学位論文要旨



No 215350
著者(漢字) 柴崎,隆一
著者(英字)
著者(カナ) シバサキ,リュウイチ
標題(和) 防災・減災行動における意思決定者のリスク評価特性の計測
標題(洋) Measurement of Risk Evaluation Characteristics of Decision-Makers for Anti-Disaster/Anti-Accident Behavior
報告番号 215350
報告番号 乙15350
学位授与日 2002.05.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第15350号
研究科 工学系研究科
専攻 社会基盤工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 家田,仁
 東京大学 教授 森地,茂
 東京大学 教授 國島,正彦
 東京大学 助教授 目黒,公郎
 東京大学 講師 加藤,浩徳
内容要旨 要旨を表示する

 地震・洪水・斜面災害・交通事故などの各種の災害・事故リスクは,その生起頻度や災害発生1件あたりの被害額が様々であり,防災・事故防止施設の整備水準を決定するにあたって,投資による便益をどのように評価するかについて多くの議論が存在する.最も一般的な投資評価指標としては,投資前後の期待被害額の差で表される期待被害軽減額が考えられるが,特に,大きな不確実性を伴う稀少頻度リスクや,カタストロフィックな被害をもたらすリスクにおいては,期待被害軽減額による投資評価が適切でない可能性がある.このような特徴を持つ災害・事故リスクを評価する手法については,理論レベルでは問題点の整理がそれなりに進みつつあるものの,実際に投資を行うインフラ管理主体にとっては,ようやく明示的に考慮する必要性が認識されてはじめてきた段階にある.しかしながら,現実にこれまで行われてきた数多くの防災投資において,意思決定者は,このような災害・事故リスクの特徴を,明示的でないにせよ何らかの形で考慮してきたものとも考えられる.

 そこで本研究は,複数の災害・事故リスクを対象に,これまで実際に行われてきた当該リスクに対する防災投資の実績から,それぞれの意思決定者が各災害・事故リスクをどのように評価してきたのかというリスク評価特性を計測することを目的とした.

 本研究の特徴は,(1)複数の災害・事故リスクに対する人間の意識の共通点や差異を分析対象としていること,(2)保険加入行動のような家計の行動だけでなく,防災投資水準の決定という社会的な意思決定も分析の対象としていること,(3)「人間のリスク評価特性」というキーワードで,複数の災害・事故リスクに対する人間の行動特性を統一的に分析し,それぞれの比較を行っていること,(4)実際の投資実績や保険加入行動の実績を用いて計測を行っていること,の4点を包括している点にある.

 本研究におけるリスク評価特性計測の枠組みは,おおまかにいえば,以下の通りに表現できる.意思決定者は通常の災害の生起頻度と被害額の積で表される期待被害額によりリスクを評価するのではなく,リスク評価特性を介した主観的な災害の生起確率と被害額の積で表される認知期待被害額によって,保険加入行動や防災施設整備水準決定といった防災・減災行動をとるものと仮定する.このとき,外部から観測可能な,通常の機械的に算出される各災害の生起頻度・被害額と,意思決定の結果である保険加入実績や防災投資実績から,各意思決定者の生起頻度・被害額に関するリスク評価関数を求めるというものである.

 はじめに,家計の減災行動としての地震リスクと通常の死亡リスクに対する保険加入行動と,各インフラ管理組織の行う防災施設整備水準の決定について,リスク評価特性を考慮した定式化を行った.そのうえで,現状の保険加入実績や防災施設整備水準が意思決定者にとって最適な状態であるとの仮定のもとに,生起頻度と被害額に関する各リスク評価関数の算出方法について定式化した.また,ここでいう「意思決定者のリスク評価特性」とは,災害の生起頻度には,特に稀少確率領域において大きな不確実性が存在することと,家計の効用関数はリスク回避的であり,インフラ管理組織の直接負担する被害と比較して特定の利用者や周辺住民といった個々の家計が第一義的に負担する被害は,たとえ同額であっても社会全体の総不効用が大きいことに主として起因するものと考えられる.

 上記の定式化に基づき,具体的な計測の対象として,地震リスク・世帯主の死亡リスクに対する家計の保険加入行動,交通事故リスク軽減のための交差点信号機改良,洪水リスク軽減のための治水投資,道路高架橋の耐震性能決定,斜面災害リスク軽減のための鉄道斜面改良,の6種類のリスクに対する減災行動について,意思決定者のリスク評価特性の計測を行った.

 はじめに,家計の地震保険と生命保険の加入行動を対象に,代表的な家計のリスク評価関数についての計測を行った.その結果として,家計は,地震被災リスクについては,地震によって居住建物が全壊もしくは半壊する確率を,居住地域によらずそれぞれ40年に一度程度と認知し,被災時の被害額を機械的に計算される被害額の等倍〜2倍程度と認知していることがわかった.また,死亡リスクについては,家計はせいぜい20年程度先までしか考慮せずに保険加入の決定を行っていることと,死亡時の損害は,遺失収入のほぼ等倍(最大でも1.2倍程度)と認知していることがわかった.

