学位論文要旨



No 215349
著者(漢字) 中川,丈久
著者(英字)
著者(カナ) ナカガワ,タケヒサ
標題(和) 行政手続と行政指導
標題(洋)
報告番号 215349
報告番号 乙15349
学位授与日 2002.05.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 第15349号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小早川,光郎
 東京大学 教授 森田,朗
 東京大学 教授 寺尾,美子
 東京大学 教授 宇賀,克也
 東京大学 教授 長谷部,恭男
内容要旨 要旨を表示する

1.概要

 本論文を貫くのは、日米行政法における「フォーマル」「インフォーマル」概念にはずれがあるという認識であり、両国の行政手続一般法の立法指針の違い、憲法的手続法理の違い、いわゆる「インフォーマル手法論」の違いは、こうした概念上のずれの影響として理解することができるという考えで全体がまとめられている。第一部では行政手続一般法および憲法的行政手続論をとりあげ、第二部では、日米の行政法学が「インフォーマル」という言葉で取り上げる現象、およびそれについての法的議論枠組みの類型化を試みた。

 日米比較法のための工夫として、第一部では、行政手続論を、三次元に整理した。ある「行政手続観」(そもそも行政手続は何のために必要か)から、ある「決定環境」(行政機関が置かれるべき決定環境)が望ましいとされ、その環境を創出すべくある「手続鋳型」(具体的な手続要素の組み合わせ方)が選び取られるという三次元である。三者のつながり方に、行政手続法・理論の構造的特徴が現れ、それを日米間で比較することを試みた。この三次元は、第二部における米国法での「インフォーマル」な手法論を構造的に理解する際にも用いている。

 本論文の比較法作業に基づく日本行政法への示唆は、第一に、わが国においても、行政手続を非・憲法論的に捉えることの推奨であり、第二に、行政指導における憲法論の過小への批判である。以下、第一部と第二部の内容を要約する。

2.第一部「行政手続法の日米比較」

 第一部では、日米両国の行政手続一般法の立法方針の比較を試み、またその前提作業として、憲法論的手続論の特徴を取り出した。叙述はもっぱら、米国法に向けられ、米国の連邦行政手続法(以下、「連邦APA」と呼ぶ)の制定当時(1946年)の米国における憲法的行政手続論(手続的デュープロセス論)と、連邦APAの立法過程を検討することを通じて、連邦APAの立法方針を、資料に基づき、検証した。

 立法過程資料を見る限り、連邦APAは、20世紀初頭の米国において憲法論的正当性に疑義のもたれた行政過程について、憲法論的に決着を付けようとしたものではなく(手続的デュープロセス法理を具体化する(実定化する)という立法方針があったのではなく)、また単なる政治的妥協でもなく、しかしある一貫した発想に基づいて、行政手続の整備を行った立法であった。現実問題として行政の役割を消滅させえない以上、人々にとって行政過程の受容性を高めるような手続整備をするという、きわめてプラクティカルな発想である。

 その発想にたって、連邦APAの立法過程では、連邦行政機関の実務において現実に(制定法上の根拠があるかどうかとは無関係に)履践されていた行政手続のありようを探り出し、それをaxiom(証明を必要としない自明の理)の観点から取捨選択し、必要な改良を加えて整備する作業が行われたのである。その結果、当事者が平等に対峙する裁判型の手続、和解のための手続、原案に対する意見を広く求める手続が同等に高く評価され、規定された。こうした立法方針は、日本行政手続法のそれとは、かなり異なっている。

 以上よりすれば、日本行政手続法と連邦APAが、手続内容も規律対象も大きく異なっているのはなぜか、日本行政法においていわゆる準司法的手続がきわめて例外的なものとして扱われているのはなぜか、日本行政手続法の定めたような、簡易なヒアリング(弁明機会・聴聞)の一般的義務づけが、米国連邦法ではいまだ実現しないのはなぜかについて、回答することができる。

 また、米国の連邦APAおよびデュープロセス法理を、「行政手続観」「決定環境」「手続鋳型」という三つのレベルに分解して構造を示すと、まず、憲法デュープロセス論の「行政手続観」は、統治活動はルールに覊束されたものでなければならないという「法の支配」であり、不利な事実判断を受けようとしている者に立証活動の機会を与え、事実根拠の不確かな恣意的決定を防ぐところに、行政手続の存在意義を認めるものである。連邦APAの「行政手続観」は、行政決定過程への参加を通して、行政決定の説得性を最大化し、行政過程の受容性を高める装置たりうるところに、行政手続の存在意義を見いだすものである。

