学位論文要旨



No 215417
著者(漢字) 長谷川,淳
著者(英字)
著者(カナ) ハセガワ,ジュン
標題(和) 好熱菌由来チトクロームcの立体構造解析に基づく蛋白質の安定性に関する物理化学的研究
標題(洋)
報告番号 215417
報告番号 乙15417
学位授与日 2002.09.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15417号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 五十嵐,泰夫
 大阪大学 教授 小林,祐次
 東京大学 教授 田之倉,優
 東京大学 助教授 西山,真
 東京大学 助教授 石井,正治
内容要旨 要旨を表示する

 ヒトゲノムシーケンスの解析がほぼ完全に達成された現在、ポストゲノム研究をどのように推進していくかということが、生命科学における最も重要な課題の一つである。蛋白質の立体構造解析は、その機能や物理化学的特性を把握する上で非常に有用な情報を与えてくれるために、ポストゲノム研究においても非常に重要であると考えられている。そのような背景の基に、網羅的に蛋白質の立体構造解析を行うプロジェクトとして構造ゲノムがあるが、相補的な研究として、特性のよく分かっているモデル蛋白質を用いて非常に詳細な解析を行い、他の蛋白質の解析にも適用できる知見をより多く得ることも重要である。

 蛋白質の構造安定性に関する研究は、蛋白質の物理化学的特性を把握する上で非常に多くの知見を与えてくれ、上述したモデル蛋白質を用いた研究課題の一つの大きな柱である。安定性の研究を行う上では好熱菌と常温菌由来の二つの蛋白質を用いることが非常に有効であり、好熱性水素細菌由来のチトクロームc-552(HT c-552)と緑膿菌由来のチトクロームc-551(PA c-551)はこの点において非常に適している。この二つの蛋白質は、アミノ酸配列で54%の相同性を有するにも関わらず、安定性においては大きな差異がある。また、PA c-551は既にX線結晶構造解析によって高分解能の立体構造が得られているので、HT c-552の立体構造を決定することが出来れば、立体構造の詳細な比較から安定性に関する新たな知見が得られるものと期待される。

 以上のような背景の基に、本研究ではHT c-552の立体構造を決定してPA c-551の構造と比較し、得られた結果を基にPA c-551/HT c-552における安定性の解析を行うことにより、構造・安定性相関における新たな知見を得ることを目的とした。1.HT c-552のNMRによる水溶液構造解析

 HT c-552の溶液構造を、NMRと分子動力学計算を用いて決定することが出来た。得られた構造をPA c-551と比較したところ、主鎖のフォールディングにはほとんど差異が見られなかったのに対して、側鎖の構造には空間的に離れた三箇所の領域において、安定性の差に関与すると思われる差異が存在することが分かった。まず、PA c-551のPhe-7およびVal-13周辺の領域(領域1)に明確な差異があることが分かった。PA c-551のPhe-7はHT c-552ではAlaになっており、ベンゼン環が消失したことにより生じた空間を埋めるように、周辺の側鎖が微妙に構造を変えていることが分かった。この結果、PA c-551のPhe-7周辺に存在していた非常に小さな空間がHT c-552では消失していることが分かった。また、PA c-551のPhe-7のベンゼン環の高い平面性のために周辺の側鎖がエネルギー的に不利な構造を取っていたが、HT c-552の場合はこれらの不利な側鎖構造が解消されていることが分かった。二つ目としてPA c-551のPhe-34,Gln-37およびGlu-43周辺の領域(領域2)にも明確な差異が発見された。これらの残基はHT c-552ではそれぞれTyr,ArgおよびTyrとなっており、Tyr-34とTyr-43のアミノ酸置換によりHT c-552ではPA c-551には存在しない新たな疎水性相互作用が形成されていることが分かった。また、Arg-37のグアニジル基はTyr-34およびTyr-43の側鎖とaromatic-amino相互作用していることが分かった。更に三つ目としてPA c-551のVal-78周辺の領域(領域3)にも明確な差異が観測された。この残基は分子の中心に位置するヘムおよびその周辺の側鎖と疎水性コアを形成していたが、PA c-551では非常に小さな空間が存在していることが分かった。HT c-552ではこの残基がIleとなっており、一つ増えたメチル基によりこの小さな空間を充填していることが分かった。以上のように、両者の立体構造を詳細に比較することにより、幾つかの明確な側鎖の相互作用様式の違いを発見し、安定性に関与すると思われるアミノ酸残基をリストアップすることが出来た。2.大腸菌によるチトクロームcの大量発現系構築

