学位論文要旨



No 215415
著者(漢字) 高見,秀輝
著者(英字)
著者(カナ) タカミ,ヒデキ
標題(和) エゾアワビの生活史初期における食性、生残、成長に関する研究
標題(洋)
報告番号 215415
報告番号 乙15415
学位授与日 2002.09.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15415号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡邊,良朗
 東京大学 教授 黒倉,寿
 東京大学 助教授 山川,卓
 東京大学 助教授 河村,知彦
 水産総合研究センター 海区水産業研究室長 林,育夫
内容要旨 要旨を表示する

 本研究は,エゾアワビの食性変化とその機構を解明し,生活史初期の生残・成長に及ぼす餌料環境の影響を明らかにすることを目的とした。第1章では,アワビ類における初期生態研究の現状を,特に初期稚貝の食性に関する研究を中心に整理した。第2章では,浮遊幼生期の内部栄養から変態後の初期稚貝期における外部栄養への移行過程を明らかにした。第3章では,初期稚貝から稚貝期における発育段階毎の好適餌料の特定を試みた。第4章では,第3章で明らかにした成長に伴う食性変化の機構の解明を目的として,消化系の発達過程を明らかにした。第5章では,岩手県門之浜湾において,エゾアワビ初期稚貝および稚貝の主要な減耗要因と好適な餌料環境を検討するとともに,同所的に生息する小型植食性巻貝との餌料を巡る競合関係の実態を明らかにした。1.浮遊期および着底初期における栄養源

 1)変態後の飢餓耐性

 変態後3〜5日程度の無給餌期間は,初期稚貝の生残・成長に影響を及ぼすことが明らかとなり,また,殻長約0.28mmで変態した初期稚則ま全く餌がなくても約0.4mmまで成長できることが明らかとなった。エゾアワビ初期稚貝は,殻長0.4mm前後までは卵黄も栄養源として利用しながら摂餌を行い,その後,摂餌により得られた物質のみを栄養源とするようになると考えられた。この時期に餌料不足に陥ると,その後の生残・成長に深刻な影響を及ぼすことがわかった。

 2)変態後の生残・成長に及す幼生浮遊期間の影響

エゾアワビでは,変態後に十分な餌料が得られる場合には,15日以内の浮遊期間であれば変態後の初期稚貝の生残・成長には大きな影響を受けないことが明らかとなり,幼生はこれまで考えられていた(1週間程度)以上に長く浮遊できることが判明した。しかし,浮遊期間が長い個体ほど変態後の飢餓耐性が低下した。変態直後の栄養源として卵黄が重要であることが明らかとなった。2.着底場の餌料環境と食性変化

 1)エゾアワビ採苗板(舐め板)上の餌料環境

 エゾアワビ種苗生産施設で幼生の採苗板および初期稚貝の飼育板として用いられている「舐め板」上には,変態直後からの初期稚貝にとって好適な餌料環境が保障されていることが明らかとなった。殻長0.6〜0.8mmまでの初期稚貝は,アワビ稚貝や珪藻から分泌される粘液物質などを摂取して成長し,その後は板上に優占する匍匐付着型の珪藻(Cocconeis scutellum)の細胞殻を破壊しながら舐め取り,珪藻細胞内容物を摂取できるようになると考えられた。この時期以降の初期稚貝にとっては,餌料としての粘液物質の貢献度は低く,Cocconeis属珪藻の細胞質が主餌料となることが明らかとなった。

 2)紅藻無節サンゴモ上の餌料環境

 無節サンゴモ上に付着する珪藻の餌料としての役割を明らかにするため,珪藻のほとんど付着していない無節サンゴモ(サンゴモ-珪藻区)と,表面に種々の珪藻が付着した無節サンゴモ(サンゴモ+珪藻区)上に浮遊幼生を変態させ,変態後の成長を比較した。殻長0.5mm前後(変態から1週間後)までは,両実験区において初期稚貝の成長に差は認められなかったが,2週間後以降に両者の成長に差が現れた。サンゴモ-珪藻区では,5週間後で殻長1mm程度までしか成長しなかったが,サンゴモ+珪藻区では約2mmに達した。両実験区で生じた稚貝の成長の差は,珪藻に由来する餌の量的な差によるものと考えられた。殻長0.5mm程度までは珪藻がなくても同様に成長できたことから,変態直後しばらくは珪藻以外のものを餌料として成長したものと考えられるが,無節サンゴモ自体の餌料価値は,殻長0.5mm以降の初期稚貝にとって高くないことが明らかとなった。

 3)1歳貝に対する付着珪藻の餌料価値

 殻長30mm前後に成長したエゾアワビ1歳貝に付着珪藻Achnanthes longipes,Cocconeis scutellum,Navicula britannicaと対照としてマコンブLaminaria japonica葉片を与え,付着珪藻のエゾアワビ稚貝に対する餌料価値を検討した。