 連邦APAにおいては、上記の「行政手続観」から、利害対立者間の対峙と協働という「決定環境」や、情報豊かな「決定環境」に行政機関を置くことが、どれも一様に高く評価され、それぞれの「決定環境」をもっとも効率よく創り出す「手続鋳型」として、連邦APAの文面にある正式手続、和解手続、告知コメント手続が定められた。他方、手続的デュープロセス論においては、上記の「行政手続観」から、利害対立者間の対峙という「決定環境」だけが高く評価され(両当事者が対等の武器を与えられて攻撃防御し、中立者による事実判断があってはじめて生命自由財産が剥奪される統治活動でなければ、許し難く、公正でない)、そのための「手続鋳型」が、裁判手続をデフォルトとする「ヒアリングの機会」手続として、一定の幅をもって判例上示されてきた。

 米国法における「フォーマル」概念は、あらかじめ存在する公知の実体的なルールとともに、手続面における適正さ(regularity)を指す。上記の分析から浮かび上がるのは、米国行政法における、手続における「フォーマル」性の重視である。しかもそれは、「行政手続観」のレベルではなく、対峙型の「決定環境」の重視というレベルでの特徴である。

 日本の行政手続論においては、およそ「フォーマル」をもってデフォルトとする発想は見られないが(準司法的手続は、きわめて例外的な扱いを受ける)、そもそも日本法においては、「フォーマル」「インフォーマル」の語が、米国とはまったく異なる意味で用いられていると考えることができる。

3.第二部「インフォーマルな行政手法論の日米比較」

 「フォーマル」の語義が違うのであれば、その残余概念である「インフォーマル」の語義も、ひいてはそれを問題視する視点も異なりうる。実際、日米の行政法が、いかなる行政現象を「インフォーマル」と呼んで問題視し、それにどのような法的なアプローチを試みているかを比較すると、かなり入り組んだ不一致がある。第二部では、日米それぞれの行政法が「インフォーマルな行政手法」として、何を問題視し、どのような法的評価枠組みを創り出したかを、それぞれの「フォーマル」概念を軸に類型化し、両者を比較した。

 まず、日本行政法での「インフォーマルな行政手法」論として、その中核に位置する行政指導論について、判例学説が作り上げてきた法的評価枠組みの類型化を試みた。行政指導の目的(ないし理由・コンテクスト)に着目すると、判例学説の議論は、6つに類型化することができ、大分類として「法定外の政策内容の実現手段」としての行政指導と「法定の政策内容の実現手段」としての行政指導とに分けられる。

 米国行政法については、「インフォーマル」であることをキーワードとして行政法現象を分析している議論を、3つの問題関心群に類型化することができる。「手続鋳型」レベルでの「フォーマル」手続以外の手続鋳型を議論する場面、「決定環境」レベルでの「フォーマル」性に対置される合意・協働のスタイルという意味での「インフォーマル」を議論する場面、そして「行政手続観」レベルでの「フォーマル」性(法の支配)に対置される「インフォーマル」性、つまり行政機関が法定の権限外の事柄を私人に要請し、それを私人が任意に受け入れるという現象を問題にする場面の3つである。

 以上の整理から、日米間のインフォーマル手法論における不一致は、第一に、どのような現象を「インフォーマル」と呼ぶかであり、これについて不一致が生じる原因は、フォーマルの概念が日米で異なるからである。第二に、日米ともに同じような行政現象をインフォーマルと呼びながら、それに対する法的アプローチが異なるという意味での不一致があり、それについては、次のとおりである。

 米国では、合意・共働という意味での「インフォーマル」が、ここ20年度ほど盛んに議論されており(議論の歴史はニューディール時代以前にまで遡る)、ある種の"流行"である。特徴的なのは、協働的意思決定が、伝統的なリーガリズム(フォーマリズム・法の支配。上記の対峙型の「決定環境」の重視)とは違った「もうひとつの法の世界」であり、その伝統とは緊張関係にあることが常に意識されていることである。協働的意思決定を成功させるためのテクニックだけではなく、合意・協働というスタイルの理念的正当性が、慎重に模索されているのである。逆にわが国では、協働的決定(ないし対話型行政活動)は、判例・行政実務・学説を問わず、好意的に受け取られており、コンセンサス形成が法治主義に反することを正面から主張する議論は出てきていない。わが国での理念的関心が低い原因としては、日本の適正手続論において対峙的決定環境が理念的出発点ではないこと、そもそも交渉と合意のスタイルの理念的正当性に対する懸念が実感として強くないことが挙げられよう。