 リストアップされたアミノ酸残基が実際にどの程度安定性に寄与しているかを調べるためには、変異蛋白質が効率的に得られる系を確立する必要がある。そこで、大腸菌を用いたチトクロームcの大量発現系を構築した。PA c-551は、ペリプラズム空間でヘムと共有結合することが必要なので、N末側にシグナル配列を付与することによりペリプラズム空間に分泌するようにした。Cold osmotic shock法でこの画分を抽出後、陰イオン交換およびゲル濾過により精製することが出来た。得られたPA c-551はSDS-PAGEにおけるCBB染色でシングルバンドのレベルまで精製することが出来た。UV,CDおよびNMRを用いた分光学的分析により緑膿菌から分取・精製されたPA c-551とほぼ同じスペクトルが得られた。以上の結果から大腸菌で発現させたPA c-551はペリプラズム空間に分泌された後にヘムと結合し、正常にフォールディングした状態で得られることが分かった。このように確立した系を用いて、少ない労力で大量にチトクロームcを得ることが出来るようになり、変異体を用いた解析がより簡便に行えるようになった。3.変異体の作成

 HT c-552の立体構造解析から安定性に関与すると推測されたアミノ酸残基に関して、PA c-551の相当する残基に変異を導入した変異蛋白質を作成して、その安定性を評価した。評価は、CD測定により得られる222nmの吸収を指標として、1.5Mのグアニジン塩酸塩存在下での熱安定性、およびグアニジン塩酸塩を用いた変性剤に対する安定性の二つについて行った。その結果、作成した全ての変異体において熱及びグアニジン塩酸塩に対する安定性が上昇していることが明らかになった。従って、リストアップされたほとんどのアミノ酸残基がHT c-552の高い安定性に寄与していることが明らかとなった。また、領域1および2においては、最も安定性が上昇するアミノ酸の組み合わせを同定することが出来た。領域1においてはF7A/V13Mの二残基置換が有効であることが分かった。領域2においてはそれぞれ単独のアミノ酸置換は安定性に寄与するにも関わらず、三残基を同時に置換したF34Y/Q37R/E43YよりF34Y/E43Yの方が高い安定性を示すことが分かった。これは、これらの残基が互いに直接相互作用して、単独の場合の効果に負の影響を及ぼすためであると考えられた。4.変異の組み合わせ効果の検証

 3で確認された安定性を上昇させる変異を組み合わせて、複数の領域において変異を導入した蛋白質を作成し、その有効性を検証する実験を行った。その結果、複数の領域において変異を導入した蛋白質は、いずれも単一の領域についてのみ変異を導入した蛋白質より安定性が上昇することが分かった。この傾向は1.5Mのグアニジン塩酸塩存在下での熱安定性およびグアニジン塩酸塩に対する変性のいずれにおいても同じであった。また、熱安定性の場合には、それぞれ単一の領域のみの変異蛋白質における温度上昇値をほぼ足し合わせた温度上昇値が得られることが分かった。その結果、特に三箇所の領域全てにおいて変異を導入した変異蛋白質(F7A/V13M/F34Y/E43Y/V78I)は、熱安定性の実験において33.4℃もの上昇を示し、HT c-552に近い安定性を示した。また、グアニジン塩酸塩に対する変性に関しては全く同程度の安定性を示し、わずか5残基のアミノ酸置換で常温菌由来の蛋白質に好熱菌由来の蛋白質と同レベルの安定性を獲得させること可能であることが分かった。これらの結果から、空間的に離れて独立に寄与するアミノ酸変異を組み合わせることが、安定性を大きく上昇させるためには非常に有効な手法であることが示された。5.変異体の水溶液構造解析

 HT c-552に近い安定性を有する5残基置換PA c-551変異体の立体構造をNMRにより決定することが出来た。得られた構造をPA c-551およびHT c-552と比較したところ、5残基置換PA c-551変異体は主鎖構造においては両者とほとんど変わらないが、側鎖構造に関してはHT c-552のものと極めて近いことが確認された。まとめ

 HT c-552とPA c-551を用いた安定性研究を通じて、構造・安定性相関における新たな知見を得ることが出来た。NMRにより決定されたHT c-552の立体構造から、好熱菌の蛋白質がどのようにしてその高い安定性を効率的に獲得しているかを明らかにすることが出来た。

