学位論文要旨



No 215400
著者(漢字) 武藤,香織
著者(英字)
著者(カナ) ムトウ,カオリ
標題(和) 先端医療技術が日本の遺伝病患者・家族の生活に及ぼす影響について : 家族性アミロイドポリニューロパチー(FAP)を対象に
標題(洋)
報告番号 215400
報告番号 乙15400
学位授与日 2002.07.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 第15400号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 徳永,勝士
 東京大学 助教授 山崎,喜比古
 東京大学 助教授 土屋,尚之
 東京大学 助教授 萱間,真美
 東京大学 講師 河,正子
内容要旨 要旨を表示する

目的:晩発性の遺伝性神経難病である家族性アミロイドポリニューロパチー(FAP)の患者と家族が療養生活のなかで抱える問題点を明らかにし、特に遺伝子診断ならびに肝臓移植がもたらした影響を模索することを目的とする。

方法:熊本県Q市に在住する、FAP患者とその家族、ならびに医療・福祉関係者を対象として、in-depth interviewを行った。また、郷土資料やマスコミ報道資料、個人的なメモや手紙などの記録類なども参照した。

対象者:患者会である「道しるべの会」と熊本大学第一内科の協力を得て、臓器移植を受けていないFAP患者10名(男性6名、女性4名)、臓器移植を受けたFAP患者7名(男性3名、女性4名)、遺族兼介護者6名(男性1名、女性5名)、発症可能性のある者4名(男性1名、女性3名)、医師6名(男性)に対する聞き取りを行った。また、調査者が個人的に依頼して、看護職6名(女性)、福祉職4名(男性)、医療福祉事務関係者2名(男性)、地方マスコミ関係者5名(男性3名、女性2名)に対する聞き取りも実施した。

サンプリングの限界点:「道しるべの会」の事務局を経由して依頼し、サンプリングは事務局に一任したことから、会員でない患者・家族からの聞き取りはできず、考えを言語化できるタイプの対象者に偏っている。しかし、表に出てくるのを拒んでいる対象者を探して協力を依頼するのは倫理的ではないと考え、このような方法に頼らざるを得なかった。

結果:

(1)患者の療養生活について

 患者の多くは、月に1度か2度のぺースで外来を訪れている。待ち時間が苦痛とならないように、患者会の事務局長である志多田氏が訪れ、待合室での意思疎通から患者の様子を把握し、互いの交流を深めるように努力している。外来診療のほか、志多田氏は患者と医師への連絡や折衝の代行、薬の受け取り、家事援助、育児援助、身上・生活の相談、血液提供ボランティアのとりまとめ、などに加え、病状の判断なども担っている。実質上、これらの行為は志多田氏一人による、まったくの私的厚意に基づくものであり、無償で行われている。患者側にとっても医師側にとっても、志多田氏はなくてはならない存在になっている。

 そのことに深く関わっているのは、この地域で、古くから風土病や特定家系へのたたりとして、FAPが語り継がれてきた歴史があることだ。FAPの公式報告が行われる以前には、地域名や家系名を冠した病名が戦後には確認されている。そのため、ほぼ50代以上の世代には、結婚忌避を中心とした差別に苦しんだ経験があり、そのことが当事者団体の結成を疎外してきた経緯がある。また、20代までには差別的な病名の知名度があり、親から子どもへと受け継がれていることがわかる。また、結婚差別のほかに、生命保険加入の謝絶なども始まっている。

 結婚忌避への恐怖は、訪問を中心としたサービスの受け入れも阻んできた可能性があり、定期的な専門外来訪問以外には、家族介護と志多田氏の支援に頼っている。居宅生活支援事業の利用実績はなかった。 遺伝性難病であるFAPをどのように知らされたのかということについては、(1)予め家族からはっきりとした説明を受けたケース、(2)家族からそれとなく伝えられたケース、(3)家族の発病が契機となったケース、(4)自分の発病で初めて病気を認識したケース等がある。さらに、実際に自分の家系にFAPが存在することや自分自身がFAPになる可能性があることを知った経緯としては、(1)〜(4)に加えて、(5)医師から直接インフォームド・コンセントを受けたケースや(6)マスコミ報道を通じて明らかになったケースが見受けられた。

(2)原因遺伝子の発見とDNA診断確立のもたらした影響 1970年代から80年代にかけて、FAP研究が盛んに行われているが、その記憶をもつ当事者には共通して血液検査に参加した記憶があった。大規模な家系調査の過程で、発症していない者からの採血で発症可能性を探る検査が行われていたにも関わらず、研究に協力した当事者には理由が説明されていなかった。また、被験者のとりまとめを依頼されていた志多田氏には、採血に訪れる医師の態度や姿勢に対して気分を害する経験が強かった。

