学位論文要旨



No 215391
著者(漢字) 森田,明
著者(英字)
著者(カナ) モリタ,アキラ
標題(和) 政策年金と農村労働力の移動
標題(洋)
報告番号 215391
報告番号 乙15391
学位授与日 2002.07.08
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15391号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 生源寺,眞一
 東京大学 教授 岩本,純明
 東京大学 教授 八木,宏典
 東京大学 助教授 小田切,徳美
 東京大学 助教授 中嶋,康博
内容要旨 要旨を表示する

 農業者に対する年金は,その水準も,意義付けも,更に年金受給者の環境・考え方も制度成立当初に比べて大きな変化を遂げてきた。給付水準は,当初「こづかい」程度であったが,現在では生活のための重要な所得源となっている。また,成立当初の農業者の家族関係は,濃厚な相互扶助の精神があった。このような変化は,従来の研究においても言及されてきたが,年金制度の複雑さ(複数の年金制度が存立し,しかも制度発足時の経過措置が原則とは別に存在している)によって,制度的変遷やその水準の変遷について明確な論及が行われてこなく,年金の評価も十分ではなかった。しかし,一般の状況においてすら高齢者の割合が人口の1/4を越える超高齢社会を迎えつつある今日,農業者における年金給付の実態を明らかにすることは農家経済と農村社会を考察する上での基礎となる。また,それは,現在の農業者の経済や就業選択行動のみならず,親世代の経済をみて職業選択を行ったその子弟にも大きく関わるものである。

 第2次世界大戦のさなかに誕生した厚生年金に遅れること約15年にして国民年金が誕生した。国民年金の成立に際して,農業は二重構造の底辺部分を構成する産業であり,保険料の負担能力の点で反対の立場をとってきた農業団体も,農業基本法が制定され,基本法農政が開始されると,年金の必要性を訴え,農業者年金の成立をみることとなった。それ以後,専業農家の高齢農業者には,国民年金と農業者年金が給付されることとなった。

 農業者年金の性格は,基本法農政下で成立したこともあり,構造政策の推進と都市勤労者並の年金給付とを目指す「合いの子」の状態であった。しかし,その立法に至る過程をみると,当初は構造政策に重点を置いていた。それは,農業者年金が,基本法農政における初の構造政策立法であったからでもある。リタイアの促進という意味で,一種の離農政策を担うこととされた。60歳から64歳までに経営移譲した者に対して手厚い給付(経営移譲年金)を行うことで,リタイアを促進しようとした。そのような構造政策であったから,経営移譲年金には国の補助が行われた。

 一方,経営移譲のできなかった加入者には,65歳から農業者老齢年金の給付が行われた。農業者老齢年金は,経営移譲年金と同時に受給できた。しかし,早期リタイアを促す構造政策は,1990年の改正によって後退し,年金としての意味を強くしたのである。

 また,農家家計にとっての年金所得の重要性は,年を追う毎に強くなっていった。その背景には,農家の高齢化と年金給付水準の改善とにある。とりわけ,農業高齢者単独世帯にあっては,年金は重要な所得源となった。

 農業者に対する年金の給付水準は,1990年の経営移譲年金をもらっている国民年金の新規裁定者で,年間86万円近く,夫婦の生年が同じであるとすれば,夫婦で155万円近い収入となる。それは,1970年,農業者年金の開始時に,夫婦で5万円弱しか給付されていなかったときとは截然とした差がある。

 このように公的年金の給付水準は,高度成長の終了以後に,劇的に改善される。しかし,同時に,産業構成の変化も進行していた。国民年金の財政は,給付水準の引上げと農業者・自営業者数の減少により,困難に直面することとなった。その結果,これまでの公的年金制度全般が見直され,国民年金は,全国民に年金給付を行う基礎年金として,文字通り「国民」年金となった(1985)。国民年金は,それまでは,夫婦単位で厚生年金と同程度の給付水準に改善が図られてきたが,その考え方は根本的に改められた。こうして,農業者年金は基礎年金に乗る2階の年金として厚生年金と同じ位置付けとなった。しかし,農業者年金も,同じく給付水準の引上げとその加入者の減少による財政的行き詰まりから1990年に給付の根本的な考え方を変えることとなった。

