学位論文要旨



No 215409
著者(漢字) 山下,仁
著者(英字)
著者(カナ) ヤマシタ,ヒトシ
標題(和) 鍼治療の安全性情報確立のための臨床研究 : 有害事象の前向き調査
標題(洋) CLINICAL STUDY FOR ESTABLISHMENT OF SAFETY INFORMATION ON ACUPUNCTURE : PROSPECTIVE SURVEYS ON ADVERSE EVENTS
報告番号 215409
報告番号 乙15409
学位授与日 2002.09.04
学位種別 論文博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 第15409号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 甲斐,一郎
 東京大学 教授 大橋,靖雄
 東京大学 教授 江藤,文夫
 東京大学 教授 久保木,富房
 東京大学 助教授 久保田,潔
内容要旨 要旨を表示する

背景および研究目的

 先進国における鍼,マッサージ,生薬などの相補代替医療(CAM)の利用率は,近年かなりの増加傾向が見られる。鍼治療はCAMの中でも世界で最もよく知られている治療法のひとつである。一生のうちに鍼を受けた経験がある人の割合は,低い国でもイギリスとアメリカ合衆国で3%,高い国ではフランスで21%にも及ぶ。鍼治療を行う医師の割合は,スコットランドとアメリカ合衆国における1%から,最も盛んなスウェーデンにおける25%まで様々である。日本においてはパーセンテージは報告されていないが,国家資格をもった鍼師の数は13万7千人にも及ぶ。

 欧米先進国におけるCAMの普及にともない,鍼の科学的研究も多く行われるようになってきた。1997年にはアメリカ合衆国の国立衛生研究所(NIH)が召集したコンセンサスパネルが鍼の科学的根拠について合意声明を発表した。また2000年にはイギリスの英国医師会(BMA)が鍼に関する調査レポートを発表した。NIHパネルもBMAもevidence-based medicine(EBM)の観点から鍼を評価しており,発表された声明やレポートも嘔気や歯痛などに対するプラシーボ効果を超えた鍼治療の効果について言及している。このように鍼の有効性についてはEBMに則ってランダム化比較試験などの前向き(prospective)研究による情報が徐々に整備されつつある。

 一方,安全性についての研究は,症例報告などの後ろ向き(retrospective)研究がほとんどで,EBMの観点からは質が低く,今までのところ信頼できる情報がないのが現状である。ある疾患や症状をもつ患者に鍼治療を適用するかどうかを決定するためには,有効性と安全性とのバランスを検討する必要がある。また鍼治療が危険な治療法であるならば規制が必要である。このような理由から,鍼治療の安全性に関してもエビデンスの強い手法で研究が行われなければならない。

 日本で発表されている鍼治療による有害事象に関する症例のシステマティックレビューを行うと,最近の13年間で89論文124症例が報告されていることがわかった。その内訳は,気胸が25例と最も多く,次いで脊髄損傷が18例,急性B型肝炎が11例といった症例であった。これらの重篤な有害事象のほとんどは鍼師の過誤や患者の自己治療によるものであり,薬剤と同じ文脈での副作用(有害反応)についての頻度や重症度については有用な情報が得られなかった。また発生率を計算する際の分母となる鍼治療総数が不明なため,どの程度の頻度で有害事象が起こっているのかが把握できない。さらに,後ろ向き研究には相当な記憶バイアスや報告バイアスが存在するため,安全性情報はますます不確かなものとなる。これらの問題はエビデンスの弱い症例報告にもとづいた研究しか行われていないことから生じているものである。

 そこで本研究では,鍼の安全性に関してEBMの観点から信頼性の高い情報を得るために,鍼の臨床における詳細な問診と観察にもとづく有害事象の前向き調査を行った。なお用語は臨床薬理分野における定義にしたがい,因果関係を問わず認められた好ましくない医療上の出来事を「有害事象(adverse event)」と呼び,有害事象のうちで治療者の「過失(negligence)」と「無知(ignorance)」を除外した患者の反応を「有害反応(adversereactionまたは副作用)」とした。

方法

 外来患者の約60%に鍼治療を行っている筑波技術短期大学附属診療所において2回の前向き調査を実施した。1回目は1992年から1998年にかけて行った6年間にわたる有害事象(過失と無知を含む)調査である。すべての鍼灸師に対し,鍼治療の有害事象に気付いた直後に症例報告書式に情報を記入して提出するよう要請した。