 他方、法定の権限外のことを行政機関が私人に要請するという意味での「インフォーマル」は、日本では行政指導論のひとつの中心であるが(本論文のいう「法定外の政策内容の実現手段」としての行政指導)、米国では1990年代に入って議論され始めた。米国の判例はこの点に厳しい目を向けるが、日本の判例は、行政指導の目的の「法定外」性をきわめて緩やかに許容する。その点について憲法論(統治機構)的正当性の議論が必要と思われるが、しかし、なお十分な注意が払われていない(この点につき、参考論文「行政活動の憲法上の位置づけ」を添付した)。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、短い序文を別として、本体は2部で構成されている。第1部は、米国の1946年連邦行政手続法(以下、「APA」という)の立法史の再検討を行い、それを通じて日米行政手続法比較の示唆を得ようとするもの、第2部は、行政指導に関する日本の学説判例の議論と米国法におけるインフォーマルな行政手法についての議論とのそれぞれの特徴を分析し比較するものである。第1部・第2部を通じ、日米両国の行政法における「フォーマル」と「インフォーマル」の観念のそれぞれの意味づけおよび位置づけが問題とされている。

 第1部「行政手続法の日米比較」では、まず、「序」において、日本の行政手続法とそれに影響を与えたとされるAPAとでは、定められた手続内容およびその適用対象がずれており、この2つはそもそもの立脚点を異にしている可能性があることが指摘される。そして、両者を比較するための共通の土台となるべき3つの問題単位、すなわち、そもそもなぜ行政手続が必要なのかという「行政手続観」の問題と、行政機関が履践すべき具体的な手続要素(意見聴取の要否・態様、理由付記の要否・態様など)の組み合わせ方のレベルにおける、著者の用語によれば「手続鋳型」の問題と、この両者の中間のレベルでの、決定者が置かれるべき望ましい環境は何かという「決定環境」の問題が、それぞれ想定されるとし、かつ、これら各レベルの議論の相互のつながり方こそが、各国・各時代の行政手続法ないし行政手続論を支える思考軸を示すことになるという。

 このような立場に立って、APAの立法史にてらしての、その立法意図の解明が試みられる。著者は、日本でも見られる従来の説明として、APAは米国1930年代に独立規制委員会の正当性をめぐって対立していた保守派と進歩派の間の政治的妥協の産物であるとの言い方や、同法は連邦憲法における手続的デュープロセス法理の大きな影響を受けて成立したものであるとの言い方がされるが、それらはAPA成立前の一時期の議論状況としてはともかく、APAそれ自体の歴史認識としては問題がある、とする。

 第1部第1章〜第3章では、デュープロセス法理の構造を整理したうえで、第1に、19世紀末から20世紀前半にかけての連邦最高裁の、制定法により行政機関の事実判断が最終的(final)とされ、司法裁判所による審理が排除されている場合に、当該論点についての行政機関の事実判断には一定の「ヒアリングの機会」の伴うべきことがデュープロセス上要求されるとする、著者のいう「第1群のデュープロセス判例」の抽出と分析、第2に、制定法が「完全なヒアリング」を行政機関に義務づけている場合に、当該規定をデュープロセス法理の具体化と理解したうえで裁判審理(トライアル)にきわめて近いヒアリングを要求した、20世紀前半の連邦最高裁の諸判決の分析が、それぞれ行われる。後者は、事後の司法審査のありようと無関係に端的に行政過程においてデュープロセス上の「ヒアリングの機会」が必要かという問題についての、後に展開される「第2群のデュープロセス判例」の萌芽として位置づけられる。そして、著者は、これら2系列の判例から、「ヒアリングの機会」のあり方に関して基本的には裁判審理型を出発点としつつ、多様な行政過程の特質に適合すべく裁判審理型から適宜「引き算」をすることで、デュープロセス上要求される「ヒアリングの機会」のあり方を導くという、米国デュープロセス法理の特色を見出すことができるとする。

 第4章では、以後のAPA立法史研究の前提として、同法の規定の概観がされる。APAにおける「ヒアリングの手続鋳型」としては、第1に、規則制定のための「告知コメント手続」(notice-and-comment procedure) に現われている、行政機関が原案を示し利害関係者からの情報提供的なフィードバックを得てその参考に資するというものがある。第2に、規則制定または裁決のためのいわゆる「正式手続」(formal procedure) に現われているような、行政側職員と私人との間で、相手方の原案を攻撃しみずからの原案を防禦する対論としてのフィードバックを応酬し、それを中立な裁定者が判定するというものがある。第3に、APAには、その規定の随所に、当事者間の合意(コンセンサス)形成のために原案とフィードバックのやりとりを行うという、著者が「和解等手続」と呼ぶ手続鋳型が現われている。