 このように年金が充実してこなければならなかった背景には,日本,特に農村の伝統的家族の持っていた家族構成員間の社会保障システムの変化がある。高度成長によって若年者がその社会保障システムを離れていった。出稼ぎ型の労働力移動とは異なり,戻ることのないこの移動によって,伝統的家族の持つ世代間扶養の概念が大きく崩れてきた。農業者や自営業者を対象とする国民年金の成立当初は,伝統的家族のこの社会保障システムを前提として,低い保険料,ある程度の給付という条件で実施されていたが,それはこの伝統的家族の社会保障システムに一部国の機能を代替してもらっているに等しい。厚生年金では,すべて国が保障するかたち,現在の意味での社会保障であった。農村の高齢化への対応として年金給付の充実が早期に必要になるのはそのような背景があった。

 国民年金の給付水準の改善が,1970年代に入って図られたが,農業者年金も1970年代後半から経過措置として経営移譲年金の給付を開始する。伝統的家族の社会保障システムの形骸化を補完する形で,年金給付が行われたものと考えることができる。

 ところで,農業者年金はしばしば政策年金と呼ばれる。これは,先に説明したように構造政策を担うからであった。我が国にはもう1つ政策年金が存在する。石炭鉱業年金がある。この2つは,同じ時期に似た状況下で仕組まれたものであった。いずれも産業として,終戦直後からしばらくの間,統制と保護が行われ,また,終戦による復員等を吸収した余剰人口を抱える産業であった。石炭産業の場合,その後のエネルギー革命によって,輸入エネルギーである石油に圧倒されてしまい,産業として斜陽化してしまう。産業の立直しが,国の援助の下で行われるが,先行きのなさと高度成長のさなかということもあって,労働者は予想以上に離職してしまい,再建どおりの実績を上げることが困難になった。余剰人員の削減から一転して労働力確保が必要となった。そのために作られたものが,石炭鉱業年金であった。石炭鉱業年金は,石炭鉱業に労働者を惹き付けるために,産業として老後のケアを厚くしたのである。同じく一産業に給付される農業者年金にあっても,明言された目的ではないものの,現役農業者を農業に惹き付ける効果があったことは,石炭鉱業年金の目的からも明確である。

 また,石炭鉱業年金は,その財政状況に応じて,年金の実質的な給付水準を下げている。一方,農業者年金は,物価スライドを導入し,改善されることはあっても下がることはなかった。1990年の法律改正によって,初めて実質的にも給付水準を下げることとなった。しかし,農業者年金の財政改革はそれでは追いつかず,結局,2001年の法律改正で根本的にシステムを変更するに至るわけである。一方,石炭鉱業年金の給付は,1967年に成立したスキームを基本的には維持しつつ実施されている。

審査要旨 要旨を表示する

 農業者年金制度は、かつては家族と農村社会が担っていた社会保障機能の政府による部分代替という側面と、農業の世代交代の促進と農地の担い手に対する集積にインセンティブを付与する政策年金としての側面をあわせ持つ。将来の年金給付額は農業者の期待生涯所得水準を左右し、このことが労働力の農業就業行動にも影響を与える。他方で、世代交代の促進が所期の目的を達するならば、これも農業の労働力構成を規定する重要なファクターとして作用する。本研究は、政策年金としての農業者年金の機能を、主として農村労働力の構成と移動の観点から詳細かつ定量的に吟味したものである。加えて本研究は、石炭鉱業年金をはじめとする他の公的年金との比較制度分析を通じて、農業者年金の社会保障史上の意義と限界を明らかにしている。

