景には、第一次大戦中に技術の国産化の必要性を認識した産業界の要請があった。

 第9章は、「理論流儀算術」の思想と産業主義の思想を検定教科書に具体化した広島高等師範学校附属中学校の系譜を考察した。曽田梅太郎ら同校の教師たちは、科学や工学の内容を、職業訓練のための素材としてではなく、生徒が数学的関係を見出すための題材として活用することによって、数学と社会の分裂を克服する論理を準備していた。ただし、広島高等師範学校附属中学校の教師たちの教育理論は、数学教育の目的を国家や社会において有用な人材の育成に置く人的資本論に依拠していた点で、総力戦体制に親和的な面を持っていた。

 第10章は、1942年の「中学校教授要目中数学及理科の要目改正」に基づく一種検定教科書(1943、44年)を通して、戦時期の教育を考察した。一種検定教科書は、自然や社会を工学的にコントロールする問題を多数導入していた。この背後には、資源の最適な配分が求められた総力戦の要請があった。

 以上の数学教育の展開は、中等学校の数学教育の目的における3つの次元、すなわち、(1)形式陶冶説、(2)現実社会の問題解決における数学の有効性、(3)生徒の能動性に価値を置く学習論の展開に分けて考察することができる。まず、形式陶冶説(1)は、第1期に、日本人をユークリッド『原論』の世界に出会わせようとした菊池や寺尾の試みの中で導入され、第2期に定着した。その後形式陶冶説は、第3期には批判を受けるが、数学が発明や発見の経験を生徒に与える科目として見直されるのに伴って、再び数学教育の目的を構成することになった。次に、現実社会と数学の関連性(2)は、第3期に提起された主張であり、進学を目的としない生徒の層に中等教育を開いていく上で、有効性を持っていたが、人的資本論に回収される危険性もあわせ持っていた。最後に、生徒の能動性に価値を置く学習論(3)は、形式陶冶説に対抗して第3期に提起された。この学習論は、技術の国産化の要請を背景として形成され、戦時期に向かうにつれて支配的となる理論であった。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、近代日本の中等教育における数学教育の導入、定着、改造の過程をその主たる担い手の系譜に即して叙述し、数学教育の多様な思想と教授原理の特質を歴史的に考察している。

 第一部「啓蒙としての数学教育の導入」においては、「算数学」と「算術」の訳語問題をとおして数学の「学」と「術」の性格が問われた経緯が記され(第1章)、和算の伝統をひく「三千題流」とフランスの数学を背景とする「理論流儀算術」との相克が導き出される。そして菊池大麓のイギリスを背景とする数学教育の導入に、アカデミズムの正統(東京帝大の数学教室)によるリベラルアーツとしての数学教育成立の功績を見ている(第2章)。

 第2部「数学教育の制度化」においては、国民教育制度の確立と併行して進行した藤沢利喜太郎のドイツを背景とする数学教育の導入過程が分析され、藤沢の「算術」と「代数」の接続の論理と数学と社会の接続の論理に「普通教育」としての数学教育の探索の軌跡を読み解いている(第3章)。そして「普通教育」としての数学教育が未完に終わる中で、東京物理学校の「理論流儀算術」の系譜が教師の中に改造運動を準備し(第4章)、高等女学校では数学の性別の差異化が進行するなど(第5章)、数学教育の階層的な分化の過程が分析されている。

 第3部「数学教育改造運動の諸系譜」においては、数学教育の正統的な系譜を形成した東京高等師範学校を中心勢力とする中等教師の研究活動(第6章)と「理論流儀算術」の系譜をひく小倉金之助による数学教育改造運動(第7章)が比較され、数学教育改造運動が実践的に影響を及ぼした実業学校を分析し、工業学校における微積分や問題解決的学習の導入が、産業主義の要請を基盤として展開した点を指摘している(第8章)。さらに、広島高等師範学校など、数学研究と教育の周辺的系譜においては、数学の教育内容と社会事象や産業技術との連関が促進されるが(第9章)、それらの改造運動が人的資源論と社会工学の理論に依拠して総力戦体制に親和性を強めた過程が叙述されている(第10章)。

 以上のように、本研究は、1880年代から1940年代にいたる中等学校における数学教育の展開を綿密な資料収集と精緻な分析によって歴史的に叙述して、1900年前後に「普通教育」としての数学教育が頓挫して以降、数学文化がどのような分化と統合を学校種別に推進したのかを構造的に開示している。本研究は、菊池、藤沢の再評価を迫るなど、各章の各トピックの研究において著者の独創的な視点と解釈を提示して先行研究の水準を凌駕している。さらに、これまで数学教育改造運動を基軸として叙述されてきた数学教育史に反省を迫り、明治以来の教育理念における「普通教育」と「国民教育」の葛藤、および、数学文化における学問と教育の葛藤を描き出した点で優れた論文として評価された。よって、本論文は、博士(教育学)の学位を授与するにふさわしいものと判断された。

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