 つぎに,交通事故対策投資のうち信号機改良事業の投資箇所総数の決定問題を対象に,意思決定者である各都道府県の公安委員会の,交通事故リスクに対する評価特性の計測を試みた.その結果,信号機の改良投資は,一件あたりの投資費用に対し,予想される効果(期待被害軽減額)が10倍〜100倍となり,見かけ上,自己組織の損失の軽減効果のみを考慮して投資箇所を決定しているという結果となった.この原因の多くは事業者の予算制約に帰すると考えられる.

 さらに,洪水リスクに対する治水施設整備を対象に,長期的な整備目標水準である治水計画安全度の決定問題を対象に,意思決定者である政府のリスク評価特性を計測した.その結果,意思決定者は,計画施設の完成時にも洪水をもたらす流量の最低値である計画高水量の発生頻度を,機械的に計算される頻度のおよそ4倍弱程度に認知し,そのときの周辺住民等の被る一般資産の被害額を,被害額が1兆円程度までの(それでもかなりの被害規模ではあるが)比較的被害規模の小さな河川においては機械的に計算される被害額の2倍程度,通常の被害額が2,3兆を超えるような河川においては3倍程度に認知していることがわかった.

 つづいて,道路高架橋の耐震性能決定問題を対象に,現在の道路橋示方書が指し示すところの耐震性能に内包される,地震リスクに対する道路管理者としての政府のリスク評価特性を計測した.具体的には,首都高速,阪神高速,福岡高速における耐震補強投資を対象に,(1)道路橋示方書に記載されているとおり,レベル2対象地震として兵庫県南部地震を想定することを前提とした場合,(2)地震発生確率の地域特性を考慮しつつ地震規模別の発生確率を定義し,さらに耐震性能別の高架橋のフラジリティを考慮した場合,の2ケースについて検討した.その結果,レベル2対象地震もしくはそれと同等の地震の発生確率が,東京や大阪のようにおよそ1/100のオーダーであると考えられる場合には,意思決定者の認知被害は,機械的に計算される被害額のおよそ2,3倍〜7,8倍となることがわかった.別の言い方をすれば,意思決定者は,平均値よりも少なくとも2σ強以上多めに機械的に計算される被害額を見積もっている,あるいは少なくとも供用期間中に発生する確率が1/3程度(再現期間150年)である地震の発生する可能性を念頭においている,と解釈できることがわかった.

 最後に,JR東日本の斜面災害対策投資を例に,鉄道事業者の斜面災害に対するリスク評価特性の計測を行った.ここで,計測の対象としたのは,運転中止雨量の引き上げを明示的に目標として掲げ,1年半で集中的に投資が行われた中央本線と,通常の斜面防災工事の進捗に伴い結果として運転中止雨量が引き上げられた内房・外房線である.その結果,意思決定者である鉄道事業者は,斜面災害の生起頻度に関しては,機械的に計算される生起頻度に対し,中央本線で約0.7倍,内房・外房線で約0.9倍に認知し,被害額に関しては,機械的に計算される被害額に対し,中央本線で約2.5倍,内房・外房線で約4.4倍に認知していることがわかった.本分析においては,防災施設整備水準を表す指標として運転中止雨量実績を用いており,現時点での運転中止雨量の引き上げには寄与しないものの,将来の便益の発現に貢献する可能性のある投資の便益を考慮できないため,このような投資を含む内房・外房線における斜面防災工事の分析は,投資による便益を過小評価している可能性がある、したがって,中央本線における投資によるリスク評価関数の計測結果が,より本研究の目的に適った結果であるといえる.

 以上の6種類のリスクに対する家計・インフラ組織の防災・減災行動に関するリスク評価関数の推定結果をまとめると,つぎのとおりとなる.意思決定者が主観的に認知する被害額は,交通事故リスクを除くいずれのリスクにおいても,機械的に計算される通常の被害額の等倍から,最大でも6倍程度である.これは,道路高架橋の耐震投資に関して行った専門家へのアンケート調査による評価関数の推定結果とも一致するものとなっている.また,災害の生起頻度に関しては,年間生起頻度が0.1件以上である斜面災害リスクについては,意思決定者が主観的に認知する生起頻度が機械的に計算される通常の生起頻度とほぼ一致するのに対し,それより頻度の低い洪水リスクにおいては生起頻度は4倍程度大きく認知され,さらに頻度の低い地震被災リスクにおいては,地震によって居住建物が全壊もしくは半壊する確率を,居住地域によらずそれぞれ40年に一度程度と認知していることがわかった.

 これまでは,本研究のような,防災投資の実証的な分析により,意思決定者のリスク評価特性について推定した研究はあまり存在しなかった.今後より資源に対する制約が大きくなると思われる実務における意思決定の支援においても,また理論的研究の方向性を誤らないためにも,本研究で行ったような,どのような思想で防災投資がこれまでなされてきたかについて比較・検討を行い,その大まかな傾向を把握することの重要性は高いと考えられる.