 論文は、結論の要約である終章を含め、全7章からなる。第1章では、本研究の課題に比較制度論の方法で取り組んだことが簡潔に提示される。また、年金をめぐる制度史や農業者年金の機能に関する既往の研究がレビューされ、本研究に関係の深い先行研究として、農家主体均衡諭による計量経済分析に注目すべきことが述べられる。

 第2章では、家族制度や共同体と社会保障制度の関係を整理し、公的年金制度が家族や共同体の保障機能の低下を補うかたちで発達してきたことが指摘される。とくにわが国農村においては、1950年代半ばに始まる高度経済成長期の若年労働力の流出が、家族の保障機能の低下を加速し、これが農業者年金制度やその前史である国民年金制度の成立の背景となった。このように農家子弟の就業行動は年金制度の必要性を高めたが、同時に、彼らの就業行動には生涯所得の産業間格差に敏感に反応する傾向が強まっている。申請者はこの点について、男子若年後継者の就業選択の理論的境界値としての生涯所得を推計し、境界値の就業行動説明力の傾向的な上昇を検証した。すなわち、生涯所得の期待値を上昇させる点で、年金制度は若年層の農業への就業を促す効果を有している。

 第3章は、国民年金・農業者年金・厚生年金の3つの制度を取り上げ、制度の前史からさまざまな改正を経て現在に至る経緯とその背景について、一次資料にもとづく詳細な比較分析を試みている。この分析作業によって、農林年金の厚生年金からの独立が国民年金成立にとって決定的なインパクトであったこと、脱退手当金が戦時の臨時的な徴用に淵源を持つわが国特有の仕組みであったことなど、年金制度史としても興味深いファインディングスが提示されている。また、3つの年金の給付条件をめぐる改正が丹念にトレースされたことにより、年齢別・加入期間別に期待給付水準を推定し、制度間でこれを比較することが可能になった。

 第4章では、農家家計における年金の経済的重要度が評価されている。まず第3章で整備された手順に従いながら、また、年金の検認率などから拠出状況を把握したうえで、農業者年金の給付額が推定される。これを農家経済調査の時系列データと比較することによって、つぎの結果が得られている。すなわち、1970年を境として高齢農家の所得に占める年金のシェアが急上昇し、現在では3割の水準に達していること、同じ高齢者世帯であっても、老人・婦女子のみの世帯では国民年金・農業者年金の受給者が多く、農業を引き続き営みながら高齢化したケースが多いこと、農業専従者なしの世帯では前職が雇用者であり、農業者年金非受給農業者のケースが多いことなどである。

 第5章では、特定の産業を対象とする点で共通する農業者年金と石炭鉱業年金の比較分析が行われる。その後の産業の衰微からはやや意外であるが、石炭鉱業年金も農業者年金と同様に、良質の労働力を確保するインセンティブ・スキームとして発足したことが確認される。結果的にこうした政策目的は実現されず、実質タームの給付水準も物価上昇のなかで減額され続けたが、これは制度がもっぱら企業拠出によって支えられていた点に起因する。申請者はこのことが、財政問題から破綻に至った農業者年金とは対照的に、制度としての自立性を保つ効果を有した面を評価する。

 第6章では、戦後の農村過剰人口に関する当時の学説を通観するとともに、今日の労働経済学の到達水準からそれらの再評価を行っている。そのうえで、とくに農工間の労働力移動を自己選抜モデルによって統一的に把握することが提案される。本章は、学説史的なアプローチを通じて、年金を含む生涯所得と農家世帯員の就業行動の関係に着目した本研究の着眼を補強するものである。

 以上を要するに、本論文は社会保障の一環であり、構造政策の誘因措置でもある農業者年金制度を中心に、労働力移動に与えるインパクトの観点から考察したものである。本論文の特徴は、複雑な諸要因から決定される給付水準を統一した手法で推計し、これに基づく定量的な分析に依拠して、制度の機能を評価した点にある。申請者による給付水準推計をベースとする分析手法は、農業・農村のみならず、他の産業分野の社会保障制度にも応用可能である。この意味において、本論文は今後の研究展開に重要な礎石を築いており、学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって、審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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