学位論文要旨



No 215394
著者(漢字) 原田,直幹
著者(英字)
著者(カナ) ハラダ,ナオモト
標題(和) β-カテニン遺伝子変異の導入によるマウス発癌機構の解析
標題(洋)
報告番号 215394
報告番号 乙15394
学位授与日 2002.07.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第15394号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 堅田,利明
 東京大学 教授 関水,和久
 東京大学 教授 入村,達郎
 東京大学 教授 岩坪,威
 東京大学 助教授 仁科,博史
内容要旨 要旨を表示する

 近年大腸癌・肝細胞癌・メラノーマなどのヒトの多くの癌でβ-カテニンの変異が報告されている。β-カテニンはE-カドヘリンと結合する分子として同定され、細胞接着や細胞間相互作用に重要な働きをしていると考えられていたが、最近Wntシグナル系においても中心的な役割を果たし、細胞の増殖・分化にも関与していることが明らかになっている。Wntシグナル系におけるβ-カテニンの機能については現在次のようなモデルが提唱されている(Fig.1)。定常状態ではβ-カテニンのN-末端に存在するセリン・スレオニン残基はGSK-3βによりリン酸化され、APCやAXIN等と複合体を形成し、ユビキチン化されることによりプロテオソームで分解され、細胞内のβ-カテニンの量は一定に保たれている。Wntシグナルが活性化されるとGSK-3βによるリン酸化が抑制されるためβ-カテニンの分解も抑制される。安定化したβ-カテニンは核内に移行後、TCF/LEFとともに転写因子として働き、c-myc、cyclin-D1などの遺伝子発現を活性化することにより細胞の分化・増殖を引き起こす。β-catenin、Apc、Axin等が変異した場合もβ-カテニンが安定化し、同様のメカニズムで癌化を引き起こすと考えられているが、in vivoにおいてβ-カテニンの変異が癌化を引き起こすことは未だ直接証明されていない。そこで我々は遺伝子ターゲッティングの手法を用いて、ヒトの癌で見つかった変異と同等のβ-カテニン変異を組織特異的に導入できるようなコンディショナル・ノックアウトマウスを作製し、腸管および肝臓におけるβ-カテニン変異の発癌過程における意義を解析した。

1.β-catenin lox(ex3)マウスの作製

 マウスβ-カテニンのGSK-3βによるリン酸化領域をコードする第3エクソンとPGK-neo-bpAカセットが、2つのloxP配列で挟まれた構造を持つターゲッティングベクターを作製した(Fig.2)。ターゲットされたアレルからは正常なβ-カテニンmRNAが発現するが、Cre存在下では2ケ所のloxP配列間で組み換えが起こり、第3エクソンとPGK-neo-bpAカセットが切り出される。このアレルからは第3エクソンを含まない変異mRNAが発現するが、コーディング・フレームは一致しているのでN末端の76アミノ酸が欠失した変異β-カテニン蛋白質が発現する。このターゲッティングベクターを用いて相同組み換え体ES細胞を樹立した。相同組み換え体ES細胞のマウス胚盤胞へのインジェクションにより、ホモ・ノックアウトマウスは正常に生まれ、腫瘍の発生などの異常は見られなかった。

2.腸管へのβ-カテニン変異の導入および解析

 腸管でCreを発現させる為に、Ck19-creノックインマウスおよびFabpl-creトランスジェニックマウスを作製し(Fig.3)、β-cateninlox(ex3)マウスとの交配によりβ-catenin lox(ex3):Ck19cre/+およびβ-catenin lox(ex3):Fabpl-cre二重変異マウスを作製した。これらの二重変異マウスをそれぞれ7週齢および4週齢で調べたところ、腸管に多数のポリープが発生していることが確認された(Fig.4)。PCR法およびウェスタン・ブロット法を用いてβ-カテニン変異の有無を調べたところ、ポリープでのみ変異が検出され、周辺の正常部分では変異は検出されなかった。以上の結果から腸管におけるβ-カテニンの変異がポリープ発生の原因と考えられた。

 H&E染色による組織学的な観察から、β-カテニン変異により発生したポリープは、APCΔ716変異マウスに発生するポリープと極めて類似してることが明らかとなった(Fig.5a)。さらに、免疫染色により腫瘍細胞においてβ-カテニンの核移行が認められること、間質細胞においてCOX-2の発現が認められることなどから(Fig.5b、c)、β-カテニン変異マウスに発生したポリープは、発生原因は異なるが、APC変異マウスのポリープと同等の性質を有すると考えられた。初期のポリープでは正常な絨毛上皮細胞の中に、異常な核をもち、PCNA抗体で免疫染色される細胞が数カ所に見られた。さらにβ-カテニンの免疫染色では核の染色は見られるないが、正常上皮細胞で見られるような細胞膜の染色も失われていた(Fig.5d)。これらの結果から、ポリープの発生初期では細胞膜におけるβ-カテニンの局在が失われ、その後ポリープの成長とともにβ-カテニンの核への局在が起こることが示唆された。