 また、本研究により、次のような手法が安定性を効率的に向上させる最もよい戦略の一つであることが示された。

(1)立体構造情報に基づく詳細な解析を行った後に、安定性に寄与すると予想され、かつ空間的に離れた領域を特定する。

(2)特定された領域に変異を導入して安定性を評価し、それぞれの領域で最も安定性を上昇させる変異体を同定する。

(3)(2)において同定された変異を組み合わせた変異体を作成する。

 この手法はより高い安定性を必要とする酵素などに用いれば、産業上の利用価値があるものと期待される。

 本研究によって得られた知見は、蛋白質の物理化学的性質をより深く考察するために有用なものであり、他の蛋白質の特性を研究する上でも有用であると考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

 蛋白質の構造安定性に関する研究は、蛋白質の構造構築原理を解明する上で非常に多くの知見を与えてくれる。好熱性水素細菌由来のチトクロームc-552(HT c-552)と緑膿菌由来のチトクロームc-551(PA c-551)は一次構造上高い相同性を有するにも関わらず、安定性においては大きな差異があるので、安定性に関する研究を行う題材として非常に適している。PA c-551は既にX線結晶構造解析によって高分解能の立体構造が得られているので、HT c-552の立体構造を決定することが出来れば、立体構造の詳細な比較から安定性に関する新たな知見が得られるものと期待される。本論文は、HT c-552の立体構造を決定してPA c-551の構造と比較し、得られた結果を基にPA c-551/HT c-552における構造安定性相関を詳細に解析したものである。

 第1章では、HT c-552の溶液構造がNMRと分子動力学計算を用いて決定され、PA c-551の構造と詳細に比較されている。主鎖のフォールディングがほとんど同じであるのに対して、側鎖の構造には空間的に離れた三箇所の領域において、安定性の差に関与すると思われる差異が存在することを明らかにした。PA c-551のPhe-7とVal-13はHT c-552ではそれぞれAlaとMetになっており、Pheのベンゼン環が消失したことにより生じた空間を埋めるように、周辺の側鎖が微妙に構造を変えていることが分かった。また、PA c-551のPhe-34,Gln-37およびGlu-43はHT c-552ではそれぞれTyr,ArgおよびTyrとなっており、Tyr-34とTyr-43のアミノ酸置換によりHT c-552ではPA c-551には存在しない新たな疎水性相互作用が形成されているとともに、Arg-37のグアニジル基はTyr-34およびTyr-43の側鎖とaromatic-amino相互作用していることが分かった。更にPA c-551のVal-78はHT c-552ではneとなっており、一つ増えたメチル基により分子内部に存在する空間を充填していることが分かった。

 第2章では、PA c-551の変異蛋白質を効率的に得るために、大腸菌を用いたPA c-551大量発現系が構築されている。組換え体PA c-551は、N末側にシグナル配列を付与することによりペリプラズム空間に分泌するように設計されており、精製された組換え体はUV,CDおよびNMRによる分析により、緑膿菌から分取・精製されたPA c-551と同じ性質を示すことが明らかになった。

 第3章では、第1章で安定性に関与すると推測されたアミノ酸残基に関して変異を導入して安定性が解析されている。作製した全ての変異体において1.5Mのグアニジン塩酸塩存在下での熱安定性と、グアニジン塩酸塩に対する安定性が上昇していることが明らかになった。また、それぞれの領域においてF7A/V13MおよびF34Y/E43Yの2残基変異体が最も高い安定性を示すことが明らかになった。

 第4章では、第3章において確認された安定性を上昇させる変異の組み合わせの効果が解析されている。複数の領域において変異を導入した蛋白質は、いずれも単一の領域についてのみ変異を導入した蛋白質より、熱安定性およびグアニジン塩酸塩に対する安定性ともに上昇することが分かった。特に三箇所の領域全てに変異を導入した5残基変異体F7A/V13M/F34Y/E43Y/V78Iは、熱安定性の実験において33.4℃の上昇を示すとともに、グアニジン塩酸塩に対してはHT c-552と全く同程度の安定性を示した。これらの結果から、わずか5残基のアミノ酸置換で常温菌由来の蛋白質に好熱菌由来の蛋白質と同レベルの安定性を獲得させることが可能であることが明らかとなった。

 第5章では、HT c-552に近い安定性を有する5残基変異体の立体構造をNMRにより決定することが出来た。得られた構造をPA c-551およびHT c-552と比較したところ、5残基変異体は主鎖構造においては両者とほとんど変わらないが、側鎖構造に関してはHT c-552のものと極めて近いことが明らかとなった。

 以上本論文は、NMRにより決定された好熱菌由来のチトクロムc、HT c-552の立体構造を詳細に解析し、大腸菌を用いた発現系で中温菌由来のチトクロムc、PA c-551変異体を作成しその安定性を評価することにより、これまで不明であったHT c-552が高い安定性を有する要因を明らかにしたものであり、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値のあるものと認めた。

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