学位論文要旨



No 215369
著者(漢字) 遠藤,司
著者(英字)
著者(カナ) エンドウ,ツカサ
標題(和) 重障児の身体と世界 : 現象学に基づく根源的生の解明
標題(洋)
報告番号 215369
報告番号 乙15369
学位授与日 2002.06.05
学位種別 論文博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 第15369号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中田,基昭
 東京大学 助教授 秋田,喜代美
 東京大学 教授 汐見,稔幸
 東京大学 助教授 西平,直
 東京大学 助教授 田中,千穂子
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、重障児と実際に教育的関わりを行うことを通して、彼らの世界を解明することを目的とした、実践的事例研究である。すなわち、筆者との関わりの場面における重障児の姿をもとに、主にフッサールやメルロー=ポンティをはじめとする現象学的思索を導きとして、重障児とより深く関わりをもつための方法を探求し、さらに、彼らの世界をより深く解明するための視点を呈示することが、本論文を通して目指されている。

 第一部では、まず、従来の重障児研究が概観され、これらの諸研究を可能としている根拠に、「発達」という概念があることが見出される。この視点から重障児をとらえるとき、彼らは、われわれと比べて未熟で未発達な存在であり、「課題の集合体」としてしか現れてこない。しかし、重障児が現に生きている世界を解明するという視点から彼らをとらえようとするとき、彼らは自らの世界を充全に生きている存在として現れてくる。ここにおいて、重障児が現に生きている世界の根源的在り方を問うことの重要性が、つまり、「より根源へ」という視点をもった事例研究を行うことの重要性が示される。

 さらに、ビンスワンガー、ミンコフスキーをはじめとする、現象学的精神病理学における諸研究が概観され、それらを通して、われわれの世界と重障児の世界とが関わり合うことによって、互いの世界の根底にある通底性を実感するような関わりのあり方を模索し、われわれにとっての他者であるところの重障児の世界をより深い次元で解明することを試み、同時に彼らの世界の在り方を変える契機を作るために、彼らと実際に関わることをもととした事例研究を遂行することの重要性が示される。

 第二部では、第一部で考察した方法論に沿って、三人の重障児との実際の関わりの場面を通して、彼らの具体的な姿と出会い、彼らの示した諸行動の意味を、根源にまで遡って考察するという、実践的事例研究が遂行される。

 第一の事例研究では、「円板を穴にはめる」という場面において、一人の重障児が示した行動をもとに、彼女がその行動を起こすことができたのはなぜかという視点から、彼女の世界の解明を試みる。この試みの中で、中島昭美の「面の構成」の理論と、フッサールの「キネステーゼ」の理論を導きとすることにより、彼女が、椅子に座り机に向かうとき、目の前の机の面を、自らの行動の根拠としていく過程が見出される。すなわち、彼女が、「円板を穴にはめる」という身体運動を起こすことができたのは、自らの行動の背景にあって諸行動を支えているところの、いわゆる「面」として、彼女の前にある机の面を、自らの世界の内に構成したからなのである。第一の事例研究を遂行した結果、人間の生の根源に「面」が構成されているからこそ、われわれは様々な行動を起こすことができるということが明らかとなる。

 第二の事例研究では、一人の寝たきりの重障児が、体を起こしていく過程に立ち会うこととなる。仰向けで寝たきりの状態であった重障児が、まず筆者の後ろからの支えを使いながら体を起こした姿勢における生を始め、徐々に、前からの支えをも使うようになり、ついには、後ろと前との間に自らの上体を立てた姿勢を生きるようになった過程が、すなわち、「後ろから前へ」体を起こしていく過程が見出される。その結果、「大地と地盤物体」に関するフッサールの現象学的思索を導きとして、「面」という視点がさらに深くとらえ直され、重力のある世界の中で、人間の生を根源的に支える面としての「大地」の存在の意義が見出される。そのうえで、この「大地」の上にある様々なものを、自らの身体を支えるものとして、すなわち、「地盤物体」として使うことによって、「地盤」を構成しながら、体を起こした姿勢における生を営む在り方が見出されることとなる。ここにおいて、本論文では、重障児の世界を解明するための一つの視点として、「大地と地盤」という視点をもつこととなる。

