学位論文要旨



No 215390
著者(漢字) 郡山,剛
著者(英字)
著者(カナ) コオリヤマ,ツヨシ
標題(和) 魚類脂質の呈味効果に関する研究
標題(洋)
報告番号 215390
報告番号 乙15390
学位授与日 2002.07.08
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15390号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 阿部,宏喜
 東京大学 教授 伏谷,伸宏
 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 教授 渡部,終五
 東京大学 助教授 村上,昌弘
内容要旨 要旨を表示する

 わが国で食用とされる水産物の種類は極めて多くその味も多岐にわたっていることから,水産物の味に関する研究はこれまで盛んに行われてきた。それらの多くは味に特徴のある軟体動物や甲殻類の水溶性呈味成分についてのもので,魚類筋肉の味に関する研究はほとんど見あたらない。その結果,水産物の味はエキス成分の種類とその量的関係により形成されると考えられるようになった。一方,魚類筋肉の味は季節や成長段階のみならず同一魚体でも部位により異なるが,エキス成分の季節や部位による変動はそれほど大きくはなく,エキス成分以外にも味に関与する成分の存在が強く示唆されていた。その一つとして,魚類筋肉の味の評価には「脂がのっていて美味である」という表現があり,脂質が魚類筋肉の味に重要な役割を果していることが考えられる。しかしながら,脂質は単独では無味であることから,テクスチャーには大きな影響をおよぼすものの,味には直接影響を与えない成分として捉えられてきた。ところが近年,電気生理学的研究により,実験動物においては特定の脂肪酸が神経伝達にかかわるレセプターに認識されることが明らかにされてきている。

 このような背景の下,本研究は魚類筋肉の呈味に対する脂質の役割を,ヒトの味覚を用いて明らかにしようとしたものである。魚類の中で同一魚体でも部位ごとの脂質含量の多寡により食味が異なるマグロを研究対象に選び,まずマグロの脂質がマグロエキスの呈味にどの様な影響をおよぼすかを調べた。次いで,魚類脂質はドコサヘキサエン酸(DHA)に代表されるn-3系の高度不飽和脂肪酸に富むことに注目し,マグロの脂質が基本5味にどのような影響をおよぼすかを,物性が類似し,脂肪酸組成を異にする脂質と比較検証した後,DHA含量が任意に異なる脂質を調製して呈味効果の違いを調べたもので,得られた成果の大要は以下の通りである。

 1.マグロエキスにおよぼすマグロ脂質の呈味効果

 インド洋で漁獲後直ちにセミドレスの状態に加工後急速冷凍された重量45kgのメバチマグロから採取した赤身,中トロおよび大トロの一般成分,80%エタノールエキス中の諸成分および脂質組成を詳細に分析した。

 一般成分では,予想通り脂質は大トロ(7.2%)に最も多く,次いで中トロ(6.6%)に多く,赤身(0.5%)には少なかった。水分は逆に赤身に多く(78%),中トロおよび大トロには少なく(70%前後),両成分は相補的関係であった。エキス成分ではいずれの部位もヒスチジンとアンセリンが著量認められ,赤身にアンセリンが,中トロおよび大トロにはヒスチジンが多かった。核酸関連化合物ではいずれの試料でも大部分がイノシン酸であり,鮮度的に良好な試料であった。その他,著量のクレアチン,トリメチルアミンオキシド,乳酸が存在したが,赤身とトロのエキス成分の相違はヒスチジンとアンセリンの量比が顕著に異なることのみであった。脂質組成では赤身ではリン脂質が,中トロおよび大トロではトリアシルグリセロール(TAG)が主成分であり,それらの構成脂肪酸はいずれの筋肉でもDHA,パルミチン酸およびオレイン酸が多かった。

 これら3部位の80%エタノールエキスを官能評価に供したところ,全体的呈味強度および全体の味を100とした時の先味と後味の強さの配分および基本5味の強さの配分には有意水準10%以下でいずれの場合も有意差は認められなかった。しかしながら,中トロエキスに中トロから調製した脂質を水中油型乳化物として加えた脂質添加エキスと無添加エキスの味を比較すると,両者の全体的呈味強度に差は認められなかったものの,中トロ脂質の添加により酸味が低下し(有意水準5%以下),甘味の増加と苦味の減少傾向が認められた(有意水準10%以下)。パターン類似要因の解析から,これらの味の変化に最も寄与した項目は甘味であることが判明した。この結果は刺身として生食した場合にトロは甘味が強く,赤身は酸味が強いことと一致した。以上の結果から,赤身とトロの食味の相違はエキス成分の差によるものではなく,トロに含まれる脂質によるものであることが明らかとなった。