 1984年に遺伝子診断が可能になって以降、FAP専門医がいる熊本大学では確定診断でのDNA解析が標準化されたが、発症前診断については長いこと議論をされることもなく、封印されてきた。しかし、肝臓移植を通じて症状を抑制する可能性が高くなってきたことから、1990年代よりガイドラインを設けて実施されるようになってきた。しかし、遺伝カウンセリングの体制は整っておらず、採血や検査結果告知前後のフォローアップを志多田氏が全く個人的な厚意の範囲で引き受けている。

 FAPの遺伝子診断は、単に治療の難しい病気の発症可能性を知るというだけでなく、生体肝移植のドナー検索にも使われていた。

 また、志多田氏や地元の開業医などの間では、FAPを撲滅させるために出生前診断を推進しようとした歴史があるが、現在までは行われていない。

(3)肝臓移植がもたらした影響

  FAPの肝臓移植は、1994年に可能となり、当初は渡航移植が中心であった。そのため、治療法がないという点で支えあっていた患者の間に貧富の差をめぐる格差が生じるようになり、 「道しるべの会」の組織化に影響を与えた。さらに、肝臓移植は、早期の患者にしか実施できないため、中期から後期の患者との間に溝を生むことにもなった。それゆえ、移植患者にとっての「道しるべの会」はそれほど居心地がよい場所となりえず、移植患者のアイデンティティの変化も「FAP患者」ではなく、「移植患者」でありたいとの傾向が顕著であった。そのため、臓器移植そのものは患者の連帯を深める結果には至っていない。

 その後、肝臓移植という治療オプションが浸透するに連れ、遺伝予診断の実施が促進されることになった。1999年から熊本大学でも生体肝移植が実施されるようになったが、先行して実績のある信州大学に遅れをとらないために、国内発のドミノ移植に取り組もうとした結果、マスコミ報道などで病名が広く知られるところとなり、その報道内容から患者や家族に対する衝撃を与えることになった。さらに、複数の大学でドミノ移植の取り組みが進んだが、患者や家族からみれば移植が進むことによって、根本的な治療法が開発されないのではないかという不安が広がる結果となった。同時に、第二の患者の選定方法などでも禍根を残した。

 以上のように肝臓移植への受け止め方は複雑であり、移植がスムーズにできる社会ではなく、その他の根治療法を求める声が、移植患者からも移植を受けていない患者からも強まっている。

考察および提言:

(1)患者の療養生活について

 難病の福祉施策として平成9年から始まった居宅生活支援事業(ホームヘルプ、ショートステイ、日常生活用具給付、難病ホームヘルパー研修事業)だが、熊本県全体でも事業化している地域はQ市1市のみである。にもかかわらず、平成9年度から12年度まで利用実績は全くないことから、事業内容の見直しが必要である。Q市のFAP患者には、この事業の該当者が多いが、外部に病気を知られたくないという事情と、志多田氏がそれを肩代わりしてきたという事情から、二ーズがないように見えてきただけの可能性がある。

 また、保健・医療。福祉の連携が進めば進むほど、個人情報が多くのケア関係者に共有されていくことになる。Q市のFAPの歴史からは、遺伝子情報を含めた病気に関する情報が外部に漏洩することがないように、個人情報の保護を大前提とした上で当事者の信頼を得ていくことが大切である。

(2)遺伝カウンセラーと移植コーディネーターの養成と配置について

 志多田氏が担ってきた役割の多くには専門の職種が存在するが、そのなかでも特に養成や配置が遅れ、対応が急がれるのが遺伝カウンセラーや移植コーディネーターの役割である。自分が陽性であること、家系内に臓器提供候補者がいないこと、渡航移植も断念することなどを知った状態の患者へのフォローアップが大切であり、同時に「知りたくない権利」も保障するべきである。医師一人で対応する事態を避けるべきではないか。

(3)遺伝子解析研究と遺伝子情報の商業利用の規制について

 研究を目的としたDNA解析を行う場合、研究目的であるとの明確な説明と同意のない採血は、今日ではもはや認められない。FAPの研究史のなかで過去そうした事例があったことを考えると、ヒト遺伝子研究において、研究目的の標本採取や遺伝子情報の収集が倫理的に実施されるようにするためにどのような条件が必要になるのか、改めて明確にする必要がある。

 また、遺伝子情報が治療や研究の枠組みから外に出て、商業利用される場合の規制を本格的に検討しなければならないだろう。Q市の結婚忌避の歴史を考慮すると、生命保険での差別が生じているヨーロッパや医療保険や雇用の問題が起こっているアメリカとは異なり、結婚に際して遺伝子情報が何らかの判断材料として利用されうる可能性、そしてこれに荷担する業者が出てくる可能性もある。

(4)肝臓移植について

 生体ドミノ肝移植については、FAP患者の肝臓を受取る第二の患者の選定方法について、一定のルールが必要ではないだろうか。日本臓器移植ネットワークの登録患者にするのか、あるいは九州大学のように学内の審査委員会で決定するか、という点である。