 また、体を起こした姿勢を生きることは、この姿勢における身体のバランスを生きることに他ならないことが示される。つまり、体を起こした姿勢において、「前へ」、あるいは、「後ろへ」という方向を経験しつつ、また、「左へ」、あるいは、「右へ」という方向を経験しつつ、この姿勢におけるバランスを生きるのである。ここから、フッサールやメルロー=ポンティの現象学において思索された、自らの身体を生きることに基づく空間構成論を導きとして、重力のある世界での絶対的な上下の方向をもとにしつつ、自らの身体空間の中で、前後、あるいは左右という方向を構成する起源が見出される。つまり、「空間の構成の起源」を、体を起こした姿勢におけるバランスを生きることに見出すことができるのである。ここにおいて、重障児の世界を解明するための第二の視点として、「空間の構成の起源」という視点をもつこととなる。

 さらに、外界のものを知覚し働きかけること、すなわち、現象的身体を生きることと、自らの姿勢を生きること、すなわち自らの身体図式を生きることとの密接な関係が明らかにされる。ここから、「現象的身体を生きることに基づく世界の構成」に関するメルロー=ポンティの思索を導きとして、外界のものを知覚対象物として構成し、働きかけることと、自らの姿勢を生きることとが密接に関係していることが示される。ここにおいて、重障児の世界を解明するための第三の視点として、「身体図式の構成とものの構成」という視点をもつこととなる。

 この後、第一の、および、第二の事例研究を遂行することによって得られた「大地と地盤」、「空間の構成の起源」、および「身体図式の構成とものの構成」という三つの視点をもとに、今一人の寝たきりの重障児との関わりが行われ、第三の事例研究が遂行される。

 第三の事例研究では、仰向けで寝たきりであった重障児が、前からの支えに全くもたれる状態から体を起こした姿勢における生を始め、徐々に後ろからの支えをも使うようになり、ついには、前と後ろの間に自らの上体を立てた姿勢を生きるようになるという過程を、すなわち、「前から後ろへ」体を起こしていく過程を見ることとなる。このことによって、「大地と地盤」という視魚から重障児の世界の解明を試みようとするとき、体を起こしていく過程の多様性を認めると同時に、それぞれの過程における世界の在り方についても考察することとなる。また、左右の方向の経験の仕方について、体を起こした姿勢におけるバランスを生きる中で方向を構成することだけではなく、自らの身体運動の中で左右の方向を経験することにより、新たな方向を構成することが、空間の構成のあり方として改めて見出される。このことによって、「空間の構成の起源」における方向の構成の問題を、バランスの問題としてだけではなく、身体運動の方向の問題としてもとらえ直すこととなる。さらに、外界のものを知覚対象物として構成し働きかけることと、自らの姿勢を生きることとは、密接に関係しているということが、触覚によるものへの働きかけによって、体を起こした姿勢が新たに構成された場面として見出される。このことによって、「身体図式の構成とものの構成」という視点を、ものの構成の多様性を認めることによって改めてとらえ直すこととなる。第三の事例研究を遂行することによって、第一の、および第二の事例研究で示された、重障児の世界を解明するための三つの視点が改めてとらえ直され、このことによって、重障児との関わりのあり方をより豊かなものとすることができるようになるのである。

 三人の重障児の事例研究を遂行した結果、重障児の世界とわれわれの世界との間にある通底性を実感できることに気づくこととなる。すなわち、重力のある世界に生きるわれわれにとって、「大地」は根源的地盤であり、「大地」に基づいて自らの身体運動や直接的知覚の経験に基づく世界を構成することから、われわれの生が始まるのである。また、われわれの多くが自明のこととして成立させている、いわゆるユークリッド幾何学的空間構成における認識の根拠として、「大地」の上に立ち、体を起こした姿勢におけるバランスを生きるという仕方で身体空間を構成するということが、すなわち、自らの「身体」を生きるということがある。さらに、われわれが現象的身体として生きることは、ものとの関係を生きることに他ならず、また、ものとの関係なくして現象的身体として生きることはできないのであって、この意味で、身体を生きることとものとの関係を生きることとは、双方向的関係にあり、相互に絡み合う両義的関係にあるのである。