 次に,メバチマグロ脂質の酸味と苦味の抑制効果および甘味の増強効果は他の脂質にもあるのか否かを確かめるために,高純度に精製されたマグロ油,マグロ油と構成脂肪酸や物性の異なる大豆油および豚脂を添加したエキスの味を比較した。その結果,マグロ油添加エキスは他の2種類の脂質より先味が弱く,後味が強い傾向が認められ,マグロ油および大豆油添加エキスは豚脂添加エキスと比較してうま味が強く,脂質の種類によって呈味効果は異なることが示された。また,マグロ油をエキスの0〜30%まで添加した場合,全体的呈味強度は変化しないものの,添加量の増加に伴い後味,甘味,うま味が増加し,先味,酸味,苦味が減少した。すなわち,マグロエキスにおよぼすマグロ油の呈味効果はその含量に依存することが判明した。

 2.基本5味におよぼすマグロ油の呈味効果

 マグロ油の特徴的な呈味効果を明らかにするために,マグロ油と構成脂肪酸組成が異なり,物性が類似している大豆油および高オレインコーン油を甘味,塩味,酸味,苦味あるいはうま味溶液に添加し,その最大呈味強度および最大呈味強度に達する時間を調べた。その結果,脂質の種類によって程度の差はあるものの,酸味と苦味の呈味強度はどの脂質でも一様に低下した。しかしながら,マグロ油は苦味の中でも特異的に硫酸キニーネの苦味を強く抑制することが判明した。一方,うま味の呈味強度に対する脂質の影響は脂質の種類によって異なり,マグロ油はうま味を増強し,大豆油は逆に低下させ,高オレインコーン油はうま味成分の種類によりその作用が異なった。また,いずれの脂質の添加によっても最大呈味強度に達する時間が一様に延長し,常温で液状の脂質は味覚の受容速度を遅らせることが明らかになった。以上の結果から,先に述べたマグロエキスにおよぼすマグロ油の呈味効果のうち,酸味の抑制による甘味の増加および酸味と苦味の減少は常温で液状である脂質に共通する呈味効果であると推測された。また,新たにマグロ油には強い硫酸キニーネの苦味抑制効果とうま味の増強効果があることが明確になった。

 次に,マグロ油,大豆油および高オレインコーン油の構成脂肪酸のうち,それぞれ量的に多く含まれるDHA,イコサペンタエン酸(IPA),リノール酸およびオレイン酸について同様の試験を行い,それぞれの呈味効果を調べた。マグロ油に多く含まれるDHAは硫酸キニーネの苦味を強く抑制すること,DHAとIPAはうま味を増強し,特にDHAはIPAと比べてうま味増強効果が顕著であることが明らかになり,DHAの呈味効果はマグロ油のそれと一致することを確認した。

 3.TAGを構成するDHAの呈味効果

 脂肪酸の添加試験により,マグロ油特有の呈味効果として確認された硫酸キニーネの苦味抑制効果とうま味増強効果はマグロ油に多く含まれるDHAによる可能性が示されたため,TAGを構成するDHAの含量を0〜59%まで変化させた脂質を調製し,DHA含量と呈味効果との関係を官能評価により調べた。

 苦味またはうま味を示す溶液を用いた試験では,DHA含量の増加に伴い苦味抑制効果およびうま味増強効果が直線的に増大し,しかもDHAの結合位置によらないことが判明した。また,複合成分からなる食品モデルとしてマグロ合成エキスを用いた試験では,DHA含量の増加に伴い,うま味増強効果とともに,風味質である味の持続性および厚みの2項目に増強効果が認められた。このDHAを多く含むTAGが有する風味質増強効果の一部はうま味の増強効果より派生するものと考えられ,本効果は天然エキスにおいて確認されたマグロ油特有の呈味効果である後味の増強に対応している。以上の結果から,マグロ油特有の呈味効果はマグロ油にDHAが多いことに起因していると結論づけられた。

 これらマグロ油特有の呈味効果は,今までに報告されている脂質および水中油型乳化物の物性あるいは脂質の酸化程度からは説明できず,エブネル腺から分泌される口腔リパーゼによるTAGの加水分解により生じたDHAが直接味細胞に作用しているのではないかと考えている。

 本研究の結果から,メバチマグロ赤身とトロの味の差はエキス成分の差によるというより,トロに含まれる脂質により後味,甘味およびうま味が増強され,酸味と苦味が抑制されることが明らかになった。また,マグロ油は他の液状油と比較して強く硫酸キニーネの苦味を抑制し,イノシン酸とグルタミン酸ナトリウムのうま味を増強する効果が認められ,これらの効果はDHAの添加試験においても同様であった。さらに,この呈味効果はTAGを構成するDHAの含量に比例して強まること,また呈味物質としてマグロ合成エキスを用いた場合には,うま味のみならず風味質(持続性,厚み)もDHAの含量に比例して増強されることをつきとめた。これらのことから,マグロ油は他の脂質にはない特有の呈味効果を有し,その効果には構成脂肪酸のDHAの果す役割が極めて大きいと結論した。