 また、脳死肝移植については、FAPの「緊急度」の、点数の問題が挙げられる。同じ疾患でありながら、地域によってみられる症状の違いのために、機会の不平等が起こりかねない。臓器移植法の施行三年後の見直しにあわせて、改善が望まれる。以上

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、日本の遺伝病の当事者に対してもたらされた医療技術による影響と課題を明らかにするため、家族性アミロイドポリニューロパチー(FAP)という疾患を対象にして熊本県にて聞き取り調査や資料調査を行ったものであり、以下の結果を得ている。

1.患者の療養生活への支援について

 FAP患者は、四肢の感覚障害や下痢、起立性低血圧などによって自立生活が困難になっている。長期にわたって進行する病状を抱える患者の療養生活を全面的に支援しているのは、きょうだいを亡くした当事者で、患者会の事務局長である志多田氏であった。外来診療のほか、志多田氏は患者と医師への連絡や折衝の代行、薬の受け取り、家事援助、育児援助、身上・生活の相談、血液提供ボランティアのとりまとめ、などに加え、病状の判断なども担っている。実質上、これらの行為は志多田氏一人による、まったくの私的厚意に基づくものであり、無償で行われている。患者側にとっても医師側にとっても、志多田氏はなくてはならない存在になっている。そのことに深く関わっているのは、この地域で、古くから風土病や特定家系へのたたりとして、FAPが語り継がれてきた歴史があることだ。FAPの公式報告が行われる以前には、地域名や家系名を冠した病名が戦後には確認されている。そのため、ほぼ50代以上の世代には、結婚忌避を中心とした差別に苦しんだ経験があり、そのことが当事者団体の結成を疎外してきた経緯がある。また、20代までには差別的な病名の知名度があり、親から子どもへと受け継がれていることがわかる。また、結婚差別のほかに、生命保険加入の謝絶なども始まっている。

2.原因遺伝子の発見とDNA診断確立のもたらした影響

 1970年代から80年代にかけて、FAP研究が盛んに行われているが、その記憶をもつ当事者には共通して血液検査に参加した記憶があった。大規模な家系調査の過程で、発症していない者からの採血で発症可能性を探る検査が行われていたにも関わらず、研究に協力した当事者には理由が説明されていなかった。また、被験者のとりまとめを依頼されていた志多田氏には、採血に訪れる医師の態度や姿勢に対して気分を害する経験が強かった。

 1984年に遺伝子診断が可能になって以降、FAP専門医がいる熊本大学では確定診断でのDNA解析が標準化されたが、発症前診断については長いこと議論をされることもなく、封印されてきた。しかし、肝臓移植を通じて症状を抑制する可能性が高くなってきたことから、1990年代よりガイドラインを設けて実施されるようになってきた。しかし、遺伝カウンセリングの体制は整っておらず、採血や検査結果告知前後のフォローアップを志多田氏が全く個人的な厚意の範囲で引き受けている。

 FAPの遺伝子診断は、単に治療の難しい病気の発症可能性を知るというだけでなく、生体肝移植のドナー検索にも使われていた。

 また、志多田氏や地元の開業医などの間では、FAPを撲滅させるために出生前診断を推進しようとした歴史があるが、現在までは行われていない。

3.肝臓移植がもたらした影響

 FAPの肝臓移植は、1994年に可能となり、当初は渡航移植が中心であった。そのため、治療法がないという点で支えあっていた患者の間に貧富の差をめぐる格差が生じるようになり、「道しるべの会」の組織化に影響を与えた。さらに、肝臓移植は、早期の患者にしか実施できないため、中期から後期の患者との間に溝を生むことにもなった。それゆえ、移植患者にとっての「道しるべの会」はそれほど居心地がよい場所となりえず、移植患者のアイデンティティの変化も「FAP患者」ではなく、「移植患者」でありたいとの傾向が顕著であった。そのため、臓器移植そのものは患者の連帯を深める結果には至っていない。

 その後、肝臓移植という治療オプションが浸透するに連れ、遺伝子診断の実施が促進されることになった。1999年から熊本大学でも生体肝移植が実施されるようになったが、先行して実績のある信州大学に遅れをとらないために、国内発のドミノ移植に取り組もうとした結果、マスコミ報道などで病名が広く知られるところとなり、その報道内容から患者や家族に対する衝撃を与えることになった。さらに、複数の大学でドミノ移植の取り組みが進んだが、患者や家族からみれば移植が進むことによって、根本的な治療法が開発されないのではないかという不安が広がる結果となった。同時に、第二の患者の選定方法などでも禍根を残した。

 以上、本論文は、先端医療技術の社会的な側面に着目して、FAPの患者と家族にとって遺伝子診断や肝臓移植がもたらした影響と課題を検討したものである。本研究はこれまで明らかにされてこなかった、日本の遺伝病当事者の現状を考察していることから、今後日本における遺伝病当事者へのサポートや遺伝子情報の保護施策形成の研究への先鞭をつけた意義は大きく、学位の授与に値するものと考えられる。

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