 以上、本論文では、「より根源へ」という態度のもとに事例研究を遂行し、フッサールやメルロー=ポンティをはじめとする現象学的思索を導きとして、三人の重障児の世界を解明することを試みた結果、彼らとの関わりのあり方を具体的に示し、彼らの世界を根源にまで遡って解明するための具体的な視点を得ることとなる。さらに、重障児と関わるわれわれの世界の根源的在り方にまで目を向けることができるようになり、人間の世界の根源的在り方を探求することとなるのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、筆者自身による重障児との長期にわたる教育実践に基づき、重障児の身体と世界との密接な関係を現象学的に解明することにより、重障児の世界とわれわれの世界との通底性を探り、重障児が生きている世界を理解し記述したものである。

 第一部では、まず、従来の重障児研究では、重障児の発達が学習課題の設定者の視点からとらえられていたことの問題点が指摘され、重障児がそのつど現に生きている世界をとらえるためには、人間行動の原点へと根源的な問いを向けることの必要性が導き出される。

 そのうえで、現象学的精神病理学における人間理解のための知見に基づき、重障児の世界とわれわれの世界との通底性を解明するためには「直観」に基づく人間理解の方法が必要であることと、この方法を遂行するためには事例研究が必要であるごとが論じられる。

 第二部は、三人の重障児の事例研究によって構成されている。第一の事例研究では、或る重障児が「円板を穴にはめる」という身体運動を起こすようになった過程が詳しく記述される。そのうえで、フッサールの「キネステーゼ」論に基づき、この運動が可能となるための行動の背景として、面が構成されていることが明らかにされる。第二の事例研究では、寝たきりの重障児が体を起こしていく過程に着目し、フッサールに基づき、身体活動を支える面としての「大地」の存在の意義が見出される。また、大地の上にある様々なものを「地盤」として構成することにより、姿勢を保ったり姿勢を変えることが可能となることが、個々の身体運動に即して明らかにされる。そのうえで、重力のある世界で方向を経験することによる「空間の構成の起源」と、メルローポンティの身体論に基づき、外界のものを知覚しそれに働きかけることによる「身体図式の構成とものの構成」過程とが、解明されている。第三の事例研究では、以上の事例研究で明らかにされた「大地と地盤」、「空間の構成の起源」、「身体図式の構成とものの構成」という三つの視点偉、他の重障児との関わりにおいて自明視されてはならず、個々の重障児の活動に即してそのつど新たに吟味し続けることにより、重障児の世界がより豊かに理解可能となることが、いま一人の重障児が体を起こしていく過程に即して具体化されている。第二部は、先行研究や従来の教育実践においては見逃されていた、個々の身体活動を可能にしている行動の背景と生の根源にまで遡り、現象学を駆使してそれらを記述することによって、重障児だけではなく、われわれの身体と世界との密接な関わりをも解明するための視座を開いている。

 以上、本論文は、これまで自明とされていた障害のとらえ方と重障児に対する関わり方の背景にあって、それらを暗黙のうちに支えていた人間の生と世界との関係を、事例に即して解明している。また、筆者自身による事例とその記述が、同時に問いの探究過程となっており、実践の記述とこの記述に基づく現象学的解明の過程は、非常に精緻である。こうしたことから、本論文は、重障児との教育実践の基礎研究にだけではなく、子どもが発達していく時の初期の諸問題にも大きな示唆を与えてくれている優れた研究となっている、と評価された。よって、博士(教育学)の学位を授けるにふさわしいと判断された。

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