 それでは、なぜこれら3つの手続鋳型がAPAに取り込まれ、それ以外のものが取り込まれなかったのか。その背景にいかなる行政手続観や決定環境の選択があったのか。第5章〜第8章では、APAの成立に至る過程の当事者である、アメリカ法律家協会、行政手続に関する司法長官委員会、連邦議会等の、それぞれの意図がどのように交錯してAPAの条文へと結晶化していったかの分析の作業が行われる。

 第1部末尾の「結論」においては、まず、上記の立法史研究で得られた歴史認識をふまえて次のような整理がされる。すなわち、当時においては、「法の支配」(その手続的表現である手続的デュープロセス)の観点から行政手続の存在意義を理解するか、それとも、行政機能の増大へのプラクティカルな対応を目的として、行政過程の受容性を高めるべく、行政決定における正しさ(正しい公益判断)の確保と私人への説得力の最大化をもたらす装置として、行政手続の存在意義を見い出すかという、2つの異なった行政手続観が存在していた。そして、APAにおいては、右のプラクティカルな行政手続観から、裁決(個別的命令)の場面では、利害関係者間の対峙もしくは協働という決定環境に行政機関を置くことが高く評価され、規則制定の場面では、情報の拡充された決定環境に行政機関を置くことが高く評価された。そして、それぞれの決定環境をもっとも効率よく創り出す手続鋳型として、正式手続・和解等手続・告知コメント手続の整備が行われた、というのである。

 以上の整理に続いて、行政手続に関する日米の考え方の比較が試みられる。そこでは、一方で、行政過程の受容性を高めるというAPAのプラクティカルな行政手続観は、もともと行政が強力であった日本ではそもそも必要とされなかったのであり、そこから日米の行政手続法の規定の違いが説明されうることが主張される。また他方で、米国行政法においては裁判審理型のフォーマルなヒアリングへの強い執着が見られ、それは、とりわけ決定環境の選択のレベルで対峙型が重視されるためであると考えられるのに対し、日本では、行政手続法を含めて、対峙型の決定環境を重視するという傾向は見られないこと、そもそも日本の適正手続論においてはいかなる決定環境が望ましいとされているかが明確ではなく、そのために、憲法上要請される適正手続のあり方(手続鋳型)についても、無から出発して必要な手続要素を積み上げる「足し算」の発想が認められ、米国とは逆になっていること、インフォーマルな裁決手続の一般法が米国では実現せず日本行政手続法において実現したのも、この発想の差異から説明されうること、などが述べられる。

 第2部「インフォーマルな行政手法論の日米比較」は、両国においてそれぞれ「インフォーマル」と形容される行政手法が何であり、どのような法的問題を孕むものと理解されているのかを論ずる。

 第2部第1章〜第3章では、日本法において「インフォーマルな行政手法」としての行政指導を論ずる場合の、その論じ方が問題とされる。日本の学説は、任意の協力を求めるものであるという行政指導の手段面の特徴を重視してきた。しかし、著者は、むしろ行政指導がされるコンテクスト(指導の目的や背景)を重視し、法定された政策内容(目標・価値・基本決定)に向けられた行政指導と、法定外の政策内容に向けられた行政指導とを区別することから出発して、多種多様な行政指導に対する法的評価枠組みを考えるべきだとする。そして、法定外の政策内容の実現手段としての行政指導については、裁判例におけるその法的評価の仕方を詳細に分析するとともに、学説においてもその種の行政指導への積極的評価が生じていることを確認し、それに対する疑問を提示する。他方、法定された政策内容の実現手段としての行政指導については、これも裁判事例を参照しつつ、いくつかの類型ごとに検討を加え、いずれも法律等で授権された権限行使の一環としてなされていることからその適法性はそれぞれの根拠法に照らして判断される、との認識を示している。