 N.britannicaを与えた稚貝はほとんど成長することができず,稚貝の排泄物中には多くの生きた珪藻細胞が含まれていた。稚貝はN.britannicaの細胞を摂餌の際に歯舌で破壊することができず,珪藻の細胞質を利用でないため,成長が遅かったものと考えられた。C.scutellumを与えた稚貝の成長速度も低かったが,A.logipesを与えた稚貝はマコンブを与えた稚貝を上回る成長速度を示した。A.longipesとC.scutellumはともに基盤に強固に付着する珪藻である。稚貝がこれらの珪藻を摂餌する際に多くの珪藻の細胞殻が壊れるため,稚貝は珪藻の細胞質を利用することが可能となる。A.longipes餌料区と比べてC.scutellum餌料区での成長が遅かった原因として,これら2種の珪藻に対するアワビ稚貝の摂餌効率の違いが考えられた。A.longipesの細胞はC.scutellumの細胞に比べはるかに大きく,また,複数の細胞からなる立体的な群体を形成するため,1回の摂餌活動で多くの細胞が摂取できる。一方,C.scutellumは細胞が小さく,単体で平面的に付着するため,稚貝にとってはより摂餌しにくい。殻長0.8mm以上の初期稚貝にとって好適な餌料であるCocconeis属の珪藻は,1歳貝(殻長約30mm)にとっては餌料価値の低いものであることが明らかとなった。

 4)海藻幼芽の餌料価値

 アラメ,マコンブ,ワカメの胞子体幼葉を発育段階の異なるエゾアワビ初期稚貝に摂餌させ,これらの餌料価値を検討した結果,初期稚貝は,殻長2mm前後からこれらこれら幼葉を効果的に利用できるようになり,この時期から海藻を徐々に利用し始めるものと推察された。初期稚貝の発育段階により褐藻類の餌料価値が異なった一因として,摂餌活動による藻体の摂取効率の相違が考えられた。3.着底場の餌料環境と食性変化

 1)成長に伴う消化酵素活性の変化

 褐藻類に含有される主要な多糖類であるアルギン酸,セルロース,ラミナランに対するエゾアワビの消化酵素活性を,発育段階の異なる初期稚貝について測定した。初期稚貝は,着底17日後の平均殻長0.97mmの時期には既に多糖類分解酵素を有していた。分解酵素の全活性(1個体あたりの酵素活性)は,着底37日後(平均殻長1.59mm)以降に著しく増加した。しかし,単位タンパク質量当たりの酵素活性を示す比活性については,全活性の場合のような急激な変化は認められなかった。全酵素活性の増加は,主に稚貝の急激な成長に伴い,消化酵素の分泌量が増加したためと考えられた。

 2)成長に伴う歯舌の構造と機能の変化

 成長に伴うエゾアワビ歯舌の形態変化を走査電子顕微鏡を用いて観察した。各歯の形状は殻長1mm程度の頃に丸まったものから直立したものへと変化した。このことは,摂餌する基質に歯の先端がほとんど接していない粘液等をすくい取るのに適した構造から,直角に近い角度で接して基質に強く固着する珪藻などを削り取るのに適した構造への変化と考えられた。歯列1列当たりの側歯の数は成長に伴って増加し,殻長2mm前後までに成貝と同じく5本となった。これに先立ち殻長約1.5mmの頃から,中央歯とそれに並ぶ2対の第1,2側歯に比べて外側の3対の側歯が大型化し始めた。また,側歯の先端縁辺部に発達していた鋸歯状小歯が消失し犬歯のような鋭いものへと発達した。これらの歯舌の形態変化は,食性の変化に対応したものと推察された。4.天然における初期稚貝。稚貝の生残と成長および餌料環境

 1)天然における稚貝の分布および生残・成長岩手県門之浜湾において1996〜2000年に発生したエゾアワビ当歳貝の変態後の殻長および分布密度の変化を経時的に追跡した。当歳貝は転石および岩盤が主体となる無節サンゴモが優占した海底に多く出現した。冬季における当歳貝の生残は年によって大きく変動した。親潮系冷水が三陸沿岸に接岸し,調査海域における1〜2月の水温が低下した年は,当歳貝の生残率も低かったことから,冬季の低水温がエゾアワビ当歳貝の生残に深刻な影響を及ぼすことが強く示唆された。

 2)稚貝生息域における餌料環境および底棲生物相

 当歳貝棲息場所から採集した人頭大の転石表面における付着性微細藻類の現存量および種組成を調べた。転石上にはAmphora spp.およびCocconeis spp.といったいずれも付着力の非常に強い種が優占していた。同場所で採集された当歳貝の消化管内容物は,ほとんどが付着珪藻で占められていた。消化管内の珪藻種組成は,当歳貝の生息環境における珪藻種組成と類似し,Amphora sppおよびCocconeis sppの割合が高かった。エゾアワビ当歳貝が分布していた無節サンゴモ優占域には,小型植食性巻貝のエゾサンショウおよびエゾチグサが高い密度で分布していた。