 2回目は1998年4月から7月にかけて行った4ヶ月間にわたる有害反応(過失と無知を含まない)調査である。1回目の6年間の調査では,注意すべき有害事象であると鍼灸師が判断した場合のみ報告を依頼したのに対し,2回目の4ヶ月調査では知り得たすべての有害反応情報を報告するよう依頼した。7名の鍼灸師が刺鍼したすべての部位を観察し,また治療後と次の来診時には,因果関係に関わらず患者が感じた好ましくない身体反応について問診した。認められた全身反応,およびすべての刺鍼が起こした局所反応の情報は,構造化した報告書式に記入して提出された。構造化報告書式の内容は,日付,鍼灸師名,患者名,性別,年齢,ID番号,刺した鍼の数,鍼刺激の方法,有害事象の種類,起こった部位,症状の規模,および処置内容である。

 提出された報告書式は事象ごとに分類し,全身性の有害反応と局所性の有害反応に区別した。全身性有害反応の発生率は,報告された患者数を総患者数で割ることによって算出し,パーセント表示した。局所性有害反応の発生率は,反応を起こした刺鍼数を総刺鍼数で割ることによって算出し,パーセント表示した。また,個々の患者内での局所性有害反応の発生率も算出して比較検討した。

結果

 1回目に行った6年間の有害事象調査では,結果的に84名の鍼灸師が外来臨床活動に参加した。鍼治療総数は65,482回,実際の患者数は5,008名であった。有害事象は94件報告され,14のカテゴリーに分類された。多い順に,鍼の抜き忘れが27件,疾病を伴わない皮下出血または血腫が9件,疾病を伴う皮下出血または血腫が8件,熱傷が7件,気分不良が7件,めまいが6件,嘔気または嘔吐が6件,刺鍼部疾痛が6件,微量の出血が4件,主訴の悪化が4件,疲労感が3件,掻痒感・発赤が3件,発熱が3件,上肢のしびれ感が1件であった。これらは前述したように,鍼灸師が報告するに値すると判断した有害事象のみである。熱傷のうち1件は赤外線照射によるもので治癒に2年を要し,保険会社による賠償が適用された。それ以外の有害事象については軽症で一過性であり,後遺症を認めなかった。

 2回目に行った4ヶ月間の有害反応調査では,鍼治療総数が1,441回,実患者数が391名であった。刺した鍼の総数は30,338本であった。報告された全身性の有害反応は,多い順に,疲労感(受療患者の8.2%),眠気(2.8%),愁訴の悪化(2.8%),掻痒感(1.0%),めまい・ふらつき(0.8%),気分不良・嘔気(0.8%),頭痛(0.5%),胸痛(0.3%)であった。局所性の有害反応は,微量の出血(刺した鍼の2.6%),刺鍼時痛(0.7%),、卓状出血または斑状出血(0.3%),治療後の刺鍼部位の疾病(0.1%),皮下血腫(0.1%),置鍼中の疼痛または不快感(0.03%)であった。いずれの有害反応も軽症で一過性であり,後遺症を認めなかった。

 4ヶ月調査のデータについて個々の患者における発生率を分析すると,1名の患者において刺鍼数の33.3%という高頻度で微量の出血が見られ,別の1名の患者において刺鍼数の50.0%の高頻度で刺鍼時痛が見られ,同じく別の1名の患者において33.3%の高頻度で皮下出血が認められた。10代の患者は刺鍼時痛を訴える頻度が高い傾向が見られ,60歳以上の患者では皮下出血が観察される頻度が低い傾向が認められた。また,女性の患者の方が男性よりも頻繁に刺鍼時痛を訴える傾向がみられた(P=0,088)。部位別では,頭部と前腕外側の微量出血,手背と腰部の刺鍼時痛,および上腕前面と腹部の皮下出血の頻度が,平均の発生率よりも2倍以上の高頻度で認められていた。

考察及び結論

 本研究で記録された有害事象および有害反応は短期間で起こったものであり,組織学的あるいは内分泌学的な変化については検出できない。しかしながら,鍼治療の有害反応の発生率を算出できた前向き調査は本研究が最初である。薬剤の副作用に関する前向き調査のシステマティックレビューによると,重篤な副作用の頻度は6.7%である。したがって鍼治療の副作用は,薬剤の副作用と比べると相対的に軽症であり,重篤な副作用が起こることは非常に稀であることがわかった。