 以上,本研究は脂質含量に富むトロの食味に対する脂質の役割およびその主要構成脂肪酸であるDHAの役割を,ヒトを用いて初めて明らかにしたもので,これまで経験的にのみいわれていた脂質の味に対する直接的な寄与が初めて明らかにされた。

審査要旨 要旨を表示する

 わが国で食用とされる美味な水産物の味に関する研究はこれまで数多くなされており、数種無脊椎動物については呈味有効成分が明らかにされている。これらはいずれも低分子の水溶性エキス成分であり、その味への寄与については膨大な研究の蓄積がある。しかしながら、魚肉の味に関する研究は少なく、また脂質の呈味効果についてはほとんど研究がなされていない。脂質は単独では無味であり、物性に与える影響のみがこれまで考えられていたが、近年実験動物において特定の脂肪酸が味細胞のレセプターに認識され脱分極を引き起こすことが明らかにされている。本研究は魚肉の味に対する脂質の役割をヒトの味覚を用いて明らかにしたものである。まず、マグロの部位による味の違いがマグロ油によることを明らかにし、脂質が基本五味におよぼす影響を比較検証した後、ドニコサヘキサエン酸(DHA)を含む脂質の呈味効果を明らかにしたものである。

 第一章では、メバチマグロから採取した赤身、中トロおよび大トロの一般成分、エキス成分および脂肪酸組成を詳細に分析し、脂質は大トロ(7.2%)と中トロ(6.6%)に多く、赤身(0.5%)には少ないことを確認した。また、脂質組成では赤身ではリン脂質が、トロではトリアシルグリセロールが主成分であり、構成脂肪酸としてはいずれもDHA含量が高いことを認めている。エキス成分ではいずれの部位でもヒスチジンおよびアンセリン含量が高く、遊離アミノ酸窒素の95%以上を占めるが、赤身にアンセリンが、トロにはヒスチジンが多い以外に、エキス成分組成の部位による差はないことを明らかにした。

 第二章では、充分訓練されたパネルを用いてこれら3部位から抽出したエキスを官能評価に供したところ、呈味強度、後味および先味あるいは基本5味に有意差は認められず、部位による味の差異はエキス成分によるものではないことを確認した。次いで、中トロエキスに中トロから調製した脂質を水中油滴型エマルションとして添加し、脂質の添加による甘味の増加および酸味と苦味の低下を認めた。これらのことから、赤身とトロの食味の相違はトロに含まれる脂質によるものであることが明らかになった。

 第三章では、高純度に精製したマグロ油および構成脂肪酸や物性の異なる大豆油および豚脂を中トロエキスに添加して比較し、マグロ油添加エキスは他の脂質より後味が強く、豚脂添加エキスはうま味が弱いことを確認した。さらに、マグロ油添加量を増加した場合、添加量に比例して後味、甘味およびうま味が増加し、先味、酸味および苦味が低下することを明らかにした。

 第四章では、基本5味を示す溶液にマグロ油および物性が類似している大豆油および高オレインコーン油を添加し、その最大呈味強度および最大呈味強度に達する時間を調べている。その結果、脂質の種類によって程度の差はあるものの、酸味と苦味の呈味強度は一様に低下するが、マグロ油は特異的に硫酸キニーネの苦味を強く抑制し、うま味を増強することが判明した。また、脂質の添加により最大呈味強度に達する時間は一様に延長され、脂質は味覚の受容速度を遅らせることを明らかにした。次に、各脂質を構成する代表的脂肪酸としてDHA、イコサペンタエン酸、リノール酸およびオレイン酸を添加し、DHAは硫酸キニーネの苦味を強く抑制し、うま味を増強することを確認し、マグロ油の添加効果は構成脂肪酸のDHAによることを明確に示した。

 第五章では、DHA量を0〜59%まで変化させたトリアシルグリセロールを調製し、呈味への影響を調べている。苦味またはうま味溶液への添加では、苦味抑制およびうま味増強効果はトリアシルグリセロール中のDHA量に比例することが確認された。マグロ合成エキスに添加した場合には、うま味増強効果とともに持続性や厚みなどの風味質の増強効果も認められた。風味質増強効果は天然エキスにおいて確認された後味の増強に対応している。以上の結果から、マグロ赤身とトロの味の差はトロに含まれる脂質による後味、甘味、うま味の増強および酸味と苦味の抑制に起因することが明らかであり、このマグロ油特有の呈味効果はマグロ油に多いDHAによるものと結論づけている。この呈味効果は脂質および乳化物の物性あるいは脂質酸化物の差異では説明できず、口腔リパーゼによりトリアシルグリセロールから生じたDHAが直接味細胞に作用していることを示唆するものである。

 以上本研究により、マグロのトロの食味に対する脂質および主要構成脂肪酸であるDHAの役割がヒトの味覚を用いて初めて明らかにされ、これまで経験的にいわれていた脂質の味に対する直接的な寄与が確認された。これらの成果は学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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