学位論文要旨



No 215364
著者(漢字) 西原,大輔
著者(英字)
著者(カナ) ニシハラ,ダイスケ
標題(和) 谷崎潤一郎と中国
標題(洋)
報告番号 215364
報告番号 乙15364
学位授与日 2002.05.23
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第15364号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大澤,吉博
 東京大学 助教授 今橋,映子
 東京大学 教授 杉田,英明
 東京工業大学 助教授 劉,岸偉
 東京工業大学 助教授 菅原,克也
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、作家谷崎潤一郎と中国とのかかわりについて、その作品及び伝記の両面から論じるものである。谷崎潤一郎は一九一〇年代から二〇年代にかけて、いわゆる「支那趣味」の小説や随筆を数多く発表した。また、一九一八年と一九二六年の二度にわたって、中国を訪れている。第二回中国旅行では、郭沫若・田漢・欧陽予倩ら中国人文学者と知り合い、彼らとの交流は第二次世界大戦後に至るまで続いた。谷崎潤一郎は、生涯にわたって中国と関係を持ち続けた小説家であると言えよう。

 「支那趣味」の小説や随筆において、谷崎は中国や中国の風俗物産への憧憬をしばしば語っている。「まるでお伽噺にでもあるような楽しい国土--、こう云う国土に生れたら、自分はどんなに仕合せだったろう」と、小説「鮫人」の南貞吉は言う。また谷崎自身も、一九二七年一月二十七日付土屋計左右宛書簡で、「僕はその支那が--支那趣味が--いよいよ好きになって参ります」と書いている。一見すると、谷崎潤一郎という近代日本の文学者は、中国に憧れ、中国を賛美し、中国の前に跪く、徹底した中国崇拝者であるかのように映る。ところが、中国に対する谷崎の視点をよくよく検討すると、そこには顕著な偏りが見られる。中国を語るキーワードとなっているのは、「お伽噺のような」「夢のような」「怪しい」「不可思議な」「奇妙な」「絵のような」といった一連の語彙である。

 エキゾティックな美の国への礼讃と、アジアに対する偏見との奇妙な組み合わせから成り立っている谷崎潤一郎の「支那趣味」を解読する鍵は、エドワード・サードのオリエンタリズム論にある。植民地及びこれに類する地域の文化に対して、エキゾティシズムの視線を向け、同時に差別的に表象するというオリエンタリズムの構図は、谷崎の「支那趣味」作品にも当てはまる。

 本論文の「序」では、まずオリエンタリズムの定義を再確認し、次いで第一章「「支那趣味」の誕生」において、当時の時代背景を明らかにした。そもそも「支那趣味」という用語は、一九二二年一月号の雑誌『中央公論』をきっかけとして広まった言葉であり、比較的新しい造語であった。また、大正時代に「支那趣味」が盛んになった理由として、近代中国におけるツーリズムの発達が挙げられる。さらに、当時の日本の文壇では、南蛮趣味・江戸趣味といったエキゾティシズムの連鎖を見ることができ、これが谷崎潤一郎の「支那趣味」作品を誕生させる文学的背景となったのである。

 一方、谷崎潤一郎自身の側では、幼い頃より独特の中国文化体験を持っていた。第二章「文壇に出るまで」においては、谷崎が作家としての自己を確立するにいたるまでの中国とのかかわりを検討した。幼少時代、当時の東京にはまだ珍しかった中華料理屋の草分けである偕楽園を遊び場としていた谷崎は、食べ物を通じて中国文化を知るという、極めて貴重な経験を有していた。小学校時分から漢詩文に親しむ一面もあったが、森鴎外や夏目漱石といった前の世代と比べ、漢文学の知識は乏しい。このような点が、旧来の漢学の権威を離れた新たな視点で中国を理解するようになる遠因となった。

 谷崎潤一郎はオリエンタリズムの言説を、永井荷風を通じて受容していった(第三章「オリエンタリズムの受容」)。『あめりか物語』『ふらんす物語』において、西洋中心の価値観を反復した新帰朝者永井荷風に、若い谷崎は強い憧れを抱いていた。しかし谷崎は、生涯一度も欧米に渡ったことがなく、「若し日本人としてエキゾティックな芸術を開拓するつもりなら、支那や印度に眼をつけた方がい〓など〓思って居た」(「独探」)のである。