 β-cateninlox(ex3):Ck19cre/+二重変異マウスの大腸でβ-カテニン変異が検出されるため、さらに詳細に観察したところ数個のマイクロアデノーマが発生していることが明らかとなった。しかしながら、APC変異マウスと異なり4ヶ月以上経過しても大腸ポリープは発生しないことから、大腸においては小腸と異なり、マイクロアデノーマからポリープへの成長にはβ-カテニン経路以外の何らかのシグナルが関与している可能性が示唆された。

3.肝臓へのβ-カテニン変異の導入および解析

 β-cateninlox(ex3):Fabpl-cre二重変異マウスは生後3週から体重が減少し、生後4-5週の間に死亡する。PCR法およびウェスタン・ブロット法を用いてβ-カテニン変異を調べたところ、腸管以外に肝臓でも高頻度の変異が検出され、H&E染色により肝細胞に顕著な空胞変性が見られた。

 時期および肝臓特異的にβ-カテニン変異を導入する為に、7週齢のβ-catenin lox(ex3)マウスの尾静脈から109pfuのAdCMV-creを感染させた。感染後12日から18日の間に大部分のマウスが死亡し、これらのマウスで2-3倍の肝重量の増加が見られた(Fig.6a-c)。

 β-カテニン変異の有無をPCR法およびウェスタン・ブロット法を用いて調べたところ、感染5日後で既にβ-カテニンの変異が導入されていることが明らかとなった。

 肝臓をH&E染色により組織学的に解析したところ、腫瘍性の病変ではなく肝肥大であることが明らかとなった。さらに興味深いことに、β-catenin lox(ex3):Fabpl-cre二重変異マウス同様、肝細胞の空胞変性が観察された。電子顕微鏡による解析の結果、これらの空胞は膨化したミトコンドリアであることが明らかとなった(Fig.6d)。感染5日後の肝臓では空胞変性は見られないが、β-カテニンの免疫染色によりβ-カテニンの核移行が観察されることから、β-カテニン変異による核へのシグナル伝達の結果、ミトコンドリアの膨化が引き起こされることが示唆された。

 肝臓におけるβ-カテニン変異の影響を長期間調べるために、7週齢のβ-cateninlox(ex3) マウスに108pfuのAdCMV-creを尾静脈から感染させたところ、感染3日後および6ヶ月後の肝臓において、PCR法でのみ検出できる程度の低頻度のβ-カテニン変異が検出された(Fig.7)。さらに感染6ヶ月後の肝臓においてβ-カテニンの核移行を示す肝細胞が認められたが、これらの肝細胞で過増殖や腫瘍性の病変などの異常は認められなかった(Fig.8)。以上の結果から、肝細胞におけるβ-カテニン変異は肝発癌には不十分で、他の遺伝子変異が必要であることが示唆された。

【結論】

 遺伝子ターゲッティングの手法を用いて、コンディショナルにβ-カテニンを安定化する変異を導入することが可能な遺伝子改変マウスを作製した。腸管でCreを発現するトランスジェニックマウスとの交配により、腸上皮細胞におけるβ-カテニン変異が良性腫瘍ポリープを発生させることを明らかにした。この結果は、Wntシグナル系が関与する腸管の発癌過程においては、β-カテニンの安定化による核移行が重要であることをin vivoで直接証明したものと考えている。

 さらに、アデノウィルスベクターを用いて肝臓特異的にβ-カテニン変異を高頻度で導入すると、肝細胞ミトコンドリアの膨化を伴う肝肥大の発症が認められること、さらに低頻度の変異の導入により長期間の影響を調べた結果、β-カテニン変異のみでは肝発癌には不十分であることが明らかとなった。

 β-カテニンの変異は大腸癌・肝癌以外にも多くの癌で見つかっており、本マウスはWntシグナル系が関与する発癌機構の解明に重要なツールとなるばかりでなく、抗癌剤の開発に不可欠な種々の発癌モデルマウスの作製においても有用であると確信している。

Fig.1 Wntシグナル系におけるβ-カテニンの役割

Fig.2 ターゲッティングベクターの作製

Fig.3 腸管におけるCre発現マウスの作製

腸管でCreを発現させる為に、Ck(Cytokeratin)19-creノックインマウス(a)およびFabpl(liver fatty acid binding protein)-creトランスジェニックマウス(b)をそれぞれ作製した。

Fig.4 二重変異マウスに発生した小腸ポリープ

a. β-catenin lox(ex3):Ck19cre二重変異マウス(7週齢)

b. β-catenin lox(ex3):Fabpl-cre1二重変異マウス(4週齢)