 3)小型植食性巻貝との餌料をめぐる競合

 エゾアワビ初期稚貝を,付着珪藻を自然繁茂させた容器内でエゾサンショウまたはエゾチグサと同時に飼育し,初期稚貝の成長を計測した。エゾサンショウと同時に飼育した初期稚貝の成長速度は,エゾチグサと同時に飼育した場合と比較して低かった。エゾチグサはエゾアワビ初期稚貝と異なる食性を示し,両者は餌料の面で競合する可能性が低いが,エゾサンショウは初期稚貝と食性が類似し,餌料を巡って競合する関係にあることが推察された。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は,我が国で最も重要な磯根資源の一つであるエゾアワビについて、食性変化とその機構を解明して生活史初期の生残・成長におよぼす餌料環境の影響を明らかにすることを目的として、野外研究と室内実験を組み合わせて行った研究の結果をとりまとめたものである。

 アワビ類における初期生態研究の現状を,特に初期稚貝の食性に関する研究を中心に総括した第1章に続いて、第2章では,浮遊幼生期の内部栄養から初期稚貝期における外部栄養への移行過程を調べた。変態後3〜5日間の無給餌は初期稚貝の生残・成長に影響をおよぼすこと、殻長約0.28mmで変態した初期稚貝は全く餌がなくても約0.4mmまで成長できることが明らかとなり、エゾアワビ初期稚貝は,殻長0.4mm前後までは卵黄と餌料をともに栄養源とし、その後,餌料のみを栄養源とするようになると考えられた。変態後に十分な餌料が得られる場合には,浮遊期間が15日に及んでも変態後の初期稚貝の生残・成長に大きな影響が現れないことが明らかとなり,幼生はこれまで考えられていた約1週間以上に長く浮遊期間を維持できることが判明した。しかし,浮遊期間が長い個体ほど変態後の飢餓耐性が低下したことから、変態直後の栄養源として卵黄が重要であることが明らかとなった。

 第3章では,初期稚貝から稚貝期における発育段階ごとの好適餌料の特定を試みた。殻長0.6〜0.8mmまでの初期稚貝は,アワビ稚貝や珪藻から分泌される粘液物質などを摂取して成長し,その後は匍匐付着型の珪藻(Cocconeis scutellum)の細胞殻を破壊しながら舐め取って細胞内容物を摂取すること、変態1週間後までは無節サンゴモに付着する珪藻を必要としないが,2週間後以降になると成長には珪藻が必要であることがわかった。殻長30mm前後に成長したエゾアワビ1歳貝は、基盤への固着力が強い付着珪藻Achnanthes longipesを与えるとマコンブを与えた稚貝を上回る成長速度を示した。固着力が弱いNavicula britannicaではほとんど成長することができず、珪藻細胞が生きたまま排泄されたことから、稚貝はN.britannicaの細胞殻を歯舌で破壊できず細胞質を利用できなかったと考えられた。初期稚貝は殻長2mm前後から褐藻類の胞子体幼葉を利用できるようになることがわかった。

 第4章では,成長に伴う食性変化の機構を解明するために消化系の発達過程を調べた。褐藻類の多糖類に対するエゾアワビの消化酵素活性を,発育段階の異なる初期稚貝について測定した結果、初期稚貝は平均殻長0.97mmの時期には既に多糖類分解酵素を有していた。分解酵素の全活性は着底37日後(平均殻長1.59mm)以降に著しく増加した。成長に伴うエゾアワビ歯舌の形態変化を走査電子顕微鏡で観察したところ、各歯の形状は殻長約1mmで粘液等をすくい取るのに適した湾曲構造から,直角に近い角度で基質に強く固着する珪藻などを削り取るのに適した構造へ変化した。1歯列当たりの側歯数は成長に伴って増加し,殻長2mm前後までに成貝と同じく5本となった。これらの歯舌の形態変化は,食性の変化に対応したものと推察された。

 第5章では,岩手県門之浜湾において,エゾアワビ初期稚貝・稚貝の主要な減耗要因と好適な餌料環境、同所的に生息する小型植食性巻貝との競合関係を調べた。1996〜2000年に発生したエゾアワビ当歳貝は、無節サンゴモが優占した海底に多く出現した。親潮系冷水が三陸沿岸に接岸し,調査海域における1〜2月の水温が低下した年は,当歳貝の生残率が低かったことがわかった。この海域の転石上にはAmphora spp.およびCocconeis spp.など付着力の非常に強い珪藻種が優占し、採集された当歳貝の消化管内容物は生息環境における珪藻種組成と類似した。付着珪藻を自然繁茂させた容器内でエゾサンショウとともに飼育したエゾアワビ初期稚貝の成長速度は,エゾチグサとともに飼育した場合と比較して低かった。エゾチグサはエゾアワビ初期稚貝と異なる食性を示し,両者は餌料の面で競合する可能性が低いが,エゾサンショウは初期稚貝と食性が類似し,餌料を巡って競合する関係にあると考えられた。

 第6章では,以上の結果に基づいてエゾアワビの生活史初期における食性と成長・生残を総括的にまとめ、種苗生産方法の改善および資源増殖技術の向上に関する提言を行った。

 本研究は、以上のようにエゾアワビの野外における初期生態を詳細に明らかにして、現在の資源増殖技術の生態学的基礎を解明すると同時に、新たな増殖技術の展開に示唆を与えるものである。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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