 第四章「印度趣味・支那趣味の言説を読む」では、インド及び中国を舞台とする一連の異国趣味作品を、サイードのオリエンタリズム論を援用しつつ分析した。一九一七年、谷崎潤一郎は「ラホールより」「ハッサン・カンの妖術」「玄奘三蔵」という三篇の印度趣味作品を発表している。「ラホールより」では、イギリス人学者の著作を利用しつつ、インドを「日常不用意の間に目堵する市井の一些事が、そのま〓アラビア夜話の一節にも比す可き物語なる事を発見」できる、奇妙で不可思議な国として描き出した。「ハッサン・カンの妖術」においても、インドでは「科学の力で道破することの出来ないような神秘な出来事が、未だに殆ど毎日のように起って居」るとされる。「玄奘三蔵」では、谷崎はイギリス人オリエンタリスト(東洋学者)オーマンの文献に大きく依存している。谷崎潤一郎の印度趣味は、まさに西洋オリエンタリズムを受容することによって成立しているのである。

 「支那趣味」の代表的な小説「鶴唳」においても、中国は夢と幻想の国として描かれる。小説「西湖の月」「鮫人」「天鵞絨の夢」などの作品で、谷崎は中国を自由奔放なエキゾティシズムの舞台とし、さらに「陰翳礼讃」で彼は、「現に支那や印度の田舎へ行けば、お釈迦様や孔子様の時代とあまり変らない生活をしている」と考えている。アジアの後進国では人々は進歩から取り残され、古代さながらの、完全に文明国とは隔絶した暮らしをしているとみなしていた。谷崎潤一郎の中国観の特徴を一言で要約するとすれば、それは静止性まはた不変化性ということになるだろう。「上海交遊記」でも、中国の「田舎へ行けば支那の百姓は今でも呑気に、「帝力我に於いて何か有らん哉」で、政治や外交に頓着なく、安い物を喰い安い物を着て満足しながら、悠々と暮らしている」という中国認識を示している。谷崎潤一郎の「支那趣味」において、日本はオリエンタリズムの主体の側に立っている。

 谷崎潤一郎の「支那趣味」の創作の源泉となったのは、一九一八年に行われた、約三カ月に及ぶ第一回中国旅行であった。朝鮮半島から満洲を経て北京に入り鉄道で南下、長江を船で下って上海から帰国したこの大陸漫遊からは、数多くの作品が生まれている。随筆等としては、「支那旅行」「朝鮮雑観」「奉天時代の杢太郎氏」「支那の料理」「支那劇を観る記」「廬山日記」「蘇州紀行前書」「蘇州紀行」など、小説に「或る漂泊者の俤」「秦淮の夜」「鮫人」「天鵞絨の夢」「蘇東坡」がある。第五章「第一回中国旅行」では、従来詳細が不明だったこの旅行に関し、当時の旅行ガイドブックや時刻表、さらには友人らの証言をも利用して徹底した考証を行い、その全貌を明らかにした。また同時に、紀行文などに見られるオリエンタリズムの言説について論じた。

 続く第六章「第二回中国旅行」では、一九二六年の第二回中国旅行に関して、中国側の資料等も活用し、考証を加えた。上海のみの滞在となったこの中国訪問において、谷崎潤一郎は知人の紹介を通じて内山書店の内山完造に出会う。内山完造のはからいで、この著名な日本人作家と中国人文学者との「顔つなぎの会」が催され、日本文学研究者謝六逸、劇作家田漢、演劇家欧陽予倩、作家郭沫若らと出会った。また上海の文化人の主催で、おおがかりな「文芸消寒会」が開かれ、谷崎は多彩な分野で活躍していた中国人との出会いを経験する。谷崎の旅行記「上海見聞録」「上海交遊記」のほか、本論文では、新たに中国語紙『申報』の記事類に注目し、新事実の発掘及び分析を行った。

 第二回中国旅行中の最も重要な出来事は、一品香ホテルで行われた谷崎と郭沫若・田漢両氏との対話である。「田舎へ行けば支那の百姓は今でも呑気に、「帝力我に於いて何か有らん哉」で、政治や外交に頓着なく、安い物を喰い安い物を着て満足しながら、悠々と暮らしている」という、オリエンタリズム的価値観を語った谷崎潤一郎に対し、二人の中国の知識人は、現代中国の困難な社会状況を真剣に訴えた。この対話によって、谷崎のオリエンタリズム的中国認識が問い直され、以後谷崎潤一郎は「支那趣味」の創作から離れていくことになったと考えられる。

 第二回中国旅行以降の谷崎は、中国熱から醒めてしまったように見える。しかしながら、上海で知り合った田漢・郭沫若・欧陽予倩との交友は継続した。第七章「中国人文学者との交流」では、様々な資料を用いて、その後の三人とのかかわりを検証した。また、一九四二年に発表された随筆「きのうきょう」で、谷崎は同時代の中国現代文学の諸作品を批評しているが、この点についても分析を行った。