 第4章・第5章では、米国における「インフォーマルな行政手法」への問題関心のあり方が分析される。著者は、まず、米国行政法において「フォーマリティ」とは、個々の実定法を超えて事前の実体的準則と対峙的な手続保障の要求を意味する概念であるとの論者の説明を援用したうえで、米国行政法におけるそれとは逆の「インフォーマリティ」に関わる問題関心として、(1)インフォーマルな規則制定・裁決手続や非立法的規則制定手続など、APAの正式手続を取らないものへの、「第1群」の問題関心、(2)APA・交渉的規則制定法・行政紛争解決法等々に見られる、交渉による合意を目指す協働型の決定環境ないしADR・和解等の手続への、「第2群」の問題関心、(3)行政機関の権限外(法定外)の要求を何らかの手段で相手方に任意に呑ませるという現象への、「第3群」の問題関心、を挙げ、それらについての米国における議論の状況を検討・整理する。そして、これら3種の「インフォーマリティ」は、いずれも、「フォーマリティ」が体現する正当性に対して、すなわち、対峙型の決定環境が望ましいというコンセプト(第1群・第2群の問題関心との関係)や、法の支配(第3群の問題関心との関係)に対して、それぞれ緊張関係に立っているとする。

 第2部の「結論」では、以上の考察の結果を要約し、そのうえで、米国と異なり日本行政法においては、「フォーマル」とは行政機関が法律・条例に定められた方式で行動するという以上の意味を持つ概念ではないこと、対峙型でない交渉型の決定環境に行政機関を置くことの正当性を、フォーマリズム等の伝統的価値との緊張関係のもとで、それとは違うもうひとつの法の世界から探ろうとする努力がされている米国と比べて、日本ではそうした決定環境の議論は低調であること、日本において「インフォーマルな行政手法」論の中心を占めるのは法定外の政策内容の実現手段としての行政指導の問題であり、しかもそこでは、リーガリズムから遠く離れた、その種の行政指導を端的に承認できるような別の法世界が模索されているのであるが、米国の考え方からすれば、そのような行政指導は、敢えて正当化の途を探すべき重要な問題とは認識されないであろうということが、指摘される。そして、最後の点に関しては、憲法上の内閣の行政権やそれに準ずる地方公共団体の長の権能の行使とは区別された、その他の行政機関の行政活動について、その憲法上の位置付けを洗い直す必要があろうということが示唆される。

 以上が本論文の要旨である。以下、評価を述べる。

 本論文の長所は、第1に、1946年APAの内容を分析し、それを、同法成立に先立つさまざまな経緯、すなわち、連邦最高裁のデュープロセス判例の流れ、行政機能の増大と伝統的法原理との関係についての議論の対立、行政手続に関するいわゆる司法長官委員会による検討、議会における法案審議等々のコンテクストのなかに位置づけてみせたこと、それによって、APAが単にデュープロセス法理を具体化したのではなく著者のいうプラクティカルな行政手続観を強く反映したものであったとの解釈を十分な説得力をもって提示したことにある。本論文は、APAの基本的な性格についての従来の研究の水準を高めたということができる。

 長所の第2としては、APAと日本行政手続法の異同やいわゆるインフォーマルな行政手法の問題など、広い意味での行政手続の諸問題に関する日米の議論の比較を、一つには行政手続観・決定環境・手続鋳型という3つのレベルを区別し、もう一つには米国において法のルールによる拘束と対峙型の決定環境を意味する「フォーマル」の観念がもつ重要性と日本におけるその不在に注目するという、著者独自の視点から、それ自体として整合性のある仕方で展開したことが挙げられる。

 第3に、行政指導の法的評価の問題に関して、行政指導の目的や背景を重視する立場に立ち(著者のいうコンテクスト・アプローチ)、かつ、上記のような著者独自の比較の視点を掛け合わせることにより、従来の議論に比してより精度の高い分析を展開して見せたことも、本論文の大きな長所の一つである。

 他方、本論文には次のような問題点も指摘されうる。その一つは、APAの意義についての従来の理解を批判し、著者のいうデュープロセス的な行政手続観とは別のプラクティカルな行政手続観の存在を強調しようとするあまり、両者の交錯ないし部分的な重なり合いの可能性についての慎重な目配りがやや不足している点である。

 また、本論文の全体構成に関していえば、行政法における「フォーマル」の観念とそれを補う「インフォーマリティ」の諸現象という、第1部・第2部を通底し連結する基本的なモチーフが、第2部第4章で多少まとめて触れられてはいるが、たとえば全体の序論ないし結論のような形で十分に展開されていないことも、惜しまれるところである。

 しかしながら、以上のような問題点も本論文の価値を大きく損なうものではない。本論文は、行政手続を中心とする日米両国の行政法の基本問題について探究し、両国の行政法の構造的特質を解明したものであって、学界に多大の貢献をしたと評価することができる。したがって、本論文は、博士(法学)の学位を授与するに相応しいものと認められる。

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