 比較的頻繁に発生する鍼治療後の疲労感,眠気および主訴の悪化については,今まで東洋医学の分野では「瞑眩」と称して治癒を示唆する反応であるとされてきた。しかし車の運転など,患者が治療後にさらされる危険を考慮すると,薬剤の場合と同様に副作用として周知すべきである。また,少数ではあるが,疾患,服薬,あるいは特異体質などによるものと思われる高頻度の出血や刺鍼時痛を発現する患者がみられた。鍼の臨床においてはこのことに留意して,治療者が血液と接触したり患者が急激な動きをしたりすることを避ける必要がある。

 本研究によって,患者が鍼を受けるかどうかを選択する際の判断材料となる「リスクと利益のバランス」の観点にもとづく安全性情報が得られた。鍼治療自体が内包しているリスクは低いことがわかった。しかし本研究は国立診療所で研修を受けた鍼灸師による標準的な鍼治療についての調査である。一部の鍼師や医師の過失や無知によって起こる気胸,脊髄損傷,心タンポナーデ,感染といった症例が多く報告されている。このことから,鍼を扱う者に卒後研修の機会を与えること,および有害事象報告を収集・分析して改善策を検討し最新情報をフィードバックするようなシステムが適切な団体によって設立されることが将来の課題である。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は,今まで科学的根拠にもとづく医療(EBM)の観点から検討が十分になされていなかった鍼治療について,前方視的(prospective)調査によって安全性を評価しようと試みた臨床研究である。臨床薬理における薬剤の副作用とほぼ同じ文脈で鍼治療の副作用(有害反応)を定義し,その発生頻度や重症度について臨床的な立場から検討している。

 研究は6年間の有害事象調査と,4ヶ月間の有害反応調査という2回の調査によって構成されている。用語を定義し,選択基準と除外基準を明確にした上で,構造化した報告書式を用いて発生した有害事象および有害反応の種類,重症度,発生頻度などについて記録し収集・分析している。

 6年間の有害事象調査では約6万5千回の鍼治療から記録された有害事象を示している。ここでは鍼の抜き忘れ・熱傷といった施術者の過誤と,気分不良・めまい・嘔気といった副作用の存在が明らかになった。しかしこの調査は鍼灸師が報告すべきであると判断した場合のみ記録された有害事象であった。そこで次に,詳細な問診と刺鍼部位の観察によって,知り得たすべての有害反応情報を報告するという4ヶ月間の徹底的な調査が行われた。その結果,全身性の有害反応として疲労感・眠気・愁訴の悪化などが,また局所性の有害反応として微量の出血・刺鍼時痛・点状出血または斑状出血などが明らかになり,それらの発生頻度も算出された。また,しばしば見られる微量の出血,刺鍼時痛,および皮下出血については,年齢別,性別,部位別に発生頻度を算出して比較検討が行われている。

 いずれの有害反応も軽症で一過性であり後遺症を認めず,薬剤による重篤な副作用の頻度が6.7%であるという報告論文と比べると,鍼治療の副作用は相対的に軽症であり,重篤な副作用が起こることは稀であることが示されている。一方,少数の患者において微量の出血・刺鍼時痛・皮下出血が高頻度に認められることも明らかとなった。結論として鍼治療自体が内包しているリスクは相対的に低いことがわかった。しかしながら,気胸,脊髄損傷,心タンポナーデ,感染といった重篤な症例が多く医学誌に報告されていることから,鍼治療者のトレーニング,有害事象の収集・分析システム,およびそのフィードバックのシステムを今後整備してゆく必要性があるとしている。

 本研究は主として短期的で比較的高頻度に起こる鍼治療に対する反応について調査・分析したものである。組織学的あるいは内分泌学的な変化については,今後更に長期的な追跡調査と実験的検討が必要である。しかしながら,鍼治療の有害反応について発生率を含む詳細な評価を行った調査は本研究が初めてである。症例報告の集積によって行われてきた従来の安全性評価と比較すると,より強いエビデンスが得られたと言えよう。ある治療法を選択するかどうかの判断材料として「リスクと利益のバランス」の検討が重要であるが,本研究によって,リスクに関する信頼のおける情報が提示されている。

 以上,本論文はEBMの手法が十分に適用されていない代替医療の分野において,鍼治療の安全性のエビデンスを築こうとした点で独創的なものである。またここで提示された鍼治療の安全性情報は,(1)患者の安全確保,(2)インフォームドコンセント(あるいはインフォームドチョイス),(3)Risk-Benefit分析,(4)保健医療政策の判断材料,といった観点から臨床的ならびに社会的有用性をも兼ね備えており,学位の授与に値するものと考えられる。

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