Fig.5 ポリープの組織学的解析

a. β-catenin lox(ex3):Fabpl-cre5二重変異マウス(4週齢)のポリープのH&E染色像。

b. ポリープのβ-カテニン免疫染色。

c. ポリープのCOX-2の免疫染色。

d. 初期ポリープのβ-カテニン免疫染色。

Fig.6 AdCMV-cre感染β-catenin lox(ex3)マウスにおける肝肥大

a. β-catenin lox(ex3)マウスおよびC57BL/6Nマウスに109pfuのAdCMV-creを尾静注し、生存率を調べた。

b. 感染18日後に生き残った野生型(左)およびβ-catenin lox(ex3)マウス(右)の肝臓。

c.野生型(左)およびβ-catenin lox(ex3)マウス(右)の肝重量(n=4、p<0.001)

d. 109pfu AdCMV-cre感染18日後のβ-catenin lox(ex3)マウスの肝細胞の電子顕微鏡写真。

Fig.7 低頻度のβ-カテニン変異導入

108pfu AdCMV-cre感染6ヶ月後のβ-catenin lox(ex3)マウスの肝臓のβ-カテニン変異をPCR法で調べた。

Fig.8 肝細胞におけるβ-カテニンの核移行

109pfu AdCMV-cre感染6ヶ月後の野生型(左)およびβ-catenin lox(ex3)マウス(右)の肝臓のβ-カテニンの免疫染色。

審査要旨 要旨を表示する

 Wntシグナル系において中心的な役割を果たすβ-カテニンは、大腸癌・肝細胞癌・メラノーマなどのヒトの多くの癌において、グリコーゲン合成酵素のキナーゼであるGSK-3βによってリン酸化される領域の変異が数多く報告されている。アフリカツメガエルやショウジョウバエを用いた研究から、これらの遺伝子変異はリン酸化の阻害によってβ-カテニンが安定化され、核へ移行して転写因子として働くことによりWntシグナル系を活性化することが示されているものの、in vivoでの発癌過程における役割については未だ明らかにされていない。「β-カテニン遺伝子変異の導入によるマウス発癌機構の解析」と題する本論文においては、β-カテニンの変異をコンディショナルに導入することが可能な遺伝子改変マウスを作製し、腸管および肝臓の発癌過程におけるβ-カテニン変異の意義について個体レベルで解析している。

1.腸管におけるβ-カテニン変異の導入とその解析

 本論文では、先ず遺伝子ターゲッティングの手法とCre/loxPシステムを組み合わせることにより、β-カテニン変異をコンディショナルに導入することが可能なマウスを作製し、腸管でCreを発現する2系統のトランスジェニックマウスと交配すると、それぞれの二重変異マウスの腸管上皮細胞にβ-カテニン変異が導入され、実際に小腸に良性腫瘍ポリープが発症することを明らかにしている。

 さらに組織学的な解析から、ポリープの発生初期では、腸管上皮の細胞膜におけるβ-カテニンの局在が失われ、ポリープの成長と共に核への局在が認められるようになり、最終的にApc変異により発症する腸ポリープと同等の性質を獲得することを示している。これらの結果は、Apc変異によるポリープ発症にはβ-カテニンを介した核へのシグナルのみで十分であり、β-カテニン変異は腸管における初期発癌過程において重要な役割を果たすことを明らかにしている。一方、大腸においてはβ-カテニン変異によりマイクロアデノーマは発生するが、ポリープの発症は見られないことが示され、β-カテニン経路以外のシグナルの関与が示唆された。

2.肝臓におけるβ-カテニン変異の導入とその解析

 肝臓でCreを発現するトランスジェニックマウスとの交配により、肝臓にβ-カテニン変異を導入すると、ミトコンドリアの膨化による肝細胞の空包変性を引き起こすことが示された。さらに、Cre発現アデノウィルスベクターを用いた肝臓への高頻度のβ-カテニン変異の導入実験においても、肝細胞におけるβ-カテニン変異がミトコンドリアの膨化を伴う肝肥大を引き起こすことが示された。これらの結果とα-カテニン結合ドメインを欠失した変異β-カテニンを用いた研究結果との比較から、β-カテニン変異によるミトコンドリアの膨化には、E-カドヘリンを介した細胞間接着シグナルが関与していることが示唆された。

 さらに、アデノウィルスベクターを用いた肝臓への低頻度のβ-カテニン変異の導入実験により、β-カテニン変異の影響を長期的に解析することを可能にした。その結果、変異が導入された肝細胞はβ-カテニンの核移行が認められるにもかかわらず、過増殖や癌化などの異常は見られないことが示された。以上の結果から、腸管とは異なり、肝発癌にはβ-カテニンの変異のみでは不十分で、他の何らかの遺伝子変異が必要であることが示唆された。

 以上を要するに本論文は、ヒトの癌で見られるβ-カテニンの変異が核移行の促進からWntシグナル系を活性化し、腸管においては良性腫瘍ポリープを発症させ、発癌過程において重要な役割を果たしているが、肝臓においては発癌には不十分であり他の遺伝子変異が必要であることをin vivoで直接証明している。これらの結果は、β-カテニン変異による発癌感受性が、組織によって大きく異なることを初めて明らかにしたものである。本論文の研究成果は、マウス発癌過程におけるβ-カテニン変異の役割を明らかにしただけでなく、Wntシグナル系が関与する発癌機構の解明に重要なツールを提供しており、抗癌剤の開発に不可欠な種々の発癌モデルマウス作出の可能性を開くものである。よって本論文は、博士(薬学)の学位論文として十分な価値があるものと思われる。

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