 大正年間を中心とした時期に谷崎潤一郎が生み出した「支那趣味」には、オリエンタリズムの言説がちりばめられている。しかし、一九二六年に中国人文学者との対話を通じ、オリエンタリズム的中国観の修正を迫られたこの日本人作家は、中国を舞台としたエキゾティシズムに立ち戻ることはなかった。最終章の「結語」では、随筆「翻訳小説二つ三つ」に注目した。ここで谷崎は、長年中国大陸に暮らしたアメリカ人パール・バックの長編小説『大地』の、「ありのまま」の中国描写を評価し、返す刀で、日本の中国関連の著作について、「へんに猟奇的な風俗異聞を集めたような、猥褻が〓ったものが多い」と批判する。谷崎潤一郎にとって、現代中国はもはや気ままな空想を展開するにふさわしい幻想のオリエントではなく、作家自身が属する現実世界の一部分となっていたと言える。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、谷崎潤一郎(1886-1965)の中国との関わりについて、作品及び伝記の両面から論じたものである。谷崎潤一郎は1917年から1926年にかけて、中国および中国文化を題材にした作品を多く発表した。また1918年と1926年には実際、中国を訪れてもいる。谷崎がなぜこの時期そうした作品を集中的に発表したのか、またその後、そうした作品を突如、発表しなくなるのは、なぜなのか。そのことと彼の2度の中国旅行がどう関係するのかというのが、この論文が問うた問いである。

 そのことを考える上で、西原氏が採用した視点は、「オリエンタリズム」という概念であった。周知のように、「オリエンタリズム」は米国の比較文学者、エドワード・サイードが著わした『オリエンタリズム』(1978年刊行)によって提唱された概念である。ただし、この概念によって同書で分析された対象は、19世紀に行われた、ヨーロッパのロマン派による異国趣味の美術・文学と学問とであった。東洋といっても、それは中近東を指していた。西原氏はその概念を拡大して、谷崎潤一郎が中国を見る視線の中にヨーロッパの文学者がオリエントに対して抱いた感情と等質なものを見いだすのである。そしてそれは谷崎がヨーロッパ人の著作を読み、また永井荷風の作品を読むことで培われた態度なのであると論じる。そしてその「幻想」が崩されるのは、谷崎が実際に中国を訪れ、中国の実像を見、さらには中国の作家たちと話すようになってからであると氏は論じる。その点からして谷崎の第2回中国旅行は谷崎の転換点となった重要な旅行であり、そこで何があったのかは実証的に調べる必要があると氏は考えたのであった。

 以下、論文の構成に従って、氏の叙述をまとめる。

 序において、西原氏は谷崎の「支那趣味」を紹介し、その時代的背景について述べる。そしてサイードのオリエンタリズムを導入し、同概念の学問的脈絡を述べる。そうした作業を行った上で、氏はオリエンタリズムを自分なりに再定義し、このあとの議論に備える。氏の議論において重要なのは、オリエンタリズムが近代の所産、特に植民地主義と関係するものだということである。植民地主義という点では、日本もまたヨーロッパと同じ轍を踏んだ。ただし、日本は同時にヨーロッパから見られる対象でもあったから、その点で日本人作家が持つオリエンタリズムはより複雑な様相を呈することになる。その点を谷崎を中心にして論ずることを明らかにする。

 第1章「「支那趣味」の誕生」では、「支那趣味」という言葉がいつ出現したかを氏は調査する。氏の調査の結果、1922年の『中央公論』新年号で支那趣味という言葉が使われたのがきわめて初期の用例であることが指摘される。この号には「支那趣味の研究」という見出しのもと5編の文章が並べられていた。ただし。ここで言う支那趣味はさまざまなニュアンスを持った言葉であり、その後、支那趣味と言うと感じられるようになる、日本人の中国文物への異国趣味的な偏愛という含意はまだ確立されていなかった。氏の推定によれば、支那趣味という言葉がやや唐突にこの号で出てきたのは、当時の編集長、滝田樗陰(1882-1925)の発案ではなかろうかということである。谷崎もその特集に「支那趣味と云ふこと」という文章を載せているが、そこで谷崎が支那趣味と言った時意味していたのは日本人の漢学的素養、文人的教養であった。しかし、この言葉はその後広く用いられるようになり、そしてその意味も異国趣味と強く結びついてくる。支那趣味がそのように流行する外的要因としては、中国への観光旅行が容易になったということがあるだろうと西原氏は指摘する。中国への観光旅行がどのようなものであったかを、氏は竹内栖鳳(1864-1942)の場合を調べて参考とする。より重要なのは内的要因であるが、それは大正時代の文学に見られるエキゾティシズムの連鎖であるというのが西原氏の意見である。対象が次々と変わっていくにせよ、異国趣味が表現され続けた点は一貫していた。そうした雰囲気の中で谷崎の支那趣味の作品も書かれたのであった。