審査要旨 要旨を表示する

 論文提出者の研究は,複数の災害・事故リスクを対象に,これまで実際に行われてきた当該リスクに対する防災投資の実績から,それぞれの意思決定者が各災害・事故リスクをどのように評価してきたのかという,「意思決定者のリスク評価特性」の計測を行ったものである.具体的には,地震リスク・世帯主の死亡リスクに対する家計の保険加入行動,交通事故リスク軽減のための信号機改良交差点箇所の決定,洪水リスク軽減のための治水施設整備水準の決定,道路高架橋の耐震性能基準の決定,斜面災害リスク軽減のための鉄道斜面改良投資量の決定,の6種類のリスクに対する減災行動を対象に,災害・事故の生起確率と被害額に関する意思決定者のリスク評価特性を考慮した定式化を行い,現状の保険加入実績や防災施設整備水準が意思決定者にとって最適な状態であるとの仮定のもとに,生起頻度と被害額に関するリスク評価関数の推定を行っている.

 計測の結果,得られた成果は以下の通りとなっている.

(1)明示的な考慮であるかどうかはともかく,本研究で取り扱ったような防災・減災行動においては,意思決定者は,生起確率と被害額の両者を考慮した枠組みで判断している.

(2)交通事故リスクを除くいずれのリスクにおいても,意思決定者が主観的に認知する被害額は,機械的に計算される通常の被害額とくらべ,その等倍から,最大でも6倍程度に大きく,多くの場合は2,3倍程度に大きい.

(3)災害リスク間の被害額に関する評価特性を比較すると,被害額が同一である場合,斜面災害,地震災害,洪水災害の順に認知被害額が大きい.すなわち,斜面災害リスクのように,特定少数の利用者や住民に被害が集中しやすく,全被害アイテムのうち死亡や負傷による被害額の比重が相対的に大きい災害リスクほど,認知被害額が大きくなる傾向がある.

(4)インフラ管理組織と家計の被害額に関する評価特性を比較すると,インフラ管理組織のほうが被害を大きめに評価する.すなわち,家計は自分自身の家計は自分自身の被害については比較的ドライに認識し,むしろインフラ管理組織を介した他者の被害を重大に受け止めている.

(5)交通事故リスクを除くいずれのリスクにおいても,意思決定者が主観的に認知する生起確率は,機械的に計算される通常の生起確率とくらべ,そのほぼ等倍から,10倍程度に大きい.

(6)生起確率が小さいほど,認知生起確率と通常の生起確率の比は大きくなる.年間の災害生起頻度が1/10以上の領域においては,認知生起確率と通常の生起確率はほぼ等しいのに対し,年間の災害生起頻度が1/10以下の領域においては,認知生起確率が通常の生起確率よりも大きく,意思決定者の安全思考が働いていると考えられる.

(7)実際の生起頻度がどんなに小さくても,意思決定者の認知確率は1/50程度を下回らない.すなわち,実確率がどんなに小さくても,少なくとも供用期間中に一度(あるいは一生に一度)はリスクが発現するものと認知している.

 本研究の特徴は,(1)複数の災害・事故リスクに対する人間の意識の共通点や差異を分析対象としていること,(2)保険加入行動のような家計の行動だけでなく,防災投資水準の決定という社会的な意思決定も分析の対象としていること,(3)「人間のリスク評価特性」というキーワードで,複数の災害・事故リスクに対する人間の行動特性を統一的に分析し,それぞれの比較を行っていること,(4)実際の投資実績や保険加入行動の実績を用いて計測を行っていること,の4点を包括している点にある.地震・洪水・斜面災害・交通事故などの各種の災害・事故リスクは,その生起頻度や災害発生1件あたりの被害額が様々であり,防災・事故防止施設の整備水準を決定するにあたって,投資による便益をどのように評価するかについて多くの議論が存在する.特に,大きな不確実性を伴う稀少頻度リスクや,カタストロフィックな被害をもたらすリスクにおいては,期待被害軽減額による投資評価が適切でないとの指摘は多い.このような特徴を持つ災害・事故リスクを評価する手法については,理論レベルでは問題点の整理がそれなりに進みつつあるものの,実際に投資を行うインフラ管理主体にとっては,ようやく明示的に考慮する必要性が認識されてはじめてきた段階にあるといえる.このような状況のなか,現実にこれまで行われてきた数多くの防災投資において,意思決定者が,このような特徴をもつ災害・事故リスクを,明示的でないにせよどのような形で考慮してきたのかについて分析した本研究の意義は大きいといえる.今後より資源に対する制約が大きくなると思われる実務における意思決定の支援においても,また理論的研究の方向性を誤らないためにも,本研究で行ったような,どのような思想で防災投資がこれまでなされてきたかについて比較・検討を行い,その大まかな傾向を把握することの重要性は高いと考えられる.

 また,上記の研究内容は3編の審査論文(土木計画学研究・論文集,WCTR(世界交通学会)Proceedings, Journal of EASTS(東アジア交通学会))等にまとめられており,これらの学会における発表とあわせて,その査読者や出席者から高い評価を受けている.また,論文提出者は審査会においても明快な発表を行い,審査員からの質疑においても適格な対応をした.

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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