 第2章「文壇に出るまで」では、谷崎の幼少の頃の中国文化との関わりが論じられる。ここでは谷崎の学友の家である「偕楽園」という「支那料理屋」が重要視される。谷崎以前の世代にとっては漢詩文が中国文化を代表するものであったが、谷崎にとっては漢詩文とともに中国の生活文化も重要なものとなっていた。それが谷崎の「支那趣味」を生む素地となっていたことを氏は述べる。

 第3章「オリエンタリズムの受容」では、谷崎の「支那趣味」の定着が確認され、その例として「人魚の嘆き」、「魔術師」(ともに1917年発表)が分析される。そこで見られる西洋からの中国への視線がどこに由来するものかという点に関して、西原氏は先行研究を踏まえ、永井荷風の影響を挙げる。荷風の『あめりか物語』(1908年刊)、『ふらんす物語』(1909年刊)が谷崎に大きな影響を及ぼしたろうと氏は推測する。荷風が西洋のオリエンタリズムの言説に強く影響されていることは指摘されてきたことであり、谷崎も荷風経由でそうした言説の影響を受けたというのが西原氏の意見でもある。

 第4章「印度趣味・支那趣味の言説を読む」では、1917年に発表した「玄奘三蔵」、「ラホールより」、「ハッサン・カンの妖術」、1918年の「金と銀」の4篇がまず分析される。その印度趣味がどこに由来するものであるかという疑問に対して、西原氏は谷崎がこれらの作品を生み出す際に何を参照したかを問題とし、ここでも西洋のオリエンタリズムの言説の影響をえぐり出す。そしてそうした西洋由来の言説の影響下でつぎつぎと中国への憧憬を歌う作品が生み出されてくるのである。

 第5章「第1回中国旅行」以下は、この論文の中心的な作業である。まず1918年の第1回中国旅行の詳細が調査される。これについては先行研究があり、それを捕捉、拡充しながら、この旅行の詳細が示される。この旅行で谷崎が出会ったのは日本人だけであったので、この旅行は彼のオリエンタリズムを強化する方向に働いたというのが西原氏の考えである。「秦淮の夜」(1919年発表)はそうした谷崎の想像の産物であり、まだこの段階では中国は「もの言わぬ他者」であったとされる。

 第6章「第2回中国旅行」では、谷崎がそうした幻想から抜け出て、中国を対話の相手として考え始めるきっかけとなる第2回中国旅行が調査される。この部分は本論文の学問的貢献が良く示されたところである。西原氏はこの旅行に関して、日本語文献だけでなく、中国語文献にもあたって、この旅行で谷崎がどのような行動をとり、どのような人々とつき合いがあったかを明らかにした。特に上海で発行されていた『申報』を調査し、中国側の資料では谷崎がどのように報道されていたかを提示する。さらに中国人文学者の文章も検討して、補強材料とした。谷崎の中国旅行についてはそれなりの研究はあったのだが、このように日本、中国の資料を使い、これほど綿密に第2回中国旅行を明らかにしたものはなく、本論文の特筆すべき学問的貢献であると言える。日本語、中国語の文献をともに扱うことの出来る西原氏の能力、またそうした日本語、中国語の資料探索が必要な対象を選んだ着眼の良さが示されたところであった。この旅行において谷崎は、手厳しい批判を中国人文学者から受け、また自身、それまでの支那趣味の作品が皮相なものであったことを悟って、以後そうした作品を書かなくなり、むしろ日本を題材にした作品に集中していくというのが西原氏の見解である。

 最終の第7章「中国人文学者との交流」は、戦後を含めた、その後の谷崎と中国人文学者とのつき合いを描いたものである。それは田漢(1898-1968)であり、欧陽予倩(1889-1962)であり、郭沫若(1892-1978)であった。そうした実際の人々の付き合いから、谷崎は中国の実像を知ることになったのである。

 以上、述べたように、本論文は日本と中国との文化交流史の一側面としての大正期の「支那趣味」を論じ、谷崎の支那趣味的な作品のオリエンタリズム的な側面を明らかにしたものである。特に谷崎の中国観の転換となる第2次中国旅行を日中の資料を使って細かく再現、検証した点に特色がある。

 もちろん、本論文にもさらに書き込むべきことがなかったわけではない。審査委員からオリエンタリズムの受容とその放棄という図式に議論を押し込もうとしすぎてはいないかという批判があったし、またオリエンタリズムと異国趣味の関係をより明確にするためにその二つの概念の差異を明らかにする必要がなかったかという指摘が出た。しかし、そうした指摘も日本語と中国語の文献を使って実証的に第2回中国旅行を調べ、谷崎の中国観の変化を跡付けた西原氏の仕事の意義を減ずるものではなかった。こうした二国間にまたがる研究は、比較文学比較文化研究者にして初めて可能なものだというのは審査員の一致した見解であった。

 したがって、本審査委員会は、本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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